エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

幼稚な神

2014-09-09 13:35:58 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 神に対する見方は、個体発生は系統発生を繰り返す。面白い。

 p75の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 こういった考え方から、続くのは、神を大事に思う気持ちは、両親を大事に思う気持ちとは区別できない、ということです。人が近親相姦のような、母親とか部族とか民族に対する愛着から脱し得ていないなら、また、もしその人が、飴と鞭の父親や、その他の権威に頼りっぱなしなら、その人の宗教は、宗教の初期段階、すなわち、神が、すべてを包み込む母か、罰とご褒美の父であるかのように経験することになります。

 

 

 

 

 宗教の初期段階は、とても分かりやすい。すべてを包み込んでくれるような母親であり、飴と鞭の父親であるかのどちらかであるからです。

 

 

 

 

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≪私≫の在り処

2014-09-09 10:39:46 | アイデンティティの根源

 

 ≪いまここ≫を生きるために、過去への囚われから自由になる必要があります。その意識的な試みがまさに、フロイトの精神分析とその方法である自由連想だった、と言うのがフロムの明確な主張です。

 p343の最後の行から。

 

 

 

 

 それから、私どもの第2の関心を追い求めるために、フロイトは「≪私≫という感じ」について、何と言ってたか? フロイトは科学的な心理学を探究するにあたって、人間が古くから持っている魂への求めという脇道に入り込むのは良そうと願ったのは確かです。魂への求めは、すぐに、人間の自己幻想の「自己愛的」な中心になっちゃうことがあまりにも多いんですね。フロイトが集中したのは、生育歴(個体発生)においても、人類史(系統発生)においても、否認され、抑圧された人類の大きな傷となったものを、心に呼び戻すのに役立つ手段でした。それからまた、フロイトは、彼が人間の Ich ≪私≫と呼ぶもの強調しました。それはドイツ語でI ≪帆私≫の意味ですが、英語に翻訳する際に、いつも(時にはクエッションマークを付けながら)、「ego  エゴ」と訳されています。そして、エゴとしての≪私≫は、主たる部分は、経験を無意識裡に心の中でまとめる機関になります。そのまとまり次第で、その人の適応や正気が左右されます。この「エゴは心の過程に、時間的な秩序をもたらし、その心の過程が現実検討するようにします」。したがって、エゴがその活動を滞らせた場合、洞察によって回復しなくちゃなりません。でもその洞察はどこでやるの? フロイトは注意深く言います。「このエゴ(この≪私≫に)に、意識はぶら下がっています」と。この(意識や洞察と言う)現象は、「エゴの端っこ」にあるんですね。

 

 

 

 

 意識や洞察は、エゴの中心にあると考えがちでしょう。ところが、実際は、エゴの端っこにあるんですね。

 経験をまとめているのは意識の中心じゃない。意識の端っこにある≪私≫なんですね。

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民主主義の「基本の『き』」

2014-09-09 06:07:30 | エリクソンの発達臨床心理


見当識とは何か?

2013-09-09 04:10:13 | エリクソンの発達臨床心理

 自我の時空を司る見当識はとても大事なことが改めて分かりました。今日は、その見当識がどのようなものなのかを、エリクソンが詳しく教えてくれます。


  民主主義の基本の「き」はなんなのでしょうか? それは、民主主義制度ではもなければ、民主主義議会でもない。じゃぁ何なのでしょうか?

 日本の民主化にとって、キーパーソンの一人に、丸山眞男教授のお名前を挙げることに、異論をさしはさむ人は、少ないんじゃないでしょうか?

 丸山眞男教授が強調されているのは、「永久革命」としての民主主義。それは、終わりのない「民主化」の過程・プロセスです。では「民主化」のプロセスで何が大事か? ですよね。それは、どこまでも話し合いを大事にすること。しかし、話し合いは同調・コンフォームでは全くないので、「間違っていると思うことには、ハッキリNOということ」も含まれる。すなわち、お互いに批判しあう。そして、その批判に対して、お互いが謙虚に耳を傾け合う。この相互批判と相互傾聴が大事。

 話し合いと同程度に大事なのは、「少数意見の尊重」。しかし、日本のような集団に中に個人の組み込まれ度の高い社会では、多数派に同調することが、処世術としても、無意識裡の行動としても、大勢でしょう。すなわち、少数意見は、日本の社会では、極端に軽視、無視、抑圧されることが非常に多い。ですから、「少数意見の尊重」のためには、日々、丸山眞男教授が言う「他者感覚」を磨いていく必要があります。

 この「他者感覚」を磨くには、立場の弱い人や立場の弱い集団の声、「声なき声」に日々謙虚に耳を傾ける、ということが、また何よりも大事になるでしょう。

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