エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

待つことが大事

2014-09-21 15:06:39 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 私も「ながら族」なので、フロムにのぞかれている感じでした。あなたは大丈夫ですか? 窓のそばにフロムがいませんか? 

 集中力の次はなんでしょうか?

 p101第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 3つ目の要素は待つことです。繰り返しですが、1つの技術を極めようとする人は、なんでも極めようとするためには、待つことが必要だと分かります。すぐに結果を求めるようであれば、技術は身に付きません。しかし、現代人にとって、待つことは、訓練としても、集中力としても、我慢できません。私どもの産業システムは、正反対をやっちゃってるんですね。私どもの機械も速さのために作られているんです。車や飛行機のおかげで、私どもは目的地に素早く行けます。「速ければ速いほど、良い」と言うわけです。

 

 

 

 

 

 なんでも早いのが良い。それが、現代が求めているものです。でも、待つことが大事。子どもの関わるときにも、待つことが何よりも大事。

 

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目覚めよ そうすれば、人生の主人公でいられます!

2014-09-21 12:43:57 | アイデンティティの根源

 

 大竹しのぶさん。 ≪本当の自分≫を生きているからこそ、演じる時だけ、非日常の世界では、意識して「仮面」を被んることができるんですね。≪本当の自分≫を生きずに、日常的に「仮面」を無意識裡につけていたんじゃぁ、演じる時の被る「仮面」がウソとゴマカシになっちゃう。おもしろいでしょ。

 p348の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 私がここで、これまで繰り返し、次第に良い形で、申し上げてきたことを繰り返すのはなぜなのか?もちろん、私は≪神が支配するところ≫を≪私≫の時という考え方と結び付けたいと願っています。そのために、私はなかんずく、イキイキしている性質とまとまりがあるという性質に加えて、中心であると言う性質、すなわち、いろんな出来事の中心に自分がいる、ということを求めてきました。このようにして、能動的に選択して悔い改めれば(ギリシア語では、メタノイアですが、ルターはこれを、「180度の方向転換」と訳しています)、人は生きる場で、中心でいられるようになります。この言葉固有の、悔い改めに伴う痛みはあるけれども、悪い良心(訳注:自分も隣も否定するメッセージをし続ける良心)によって、ドヨーンとすることもなく、神の裁きによって禁じられることも、無用になります。これは、「≪私≫という感じ」がキビキビ生きてくることへの一つの段階であるように見えますよね。このことを、繰り返し繰り返し、励まして言われていることなんですよ。「目覚めよ、意識を高く持て、良く見なさい」と。

 

 

 

 

 

 明確ですね。目覚めていなさい。それは自分も隣も裁いて、元気を奪い去り、ドヨーンとすることになる「悪い良心」を投げ捨てて、≪本当の自分≫<神様との≪やり取りのある関係≫を毎日毎日続けていくんですね。それは人生の主人公でいられることのエッセンスなんですよね。

 こうすれば、お芝居では「仮面」を付けることもできますし、そうすれば、人に感動と言うプレゼントをすることもできます。自分の人生の主人公ですから、仕事では「わき役」に徹して、子どもを人生の主人公として認め続けることだって、できるんですね。実に面白いですよね。

 

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大竹しのぶさんにとって大事なこと

2014-09-21 06:36:22 | エリクソンの発達臨床心理


 

(暴)力による支配

2013-09-30 02:11:20 | エリクソンの発達臨床心理

 脱儀式化の状況は、生きてる目的、方向性がハッキリしませんから、いわば、外からも内からも動かされやすく、踊らされやすい状況になります。たいていは「人間を上下2つに分けるウソ」の慣性、力は猛烈ですから、その力に飲み込まれているケースがほとんどであると言って過言ではないでしよう。この時、自分が踊らされているという自覚はないのが普通ですから、自分が何をしているのかにさえ、無自覚であることが多くなります。ましてや、その態度に、まさか「『下』のものはぶっ殺せ」というメッセージが含まれているなどとは、夢にも思っていないのです。


 

 大竹しのぶさん。どなたでも知っている「大女優」。

 「女優として大切にしていることは?」と言う質問に、インタヴューの中で応えています。

 女優、俳優は、人の人生を「演じること」が務めでしょう。ですから、そこには「装うこと」も伴うはずですよね。でも、「演じること play」と「装うこと pretend」は似て非なるものでしょう。これは Toys and Reasons を翻訳したときに最初に翻訳した部分にエリクソンが言っていたことですね。演じるのは幼児前期、トイレット・トレーニングから始まるんでしたね。その時に「自分が分裂する生育歴上の始まりがあるばかりではなく、人類が分裂する生育歴上の源もある」と述べていましたね。

 「装うこと」はウソとゴマカシの始まりです。しかし、「演じること」が迫真の演技に通じますように、人間の真実を表現することになる場合もあるんですね。そうすると、そういう演技を鑑賞したものは、カタルシスを感じ、心ふるわせる体験ができますでしょ。ところが、「装うこと」には、迫真性もなければ、人に心ふるわせる体験を提供するだけのちからは全くないでしょ。

 ですから、そこらへんのことを、別にエリクソンを読んだわけじゃぁないでしょうけれども、「大女優」になるべく定めの人が持つ直観力によって、感じているものがあるからでしょう。先の「女優として大切にしていることは?」との問いに対して、大竹しのぶさんは応えて言います。

 「お芝居でもウソはつきたくないけど、実生活でもウソつきなくないです」、「自分の心にウソをついて生きていたくないですね」、「お芝居にも良くない感じがします」

ってね。

 皆さん、どうぞご大切にしてくださいね。

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