
「とのの屈折面」という書き物をしてしばらくたってから、小学校時代のH君のイメージが、白昼、夢のようによみがえってきた。何の前ぶれもなかったので、心臓がバクッとしびれて危うく倒れそうになった。
ふと思いついて、実家を処分したときに、大量の古い写真を整理して作ったアルバムを開いてみた。小学校から高校までのクラスの集合写真が、転校した小学六年の分を除いて全部あった。
H君は小四と五年の写真にちょっと恥ずかしそうにしていた。ついでに、中学の写真のページをめくったとき、自分の目を疑った。中一の写真に、彼の少し大人びた顔が写っていたのだ。彼以外の同級生には何ら違和感がない。なのに、彼がそこにいるとは毛筋ほども考えていなかった私は、動悸がしばらく収まらなかった。
実は、彼の名前はずっと前に忘れてしまっていた。彼だけではない。誰も彼も、幼い顔は脳裏にくっついて離れないのに、名前を言い当てられるのはわずかだ。ところが、昨日、Hという名前が閃光のように浮かんだ。思いも寄らないことだった。名簿がないので正しいかどうか確かめようがないが、今日はもう間違いないと感じている。
私は、五十年もの長い間、彼を忘れようとしてきた。なので、中学時代の「屈折面」を書いているさなか、思い出すことさえなかった。Hは、きっと、「屈折面」に大事な忘れ物があることを教えるために来た。自分勝手な作為を見つめ直せと言いに来たのだ。私は、ニセの「屈折面」を廃棄して、ほんとうにあったことを白状できるのだろうか。(2017.1.24)