儀式化が失われる程、暴力が幅を利かす人生にヴィジョン、すなわち、ハッキリした目的があれば、自分が自分の人生の主人公であり、自分の人生にはっきりした方向性を感じて、生きるに値する確かな価値があ...
メメント・モリ。それは自分の死を忘れないことですね。でもね、それは簡単なことじゃない。それに比べたら、亡くなってしまった大事な人を思うことは、はるかに簡単なことじゃないかしらね。
私の父親は自死。鉄道自殺でした。私が早稲田を卒業して、福祉の道に入った時でした。うつ病だった、と今なら分かります。その父とは、進路で葛藤がありましたけれども、小さい頃は動物園に連れて行ってくれたり、キャッチボールをしてくれたりした、心優しい父親でした。谷保天神のお祭りで、ひょっとこ踊りを踊るのが好きでしたが、それは、私が面接場面で「ひょっとこ踊り」をすることに通じているのかもしれませんね。
その父親とは、死んでからも、折に着け、「対話」をしています。それは特別に墓参りをした時だけに限らないんですね。むしろ、墓参の時じゃない時の対話の方が多い。それは単なる日常の “報告” と言うよりも、生前の父親が言っていたことが「その通りになりました」、「言うこと聞いてりゃぁ良かったのかな」だとか、「別の生き方もあったよね」だとか…。それでも、死んでしまった父親は「そら見たことか」「言う通りにしときゃよかったんべ」などと、生前だったらいいそうなことを申しません。ただ黙って聞いている感じで、その向こうで、静かに頷いてる感じなんですね。まるでカウンセリングでしょ。
昨年度に立教の鈴木範久先生が、教育テレビで「道をひらく ~内村鑑三のことば」を6回に渡って教えてくださいました。その5回目が「死者との対話」。内村鑑三不敬事件で職を失う最中で、まず2番目の奥さんの加寿子さんを亡くします。また20年後、3番目の奥さんとの間に生まれた長女のルツ子さんを16,7才の若さでなくします。内村鑑三もその近くに死を何度も体験した人の様ですね。その内村は、死者との関わりは墓参ではないんですね。「見舞う」と言っていたと言います。ですから、内村も死者と対話をしていたことが分かります。
また関東大震災で亡くなった人との対話は、東日本大震災を体験した私どものにとって、切実なものでしょう。東京、女子学院で行われた追悼会で、内村は次のように述べたと言います。
「『貴女(あなた)は死んでお気の毒であります、私は尚ほ生き居て幸福であります』と言ひ得ます乎。其反対が事実であると信じます。死せる彼等が生ける私供を支配し、導き、教へ、慰むるのであります。実(まこと)に私供が彼等を悼むのではありません、彼等が私供を悼むのであります。彼等は死して其(その)権威の位に即(つ)いたのでありまして、私供は生きて、其命令に従ふのであります。追悼会は実は死者生者の交通会であります。そして、此(この)会合に於て、生者は死者を迎へて其指導教訓に与(あずか)るのであります。」
鈴木範久先生の「道を開く ~内村鑑三のことば」来月から再放送されます。皆さんもぜひ。