姻族を表す義の文字で始まる続柄は、文章の中ならよくお目にかかるが、言葉としてはあまり耳になじまない。なので、義父母を紹介するときは、親子関係がどんなに疎遠なのであっても、夫や妻の父母と、くだけた親しみある言い方をすると差しさわりなく聞こえる。
義祖父母や義曾祖父母の場合なら、説明する側がありったけの語彙を弄すればするほど、言う側も聞く側もこんがらかってしまうから、工夫をこらした説明文は省略すべきだ。頑張ると、かえって関係性に疑問を持たれかねない。もしも、どうしても説明しろと食い下がられたら、口を閉じたまま系図のポンチ絵を大ざっぱに描くのがいい。
話は変わるが、先日、叔母の夫君、九十歳の義叔父が亡くなった。最後にお会いしたのはちょうど十年前の父の葬儀だったと思う。昨年の卒寿のお祝いのとき撮ったという祭壇の写真の中で、義叔父の笑顔が若々しかった。写真を眺めているうち、ふと、こんなに若くても死がやって来るものなのかという気分に襲われた。
いや少し違うような気が。写真の義叔父の笑顔と私の顔のイメージを比較して、大した年の差が感じられない、という自分の死に対する恐れのような感覚だったかもしれない。考えてみると当たり前だが、この十年で自分も明らかに変化している。自分も確実に死に近づいている、といったような気分だったろうか。そう思ううち、笑顔の写真の中に入り込んでしまいそうな、これまでになかった感慨にとらわれたのだ。
「死すべき定め」(みすず書房)という、きわめて当たり前の冷たいネーミングの本が出た。でも内容は、「豊かに死ぬ」ために必要なこととは何か、が論じられているという。それなら題名は「豊かな死」とか「死すべきは自分一人ではない」とか、優しい文言にしてほしかった。気安めか。(2016.11.1)
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