エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

話し合いを封殺するのは、ファッショ・ナチズムだ!

2014-09-03 13:05:40 | エリクソンの発達臨床心理


新しい見方に対する抵抗

2013-09-03 05:11:13 | エリクソンの発達臨床心理 

 アインシュタインの相対性理論について、私にはよく分かりませんが、対極にあるものの相関関係を導き出した理論なのでしょう。それはイメージとの遊びを通じて、対極にあるものを結びつけたのですから、アインシュタインは天才なのでしょう。でも、私どもにとっても、遊びは物事を結びつける力が、本当にあるのでしょうか?


民主主義の基本は話し合いを尊重することです。ですが、最近この基本を破壊する動きが、眼についてきましたので、このブログでも一言物申そう、というわけです。

 わが町「国立」のお隣、東京都国分寺市で毎秋開かれる「国分寺まつり」で、毎回参加の「国分寺9条の会」が出店を拒否された、と言うんですね。それで「国分寺9条の会」は、実行委員会と国分寺市長に対して、出店拒否の撤回を求めて要請書を出したと言います。

 それに対して、実行委員長は、賛否両論、論争のある話題は、親睦の場で取り上げてはダメ、という趣旨のことを言っているとも言います。これでは民主主義の基本の「気」の字もお分かりでない御仁に、あきれ果ててしまいます。

 でも、こんなバカがまかり通ってしまってはなりませんよね。日本では、「全会一致」は何ら問題ないどころか、物事を進める上では、なんか「理想形」と考えられている節がありませんか?

 ところが、ユダヤの格言には「全会一致は無効」と言うものがあると言います。全会一致は不自然であり、何らかの圧力、何らかの不正が想像できるからでしょう。日本の場合は、個人が所属集団への組み込まれ度が極度に強いため、個人に対する集団圧力が猛烈です。ですから「全会一致」に何の抵抗もないかのような感じがあるんですね。しかし、民主主義の基本の「き」は、「少数意見の尊重」です。本来は「全会一致」などあり得ません。

 「少数意見を尊重する」ことが、民主主義の基本ですから、賛否両論、論争がある時には、その賛否両論を自由に話し合いすることができる場を、何時でも、どこでも、提供することが、どんな場合でも「正解」ですし、民主化のために必要不可欠なんですよね。

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矛盾律と忍耐 天才シモーヌ・ヴェイユ

2014-09-03 11:04:40 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 排他率が、近代に生み出したもの。スピノザ哲学、マルクス経済学、フロイト精神分析です。

 p73第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 矛盾律の観点から申し上げれば、強調点は思想にあるのではなくて、行為にあります。この態度かせ、いつくかの他の結果も生じてきます。なかでも、「忍耐」が生じますが、これは、インドの宗教や中国の宗教が発達する中にあります。正しい考えが究極的な真理でも、救いの道でもないとなれば、他者とぶつかり合う理由もなくなりますし、その考えはそれぞれ別々に定式化されます。この忍耐は、何人かの人物の物語にうまく表現されています。その人たちは、闇の中で一頭の像を描くように頼まれます。1人は、自分の胴体に触れて、「この動物は、水道管の如し」と言います。もう一人は、自分の耳に触れて、「この動物は、団扇の如し」と言います。三人目は、自分の両足に触れて、この動物を、まるで柱のように描きます。

 

 

 

 

 

 

 矛盾律から忍耐が生まれると言います。でもその忍耐にもいろいろあるのでしょう。

 忍耐と言って思い出すのは、やはり、天才シモーヌ・ヴェイユですね。忍耐、ヒュポメノーが、シモーヌ・ヴェイユのキーワード、最も好む言葉だからです。

 彼女の短い一生は、まさにこの言葉「ヒュポメノー」(忍耐)の体現にあった、と言えるだろうと思います。つまり、「ヒュポメノー」(忍耐)という≪話し言葉≫を、彼女の人生において、≪出来事≫にして見せたのでした。それはすさまじくも、気高き人生だと言えることです。

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アイデンティティの根源、信頼の根源

2014-09-03 06:34:59 | アイデンティティの根源

 ≪真の関係≫は、単純明快な言葉と共にある。小難しい言葉は、得てして「ウソとゴマカシ」と共にある。

 p342の17行目途中から。

 

 

 

 

 

しかし、次にイエスは何と言ったのか? こんな感じで「触られた」ときに。それは「あなたは、信頼しているからこそ、治るんですよ(自分にまとまりがつくんですね)」でした。(英語聖書の古典)キング・ジェームズ版では、「娘さん、汝、信頼すればこそ、汝、全き者となれり」です。これは、あらゆる治療の、慈しみに満ちた性質であり、全身全霊の性質です。とにかく、イエスは、この女性には、信頼する素質があるし、イエスこそ自分を助けることができる、必要不可欠な相手として、手を伸ばす決心をしたのだと認めます。

 

 

 

 

 

 この女性の信頼こそ、エリクソンが常日頃から、根源的信頼感 a sense of basic trustと言っていることの典型例だと感じますね。ですから、根源的信頼感とは、宗教で言う「信仰」「信頼」と同義だと考えて間違いじゃぁ、ありません。

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