つい最近までの思い込み、それは、谷川氏の米寿という年齢は大空の雲よりはるか遠くにある、ということ。しかし、ある朝、脇腹の痛みで目が覚めたとき、この超常反応によって「こころ」を奪われた私は、痛みに耐えながら、自分の年齢をしみじみ思い起こした。
これから、こんなことが日常的に起きるようになるのだろうか。仕事から解放され、自由気ままに駆け回れると浮足立っていた「こころ」は急速に青ざめ、日常生活に手がつかない一日は瞬く間に過ぎる。ブログを書く余裕すらなくなる。
体とこころというのは、どちらか一方が自由に働けばそれでよしとはならないものなのだ。ガタのきた体にもそれなりの年輪が刻まれているのに、この歳のこころはなんと弱々しく未熟なことか。(2021.2.7)