エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

楽しんで生きる 真に生きる

2014-09-06 16:44:52 | エリクソンの発達臨床心理


「ヴィジョンを『共に見る』」働き

2013-09-06 03:40:26 | エリクソンの発達臨床心理

 第三章 「『共に見る』ヴィジョン」 第3節 「アインシュタインのパズル」も実に面白かったですね。アインシュタインの相対性理論が、初めはイメージとの遊びから始まっているのは、実に愉快です。それが、普通は結びつくことがない、対極にあるもの、時間と空間、粒子と光波、慣性と重力などを結びつけることになったというのですから。

 また、意識は自己中心でなければならないのに、科学によって、人間の意識が中心ではないことがますます明らかになっているので、現代人は、宇宙の孤独も体験しなくてはならないのです。耐え難い孤独というべきでしょう。逃げ出すのが普通、と言っても過言ではないかもしれません。しかし、その逃げは、権力の全体主義に向かう傾向を助長し、ナチや日本のような全体主義を作ってしまいます。それでは元も子もありません。人間存在の本質と言ってもいい、自由、を失うからです。私どもは、エリクソンが教えてくだすっているように、もう一度人間の再生を実現するために、日常生活を再儀式化する方向に生きていきたいものですね。

 さて、今日からは、第三章 「『共に見る』ヴィジョン」 第4節 「国家(民族)の1つの夢」です。


 真実、などと申し上げると、お堅い感じがします。まじめすぎる感じもします。

 絵本作家の西村繁男さん。私は知りませんでした。NHKの「団塊スタイル」に出演されて、その魅力に強く惹かれました。

 西村さんの絵本は読んだことがありませんでしたが、TVで拝見すると、その描写が実に細かい。一場面を実に細かく丹念に書くところの特色があるようです。それは、注意深い観察とセットのものだと言います。

 たとえば『やこうれっしゃ』。電車に乗る様々な人を、ひとりびとり丁寧に描写しています。一場面に十人以上の人が登場します。特定の1人が主人公と言うのではなくて、登場するたくさんな人が、それぞれ主人公。西村さんは、老若男女、いろんな人が大事にされる社会の実現を願っているので、そのような世界の絵本を作っていると言います。

 そして西村さんの日常。山梨県境に近い相模原の田舎に住んで、地域の仲間と一緒に農業をしています。そこには、絵本さながらにいろんな人が参加して、緩い結びつきで、それぞれの人が持ち味を生かして楽しめるような活動をしている感じです。「楽しいからやろう」「面白いからやろう」というのが、いろんな参加者が共有するモットーらしい。自由に楽しみながら、緩く繋がりながら、お互いがお互いを認め合う関係になる。

 これは民主主義を地でいく生き方ですが、そんな難しいことを第一に考えている感じじゃぁない。絵本作家としての鋭い感性が細やかに働いている感じ。

 本物の「楽しい」「面白い」を地でやってると、それはお互いが認め合う真の関係になる。そんな見本を見せられた感じで、大変うれしょうございました。それでここにご紹介した次第。

 ついでに申し上げれば、この番組を司会する国井雅比古さん。2009年に2月の寒い日に、加藤周一さんのお別れの会が有楽町の朝日ホールであった時に、司会をして下すった方。

 

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矛盾律は科学ももたらす

2014-09-06 13:35:14 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 ドグマが勢いを持つと、人間が苦しくなります。

 p74の7行目から。

 

 

 

 

 

 

 思想を強調すると、もう1つけ歴史的に言って、とても重要なことが続きます。思想の中に真実があるという考え方は、ドグマをもたらすだけじゃなくて、科学ももたらすのです、科学的思想には、正しい思想は、どれでも大事だが、それは、知的誠実さから見てもそうですし、科学思想を実践に生かす、つまりは工業化する、という側面から見てもそうなんですね。

 つまり、矛盾律の思想は、その場に踏みとどまることと、自己≪超越≫へと、通じました。アリストテレスの立場は、ドグマと科学、カトリック教会、核エネルギーの発見に、通じました。

 

 

 

 

 

 正しい思想は、科学にも通じているのは面白いですね。科学は、自律的力がありますが、良くも悪くも、自律的に進化しやすい。しかし、核エネルギーが、具体的に日本の国土を汚染し、人の住めない地域を、広範囲にもたらすと気が来るとは 考えつかなかった人が多数派でした。

 

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史的イエス

2014-09-06 10:47:11 | アイデンティティの根源

 

 信頼がなくなると、偶像が登場します。偶像崇拝と言われても、ピンとこない方が少なくない、と思います。日本人にとって、まだリアリティを失っていない実例を一つ上げるとすれば、それは太平洋戦争を、天皇を神と崇めてやったために、どれだけ理不尽な死が、日本人だけではなくて、アジアの民にもたらすことになったかを考えれば、分かるかもしれませんね。

 p343の6行目から。

 

 

 

 

 

 このことから、私どもは2つの判断基準を手に入れることになります。この診断基準に基づいて、関わりのある学者の皆さんが (聖書の記述が歴史的史実として)本物なのかどうかを判断していきます。その一つが「違い」の原理です。それは私どもがすでに見てきたように、対応するユダヤとギリシャの文献から引用したものとの違いを見るのです。もう1つは、「一貫性」の原理です。この原理は、たくさんの物語を結びつけ、全ても物語の中にある本物の要素を示します。本物の要素は、たった一つかそこらの文脈の中で確かに裏付けされたものかもしれません。このような「一貫性」の原理が、もちろん、一番説得力があるのは、この原理が、ブルトマンが伝統的に、新たな「気分」と呼ぶものを描き出す場合です。

 

 

 

 

 

 「史的イエス」のテーマです。聖書の記述が、歴史的事実かどうかを判断する基準が2つ紹介されました。

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