エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

日常と非日常

2014-09-27 13:28:17 | エリクソンの発達臨床心理

 

 日常生活を送るうえで、非日常の時間を持つことは大事ですよね。毎日の生活の中で、自分が好きなことをする時間を持つこと、たとえば、読書だったり、音楽だったり、ランニングだったり、自分の好きなことに夢中になって、しばし、無我の境地かは知りませんけれども、≪楽しく陽気≫な時間を過ごすことも、日常生活のルーティーンをする上でも、役立つことでしょうね。

 旅もそういうものでしょう。旅は英語ではtravelでしょ。諸説あるようですが、この旅travelは、厄介事troubleと、語源が一緒だと言います。今回も、貧乏旅行ならではの困難がずいぶんありました。レンタカーを借りようとしたときには、保険が予定よりも高くて、予算オーバーで、どうしようかと思っていたら、レンタカーやさんのキューさんとひろ子さんが助けてくれたり、バスに乗って20ドル紙幣しかない時に、バスに同乗していた、知らないおじさんが、1ドル札を含めて20ドル分の両替を買って出てくれたり…。それでも、「天国の光」としか呼べないような風景に出合うと、心洗われる思いをしたことも確かですね。こんな風景に出合うと、自分の存在がいかにチッポケかが、分かります。また、バーンズ・アンド・ノーブル書店で買った何冊かの本から、私が日ごろやっている仕事に「YES」を貰ったみたいで嬉しかった、と言うのもまた事実。「チッポケながら、日々の仕事にまた≪楽しく陽気に≫邁進しましょう」と思いましたね。

 非日常を体験すると、自分の生活を、自分の仕事を、自分の人間関係を、いつもとは違う新鮮な視線から見直すことができますね。今回の旅も、そのような恵みに満ちていたなぁ、と感謝したい気持ちですね。

 

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規律は必要です

2014-09-27 12:59:33 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 技術を学ぶ場合、全身全霊で、が大事です。

 p102の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 

 どのように規律を守ればいいのでしょう? おじいちゃんたちならば、この問いに応えるのに、もっとましな答えを出せるかもしれません。おじいちゃんたちなら、「早起きしなさい」、「贅沢は止めときなさい」、「一生懸命働きなさい」、と言うでしょう。この手の規律では、もはや不十分なんですね。それは堅苦しく、権威主義的で、質素倹約の価値を中心にしたもので、ある種、人生に敵対的でもあります。しかし、この種の規律に対する反応では、「どんな」規律に対しても疑う傾向が強まってきています。それは、規律のない、怠惰な生活で残りの生活をやることになり、8時間の間に押し付けられたルーティーンに対する反発です。定時に起きて、日中の一定の時間を、お祈り、読書、音楽鑑賞、散歩に使うのであって、少なくとも一定時間以上を、ミステリーを読んだり、ミステリー映画を見たりするような逃避的なことにふけったりせず、食べ過ぎ、飲み過ぎしないことを、ハッキリとした、基本的な決まり事にすることです。

 

 

 

 

 ちょっと耳が痛い? 食べ過ぎかもしれませんからね、私の場合。やっぱり食べ過ぎダメですよね。飲み過ぎの人も中にはいらっ知るかしらね? ダメですって。お互い気を付けましょうね。

 

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円熟した大人=物事を見抜く洞察力+秩序も大事にする鷹揚さ  

2014-09-27 06:36:38 | アイデンティティの根源

 

 心の眼、すなわち、一隻眼と、心の耳が、とっても大事。

 p349第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 この言い伝えが話されていたのは、男性優位の社会であったことを思い起してくださいね。そうすれば、イエスの側に、母性的なやさしさと父性的なやさしさが、遠慮がちに統合されていることに、気付かされることでしょう。しかも、実際に、ひとりびとりの≪私≫を元気づける何が、この言い伝えと、これに続く、世代間にまつわる言い伝えに隠されてるのかを問うならば、それは、発達の舞台が「続く」ことを確かにすることだ、と私は考えます。大人なら、自分に期待されている信頼の段階は、その子どもや、自分よりも若い人たちにその信頼を残すことだと考えたんじゃダメですね。そうではなくて、反対に、本当に子どものような信頼へと成熟し続けることこそが、自分の信頼を養うのだと考えなくてはなりませんよね。ペリンはこの文脈において、子どもが信頼と本能的な従順さへと開かれていることについて、述べています。私はと言えば、私自身の著作の中で、赤ちゃんの頃の強さは、根源的な信頼だと考えてきましたね。しかも、その信頼は、「重要な他者」、つまり、お母さん(や、それに類する人々)と生まれたばかりの≪私≫をやり取りをする中で、育まれるものだとも考えてきました。この信頼が大人になった時には、この世界にあって、鋭く物事を見抜く力と分別のある秩序を共に大事にできる熟達の域に達するわけですね。

 

 

 

 

 

 真に「素晴らしい」の一言に尽きます。赤ちゃんの時に身に着ける信頼、それが豊かになるかどうかが、赤ちゃんの時の発達危機でした。その危機を、根源的信頼感を豊かにすることで乗り切ることができたら、それは人生において、たとえ苦労はあっても、生きる意味を見失うことなく生きることの秘訣です。

 しかし、エリクソンはそれだけじゃぁ、ない。その信頼は、物事を鋭く見抜く力と分別のある秩序をバランスよく整える円熟の域に達することができる、と言うわけですからね。今の大人、特に日本の学校の教員は、秩序の方に傾いて、子どもの心を見抜く力が弱い人が非常に多いでしょ。それじゃぁ、子どもは不幸です。「分かってもらえない」、「命令と禁止ばっか」と子どもたちが言うのも、間違ってない。状況や人の気持ちを見抜く力も大事でしょ。そうじゃなけゃぁ、物事が好転しませんでしょ。エリクソンは、その辺の事情を百も承知で、物事を見抜くだけじゃぁなくて、秩序も分別しているところが、実に実践家、臨床家の面目が躍如としている点だと、私は考えますね。

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