私どもの心から、意識がないと、無意識裡にありとあらゆるおぞましきものが出てきます。
p346冒頭から。
私どもに批判様式があるとしても、内側から湧き出てくる邪悪な諸々の正確な一覧表を、本物として引き受けることはないだろうと思います。もっとも、イドの存在を信頼している人ならば、その邪悪な諸々が確かにあると認めるはずですが。しかし、体の中に入るものの運命に対する、イエスの単純明快な主張(ルターは、口に入るものは自然な経路をたどるとします)に関して、ペリンは、この箇所が本物であり、実際問題、イエスの伝統すべての中で、最も革新的な言葉だ、と宣言します。宗教指導者のユダヤ教にも、党派的なユダヤ教にも「平行記事はありません」。これは、浄と不浄を分ける、人間性に深く沁み付いた区別を取り止めにしているように思われます。この区別によって、病的な恐怖症や強迫的なきれい好きを、日々の儀式や、週一回の儀式において、もたらします。その時、これらの病的な恐怖症や強迫的な潔癖症は、パリサイ派の中で、ギリシャ道徳がユダヤ人の生活に侵入することを軽蔑することによって、強められます。その時までに、もちろん、イエスは典型的では必ずしもない日常生活を具体的に示しただけではなく、誰と一緒に食事をするのかを選択する自由を具体的に示しました。しかし、人の「心」を内なる大鍋と呼ぶとき、イエスは、激しい葛藤がある内なる場を指摘したのは確かです。この激しい葛藤から、数限りない誘惑が現れるんですね。これらの誘惑のゆえに、≪私≫という感じは、痛ましくも元気をなくし、したがって、≪私≫という感じは、内なる混沌、すなわち、イドを経験します。しかしながら、≪私≫は、イエスがここで求めていることを根源的に自覚することによって、はじめて、その混沌をいくらかでも対処することが可能になるんですね。
淨と不浄を区別すると、不安神経症や強迫神経症になりやすい。
ではどうすれはいいのでしょうか? それは、イエスが教えて下すっているように、「食べ物なら、何を食べてもOK」という感じが大切なんですね。すなわち、浄と不浄を分ける、人間性に深く沁み付いた区別を止める、ということです。淨と不浄を分けるから、「人間を上下2つに分けるウソ」が生じるんですね。逆に申し上げれば、浄と不浄を分ける、人間性に深く沁み付いた区別を止めれば、おのずから、「人間皆兄弟」、「みんな違って、みんないい」ということになるんです。
したがって、私どもに必要なのは、浄と不浄を分ける、人間性に深く沁み付いた区別を、意識的に止めにする、その「根源的自覚」ですね。