エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

トラウマに対する「新しい見方」

2014-09-04 12:08:55 | エリクソンの発達臨床心理


めまいを感じる時の、圧倒的な歓び

2013-09-04 04:37:12 | エリクソンの発達臨床心理

 アインシュタインも、コペルニクスやダーウィン、そして、フロイトと同様に、新しい見方を提示したが故に、ひどく非難されたのですね。それは、人々が、その専門家の見方を理論的に理解する力がなく、新しい見方に対して「ぼんやりとしたイメージ」しか持ちにくいからなのでしょうか?あるいはまた、「ぼんやりしたイメージ」しか持てないが故に、平安を乱されるからなのでしょうか?

 それにしても、アインシュタインがそんな非難の中にあっても、平安と落ち着きのある顔をしていたのが、不思議ですね。


 以前にも書いたことですが、トラウマは、最初は第1次世界大戦後の戦争神経症から始まったようですね。もともとは大きな事件・事故が想定されました。

 しかし、今は日本に限らす、一発の大事件よりも、日常的でchronic慢性的に、1個1個は些細なことの影響力が、はるかに強烈に、人の心にインパクトがあることが、強調されるようになりました。いわゆる<複雑性トラウマ>ですね。

 しかし、先々週横浜であった、心理臨床学会で、Ruth A. Lanius教授によれば、複雑に見える「複雑性トラウマ」、薬物依存、不安障害、うつ病、PTSD、境界型人格障害、解離性障害、摂食障害などになってしまう「複雑性トラウマ」の中核は「愛着障害」、J.Bolbyのいうattachment愛着の問題であると言う「新しい見方」を、明確に示してくださいました。これはわが日本でも、相当妥当性の高い「新しい見方」だと私は考えます。

    それが、van der Kolk教授が提唱する発達トラウマ障害DTDなんですね。

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正しく生きる=≪超越≫の内面化

2014-09-04 10:43:10 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 矛盾律から、忍耐が生まれる。

 p73短い第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 第2に、矛盾した立場は、一方では「ドグマ」の発展よりも、他方では、「知ること」よりも、「変わり続ける人」を強調することになりました。インドや中国、神秘的な立場からは、人間に対する宗教の役割は、正しく考えることではなくって、正しく生きること、あるいはまた、瞑想に集中して唯一神と一体になることです。

 

 

 

 

 矛盾律は、忍耐を強調するだけではないようですね。「変わり続ける人」と「正しく生きる」ことも強調します。

 人は元来保守的です。成長したい感じもあるのですが、既得権のある場合は、その既得権を固持しようと、保守的になりがちです。ですから「変わり続ける」ということには、基本的に抵抗感がある場合が非常に多い。

 しかし、矛盾律は、「変わり続ける人」を大事にする。それは、「正しく生きること」と「神との一体」という、いずれも≪超越≫の価値を内面化することで実現することと、深いつながりがあるはずではよね。

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イエスの≪眼≫の不思議

2014-09-04 06:54:31 | アイデンティティの根源

 

 人は、最初の発達危機を根源的信頼を豊かにすることで乗り越えることができた時、「全きもの」への道を歩むことができるらしい。

 p342の下から16行目途中から。

 

 

 

 

 

イエスがこの「人と人を結ぶ」、能動的な活動を特別に大事にするは、この時ばかりではありません。道端に座る盲目の乞食(マルコによる福音書第10章46節~52節)が1人いました。その人は「ダビデの息子」と叫んでいたんですね。イエスははじめは、誰かにその人に呼び掛けてもらうことによって、「元気づけよう」します。こうして、その人が自分の上着を脱ぎ捨てて、飛び上り、「われ」に返ることを促します。その後でイエスが言います。「あなたは信頼しているから、良くなったんですよ」と。それから、すでに触れましたが、4人の友達がいました(マルコによる福音書第2章1節~5節)。その人たちは1人の麻痺のある男をストレッチャーに乗せて、イエスが教えていた家にドアから運び入れようとしました。ところが、それができませんでしたから、「イエスの真上の」屋根に穴をあけて、そのストレッチャーを下しました。この時、マルコによる福音書によれば、イエスはその人たちの「信頼」を眼で見て、その病気の男に言いました。「我が息子よ、あなたの罪は許されました」と。これは、1人のラビが、律法学者の中には議論を巻き起こすことになる、神のごとき絶対の権利を求めるものでした。「なんでこの人は、こんな(権威のある)言い方をするんだろう?」と。

 

 

 

 

 

 

 イエスの≪眼≫は、真に不思議です。それはイエスの≪話し言葉≫が不思議なのと似ています。

 イエスの≪眼≫が(心の中でイメージとして)見たものは、≪出来事≫になるからです。それは、イエスの≪話し言葉≫が、≪出来事≫になるのと似ています。

 イエスの≪眼≫に、このような力があるのはなぜでしょう? イエスの≪言葉≫に、このような力があるのはなぜでしよう?

 

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