エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

矛盾律は、人に優しい?

2014-09-02 12:48:44 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 ユダヤ教は、正しい生き方を強調していたといいます。それは老子が言うタオ、「道」と同じだった、とも。

 p72下から1行目から。

 

 

 

 

 

 現代史では、同様な原理が出てくるのがスピノザ哲学、マルクス思想、そしてフロイトです。スピノザ哲学では、強調点は、正しい信頼から、人生において正しい身の処し方へと移ります。マルクスが同じ原理を口にするのは、「哲学者が世界を、それまでとは異なる見方で解釈してきた、哲学者の仕事は、世界を変革することだ」と言う時です。フロイトは矛盾律に従って、精神分析療法という、自分自身をかつていないほど深く経験することへと進んだのでした。

 

 

 

 

 

 矛盾律は、世界をより善く変革する原理のようですね。スピノザ哲学も、マルクス哲学も、フロイトの精神分析も、人間を人間らしい暮らしへと導くものだ、と言えますよね。

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2人のやり取りこそ、2人の≪真の関係≫、2人のいのちの分かち合い 

2014-09-02 10:27:58 | アイデンティティの根源

 

 生き延びる言葉は、バカに単純だった。私どもも、極力単純でありたいものですね。

 昨日の続き、p342の1行目途中から。

 

 

 

 

 

しかし、バカに単純なことは、福音の本質だと、申し上げるつもりです。同時に、福音書の独特な芸術様式のおかげで、私どもは、すでに見てきましたように、こういった単純明快な言い習わしが、非常にイキイキとした出会いという、2人の織りなす現実の中で、語られていたことをイメージできますよね。ここで私は、長血の病から癒された女を思い出しますね。このたとえ話は、癒しが行われた側面から見ても、私どもの日常と仕事に非常に近い感じです。それは当時のガリラヤ人を驚かせたことでした。と申しますのも、私自身が専門的な応答をし、理論的な応答をすることをお許ししたいただくとすれば、イエスが、人混みの中にあっても、絶望している女に触れられたことを感じた、ということが現代的に申し上げて、非常に意義深い、からです。また、その時、イエスは、触られたことで、自分の中から、大量のエネルギーが失われたのを感じたことも、意義深いからです。と申し上げるのも、このことは、ある種のエネルギーのやりとり、すなわち、エネルギーがお互いに「転移」し合うことに相当するからですし、それを譬えで表現していることになるからです(フロイトは、このエネルギーをリビドー、すなわち、≪真の関係≫をやるエネルギーと呼びました)。

 

 

 

 

 

 実に不思議な箇所ですね、ここも。バカに単純な言葉は、2人が≪真の関係≫を結ぶ際に使われます。その時には、フロイトがリビドーと呼んだ、≪真の関係≫をやるだけのエネルギーのやり取りが、眼に見えない形で、触れ合う、という眼に見える形を伴って、2人の間に生じるんですね。これは臨床そのものだと思います。

 そこには、大学院の講義で使うような、専門用語も、小難しい言葉も、全くない!単純明快な、子どもでも(子どもの皆さん「ごめんね」)分かる言葉が、必ず語られます。その場の2人には、神聖にして侵すべからざる雰囲気と共に、飛び上るほどの、飛び跳ねるほどの楽しさ、悦びが必ずある。

 まるで、2人は、輝く光のよう。

 ついでに申し上げれば、西村先生の師に当たる矢内原忠雄先生が、「単純」を非常に大事にしたことと、ここでエリクソンが言いたいと思っていることは、非常に重なる、ということですね。

 

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対立を遊ぶ遊び

2014-09-02 06:24:46 | エリクソンの発達臨床心理


遊び 結びつける力 アインシュタインの場合

2013-09-02 04:36:56 | エリクソンの発達臨床心理

 

 (中略)

 アインシュタインは、普通は結びつかない、対極にあるものを結びつけることが出来たのです。しかも、それは、最初はイメージとの遊びだった、というのは驚きですね。 

 遊びには、物と物、人と人を結びつける強力な力がある、と言えそうですね。しかし、それは、いったい何故なんでしょうか?


 対立、といったら、次に来るのは、喧嘩や訴訟、ということかもしれませんね。

 でもね、宮澤賢治なら、「つまらないからやめろ」と言うことでしょう。でも宮沢賢治のように人は、いつの時代にあっても、理解されることが少ない少数派でしょう。

 しかし、対立と遊ぶ、といったら、さらにさらに、理解されることが少なくなるのかもしれません。その理解されることの難しさと言ったら、相対性理論の難しさと共通するのかもわかりませんね。

 対立と遊ぶ、これが決定的にアインシュタインをアインシュタインたらしめた、と私は考えますね。ふつうは、喧嘩をしたり、もう会わないで済む方法を考えるでしょうに。対立を遊んだのはどういったことでしょうか?

 それは第1に、その対立と遊ぶことが楽しかったからだと強烈に感じますね。それも簡単に楽しい、ということではなくって、飛び上るほどの、飛び跳ねるほどの楽しさだった、と強く感じますよね。まるで、輝く光のよう。

 それはもう、幼子がするような一種の「感覚遊び」だった。それがまさか、相対性理論という(中身はチンプンカンプンですが)、世紀の大発見になったばかりではなく、世の中の世界観をひっくり返すことにもなった、ということです。

 「アインシュタインほど」、ではないにしても、どなたでも、自分の世界観をひっくり返すような「発見」するためには、そのような、「対立と遊ぶ遊び」が、是非とも必要なんですね。

 しかし、それだけではありません。

 それはまた、飛び上るほどに、飛び跳ねる程に楽しい。まるで、輝く光のよう。

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