RKBの番宣より、『坑道の記憶~炭坑絵師・山本作兵衛~RKB毎日放送』(http://rkb.jp/koudou_no_kioku/)。
「日本の皆さんは国宝に価値があり教科書に載っている歴史の方が一人の炭鉱夫が語る歴史よりも大切だと考えていたはずです。でも私は歴史はあらゆる側面から語られる必要があると思う」。
「一国の首相が歴史修正主義者なんて恥ずかしいし、羞恥心の無さと自覚の無さという救いの無さ」なニッポン国。教科書に載っている歴史さえも矮小化させようといつも画策。ましてや、歴史をあらゆる側面から考える頭も無しなアベ様達。歴史から教訓を得ることもない。
『●山本作兵衛翁のヤマの「記憶の記録」と
アベ様の「アメリカのために戦争できる国」へ』
山本作兵衛翁、「地球の上に 軍人あり武器が ある以上絶対に戦争、人殺しが起こらないと予言できませうか 文明を誇る先進国ほど原爆実験に大童ではありませんか――。 か か―――」。核発電、壊憲、死の商人、戦争法案・・・・・・ニッポン国民は「大童(おおわらわ)」。
『●山本作兵衛翁の作品がユネスコ世界記憶遺産に!!』
『●記憶遺産その後 ~山本作兵衛翁のスケッチブック見つかる~』
『●「筑豊よ 日本を根底から
変革するエネルギーの ルツボであれ 火床であれ 上野英信」』
『●筑豊の炭鉱記録画家山本作兵衛翁の記憶遺産、ユネスコが展示打診』
『●上野英信さんは「「侵略する側」に
いた過去に戦後、どう向き合った」のか?』
それにしても、上野英信さんは凄いな~。テレビ番組には上野朱さんも登場。
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【http://rkb.jp/koudou_no_kioku/】
坑道の記憶~炭坑絵師・山本作兵衛~
名もなき炭坑夫の記憶が世界のアートになった。
日本で初めて「世界記憶遺産」に登録された
炭坑絵師・山本作兵衛のドキュメンタリー
日本一だった石炭生産地、福岡県・筑豊に生まれた山本作兵衛(1892-1984)は父の手伝いや幼い弟の子守のため、7歳で炭坑に入りました。14歳からおよそ50年間炭坑夫として働いた後、60歳を過ぎてから、炭坑生活の記憶を1000枚以上の絵に残しました。
そんな作兵衛の絵や日記など697点が、2011年、ユネスコの「世界記憶遺産」に登録されました。日本初の快挙です。
日本発!絵画や日記697点が
「世界記憶遺産」に登録
世界記憶遺産とは?
ユネスコが実施する保存事業の一つ。
「アンネの日記」や「ベートーベン交響曲
第9番の自筆譜」などが登録されている。
明治、大正、昭和と、記憶の坑道を駆け下りる。彼の絵には、ありのままの日本近代化の実像が描かれていた。
熱く暗い地の底で石炭を掘る男と女の姿、道具、共同風呂、子どもたちの遊び、縁起や迷信。貧しさの中でも冷静に観察者の目を持ち続けた作兵衛は、ヤマ(炭鉱)の生活すべてを克明に描きました。還暦を過ぎてツルハシを筆に持ち替えて描いた絵は、他に類を見ない貴重な生活記録画であり、びっしりと書き込まれた言葉や図解とともに、日本の近代社会をリアルに映しだしています。映画は作兵衛の人物像に迫るとともに、北海道釧路の現役炭鉱、ベトナムの炭鉱を取材。名もなき炭鉱夫の絵がなぜ「世界の記憶」となり得たのか。作兵衛の没後30年となる2014年、“庶民的”で“世界的”なアートの形を目撃してください。
山本作兵衛(やまもとさくべえ)プロフィール
明治25年(1892)年 福岡県嘉麻郡に生まれる
明治32年(1899)年 弟の子守で7歳から炭坑に入る
明治39年(1906)年 14歳で坑内夫として働き始める。
以来、筑豊の18の炭坑(ヤマ)を転々とする。
大正 5年(1916)年 兄の世話により結婚。
昭和30年(1955)年 最後に勤めた位登炭坑が閉山。
64歳で引退し、炭坑の夜警で生計をたてる。
昭和33年(1958)年 戦死した長男のことばかり思い出され、
気を紛らわすように絵を描き始める。
昭和59年(1984)年 老衰のため逝去(享年92)。
平成23年(2011)年 絵画と日記がユネスコの「世界記憶遺産」に登録。
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