エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「全身全霊で」、よろしくね。

2014-09-26 20:40:38 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 「天国の光」としか呼びようのない光の世界。

 p102第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 もう1つのポイントは、技術を学ぶ条件に関するものです。人は技術を、いわば、直接的に学ぶのではなく、間接的に学ばなくちゃいけない、ということです。つまり、人は技術そのものを学ぶ前に、実にたくさんの別のこと(しかも、直接関係ないんじゃないのかしら、というようなこと)を学ばなくっちゃならない、ということなんですね。大工の見習いでしたら、材木のおき方から学び始めますでしょ。ピアノを習いたての人なら、音階練習からやらなくちゃ、と言うわけです。『弓と禅』の修行を始めたら、呼吸から練習しなくちゃいけないでしょ。どんな技術でも、それを身に着けたかったら、全身全霊で体当たりしなくちゃね。少なくとも、全身全霊で関わる覚悟が必要です。自分自身の身体を、その技術を練習するための道具にしなくてはなりませんし、特に身に着けなくちゃならない、その特定の機能に関する限り、その技術に身体を合わ続けなくちゃいけません。人を大事にする技術に関しても、この技術を身に着けたいと心に決めた人なら、規律ある練習、集中力、待つことから、毎日の生活のあらゆる部面を通して、始めなくちゃぁ、ならないんですね。

 

 

 

 どんな技術でも、生半可な気持ちでは、身に付きませんよね。特に人を大事にする技術の場合は、余計にそうだと、私は思います。ですから、「全身全霊」といった、最近では、あまり使わない言葉で、あるいは、「本気になって」と言った感じで、学ぶ必要がどうしてもあるんですね。

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子どもの頃のセンス・オブ・ワンダーほど大事なものはございません 

2014-09-26 09:59:26 | アイデンティティの根源

 

 愛着障害について、「威圧的な指導は禁忌」とされていることが、アメリカ精神医学会で、愛着障害の子どもを臨床している人たちの間で共有されていると言います。傾聴に値しますよね。心理の人でもこの手の人がいるけれども、学校で「指導」と呼ばれているものを何度も目にした私にとって、その「指導」は「威圧的な指導」そのものなんですからね。やっぱり、一部の心理と、たくさんの教員は、メタノイアが必要なようですね。

 p349の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 こういった(子どもを「何か良いことを教える」ことで、自分が誇らしく、正しいことをしていると勘違いしている思慮のない大人の)態度と正反対なのが、もちろん、より現代的な、子どもの頃を感傷的に受け取る態度で、甘ったれで、やりたい放題と思われる状態を、全くもって無垢な状態とする態度なんですね。これらの見方では、特に、スピリチュアルな発達のために、聖書を学ぶことにユダヤの人たちが集中するという見方においては、イエスの言い伝えは、至極革命的に思われます。それでもね、子どもらしさをぶち壊すような大人の態度と、子どものような信頼に戻れることが、後回しになっている大人の態度について、イエスは触れているみたいでしょ。ですから、ここで言わんとすることは、子どもの頃の、不思議を感じる気持ちを大事にし、繰り返し体験する、ということです。つまり、子どもの「無垢の眼」と耳です。これと結び付けて、これらの言い伝えを考えてみてくださいね。イエスの言い伝えの中に、「見る眼のある眼」や「聴く耳のある耳」と言ったものがありますでしょ。この「眼」と「耳」に気付くことが、この譬えを心静かに悟るためには是非とも必要なんですよ。

 

 

 

 

 

 「口」と言ったら、人にあれこれ言うことにもなるのでしょう。愛着障害で禁忌な「威圧的な態度」といったら、大口や大声ですからね。 でもね、センス・オブ・ワンダー、まるで、レイチェル・カーソンですが、エリック・エリクソンも、子どもの頃に不思議を感じる気持ちが大事だというわけでしょ。特に、「眼」と「耳」。これは「不思議を感じ取る」器官ですよね。ですから、ここから「『心の声』を聴かせてね」「『声なき声』を見分ける眼をください」と言う祈りも出てくるわけです。

 私どもの仕事は、この祈りなくしては、一歩も前には進みません。

 

 

 

 

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