黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

再びエミシって?

2021年11月05日 13時47分45秒 | ファンタジー
<写真は蕨手刀の柄(蕨の形をしている)> 
 エミシとはどんな人たちを言うのか、いまだにこれといって説得力のある説がない。エミシとは別名を勇猛果敢なヱビスと言い、七福神や駅名、人名などにも好んで使われるけれど、なんで見下げられたり称賛されたりと評価が大きく乱高下するのか、明快な説明に出会ったことがない。
 私が習っているS大のSE先生(考古学)は、文献史学に対抗し、独自の立ち位置から革新的な発言をしている学術者で、エミシについても次のような思い切った定義をする。
①5世紀以降、関東や東北南部から北上した人々で、彼らは倭の文物や祭祀などの文化を持っていた。
②4~6世紀に、東北北部に南下していた北海道の人々(縄文系の人々)と交流した。
③7世紀後半~9世紀に、居住していた東北北部から北海道に移住した。
 こうしてみると、倭の文化を持っていたエミシが、なぜ中央のヤマト王権から異民族と見なされて、武力攻撃を受けたのか不思議でならない。両者は同じ倭国の人々だったのに。
 エミシたちが異民族の縄文人と手を組んだからだという見解があるかもしれないが、だからといって、ヤマト王権側が問答無用の態度で、エミシを蹴散らしたり、俘囚などという囚人扱いすることはないと思うのだが。
 ここからは私の飛躍し過ぎの仮説。
 エミシたちが縄文勢力と友好関係を結んだのは、ひょっとすると、すでに王権側と相容れない関係だったからで、そもそも東北へ移住したのも、王権からの離脱あるいは抵抗のためだったのかもしれない。 
 考古学の発掘調査によると、5世紀以降、列島では西から東へ人の移動が顕著になる。この波は、多胡の石碑(建立されたのは7世紀)で有名な群馬県の辺りから、福島県を通り宮城県、さらに岩手県奥州市の中半入(なかはんにゅう)遺跡へ達する。その遺跡のちょっと南方には、列島最北端の前方後円墳「角塚(つのづか)古墳」(5世紀後半)がある。
 こうした東北方面への集団移動経路は、亀田修一「列島各地の渡来系文化・渡来人」(岩波・渡来系移住民より)によれば、ヤマト王権による「蝦夷への道」とされ、道の周辺に残された遺跡群には、カマド住居、鍛冶場跡、馬、須恵器といった半島から渡来した先進的な文物が出現する。これらは、ヤマト王権と渡来系の人々の遺物とされる。その移動集団の先鋒隊がエミシなのだろうか? 私には、彼らがヤマト王権の意を受けて北進したとは到底思えない。
 また、5世紀後半、倭王武による中国の宋への上表文「東は毛人を征すること五十五国」とあるが、倭王の東征によって追い払われたのは異民族の毛人などでなく、倭の文化を持ったエミシだったとしたら、列島古代史の解釈はどんなふうになるだろう。5世紀初頭には、すでにヤマト王権自体が渡来系集団によって乗っ取られていたとすると、妙に話が噛み合うのだが。(2021.11.5)
コメント
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