エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

子どもに、「よいことを教える」のは、何故だめなのか?

2014-09-24 19:13:20 | エリクソンの発達臨床心理

 

 日ごろから子どもに「よいことを教える」ことに熱心な人は、なぜいけないのか? 自分がいつもしていることを「否定」されてるようで、お腹立ちのことでしょうね。ごめんなさいね。真実ということは、一面では厳しさもありますからね。でもね、慈愛と配慮(摂理)に満ちているから安心です。

 なぜなら、子どもは教えられずとも「良いことを知っている」からですね。子どもは、おのずから、「善い方向」にオリエンテーションされてんです。それは、子どもの遊びを、「よーく見ている」と分かります。自分に何か心理的課題があるときには、誰からも、何も教えられていないのに、その心理的課題を解決するような遊びをしていることがハッキリわかります。その事実を、何度目にしても、繰り返し体験しても、不思議でなりませんよ。でもね、心理的課題をいやす方向に、子どもの心が向いていることだけは確かです。

 また、人に親切にすることはいいことで、意地悪やいじめはダメだ、ということは道徳で習わなくたって、子どもははっきり知ってる、ということです。足りないのは、その知識ではなくて、「正しいこと」を実践している大人のモデルと、「正しいこと」を実践するためエネルギー。口先で「正しいこと」をいう人はゴマンと、日本にはいます。でもね、日本人は自分が利益になるときに「正しいこと」をするんであって、「正しいことが損」となれば、俄然やらなくなる人種です。「正しいこと」よりも、「空気」を重んじるのが日本人の特色ですから、「空気が汚れ」たり、「空気が悪に染まる」ことになれば、「汚いこと」でも、「悪いこと」でも平気なのが日本人の特色なんですね。ナショナリストに怒られちゃうかしらね。でも、≪超越≫を知らずに、≪いまここ≫での利益が最も大事なんですから、「汚いこと」や「悪いこと」でも、利益に結びついてりゃぁ、「会社のためだ、仕方がない」「上があぁ言っている以上、やむを得ない」てな口実を立てて、その「汚いこと」や「悪いこと」をセッセとやるんですね。その証拠は、日本軍の数々の所業ですし、戦争に向かった時の、時の権力の心理と行動ですし、今の日本のいたるところに広がっている、目に余るほどの「ウソとゴマカシ」を指摘すれば、足りるでしょう。ですから、「正しいこと」は、大人よりも子どものほうがよっぽど知っています。

 ただ、マナーに関することは、子どもはわかりません。これはマナーを外国人が分からないことと同じなんですね。マナーは社会によって違います。たとえば、トイレ。日本では、トイレは入っているときも、入っていない時も、ドアを閉めておくのがいいでしょ。でもね、アメリカでは、トイレは入っているときはドアを閉めますけど、入っていないときは、開けとくのが良い。それは「ドアが開いている」≒「トイレを今すぐ使えますよ」というメッセージになるからです。そういうマナーは社会が変わると違いますから、それは教える必要があります。でもそれは「絶対に正しい」ことではなくて、社会によって変わる「相対的に正しい」ことに過ぎない。すると、おのずから、その伝え方にも工夫が必要でしょう。

 このように、子どもには、「正しいことを教える」必要は全くありません。むしろ、大人がやるべきなのは、子どもをありのままに肯定することです。それは何も難しいことを申し上げているんじゃぁ、ありませんよ。子どもを肯定していることを伝える唯一の方法は、≪やり取りのある関係≫だけなんですね。ですから、子どもに「正しいことをしてもらおう」となったら、「正しいことを教える」のじゃぁなくて、≪やり取りのある関係≫をする時間を、定期的に設けることなんですね。日本では、家庭でも学校でも、逆をやってますからね。

 ですから、今日からあなたも、定期的に、できれば、子供さんと≪約束≫して、その≪約束≫にあなたが忠実に従って、≪やり取りのある関係≫をやる時間を持ってくださいね。お願いしましたよ。

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子どもに「良いことを教えよう」としているあなた、悔い改めてくださいね!

