「やり取り」こそ、≪神の支配するところ≫なのですね。
p347の、4行目途中から。
と言うのも、ここでは「神が支配するところ」を預言者的に見通す大きな見通しに特別に関係があるような時と遊んでいる感じがあるからです。その「神が支配するところ」は、最後の行動として決定的救済のようでもあります。それにもし、その「神が支配するところ」は、自覚の枠がとてもあいまいだから、「一体どこにあるのかしら?」ということになります。この問いにイエスは別のところで応えて言います。「よくご覧なさいよ。神が支配するところは、あなたたちのただ中にあります」(ルカによる福音書 第17章21節)と。ギリシア語では、もともと、エントス ヒュモーン εντος υμων は、「あなたたちの間」ということもできますし、「あなたたちの中」ということもできます。というのも、ルターの翻訳では、inwendig in Euch として、まさに両方にとれるようにしています。
「神が支配する」のは≪2人の関係≫です。それは同時に≪私の私の関係≫でもある、と言うのがここでのエリクソンの主張です。
ウィリアム・ジェームズが、I主我とMe客我とよびました。≪私と私の関係≫とは、このIとMeの関係です。≪2人の関係≫が陽気で楽しいやり取りになるのは、IとMeの関係が、陽気で楽しい自己内対話である時だけ。
そのことを、日々の生活の中で、皆さんも味わってくださいね。