
この歳になると、タイムマシンに頼らなくても、五、六十年くらいのタイムトラベルなら、瞬く間にできそうな気がする。もっとも時間を行き来するのは私の身体ではない。頭の中のイメージが、行きたい年代にあっという間に飛んでいくだけのこと。
私が、一九五〇年代の世にちょっと出現したころを思い出すと、明治の半ば生まれの祖母は、今の私より少し若かった。当たり前だが、私の生まれたての身体と明治時代とは、西暦同士を差っ引いてみると、たかだか数十年しか離れていない。漱石、鴎外、芥川たちが亡くなったのも、私が生まれる二十年か三十年前にすぎない。
かなり古そうな文人たちである荷風や志賀直哉、谷崎などは、意外にも、私の履歴の相当な部分と重なっている。つまり私が年取るにつれ、古い古いと思っていた年寄りたちがすぐ身近に感じられるようになったということ。
それと比較して、六〇年代に活躍した人々には、異様なほど生々しさが感じられる。強烈なインパクトがあるので、恐る恐る書いてみる。
ディラン、岡林、キング、ビートルズ、羽仁五郎、佐藤栄作、ドゥプチェク、三島、大江、仲代。卒倒しそうなので、これくらいにする。
私にとって六〇年代とは、親族といっしょに暮らした最初で最後の時期。抵抗と挫折の記憶が丸ごと収まっている日々。そこから逃げ出すことしか考えていなかった日々。生き延びられるかどうかきわどかった日々。その意味で、今となれば経験することのない大事な日々だったのだ。
この時期に華々しい活躍をした人々の中には早世された方々も多い。一方で、ローリングストーンズのメンバーのように、いつまでも老体をさらしている人々もいる。どちらを取るかと聞かれれば、今は迷わずストーンズを選ぶ。(2016.9.16)
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