黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

ネコ国からの夢通信

2012年05月18日 14時59分24秒 | ファンタジー

 今度はタトゥーだと。
 毛の少ないヒトが変身するには、二つの方法がある。ひとつは、皮や布などで体を覆うこと。もうひとつは、直接肌にペインティングすること。皮布は保温になるから一石二鳥だけど、暑い地方や水の中では、ペインティングの方が合理的なのだ。つまり、身につける物として、服とタトゥーとの間に、なにひとつ違いはない。
 それはともかく、現実に仕事場へ行くのに、とても奇抜な衣装を身につけることはない。たとえば水着やお遊びの服は着ないはずだ。タトゥーをヒト目に付くところに入れて、仕事場や厳粛な場所に行き、いつでもどこでも衆目にさらすのなら、それは非常識であり厳重注意しなければならない。
 それに、ヒトは、誰もが職場や屋外で、わざわざ服を脱いだり着替えしたりしないのだから、服の下に隠し持っているだけなら、他の者に不快感を与えるわけがない。ネコ国の国旗国歌法の訴訟で、最高裁判事ネコが、「国旗国歌の面前で、どんな異なる思想を思おうが勝手だ。ただし、表現したら処罰されるのは当然。」と極限の暴言を吐いたことは有名だが、こんなとんでもないネコでさえ、隠しているなら不問にすると言っているのだ。
 一般的に、自分の趣味はそれを理解してくれる者同士で楽しむか、あるいは一人内緒で楽しむもの。その範囲を超えなければ、タトゥーが他の趣味・嗜好とどんな違いがあるだろうか。
 ネコ国には服なんて面倒なものはなく、みんな色柄とりどりの、それこそタトゥーみたいな毛皮で過ごしている。問題はタトゥーにあるのではなく、そんなことでいちいちヒトやネコを差別しようとする品性にこそあるとしか思えない。なんでこんなことをわざわざ論評せにゃならんのだと、とのはまた憤慨していた。(2012.5.18)
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掃除当番

2012年05月18日 10時30分45秒 | ファンタジー

 今でも学校では、生徒たちが教室の掃除をしているんだろうか。私のころは、小学校から掃除当番があり、学校生活を通算すると相当の回数になったはずなのだが、どんな掃除をしたかほとんど憶えていない。黒板のチョーク消しをパタパタ叩いているうちに掃除が終わっていたり、箒を持ってたたき合いした思い出ばかりで、つまり、まともに掃除していないような気がする。まじめなクラスメートの皆さんにはたいへん申し訳ない気持ちだ。今になってお詫びしてもなんの足しにもならないと思うが。
 小学校低学年のころのあいまいな記憶のお話。
 掃除が終わった後の人の気配のない教室内に、まだ強い西日が、白っぽく汚れたガラス窓を通して射し込んでいる。その小さくて視野狭窄したような映像の中に、当番がいっしょだと思われる幼い女の子が見え隠れしているのだが、その記憶に顔を近づけてはっきり見ようとすればするほど、その子の顔はぼんやりとして、輪郭も表情も見分けられなくなる。それどころか、見続けるうちに、彼女の背後の窓から射してくる半世紀も前の逆光に目が眩んでしまい、彼女の記憶は黒い闇にどんどん溶け込んでいくのだ。
 そのとき女の子の声が聞こえた。指切り拳万(げんまん)嘘ついたら針千本飲ーます。この言葉をそのとき彼女はほんとうに言ったんだろうか。だとしたら、私は彼女となにを約束したんだろうか。果たしてその約束を守ったんだろうか。思うに、怠け者の私は、今度の当番のときはちゃんとお掃除しようね、という約束をさせられたんだろう。
 数年前、両親のいなくなった実家の押入を片づけたとき、大量の未整理の写真が出てきて、その中に私と弟それぞれの小学校から高校までのクラスの集合写真が一枚も欠けないで残っていた。私は、その写真に写る自分を捜す前に、指切りした女の子を見つけようとしていた。しかし、どうしても彼女の面影にたどり着くことはできなかった。別のクラスの子だったんだろうか。その当番以降の彼女の思い出は、まったくどこにも、欠片すら見当たらない。(2012.5.18)
 
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