エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

タオ≒自分を確かにする道=アイデンティティ

2014-09-01 13:50:52 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 矛盾律は難解な感じがあるのですが、同時に臨床に近く分かりやすい、という面もあります。このように、二律背反であるところがまさに臨床的ですよね。

 p72第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 このことから導かれるのは、正しい生き方を強調することです。人生はすべて、些細なことでも大事なことでも、神を知ることに貢献します。ただし、正確に形而上学的に知るのではなくて、正しい生き方として知るんです。このことは、東洋の宗教では明確に分かります。バラモン教でも、仏教でも、道教でも、宗教の究極的な目的は、正しい信頼ではなくて、正しい生き方です。私どもは同様な強調をユダヤ教に見ます。ユダヤ教を信頼することに関して、分派はほとんどありません(唯一の大きな例外、パリサイ派とサドカイ派の違いは、本質的に言えば、2つの対立した社会階級の差でした。)。ユダヤ教が強調するのは(特に私どもの時代以降です)、正しい生き方、ハラチャです(この言葉は実際には道教の「タオ」と同じ意味です)

 

 

 

 

 

 正しい生き方とは、幸せな生き方。それはまさしくアイデンティティの道です。

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出来事を生み出す言葉

2014-09-01 10:13:23 | アイデンティティの根源

 

 ≪真の関係≫は客観的真理ではなくて、人格的真理。いくらこのブログを頭で読んでも、変わりません。腹で読む、やってみる、生きてみなければ、この人格的真理も分からない

 p341の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 「権威のある」言い方だと私どもは申しました。様式史批判によれば、この「権威のある」言い方は、マルコ福音書(最初の福音書、後で別々にマタイ福音書とルカ福音書で使われました)とさらに初期のQ資料(ドイツ語で「資料」を意味する「クヴェレ」に相当します)までもっともらしく辿れます。さらには、このような様式の出現が、古代ユダヤ、あるいは、初期の教会ではあり得ませんし、あるいは、蓋然性が少ない、と言えるかもしれません。後ほど分かりますように(私どもの最初の例は、まさに五つの言葉から成っています)、このようにいろんな人の眼に晒されても、生き延びた言葉は、バカに単純でした。たくさんな、以前からあったユダヤ教の熱心さと、後からくる福音書が示す、世の中に対する見方が、時空とにも一掃された背景に抗していたように見える場合は特にそうでした。

 

 

 

 

 

 途中ですが、今日はここまで。

 イエスの権威のある物言いは、最初期の資料にまでさかのぼることができること、すなわち、後から書き加えられた可能性が低い真正なことである。イエスは、自分の言葉が、必ず出来事になることを信頼していました。特に、召命に関する部分は、それに「見る」ことも前提されて、「見る」→「話し言葉」→「出来事」に言う繋がりになります。ここに典型的な≪真≫の元型があります(マルコによる福音書 第1章16節、同 第2章14節、など)。

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野村實先生から叱られた思い出  率直さと信頼

2014-09-01 06:27:28 | エリクソンの発達臨床心理


じぃっーと見る+広ーく見る=平安と落ち着き

2013-09-01 02:00:07 | エリクソンの発達臨床心理

 アインシュタインがイメージとイメージを組み合わせた遊びを連想遊びというのは、精神分析に似ていますね。無意識に至る通路の役割をする連想遊びは、創造にも繋がっているというのが、実に興味深いことです。

  ここで「survey ざっと見渡す」と訳した言葉は、Uebersicht overviewでして、広々とした水平線を自由にざっと(じっくり)見ることを意味します。それは、私どもを Auschauung 直観 のことに引き戻してくれます。つまり、一点を焦点付けて見ると同時に、広い範囲を網羅的に見る、物の見方です。


  「じぃっーと見る」と「ひろーく見る」。アリの眼とタカの眼。それはそれで非常に興味深いテーマです。

 でも、このブログで、人格的真理と科学的真理について議論している時に、学生時代のことを思い出しましたので、それを記しておこうと思います。

 それは、西村秀夫先生の集会「聖書を学ぶ会」でのことでした。場所はどこだったかしらね。たしか、小田急電鉄「成城学園」近くの砧区民会館集会室だったと思います。社会福祉法人泉会 岡本作業ホームの集会室ではなかったはず。

 私はその集会に入れていただいて、まだ一年経ってない頃。当時私は早稲田の三年生。ワンゲルで日本各地をウロウロしながら、本と言えば、政治思想史や哲学といった、お堅い本を、今から思えば、よくもまぁ、読んでいたものですね。そのせいかどうかは分かりませんが、頭がずいぶんトンカチ頭(トンチンカン)になっていたんでしょう。その聖書集会で、質問したことがあります。今では「心臓に毛が生える」と言われそうな私ですが、当時は、集会で質問するのは、とても緊張することでしたから、勇気を鼓舞して質問したはずです。何を質問したのかは、もう、とうの昔に忘れてしまいました。口先だけの、小難しいことを質問したことだけは、そうだろうと思います。

 ふつうは、西村先生か、恵泉女学園短大の大山綱夫先生(現在は、北星学園大学理事長)がまず答えてくださってから、他のメンバーも意見があれば、それに続く…という感じなのですが、この時は間髪を入れずに、野村實先生が、いつもの穏やかな雰囲気とは対照的に、強い口調で、おっしゃられたことが今でも鮮明に思い出されます。

 野村先生は「信仰というものは、(あなたが言うような)形而上学的なものではありません…』。ビシャッという音がするような雰囲気でしたね。全くわかってなかったんですね。野村先生がおっしゃる「信仰」=神に対する信頼ということが。

 いまでは、ハッキリと科学的真理と人格的真理を分けて考えるようになっていますが、それもこれも、野村先生があの時に、ビシャッと率直に教えてくたすったからだと思います。今は天国に凱旋された野村先生。ありがとうございます。

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