「良い子」を演じていること、今日、春木豊先生の「愛着障害」の概説を読んでましたら、compulsive conformity、強迫的に「良い子」を演じる場合があるとされていて、これだなぁと感じました。
p350第4章に入ります。
「≪私≫という感じ」の次元を第1に明らかにする言い伝えを離れて、世代間の関わりに関する別の言い伝えに、視点を移すと、私どもは、イエスのもう1つの芸術形式、すなわち、譬えに関する最も短い言い伝えを検討することになります。ここで語り部は、「今どきの大人の世代は何に『たとえ』られますか?」と、質問することで、譬えの性質について、つい本音をこぼしています。そして、ガリラヤのとある町で、とある日にあった、具体的場面を選んでいます。
この場面は、マタイによる福音書第11章16節~19節なんですが、たとえ話はたとえる事に特色がありますよね。ここでは、この大人の世代は、子どもが遊び相手になることを求めているのに、その求めに応ずることもなく、イエスのやることなすこと非難した、と言うわけです。それは、当時、善悪を判断する基準である「律法」に照らして、イエスとその弟子たちが言ってることややっていることが、非難に値する、とその大人たちは考えたからです。根拠なく非難しているわけじゃぁない。
でもね、だからって、その大人たちが「良い」と言っているわけでもない。むしろ逆でしょう。人間の方が、「律法」よりも大事だ、と言う根源的な視点を、この大人たちは見失ってしまっているからです。
ここも、非常に現代的だと言わざるを得ませんね。