エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪いまここ≫の不思議

2014-09-07 17:26:03 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 正しい思想は科学ももらたしました。

 p74短い第4パラグラフ。

 

 

 

 

 

 この神の≪真の関係≫に対する、2つの立場の違いの結果は、すでに詳しく申し上げましたね。短く要約すればいいでしょう。

 支配的な西洋の宗教システムにおいては、神の≪真の関係≫は本質的に、神を信頼することと同様、神が≪いまここ≫のましますこと、神が≪義をもらたしてくださること≫と、神が≪大事にしてくださること≫を信頼することです。東洋の宗教や神秘思想では、神の≪真の関係≫は、神と一体になるという強烈な感情体験です。それは、あらゆる生活場面において、この神の≪真の関係≫を表明することと分けることができません。最も根源的な様式は、マイスター・エックハルトが、これを目標にしています。「したがって、もし、私がかえられて神に立ち返れば、神は私を神ご自身と一体にしてくださる。その時、≪いまここ≫に生きておられる神によって、神と私との間に区別はなくなりますし…。自分たちは神を見るようになるとか、自分たちは神をまるであそこにおられる、ここにおられる、かのように見るけれども、ほんとうはそうではないだとか、イメージする人もいます。神と私。2人は1体。神を知ることによって、私は神を私のところに連れてきます。神を大事にすることによって、私は神を理解します。

 

 

 

 

 

 神様と一体になるのは、恐ろしくも、悦びの絶頂に様な体験でしょう。神秘的な体験でしょう。エリクソンの部分と同様、≪いまここ≫にまします神を体験することになるでしょうね。

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mindfulness 命の核心

2014-09-07 15:23:05 | アイデンティティの根源

 

 今はもう、少し古い感じのする「史的イエス」のテーマ。イエスの言動などが歴史的事実かどうかを判断する基準が2つあったと言います。

 p343の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 イエスが癒しを行う様式は、たくさんの言い伝えのほんの一握りの様式でしかないのは明らかなのですが、そのすべては、根本的な方向性の点で一貫しています。(後ほどさらに詳しくお話しする予定ですが、)その方向性とは、眼の前の現在にこそ、ひとりびとりの人が生かされている、という、≪命の核心≫があることを強調することにあります。≪命の核心≫は、旧来の約束に頼ったり、広大無辺な自然を恐れたりすることにはないのです。もしも私がこのことと「≪私≫の感性」を関係付けるのなら、精神分析家にとっては、単純化のし過ぎであるようでしょうし、「上っ面」な感じであることは確かでしょう。しかし、すでに申し上げているように、イキイキ、ピチピチ生きるこは(自分が主人公であり、自分に一貫性がありまとまっていることと共に)、あるいは、とにかく、自分が生かされていないようには感じないことは(端っこの存在であったりせず、バラバラの存在でもないことと共に)、「≪私≫の感性」一番本質的な性質の一つです。弱くされたところに踏みとどまっているもの能動的に信頼している傾向イエスが強調するのは、単に健康を失った人に対する、治療的な「技術」であるばかりではなくて、当時はユダヤ民族の運命の「主人公」である感じが弱められているに違いない、傍らにいる人たちに対する、あるいは、主人公になると約束する約束を信頼することがブレている、傍らにいる人たちに対する、1つの倫理的メッセージでもあるんですね。

 

 

 

 

 ≪私≫がイキイキするのは、≪いまここ≫にこそ、そのチャンスがあることに気づいた時なんですね。それが、mindfulnessでもあります。

 

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狂気のパラダイス

2014-09-07 06:00:28 | エリクソンの発達臨床心理

オレンジビーチ、ペリリュー


全人類を認める意識

2013-09-07 04:29:01 | エリクソンの発達臨床心理

 世間の常識・世界観は、政治指導者たちと一般民衆が「『共に見る』ヴィジョン」です。一般民衆は、その世間の常識を分かち合わなければ、自分が世界の中心にいることも実感できないし、行動の自由もありません。そうなれば、まことに、切ない、不自由な生活を強いられることになります。また、政治指導者たちは世間の常識を用いて、この世の中での「まっとうな生き方」を示すと同時に、自分を指導者に選んでくれたことを通して、一般民衆も「選ばれている人間」なのだという感じを持ってもらうのでした。この世間の常識は、儀式化において、欠くことのできない最も重要なもの・一番なのに、他方で、「千年王国」や「大東亜共栄圏」「○○○ミクス」などというバカげた、時として幻想によって一般民衆を残虐的に振り回し、踏みにじる結果ももたらす、非常にアンビバレントな存在です。


 ペリリュー。とっても美しい南国の島。パラオのコロール島からスピードボードで1時間ほど。桟橋に付くと、すぐに滑走路後を通ってさらに奥へ。大きな池のようなジャンピング・プールに飛び込んでみましたが、気持ちよかったですね。オレンジビーチは、「血で真っ赤になったから、この名がある」と教えられたものの、誰もいない静かな、あまりにもきれいなビーチでした。また、島で一番高い小山にも登りましたが、ペリリューが一面の森におおわれて、まぶしく太陽を反射している感じで、南国そのものの解放感に溢れてしました。ただ、森を進めば、旧日本軍の戦車や大砲などが残り、慰霊塔がたくさんあった記憶があります。

 NHKの地上波とBSで、太平洋線末期のペリリューのおぞましい戦いがあったことを、今回初めて知りました。南国の解放感のためか、私の想像力の貧困のためか、オレンジビーチの名の由来を聞き、戦車や大砲を見ても、それほどの「狂気の戦い」があったことなど、全く想像できませんでした。

 この番組によれば、日本軍が「バンザイ突撃」と呼ばれた、人命を極端に軽視した戦術を放棄し、「持久戦」を遣り出した、最初の戦場だった、とのことです。米軍も、「バンザイ突撃」を想定、「3日で落ちる」と皆が思っていたようです。実際は2か月以上の戦いが続いたそうです。しかし、その戦いは恐怖が恐怖を呼び、憎悪が憎悪を生み出す文字通り「狂気の戦い」に陥ったそうです。その昼夜に渉る異常な緊張のため、自殺するもの、正気を失うものが、出たそうです。そして、そこにいるものは、「なんのために戦っているのか」も分からないままに、狂気に満ちた殺し合いをすることとなります。それは「感覚のマヒ」と「人間性の喪失」をもたらすものであった、と正直に生き残りの老人は語ります。

 ペリリュー。それは文字通りのパラダイス。しかし、そこには地獄の狂気が支配した時間がかつてあったのでした。

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