ネコは自分の落ち度や誤りを認めたくない生き物だ。悪かったなと思っても、認めない方がネコの一生は楽しい。それに、自分の非を認めることは、相手の側を勢いづかせることにつながり、ときには自分の立場が危うくなることさえありえる。ネコにとって謝るなんて論外だ。ところが日本というヒト国には、なにか気まずいことがあったら、すみませんと頭を下げる風習があるという。この風習は日本ヒトだけのもので、他のヒト国とはまったくものの考え方が違うらしい。日本ヒトは自分たちを礼節あるヒトだと言っているが、でもそれは昔のことだ。今は国の内外を問わず、口汚く罵り合っている。
ところで、今のネコ国の風潮は、ヒト国と同様に、謝る事への過剰なアレルギー反応が巻き起こっている。外交や防衛、憲法解釈や教育の現場に至るまで、相手方に理解を示したり協調しようとしたりといった姿勢を見せるネコに対し、「お前は自虐的なネコだ」と非難の罵声が鳴り止まない。この非難はまったく的を射てない、というか、まともな議論を回避して、それ以上論点を掘り下げようとしない小賢しい態度だ。例の「偏向している」という非難とまったく同じ種類だと思う。このような自分の言動の無責任さを棚に上げる軽薄な輩に、正論を言うネコを罵倒する権利があってたまるものか。
ネコ国同士の無謀な戦争の後、ネコたちはその愚挙を反省して、ひとりひとりの言動の責任について、国や他のネコに判断を仰ぐのでなく、各自の良心のおもむくところに任せることにした。そのことによって、ネコ社会を成熟させていこうと曲がりなりにも努力してきた。つまり、現在の一定程度、自由で民主的なネコ社会では、国家や権力を持つ者から、個人の言動が規制を受けたり強制されたりすることがあってはならないはずだ。まして、教育現場で、一挙耳一本ヒゲにわたり、決まりどおり撫でつけなければ処罰の対象にするなどという、力ずくでネコの自由を奪う野蛮が行われようとは、この国に住むネコとして、アホらしくて恥ずかしくて仕方がない。そればかりか、学校の体育館からいつのまにやら抜け出した怪物が、様々な式典会場へネチネチと恥ずかしげもなくへばりついてくるような気がして、なんとも薄気味悪い。
意見の違うネコを愚弄してなんとも思わない輩は一様に、歴史上、実際にあったことから目を背け、非論理的な絶対性といった固定観念に囚われているように感じられる。言いかえると、彼らには歴史観などなく、自分の考え方に合わない歴史的事実は廃棄処分してしまうと言った方が的確だろう。こんなレベルのネコ同士が国の歌や旗について言い合いする場合、議論が深まるどころか、感情がスパークして背中の毛が逆立ち、すぐ炎上してしまう。
ここで冷静に、ネコ憲法の前文の一部を読み上げよう。
「そもそもネコ国の政治は、(主権者たる)ネコ国民の厳粛な信託によるものであって、その権威はネコ国民に由来する」とあるではないか。国の歌と旗は、国や一政治ネコの所有物でなく、ネコ国民に帰属するものであり、彼らの幸せのために制定されたのだ。それなのに、歌と旗を理由に、ネコが鎖につながれ自由を奪われるとはなんたることか。
教育現場の混乱を回避するには多少の規制があっても仕方がないんじゃないか、そんな目くじらを立てるのは成ネコらしくないんじゃないか、と言われるかもしれないが、彼らの言動の中に、特定の権威にネコ国民を従属させようとする不純な動機と低劣なネコ格が見え隠れしているから、見過ごすのはきわめて危険だと警告しているのだ。この暴挙を許しておくと、彼らはますます増長し、弱肉強食の醜い本性をさらけ出すだろう。そうなってからの彼らとの闘いには、相当な血とよだれと涙を伴うのはもちろんだが、抵抗力のない子ネコたちにまで被害が及ぶ恐れがあることを考えるべきだ。子ネコはたんなる知識の吸い取り紙じゃない、心は成ネコやヒトよりはるかに純粋で傷つきやすいのだ。(とのの校正了)