エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪自己内対話≫の勧め

2014-09-17 13:39:36 | アイデンティティの根源

 

 「やり取り」こそ、≪神の支配するところ≫なのですね。

 p347の、4行目途中から。

 

 

 

 

 

と言うのも、ここでは「神が支配するところ」を預言者的に見通す大きな見通しに特別に関係があるような時と遊んでいる感じがあるからです。その「神が支配するところ」は、最後の行動として決定的救済のようでもあります。それにもし、その「神が支配するところ」は、自覚の枠がとてもあいまいだから、「一体どこにあるのかしら?」ということになります。この問いにイエスは別のところで応えて言います。「よくご覧なさいよ。神が支配するところは、あなたたちのただ中にあります」(ルカによる福音書 第17章21節)と。ギリシア語では、もともと、エントス ヒュモーン εντος υμων  は、「あなたたちの間」ということもできますし、「あなたたちの中」ということもできます。というのも、ルターの翻訳では、inwendig in Euch として、まさに両方にとれるようにしています。

 

 

 

 

 「神が支配する」のは≪2人の関係≫です。それは同時に≪私の私の関係≫でもある、と言うのがここでのエリクソンの主張です。

 ウィリアム・ジェームズが、I主我とMe客我とよびました。≪私と私の関係≫とは、このIとMeの関係です。≪2人の関係≫が陽気で楽しいやり取りになるのは、IとMeの関係が、陽気で楽しい自己内対話である時だけ。

 そのことを、日々の生活の中で、皆さんも味わってくださいね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

議論と、時として、ホントに大事にすることに繋がる

2014-09-17 10:41:01 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 人を大事にするときには、実際「やってること」が肝心です。

 p99第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 

 人を実際に大事にする、という課題が「行うは難し」なのは、今の時代、たいていの人は、したがって、この本の読者の多くも、「どうやれば、自分でそれをできるのか」という処方箋を手に入れたい、と期待することで強められます。つまり、その処方薬とは、私どもの場合、いかにしたら実際に大事にできるかを教えてもらうことです。誰でも第三章でこの精神でこの課題に取り組んだ人は、大いに失望されたのではないか、と思います。人を大事にするのは、個人的体験で、どなたでも、独力で、自分自身のためにだけできることです。実際、子どものころ、青年期に、大人になってから、素朴な形であっても、この経験をしていない人は、ほとんどいません。実際に人を大事にすることを議論することは、人を大事にする技術とそのアプローチを論じることですし、プラス、この前提とアプローチを実践することです。目的に至るいくつもの段階は、自力でのみ実践できます。議論が終わりになるのも、決定的な段階が来る前です。しかし、このアプローチを議論することも、ことによると、その技術を身に着けるのに役立つかもしれません。特に、「処方箋」を期待しない人には、役立つかもしれませんよ。

 

 

 

 

 議論は、「口だけ」になる危険もあります。だけれども、本気の人には、その議論も、大事にする実践に繋がる場合もあるんですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘセド(hesed)

2014-09-17 06:43:29 | エリクソンの発達臨床心理


新世界、アメリカ人の生き方

2013-09-17 03:30:09 | エリクソンの発達臨床心理

 新大陸に渡って、男も女も、新しい倫理を創りだしていたようですね。

 今日は一歩進んで、「アメリカ人の生き方」についてです。


 

  私事で恐縮ですが、私は昨年度、雨宮慧先生の「雨宮神父の土曜聖書講座(無料) 旧約聖書入門」に参加することができました。新宿信濃町駅前の「真正会館」で土曜の午後に行われていました。真正会館は建て替えが決まっていますので、この「真正会館」で行われ最後の講座に参加できたことは、誠にラッキーでした。

 旧約聖書でも、新約聖書でも、「契約」という言葉をよく使いますでしょ。旧約でも、新約でも、その「約」ということばは、「契約」のことを指しているんですね。でもね、この「契約」という言葉は、私たちが普通日常的に使う言葉じゃないですね。「契約」と言ったら、特別に堅い感じがします。私どもが普通にやっている行為、たとえば、電車の切符を買うといった行為も、法的には「契約」だそうですが、それをことさら「契約」などと呼ぶことはまずありませんでしょ。

 日常的に使う、と言ったら、それはむしろ、「約束」でしょ。雨宮先生は教えてくださいましたが、旧約聖書で使われている「契約」という言葉も、本当は「約束」だ、ということです。私はヘブライ語は分からないけれども、「やっぱりそうか」と思いました。「じゃぁなんで、『契約』という言葉を使ってるの?」と思われるかもしれませんね。それは、聖書の翻訳の歴史の中で、『契約』という言葉が定着しているので、今更変えられない、ということらしい。それだから困るんですね。きっと「先輩の顔を立てなくちゃならない」などの「人間的事情」が幅を利かせているんじゃないかしらね。ですから、山浦玄嗣さんのような翻訳が必要とされるんだと私は感じます。

 旧約聖書で「契約」と訳されている元のヘブライ語、それが今日のタイトル「ヘセド(hesed)」なんですね。雨宮先生からいただいた資料によれば、「契約の背後には『友好的態度』がある。ここで『友好的態度』と訳されているヘブライ語(ヘセド)はもともと『二つの存在を結びつける愛と敬意』を意味しており、『誠実さ』という意味も含んでいる。だから、本能的な愛情の表れというよりは、自覚と意思を伴った慈愛を指す」(雨宮慧先生配布資料 「旧約聖書入門(2013/04/06) 神とアブラハムの間の二つの契約」p4)と言うんですね。

 この時、「あっ、『≪約束≫と基づく遊び』でやってるのは、ヘセドだっ」と思いました。「ヘセド」と言ったら言い過ぎかもしれませんけれども、少なくとも、「人間版ヘセド」だとは思いました。

 ですから、今の日本のように「神も仏もあるもんか」と言う時代に、「≪約束≫に基づく遊び」は、神様のような≪約束≫と神様を復活させよう、という、ばかばかしいほど大胆で、ばかばかしいほど愉快な取り組みだと、私は考えます。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする