エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

人を大事にする気持ちは、社会が決めちゃうもの

2014-09-13 15:05:23 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 歴史的に、神にいろんな段階があるように、個人にも、神にいろんな段階がある。

 p76の7行目途中から。

 

 

 

 

 

1つだけは確かです。「神様を大事にする、その性質が、人を大事にする性質と一致する、ということです。さらには、神と人を大事にする性質は、無意識であることが多い、ということです」。それは、神様が大事にしてくださる力とは何なのかについて、より成熟した考えによってかばわれ、理にかなったものにされます。さらには、人を大事にする気持ちは、直接的には自分の家族関係に埋め込まれていますが、とどのつまり、その人が住んでいる社会によって決まってきます。もし社会構造が、権力に従属するならば(その権力がハッキリした権力だろうが、経済市場や世論のような、匿名の権力だろうが)、その人の神の概念は、幼稚であるに間違いはありませんし、成熟した概念であるはずがありません。成熟した神概念の種は、一神教の歴史にこそあります。

 

 

 

 

 この第2章の最後の件は誠に衝撃的ですよね。人を大事にする気持ちは、社会構造次第だということだからですし、その社会構造が権力に従っている限り、人を大事にする気持ちは幼稚のままだ、と言うんですからね。これは、まさに日本のことですよね。人を大事にする気持ちを制度化したものが、医療、福祉、教育だとすれば、それがいかに弱い立場の人にとって、「厳しい」制度であるかは、説明する必要もないくらいですからね。

 でもね、どうすれば、このような社会状況を改善できるのか? それがどこまでも課題ですねよ。それは最後にフロムがヒントを残してくれています。すなわち、≪超越≫です。

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無意識から出るオバケ

2014-09-13 12:19:18 | アイデンティティの根源

 

 眼が無意識に巻き込まれていると、体(全人格・全人生)が暗くなります。

 p345第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

  ここで私どもが手にした≪私≫から遠く離れて、もう1つガリラヤの言い伝えは、人間の自覚的な態度にとって、最も決定的な「新たな気持ち」を表現しているように思われます。イエスの弟子たちが正しい作法で手も洗わず、「盃、鉢、青銅の器を洗うこと」(マルコによる福音書第7章4節)について見た眼では一顧だにせずに、食卓に着いたのを見たパリサイ人から「それじゃぁ、ダメでしょ」と言われたときに、イエスはしぶといことを言います。それをマルコが報告しています。それは、「指針として人間の戒めを教えることが、あなた達の伝統を介して、神の言葉を無にするものですよ」と。マルコは続けます。「イエスは人々をまた呼んで、その人たちに対して話をしました『みなさん、私の話を聴きなさい。そして理解しなさい。“1人の人の外から入るものは、その人を汚したりはしない。しかし、1人の人から出て来るものは、その人を汚します”』」(マルコによる福音書第7章14節~16節)。その後、イエス、自分に問いを問う弟子たちのために付け加えます。「外から人に入るものは何物も人を汚したりしないことはお分かりですか? なぜなら、ものが入るのは、その人の心ではなくて、胃袋だからですね。そして、体から出ます。(このようにして、イエスはあらゆる食べ物に穢れがないことを宣言します)」。続けてイエスは言います「人から出てくるものは、人を汚します。なぜなら、内側から、人の心から出てくるものは、悪い考え、和姦、盗み、殺し、姦通、貪欲、意地悪、ウソ、性的放縦、妬み、悪口、高ぶり、愚かさだからです」(マルコによる福音書第7章18節~22節)。と。

 

 

 

 

 イエスは臨床心理学の教師でもあることが、ここからハッキリわかりますよね。当時のユダヤ教では、食べていいものと食べてはならないものが、細々と決まっていました。食事そのものも、寝そべって食べるのはいいのに(牛にならないのかしら?)、様々な振る舞い方が決まっていたんですね。だから、パリサイ人は、その規律違反をしたイエスの弟子たちを非難したんです。

 でも、イエスは食べ物はどんなものでもいいもんだ、と単純明快です。入るものはいいんですね。問題なのは出てくるもの。心の中から、おぞましいことか夥しく出てきますよね。これがすべて、意識が曇ったために、無意識から猛烈な勢いで、ドバッと出てくるものなんですね。

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お母さんが≪約束に忠実≫ですと、赤ちゃんが≪信頼≫を貰えます

2014-09-13 06:57:07 | エリクソンの発達臨床心理


アメリカの新しいヴィジョン 対立に和解をもたらす見方

2013-09-13 03:15:08 | エリクソンの発達臨床心理

 アメリカの市民宗教では、いつも新しいヴィジョンの元で、自分自身の選び直しが行われているというのは、いつもカウンセリングを受けているようなものです。そうです。カウンセリングこそ、非日常の守られた自由な空間で、神はいなくとも、自分自身を選び直すことを行うことなのです。


  ≪約束≫に基づく遊びは、エリクソンが言う、「a sense of basic trust 根源的信頼感」を回復するセラピーなんですね。なぜって、≪約束≫をお互いに繰り返し守り合えば、自ずから、お互いを信頼することに繋がるからです。

 「a sense of basic trust 根源的信頼感」が豊かになるのか、残念ながら、a sense of basic mistrust  根源的不信感」が募ってしまうのかの発達危機は、赤ちゃんの時期の危機でしたね。この発達危機は、母親の献身によって、根源的信頼感が豊かになることで、本来乗り切るものなんですね。

 今日はその「母親の献身」について、少し考えておきたいと思います。

 赤ちゃんが泣くときって、おっぱいがほしかったり、オシメを取り換えてもらいたかったㇼですよね。もしかしたら、あやしてほしい場合もあるのかもしれません。最初は、赤ちゃんが泣いていても、その意味が、「おっぱい」なのか? 「オシメ」なのか? それとも、「あやしてね」なのか? がハッキリしませんでしょ。それでも毎日10回以上やってるうちに、この泣きは「おっぱい」だなぁ、今度は「オシメ」だなぁって、だんだん勘が働いてきましたでしょ。赤ちゃんは区別して泣いてるみたいなんですね。

 また、赤ちゃんがおっぱいを貰って、お尻もさっぱりしてたら、多くの時間はスヤスヤ寝ていますよね。寝ている時に、うっすらとほほ笑んで見える場合がありませんでしたか?「自発的微笑」と呼ばれるものですね。この「微笑」は、モナリザの微笑に擬えられるもので、見るものを魅了せずにはおかないものなんですね。思わす「可愛いぃ」って叫びたくなりますよね。赤ちゃんは寝てんだから、お母さんが「可愛いぃ」って叫んでも聴いてない、と思うかもしれませんよね。でもね、私はチャァーンと赤ちゃんは気づいていると思いますよ。

 あ母さんがこのように赤ちゃんに関わるのは、別に契約書を交わしたものでもなければ、口約束さえした訳じゃぁない。でもね、「母親の献身」と言うのは、最も誠実な約束を、忠実に履行したものではないでしょうか? その≪約束≫を毎日何十回と繰り返すんですね。1歳半までの間に、1日10回だとしても、およそ6,000回の献身をすることになります。このようにして、初めて、赤ちゃんは「根源的信頼感」を豊かにすることができるんですね。

 「≪約束≫に基づく遊び」は、この6,000回の「母親の献身」の代わりを、約100回で、ある程度リカバリーしようというものなんですね。ちょっと虫のいい関わりなんですね。でも、逆に申し上げれば、「お得コース」だともいえるかもしれませんね。

 ですから、「≪約束≫に基づく遊び」は、本来赤ちゃんの時にしたほうが良い「母親の献身」のごとく、母親が≪約束に忠実≫であることが、ことのエッセンスなんですね。

 ギリシャ語では、この≪忠実≫もね、赤ちゃんの≪信頼≫もね、共にピスティス πιστις。ですから、赤ちゃんの≪信頼≫はお母さんの≪約束に忠実≫がプレゼントするものだ、とハッキリわかります。 

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