エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

非難するにも根拠あり、に対してイエスは?

2014-09-29 05:53:09 | アイデンティティの根源

 

 「良い子」を演じていること、今日、春木豊先生の「愛着障害」の概説を読んでましたら、compulsive conformity、強迫的に「良い子」を演じる場合があるとされていて、これだなぁと感じました。

 p350第4章に入ります。

 

 

 

 

 

 「≪私≫という感じ」の次元を第1に明らかにする言い伝えを離れて、世代間の関わりに関する別の言い伝えに、視点を移すと、私どもは、イエスのもう1つの芸術形式、すなわち、譬えに関する最も短い言い伝えを検討することになります。ここで語り部は、「今どきの大人の世代は何に『たとえ』られますか?」と、質問することで、譬えの性質について、つい本音をこぼしています。そして、ガリラヤのとある町で、とある日にあった、具体的場面を選んでいます。

 

 

 

 

 

 この場面は、マタイによる福音書第11章16節~19節なんですが、たとえ話はたとえる事に特色がありますよね。ここでは、この大人の世代は、子どもが遊び相手になることを求めているのに、その求めに応ずることもなく、イエスのやることなすこと非難した、と言うわけです。それは、当時、善悪を判断する基準である「律法」に照らして、イエスとその弟子たちが言ってることややっていることが、非難に値する、とその大人たちは考えたからです。根拠なく非難しているわけじゃぁない。

 でもね、だからって、その大人たちが「良い」と言っているわけでもない。むしろ逆でしょう。人間の方が、「律法」よりも大事だ、と言う根源的な視点を、この大人たちは見失ってしまっているからです。

 ここも、非常に現代的だと言わざるを得ませんね。

 

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死者との対話 死者からの教え

2014-09-28 12:30:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
儀式化が失われる程、暴力が幅を利かす
  人生にヴィジョン、すなわち、ハッキリした目的があれば、自分が自分の人生の主人公であり、自分の人生にはっきりした方向性を感じて、生きるに値する確かな価値があ...
 

 メメント・モリ。それは自分の死を忘れないことですね。でもね、それは簡単なことじゃない。それに比べたら、亡くなってしまった大事な人を思うことは、はるかに簡単なことじゃないかしらね。

 私の父親は自死。鉄道自殺でした。私が早稲田を卒業して、福祉の道に入った時でした。うつ病だった、と今なら分かります。その父とは、進路で葛藤がありましたけれども、小さい頃は動物園に連れて行ってくれたり、キャッチボールをしてくれたりした、心優しい父親でした。谷保天神のお祭りで、ひょっとこ踊りを踊るのが好きでしたが、それは、私が面接場面で「ひょっとこ踊り」をすることに通じているのかもしれませんね。

 その父親とは、死んでからも、折に着け、「対話」をしています。それは特別に墓参りをした時だけに限らないんですね。むしろ、墓参の時じゃない時の対話の方が多い。それは単なる日常の “報告” と言うよりも、生前の父親が言っていたことが「その通りになりました」、「言うこと聞いてりゃぁ良かったのかな」だとか、「別の生き方もあったよね」だとか…。それでも、死んでしまった父親は「そら見たことか」「言う通りにしときゃよかったんべ」などと、生前だったらいいそうなことを申しません。ただ黙って聞いている感じで、その向こうで、静かに頷いてる感じなんですね。まるでカウンセリングでしょ。

 昨年度に立教の鈴木範久先生が、教育テレビで「道をひらく ~内村鑑三のことば」を6回に渡って教えてくださいました。その5回目が「死者との対話」。内村鑑三不敬事件で職を失う最中で、まず2番目の奥さんの加寿子さんを亡くします。また20年後、3番目の奥さんとの間に生まれた長女のルツ子さんを16,7才の若さでなくします。内村鑑三もその近くに死を何度も体験した人の様ですね。その内村は、死者との関わりは墓参ではないんですね。「見舞う」と言っていたと言います。ですから、内村も死者と対話をしていたことが分かります。

 また関東大震災で亡くなった人との対話は、東日本大震災を体験した私どものにとって、切実なものでしょう。東京、女子学院で行われた追悼会で、内村は次のように述べたと言います。

「『貴女(あなた)は死んでお気の毒であります、私は尚ほ生き居て幸福であります』と言ひ得ます乎。其反対が事実であると信じます。死せる彼等が生ける私供を支配し、導き、教へ、慰むるのであります。実(まこと)に私供が彼等を悼むのではありません、彼等が私供を悼むのであります。彼等は死して其(その)権威の位に即(つ)いたのでありまして、私供は生きて、其命令に従ふのであります。追悼会は実は死者生者の交通会であります。そして、此(この)会合に於て、生者は死者を迎へて其指導教訓に与(あずか)るのであります。」

 鈴木範久先生の「道を開く ~内村鑑三のことば」来月から再放送されます。皆さんもぜひ。

 

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規律は強制できない!

