エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

淨と不浄を区別することを、自覚的な止めましょう。

2014-09-14 11:55:58 | アイデンティティの根源

 

 

 私どもの心から、意識がないと、無意識裡にありとあらゆるおぞましきものが出てきます。

 p346冒頭から。

 

 

 

 

 

 

 私どもに批判様式があるとしても、内側から湧き出てくる邪悪な諸々の正確な一覧表を、本物として引き受けることはないだろうと思います。もっとも、イドの存在を信頼している人ならば、その邪悪な諸々が確かにあると認めるはずですが。しかし、体の中に入るものの運命に対する、イエスの単純明快な主張(ルターは、口に入るものは自然な経路をたどるとします)に関して、ペリンは、この箇所が本物であり、実際問題、イエスの伝統すべての中で、最も革新的な言葉だ、と宣言します。宗教指導者のユダヤ教にも、党派的なユダヤ教にも「平行記事はありません」。これは、浄と不浄を分ける、人間性に深く沁み付いた区別を取り止めにしているように思われます。この区別によって、病的な恐怖症や強迫的なきれい好きを、日々の儀式や、週一回の儀式において、もたらします。その時、これらの病的な恐怖症や強迫的な潔癖症は、パリサイ派の中で、ギリシャ道徳がユダヤ人の生活に侵入することを軽蔑することによって、強められます。その時までに、もちろん、イエスは典型的では必ずしもない日常生活を具体的に示しただけではなく、誰と一緒に食事をするのかを選択する自由を具体的に示しました。しかし、人の「心」を内なる大鍋と呼ぶとき、イエスは、激しい葛藤がある内なる場を指摘したのは確かです。この激しい葛藤から、数限りない誘惑が現れるんですね。これらの誘惑のゆえに、≪私≫という感じは、痛ましくも元気をなくし、したがって、≪私≫という感じは、内なる混沌、すなわち、イドを経験します。しかしながら、≪私≫は、イエスがここで求めていることを根源的に自覚することによって、はじめて、その混沌をいくらかでも対処することが可能になるんですね。

 

 

 

 

 淨と不浄を区別すると、不安神経症や強迫神経症になりやすい。

 ではどうすれはいいのでしょうか? それは、イエスが教えて下すっているように、「食べ物なら、何を食べてもOK」という感じが大切なんですね。すなわち、浄と不浄を分ける、人間性に深く沁み付いた区別を止める、ということです。淨と不浄を分けるから、「人間を上下2つに分けるウソ」が生じるんですね。逆に申し上げれば、浄と不浄を分ける、人間性に深く沁み付いた区別を止めれば、おのずから、「人間皆兄弟」、「みんな違って、みんないい」ということになるんです。

 したがって、私どもに必要なのは、浄と不浄を分ける、人間性に深く沁み付いた区別を、意識的に止めにする、その「根源的自覚」ですね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

≪約束≫

2014-09-14 06:00:10 | エリクソンの発達臨床心理


 

巨大な遊び場 自主独立の人になる場

2013-09-14 04:11:40 | エリクソンの発達臨床心理

アメリカの国を確かにする道(アイデンティティ)は、対立に和解をもたらすことから生じるというのは、実の希望に溢れています。今日は、その続きです。


 

 なぜ、≪約束≫なんでしょうか?

 その一部は、≪約束≫を守り合えば、どんな関係にあった人でも、お互いに相手を信頼出来るようになれますし、自分も信頼されてうれしい感じがするからですね。これについてはすでに触れました。しかし、それだけではありません。

 今日は、じっくりと≪約束≫について考えてみたいと思います。それは、今の日本がこの≪約束≫が枯渇した、≪ウソとゴマカシ≫の瀰漫した社会だからでもあります。

 ≪約束≫とはどういうものでしょうか? それは2人の人が何かを≪話し言葉≫を介して、合意して、≪イメージ(見通し)≫を共有することですよね。たとえば、明日の正午に、国立駅の改札(一箇所しかない)で落ち合って、白十字で食事を一緒にしましょう、ということが≪約束≫の中身として合意されたとしましょう。すると、⑴時間:明日の正午、⑵場所:国立駅の改札と白十字、⑶中身:食事、ということが3点セットですね。この3つのどの一つでも欠けてしまったら、それはもうここで申し上げる≪約束≫とは呼べません。たとえば、いつかあなたにダイヤモンドをプレゼントしましょう、という類は、ここでは≪約束≫とは言わないのですね。ここまでキッパリ決めるかと言えば、それはお互いが≪約束に忠実≫であることがハッキリさせるためなんですね。

 それと同時に、この≪約束≫が成立したときには、2人の間で≪イメージ(見通し)≫のすり合わせが慎重に行われていますよね。もしも、この≪イメージ(見通し)≫にずれがありますと、これはもう≪約束≫どころではなくなっちゃいますからね。そんな「約束」をしたら、「約束が違う」とどちらか、あるいは、2人とも言うことになるに違いありません。

 そして、その≪イメージ≫のすり合わせを2人が上手にするためには、その≪イメージ≫をなるべく≪忠実に≫、≪話し言葉≫にしませんと、微妙な≪イメージ(見通し)≫を2人が一致させ、合意させることは難しいでしょう。つまり、2人が合意するためには、すなわち、≪イメージ(見通し)≫を≪共に見る≫ためには、≪イメージ≫と≪話し言葉≫の一致が必要になります。

 でも、≪約束≫は「言った」だけでは、ナンセンス。実行して初めて意味があるものになるでしょう。2人が≪約束≫を≪忠実に≫守るとき、1つの≪出来事≫を共にすることになりますね。「言った」だけの場合は、たとえば、「お母さんは、≪言ってること≫と≪やってること≫がちかう!」などと、お子さんたちに責められる羽目になりますでしょ。ですから、ここでも、≪話し言葉≫と≪出来事≫の一致が必要になります。

 このように、≪約束≫は、≪イメージ(見通し)≫、≪話し言葉≫、≪出来事≫を一致させたものなんですね。

 しかし、それだけではないんですよね。この≪約束≫を繰り返すと、2人の人が一致することになりますでしょ。

 さらには、この≪約束≫のおかげで、こころ=≪私≫がまとまり(whole)が出てきますよね。そうすると、こころ=≪私≫は、健康で(healthy)で、一貫性があり(holy)、自他を癒す(heal)ものとなるんですね。この健康(healthy)も、この一貫性があること(holy)も、また、自他を癒すこと(heal)も、すべてまとまり(whole)の属性ですし、その派生語であることに注意していただけたらと思います。

 このようのして、こころ=≪私≫は確かなものになるんですね。それをエリクソンは a sense of identity アイデンティティと呼んだんですよね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする