脳脊髄液減少症患者のつぶやき、「とりあえず、生きてみよか・・・。」

過去から現在へ、脳脊髄液減少症、体験克服記。

NHKスペシャル 阿部元首相銃撃事件

2022年10月24日 | 2022年9月からのつぶやき
NHKスペシャルの、
「阿部元首相銃撃事件と旧統一教会 〜真相と波紋を追う〜」を見て、

犯人の気持ちと重なってしまった部分があって驚いた。

もちろん、犯人のやった事は悪だし、擁護しない。
何があっても許されない。

けれど、犯行を起こす前に書かれたそれは、私の気持ちとほぼ同じだ。

それは、
2021年2月28日の容疑者の書き込み。

兄を自殺で失い、母親の献金で生活基盤を失い、貧困の中で苦しんでいた犯人が、
震災の時に感じた気持ちを、事件を起こす前にツイートしていた次の言葉だ。


〜☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆〜
「正直に言うと震災の時すらそう思った。肉親を失い、生活基盤を失い病むのは同じでも
これだけ報道され共有され
多くを語らずとも理解され
支援される可能性がある。
なんて恵まれているのだろう、そう思った。

言っちゃ何だか、オレの10代後半から20代初期なんかこれ以下だよ。
社会問題として支援が呼び掛けられる様は羨ましいとすら思う。」

〜☆☆☆☆☆☆☆☆☆

の部分の一部。

「社会問題として支援が呼びかけられる様は羨ましいとさえ思う。」
これだけ報道され共有され
多くを語らずとも理解され
支援される可能性がある。
なんて恵まれているのだろう、そう思った。」
の部分。

その部分をNHKスペシャルのナレーションは、
「無関係の被災者さえ羨むような投稿が書き込まれていました。」と説明した。

私にはそのナレーションが
「無関係な被災者を羨むなんて!なぜ?なんでそんな事考えるの?」という疑問と批判がこめられているように感じた。

当たり前だ。
そんな事、普通の人は考えないのだから。

暖かい家にいて、テレビを見て、被災者の状況を知った者が、「羨ましい」なんて、そんな事を考えるなんて、ありえないし、あまりにも被災者に失礼な話なのだから。

その部分だけを切り抜いて見ればありえない話だから、

普通の人には
「無関係の被災者まで羨む事」が異常で、理解できないから、
こんなナレーションになるのだろう。

だけど、私には「震災の被災者が自分とは無関係」とは思えなかった。

「心身共に健康に平和に暮らしていたのに、
それがある日突然、
自分には罪のない事で、
支援が必要な状態に追い込まれる。」という状況は、

震災の被災者も、
交通事故の被害者も同じだと思うから。

けれど、そこから先が、
「多くを語らずとも、報道され、社会に支援される可能性がある」人と、

そうでない人に分かれる。

報道されず、社会に苦しみが共有されず、支援されない人は、

報道され、多くを語らずとも社会に共有され、支援されている人を、羨ましく思う。

そういう事。

だから、私は、
社会に理解されて支援してもらっている事を羨むその気持ちがわかる。

私も「震災の被災者が、自ら多くを語らずとも、周りが察して報道して、支援の手を差し伸べてもらう事」を正直、羨ましいと当時、思った。

なぜなら、
私が交通事故後、いくら医師に症状を訴えても原因不明で、あげく、症状を信じてもらえず、精神的なものにされ、相手にされず、何十年も医師や周囲に訴えても、家族も支援なく、ほったらかされ、
症状で怠け者のようになっている事、忘れっぽい事、だらしなくなってしまう事などを嘲笑され、
病名がつかないために本人の性格のせい、だらしないせいにされ、
バカにされながら、生き延びざるを得なかったのだから。

もし、私に
被害が発生してすぐ、
その被害に周囲に気づいてもらえ、
被害者として暖かく手厚い医療と支援の手が差し伸べられていたら、

震災の時に、被災者が支援される様子を
「羨ましい」とは感じなかったと思う。

私には、すぐ、社会に理解され支援されてこず、
長年無視され続けてきたからこそ、
被災者が即支援される様子が羨ましかったのだと思う。

自分と比較し、落ち込んでしまうのだ。

なぜ?私たちは助けてもらえない?報道されない?社会の関心や支援が得られないのか?と。

少なくとも私は、
あの大震災の時、容疑者と同じ事を考えていた。

被災者は、報道され、社会に共有され、支援され、羨ましいと。

実際は、私なんかよりはるかに被災者の方が大変な状況にあったのに、
なぜ、あの時、支援されている人たちに対して羨望を感じてしまったのか?

私は住む家もあり、肉親も失ってはいないのに、
なぜ、
あんなにも支援され報道される人たちと自分を比べて落ち込んでしまったのか?

被災者は多くを語らずとも、周りが察して、救いの手を差し伸べてくれる。

頼まなくても報道されて、どんどん、マスコミが全国に支援を呼びかけてくれる。


そういう、周囲に理解されて助けてもらえる点だけを捉えて、
羨ましい、と感じてしまったのだと思う。

なぜ、交通事故被害者がこんなにほったらかされ、
症状をバカにされ、
医師にも症状を信じてもらえず、
何度も何度も医師の言葉で傷付けられねばならなかったのか?

いま、考えても悔しい。

なぜ、私は、脳脊髄液減少症という病名もない時代に交通事故にあってしまったのか?



報道され、支援される被災者を羨ましいだなんて、
そんな不謹慎な事を考える人たちは、


おそらく、自分が困っていても、助けを周囲に求めても、助けてもらえず、
社会の無関心の中に長期間いた人間にしかわかない感情なのかもしれない。

長期間、支援も理解もない中を孤独に生き抜いた、
社会の理解と助けを渇望している人だけが感じる
本来なら感じてはいけない、感じるはずのない悲しい感情なのかもしれない。

あの時、旧統一教会の2世信者が、脳脊髄液減少症の私と同じ気持ちになっていたなんて、とても悲しい。

社会になかなか理解されなくても、報道してもらえなくても、
黙っていてはいつまでたっても、当事者が抱える苦しみが、社会に伝わらず理解は広がらないから、
被災者や被害者に関わらず、
何か助けが必要で、
困っている人は、自ら勇気を出してあきらめず、
声を上げ続けてほしい!、思う。


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