仕事をする上での倫理と女性の役割
2013-09-16 03:46:37 | エリクソンの発達臨床心理
アメリカ移住が、出エジプトになぞらえられ、自分の自由意思を大事にしながら、故国を捨てたことなどに対する罪責感を抱かずに、自主独立の人のなる場を得ることになったことが教えられました。
赤ちゃんが一番望んでいることはなんでしょうか?
やなせたかしさんに言わせたら、「何のために生まれて、何をして生きるのか?」という問いに応えてあげることなのかもしれませんね。もちろん、このやなせたかしさんの問いとも関係するものなのでしょう。
私が臨床していて、一番感じるのは、エリクソンやフロムの言っていることと重なりますね。それは、「自分は価値ある存在なんだ」と認めてほしい、ということです。フロムは、いま翻訳中の、The art of Loving の中でハッキリと言っているくらいですね。「8才半から10才になるまでの、たいていの子どもにとって、課題になるのは、自分だけが大事にされる、ということ、すなわち、ありのままで自分は大事にされる、ということです。」(p89)と言っているくらいです。これは自我が芽生える前の子どもはほとんど、「自分が大事にされ、価値あるものと認められること」が、唯一の願いと言ってもいい、ということでしょう。私は小学生の間は、このフロムの言葉がそのまま当てはまると確信しています。なぜなら、今の日本は、子どもがありのままに価値あるものと認められることが、極端に不足した、非常に貧しく、暗澹たる社会だからですね。
学校や母親と、話をしていていて、「甘え」という言葉は、非常に問題のある言葉、態度だとみなされます。「甘やかしてはいけない」と言うんですね。以前の私なら、「そうかもしれない」と自信がなかったのですが、エリクソンをリリードし、佐々木正美先生からも教えられて、考えを改めました。「大いに甘やかそう」と今は繰り返し申し上げることにしています。
そうすると、すぐに誤解するんですね。芸能人などの母親が、忙しかにかまけて、子どもと向かい合う時間がないもんだから、お金や高価なものを子どもにやる、ということがありますよね。「甘やかす」ということは、「お金や物を無暗に子どもにやること」だ、という誤解です。しかし、それは子どもをスポイルすることであっても、ここで私が申し上げる「甘え」ではないんですね。
私が申し上げる「甘え」は、子どもと時間を共にすることです。親や教員が、自分の「時間」を子どもにあげることです。「時間」なら、いくらやっても、子どもをスポイルすることになどなりませんでしょ。しかし、それだけではありません。
この「時間」を、子どもと向かい合い、「やり取り」する「時間」にするんですね。昨日のエリクソンが教えて下すっているように、この「やり取り」こそ、「神が支配するところ」なんですね。この「神が支配するところ」は、新約聖書では「神の国」と翻訳されていることなんですね。だけれども、これはどこかの国土を指すのではなくて、「やり取り」という関係を指すものなんですね。しかも、この「やり取り」は≪楽しく陽気なもの≫なんですね。だって、そこには、圧倒的で、しかも、静謐としか言いようのない、心の底から湧き上がる「悦び」=ヌミノースがあるからです。
「≪約束≫に基づく遊び」も、この≪陽気で楽しい≫「やり取り」を定式化したまでのものなんですね。
でも、「甘やかしすぎると、『甘ったれ』になる」と心配する方が、おられるかもわかりません。しかし、「心配ご無用!」なんですね。子どもは十分に甘えが満たされると、大人からサッサと自律して、自分の興味関心のあることや、興味関心を共有する友達のところに、サッサと行ってしまいます。むしろ、大人の方が、『甘ったれ』で、「もうちょっと手元にいてくれないかな」などと後ろ髪引かれるんですね。『甘ったれ』になるは、「くれない族」だからであって、十分に甘えることができずに、「〇〇してくれない」、「◇◇してくれない」と言っている連中です。