エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

悔い改め=180度の方向転換=教えるもの(ピッチャー) → 心の耳を澄まして聴く者(キャッチャー)へ

2014-09-23 20:10:17 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
権力の勝利 ≒ 目的も声も見失った暮らし
  アメリカ人のアイデンティティが、スーパー・アイデンティティと呼ばれ、一括取引の中で生じるといいます。それは、科学技術の勝利によるものですが、ひとりびとりに...
 

  悔い改め、ギリシア語では、メタノイア μετανοιαは、ルターは「180度の方向転換」と訳したと言います。要するに「回れ右」ですよね。これは、難しい神学論争の種であって、いろんな人がいろんな人を批判したり、自分の見方を披歴しているそうですよ。日雇い仕事をしていた高齢者が今は多い釜ヶ崎で伝道しておられる本田哲郎さんは、「低い位置から見る」としています。私も本田哲郎神父に近いけれども、ちょっとした違いもあります。

 私は臨床家なので、具体的に考えたいんですね。子どもとの関係です。私は子どもと係るときに大事にしていることは、≪陽気で楽しい≫ということなんですね。このブログの熱心な読者であれば、すでにお判りだろうと思います。それは、≪陽気で楽しい≫感じがあると、子どもは≪やり取りのある関係≫にすぐになれるからですね。

 でもそれだけじゃぁ、ないんですね。≪陽気で楽しい≫感じにしていると、子どもの「声なき声」が、比較的分かりやすい形で出てきやすいんですね。ですから、子どもがピッチャーとなり、私がキャッチャーになるという関係にもなりやすいんですね。むしろ、こうできるからこそ、≪やり取りのある関係≫にもなれるんだろうと考えます。

 でもね、学校の教員や管理職は、昨日も書いたように、「教える人」であることが残念ながら、とっても多い。イエスだったら、腹を立てて叱りつけるだろうというような人たちです。すぐに「良いことを教えよう」とすんですね。これではホントに困ります。子どもがいつだって、「聴く者」「教わる者」になっちゃいますからね。これじゃぁ、≪やり取りのある関係≫じゃない。金森俊朗さんのように、「本気で聴く」姿勢のある教員も、少数ながらいます。それがせめてもの救いです。でもね、「教えたがる人」程、「人間を上下2つに分けるウソ」の猛毒にやられちゃってるんですね。ですから、「自分が上」になったつもりで、子どもに「良いもの」を押し付けてる場合がとっても多い。

 私どもは逆に、金森俊朗さんのように、子どもの思いや願いを「聞き取ろう」「理解しよう」というスタンスで関わります。under-standは「下に立つ」でしょ。本当に理解しようとすれば、謙虚な気持ちで、真摯に、子どもの前に立たざるを得ませんでしょ。何か「良いものを教えよう」というよりも、「心の声」を教えてねって感じになりますよね。でもね、そうすると、実際に、子どもとの関係は、≪やり取りのある関係≫になれますし、子どもの「声なき声」が聞きやすくなんですね。

 ですから、メタノイアは、「教える人」「教えたがる人」から、「心の耳を澄ませて、聴く人」「聴いて理解することに徹する人」になることだって、私は確信してますよ。

 

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子ども時代は、光り輝く可能性に満ちている

2014-09-23 18:09:18 | アイデンティティの根源

 

 子どもって、わがままで、身勝手で、社会をしらない、と思うかもしれません。常識や通念で言えば、子どもは「まだ大人になれない存在」ですからね。でも、それはイエスの評価と真逆です。常識や通念を知ることは、それは大事なことですよね。でも、イエスは、その大事さよりも、≪やり取りのある関係≫を一番大事にするんです。それはね、私どもが、ひとりびとりは、この世に生まれた以上、その人ならでは、で生きるのが良いでしょ。そのためには、どうしても≪やり取りのある関係≫が必要なんですね。

 p348の下から9行目途中から。

 

 

 

 

 

この言い伝えの別物は、マタイが伝えています(マタイによる福音書第18章3節)。「もしも、あなたが180度の方向転換をして、子どものようにならなければ、」と肯定的な「メタノイア」(180度の方向転換)よろしく、方向転換することを示しています。ペリンは、この言い伝えを特別な10ほどの言い伝えの一つとして位置付けています。その特別な言い伝えは、イエスが根源的で全人的な性格であることを物語るものです。その中で、ペリンはこの言い伝えを、「最も記憶すべき、内に秘めたものが最も豊かだ」と言っています。私どもは、一連の世代間の関わりを示す最初のものとして、この言い伝えを後ほど引用することにしましょう。それは、「放蕩息子のたとえ」で言わんとしていることを、一番完全に実現するたとえでもあるんですね。でもね、この「放蕩息子のたとえ」には自分の出来の悪い若い息子の悔い改めを、死からの再生として、迎え入れた父親が1人出てくるでしょ。するとね、私どもは、子ども自体を台無しにする、歪ん育ちを思い出すでしょ。ここでは、今見ている譬えは、子ども時代には、光り輝く可能性に満ちていることを、100パーセント肯定しているって言うんですね。

 

 

 

 

 

 ここは不思議な件てしょ? だって、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」と言うのがマタイによる福音書第18章3節の口語訳聖書の文言なんですけれども、それが「放蕩息子のたとえ」と同様に、子どもの頃を完全に肯定するっていうんですからね。マタイの方は肯定していることは分かる。でもね、放蕩息子の方は、放蕩息子になった以上、子育ての失敗でしょ? 「失敗した子育て」も、イエスは肯定するんでしょうか?

 エリクソンがどのように、ここを「料理」するのか、楽しみですね。

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