2014-09-24 17:29:49 | アイデンティティの根源

 

 子どもの頃って、そんなに光っていたかしらね。私の場合は、真黒だったんだけれどもね。それでも光るのかしらね?

 p349の4行目途中から。

 

 

 

 

 

この言い伝えに私どもが驚かされるのは、現代においては、私どもは子供時代を発見した者だからです。すなわち、私どもは、子どもを守る者だというわけですね。何から守るかと言ったら、それは、いつの時代にもいる、子どもに『何か良いことを教えよう』とする輩からですね。この手の輩は、子どもを「何か良いことを教える」ことで、自分が誇らしく、正しいことをしていると勘違いしている思慮のない大人です。こういう連中は、子どもは、根っから弱く、悪く、厳しくしないとダメな分からんチンで、あるいは殺されても仕方がない消耗品としてしか、お取扱いできないんですね。

 

 

 

 

 

 エリクソンは大人に対して厳しすぎますよね。「殺されても仕方がない消耗品としてしか、お取扱いできない」と大人のことを「こき下ろしている」からです。でもね、エリクソンは、たくさんの子どもと、子どものころに心配りしながら、たくさんの大人の臨床をしてきた人ですよね。その人が子どもに向かい合う大人に対して、言っているんですよね。ですから、子どもを消耗品扱いするような大人が実際にいたんです。これは、今の日本に暮らしている私どもにも、心当たりがあることじゃぁ、ないですか?それは、虐待やネグレクトなんかをしてる大人だけでもないんですね。一人の子どもをお気に入りにして、他の子どもを励ますつもりで、比較する大人たちですね。この人たちもやっぱり、人は誰でも地球よりも重たい価値があることを忘れてるでしょ。比較された人格は、人格であることを止めて、消耗品になっちゃいますからね。

 ここの件は、臨床家エリクソンの面目躍如たるところでしょうね。何か「良いことを教えよう」とする大人、やっぱり日本では、教員に多い人種です。日本の学校が病んでいる一つは、この手の「良いことを教えよう」とする教員が多いからでしょう。子どもが家庭で傷ついている場合が多いのに、学校までもが、子どもを、「良いことを教える」ことを通して、傷つけているんですからね。勘違いも甚だしい!! 

 日本の学校の教員や管理職は、頭を丸める必要はありませんが、メタノイアが必要なことだけは、確かでしょうね。

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熱心ささえあれば、人を大事にする技術は、簡単に身に付きまっせ!

2014-09-24 08:27:31 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 チャップリンの映画ではないけれども、現代人は人間までも機械の歯車みたいになっちっゃて、「速い方が良い」と言う目で見られがち。クワバラクワバラ!

 p101の下から4行目から。

 

 

 

 

 

 最後になりますが、1つの技術を極めようとする条件は、1つの技術を極めようとする「熱心な関心」ということになります。その技術に対して、さほど熱心な関心がなければ、いくら年季奉公を積んでも、その技術を学ぶことなどできません。熱心な関心がない者は、その技術のよき愛好家ではあっても、決してその技術を身に着けることなどできません。この熱心さという条件は、他の技術同様、人を大事にする技術にも不可欠です。でもね、技術を身に着ける人に対して、技術の愛好家の割合が、他の技術の場合よりも、人を大事にする技術では、愛好家の割合がわりに大きいようです。

 

 

 

 

 人を大事にする技術に介しても、玄人と玄人肌の素人の違いが、それほどない、と言うのがフロムの主張のようですね。ということは、玄人肌の素人でも、熱心ささえあれば、割と簡単に、人を大事にする技術を身に着けることができる、と言うわけでしょう。これはフロム流の、エンパワーメント、力づけ、励ましなんでしょうね。

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