新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

植田正治さんの作品は時空を超えていた

2011-01-26 06:16:31 | 美術館・博物館・アート

1月23日の記事「北浦和でのあれこれ」でちらりと書きましたように、埼玉県立近代美術館(MOMAS)で開催されていた「植田正治写真展-写真とボク-」の最終日に行ってきました。


110126_1_1_2 この植田正治さんという写真家は、MOMASの「展覧会の概要」から引用しますと、


砂丘を舞台に数多くの傑作写真を生み出し、日本のみならず世界の写真史上に独自の足跡を残した植田正治(1913-2000)。時代の潮流であったリアリズム写真運動に与することなく、終生、生まれ故郷の山陰にとどまって「写真する」歓びを追求しました。そのモダニ ズムあふれる作品は、海外でもUeda-cho(植田調)と称され、国外で最も人気の高い日本人写真家の一人となっています。


という方です。
左に載せたフライヤーで使われている作品「本を持つボク」(1950年)なんて、空に浮かぶ雲の位置や形まで意識して配置したように見えます。
おしゃれです イカしています


知っている人には周知のことですが(当然ですな)、植田さんはこちらのジャケ写を撮った方だそうです。

HELLO HELLO
価格:¥ 1,223(税込)
発売日:1995-02-06

このコラボレーションを機に、植田さんしょうじさんデス)は福山雅治さん写真のお師匠さん的存在になったのだそうな(こちらをご参照方)。


それはともかくも、この展覧会の図録に載っているディディエ・ブルスさんの解説の一節が、植田さん自身と植田さんの作品見事に表現していると思いました。引用します。


植田の場所は、二重の意味で中央から外れていた。まずは地理的なもの、そして、写真界の支配的な潮流との関係においてである。生涯、植田が生地の山陰にとどまったのは、その土地を愛していたというだけでなく、おそらくは家族への責務を果たすためであったに違いない。植田は、少しばかりの挑発とともに、地方の利点とアマチュア写真家の利点を主張した。


植田さんにとってのカメラは、「目の前にあるものを切り取って残す」機械ではなく、画家にとっての絵、作曲家にとっての音楽のようなものだったのだと思います。
110126_1_3 シリーズ「童暦」(1955-70年)のように、地域性と時代性が強く感じられる作品群もありますけれど(この作品群も泣きたくなるほどイイ)、例えば右の作品なんてどうでしょうか?
潮の杭」(1959年)と題されたこの作品、まるでか、ミニマル・アートのようです。


こちらの作品、「砂丘人物」(1950年頃)は、かなりおしゃれ


110126_1_2
なぜ女性は傾いているのでしょうか? なぜ女性はこうもり傘と妙な球形の物体(バスケットボールのようでもあり、爆弾のようでもある)を持っているのでしょうか? なぜ地平線がこの位置にあるのでしょうか?

など、疑問が湧いてきますが、仮に女性が何も持たずにただ立っているだけなら、大して面白い写真にはならないでしょう。

この作品を観て、私は、MISIAのこちらのジャケ写を思い出しました


Escape Escape
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:2000-07-07

もう一枚、お気に入りの作品はこちら。


110126_1_4


村の青年」(1947-48年頃)です。
これまたシュールな作品ですなぁ。
この青年の風貌、こちらの青年と相通ずるモノがあると感じるのは私だけでしょうか?


110126_1_5


こちらは大家・木村伊兵衛さんの代表作の一つ「青年」(1952年)。
ちなみにこの写真が撮影された場所は秋田市仁井田。私の実家の近く(大叔母が住んでいました)です。


木村伊兵衛の秋田 木村伊兵衛の秋田
価格:¥ 15,750(税込)
発売日:2011-01-20

それにしても、堪能いたしました、「植田正治写真展-写真とボク-


この展覧会は2月5日~3月21日、郡山市立美術館に巡回しますので、お近くの方、このタイミングで郡山へお出かけの予定のある方は、ぜひお出かけくださいませ

かく言う私は、いつか鳥取県伯耆町にある植田正治写真美術館に行ってみたいと、心から思うのでありました。

コメント
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