2014-09-28 10:31:24 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 信頼をぶち壊しにするのは、「威圧的な指導」と「子どもの素直さに付け込み、利用する指導」ということですね。たくさんの小学校教員が実際やっちゃってる方法です。その結果は、エリクソンが「おっしゃる通り」です。文化差はないんですね。人間の本性は、洋の東西に関係ないんですね。

 p103の9行目途中から。

 

 

 

 

 

しかし、規律は自分の外側から課されたルールのように実行するべきじゃぁない、自分自身の意思を示すものとして実践すべし、というのも、物の道理。そうなりゃぁ、規律も喜びですしね、規律を守らないとやらなくなっちゃうような行動に、ゆったりと自分を慣らしていくんですね。あらゆる規律(と、人格からほとばしり出るあらゆる力)という名の、西洋の概念にとって、ひとつ不幸なのは、規律を実践することが、なんとなく痛々しく、痛みがある時だけ「うまくできた」と考えられている点です。東洋はずっと昔から、人間にとって(体にも良く、魂にも良いもの)善とは、人々が悦んでするものでなくちゃぁと考えられてきましたし、たとえはじめは抵抗されても、その抵抗は自ずから克服されるはずだ、と考えられてきました。

 

 

 

 

 規律は、人間らしい暮らしをしたいと願えば、自ずから生じるものですよね。それは自分の願いと結びつくときに、初めて「自分の意思に従った」規律になる訳でしょ。外側から宛がわれた規律など、規律じゃない。規律はそうい意味では、決して強制できないものじゃないかしらね。

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≪信頼≫を打つ壊しにするもの

2014-09-28 06:09:42 | アイデンティティの根源

 

 大人の成熟って、いいですね。でも「物事を見抜く洞察力」が最初に来るのが更にいい。まるで、丸山眞男教授のような「物事を見抜く洞察力」を、身に着けたいものですね。それは、「他者感覚を磨く」ことにも通じているはずでしょ。ですから、力のあるものの「ウソとゴマカシ」を見抜くと同時に、弱い立場の人ひとりびとりの「声なき声」を見抜く力でもありますよね。

 p350の1行目途中から。

 

 

 

 

 

「本能的な従順さ」に関して申し上げれば、これも、大人の側の、子どものポテンシャルを引き出す者としての本能と、やり取りをすることを求めています。しかし、これは今でも重要な点ですし、イエスの時代にも重要な点でした。単に従うことを強制したり、子どもが本来同調しやすい傾向にあることに心配りをしなかったりすれば、反抗的に言うことを聞かないことになるか、たくさんの子どもが強迫的に「良い子」を演じるようになるか、のどちらかの心向きになることは、ほぼ間違いないでしょう。そういった心向きは、結局は、細々とした細則に強迫的に従う儀式主義を他の人と一緒にやる羽目になりがちです。これはイエスが信頼にとって危険なこととして繰り返し繰り返し言っていたことです。

 

 

 

 

 

 ここはまるで日本のことが言われているみたいでしょ。今の日本の小学校では、エリクソンのご指摘そのままなんですからね。たいていが、「大人の言うことを聞かない子」か「良い子」を演じる子なんですよね。「大人の言うことを聞かない子」の中では、暴力的な子だとか、クラスから出て行ってしまう子だとかは。少数派ですね。「大人の言うことを聞かない子」の大多数は、大人が見ている時には、勉強したり、ルールに従ったりしてはいるけれども、大人の眼が離れている間は、勉強もルールも「関係ないや」という子どもです。またこのタイプは、限りなく「良い子」を演じている子に近いんですよね。「良い子」を演じている子どもでも、大人が見ていない時まで、「良い子」を演じているのは少数派になってしまいましたからね。昔はこのタイプの方が多かったように思うんですけどね。子どもに対する負荷が掛かりすぎてんですね。大人が見てない時まで、「良い子」を演じているゆとりが、子どもにもやっぱりない。大人がゆとりを失っている証拠です。大人に≪信頼≫がないから、子どもにいっそう≪信頼≫がなくなっちゃう。

 大人もそうでしょ。同調主義の日本人。組織や権力に「NO」とは言えない。自分が損しちゃうもんね。大人が、上司や権力が見ている時に「良い子」を演じているわけですから。見てない時には、「旅の恥は掻き捨て」ですし、組織や上司が「やれ」と言えば、「ウソとゴマカシ」を平気でやらかす。そんなんじゃぁ、子どもの良い示しになるはずがないばかりか、「悪しきモデル」でしょ。

 ですから、宮田光雄先生の『われ反抗す、ゆえにわれら在り――カミュ『ペスト』を読む (岩波ブックレット) 』が重要ですね。

 

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日常と非日常

2014-09-27 13:28:17 | エリクソンの発達臨床心理

 

 日常生活を送るうえで、非日常の時間を持つことは大事ですよね。毎日の生活の中で、自分が好きなことをする時間を持つこと、たとえば、読書だったり、音楽だったり、ランニングだったり、自分の好きなことに夢中になって、しばし、無我の境地かは知りませんけれども、≪楽しく陽気≫な時間を過ごすことも、日常生活のルーティーンをする上でも、役立つことでしょうね。

 旅もそういうものでしょう。旅は英語ではtravelでしょ。諸説あるようですが、この旅travelは、厄介事troubleと、語源が一緒だと言います。今回も、貧乏旅行ならではの困難がずいぶんありました。レンタカーを借りようとしたときには、保険が予定よりも高くて、予算オーバーで、どうしようかと思っていたら、レンタカーやさんのキューさんとひろ子さんが助けてくれたり、バスに乗って20ドル紙幣しかない時に、バスに同乗していた、知らないおじさんが、1ドル札を含めて20ドル分の両替を買って出てくれたり…。それでも、「天国の光」としか呼べないような風景に出合うと、心洗われる思いをしたことも確かですね。こんな風景に出合うと、自分の存在がいかにチッポケかが、分かります。また、バーンズ・アンド・ノーブル書店で買った何冊かの本から、私が日ごろやっている仕事に「YES」を貰ったみたいで嬉しかった、と言うのもまた事実。「チッポケながら、日々の仕事にまた≪楽しく陽気に≫邁進しましょう」と思いましたね。

 非日常を体験すると、自分の生活を、自分の仕事を、自分の人間関係を、いつもとは違う新鮮な視線から見直すことができますね。今回の旅も、そのような恵みに満ちていたなぁ、と感謝したい気持ちですね。

 

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