銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

増山麗奈ー4、美人は得をするのか、損をするのか?

2010-04-14 13:26:20 | Weblog

 さあて、世の中にはいろいろなことが起こっています。それに新しく入っていくか、それとも、前からの問題をさらに丁寧に追及していくかですが、本日は、とろとろと、美人であり、反戦運動家でもある、増山麗奈さんについて、さらに触れましょう。日本では本当に実力のあるオピニオンリーダーとか、人気者は弾圧されると言うことがあると思いますが、アイコンとして、美しい彼女はそのしばり(くびき)から、逃れているとも感じます。

 一時期の江副氏、角川氏、佐木氏、松平氏、山崎女史、植草氏、ホリエモン氏、草なぎ君とも違うのです。でね、反戦運動家として、ピンクというカラーを先頭に立てて、ご自分の肉体を担保に戦っていらっしゃるわけで、若さのある今のうちがハナなのです。そして、ご自分の活動を記録した映画も出来たということは、それを、DVDにしておけばさらに将来の可能性があるので、大成功ともいえるのです。が、彼女はそこで満足をしていないでしょう。

 それに、その先を追及してもよいくらいに、いまのところ、エネルギーの輸出超過の人なのです。輸入超過の人が、林真理子さんです。だから、輸出超過の増山麗奈さんは、もっともっと恵まれてよいでしょう。林真理子さんを憎んでいるわけではないし、彼女から迷惑を受けたことはないが、メディアというシステムを利用して、過剰に名誉や金銭を獲得する人を、私は、全般的に信用していないことと、なってきているので、こういう書き方となります。

 今現在の増山さんは、銀座ウエストの二階で、個展をしているそうですし、渋谷のユーロスペースでレートショーながら、映画も公開されています。

 だから、2006年時とは、まったく異なってきています。だけど、その時点で、彼女をどうして、損をしていると感じたかが、下に出ています。よかったら読んでください。
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 個展に居る増山さんに歌を一節だけ歌ってあげた後で・・・・・

 JR横須賀線・新橋駅の地下ホームに入りました。すると突然さっきのアリアがよみがえり、口からあふれ出てきました。私は常識を重んじる日本人の好奇の目を避けるために、ホームの東京よりの、電気さえない真っ暗な場所に向かいました。そこで、朗々と歌いました。増山麗奈と言う特別なアーチストの影響がそれをとどめなかったのです。

 そのときに突然、ニューヨーク、クィーンズ(東北部の郊外)の地下鉄の駅でいつも、オペラのアリアを歌っていたことを思い出しました。Nラインから、Gラインに乗り換えるのです。が、そのGライン36 street という駅のホームには、ほとんど人がいなくて、しかも長い長いトンネルには残響が十分あり、自分の声があたかもオペラ歌手のごとく思えるのでした。リンカーンセンターでは、メットでもシティホールでもオペラを見ましたが、その後で、いつもアリアが心に残り、歌わずにはいられなかったのです。

 自分のアパートでは忙しい。版画の工房でも忙しい。歌を歌うのはそんな、待ち時間ぐらいしかなかったのです。でも、工房ではいつも、クラシック音楽にチャンネルが合わされていました。一番朝早く出て来るエドゥアルド(このエピソードが出てくる一年後に孤独死する版画家。ここでは仮名としてあり、私の五冊目の本、『黄色いさくらんぼ』中のもっとも重要な登場人物である)が、クラシック好きだったのです。工房で歌うのはご法度です。でも、一日に十時間以上をそこで過ごす私には、ふっと声が出てしまうときがあるのです。

 ラヂオから、ソルヴェーグの歌が流れてきたときでした。私は、「もしかしたら離婚になるかもしれないと言う恐れさえ無視して、ひたすら版画の修行に励んでいる自分の、境遇やら運命が、放浪するペールギュントにあまりにも似ていたので、思わずラヂオに合わせて歌ってしまいました。

 すると、エドゥアルドが近寄ってきて、「マリア・カラスみたい」と言ってくれたのです。うっとりしたような目をしながら、言ってくれました

 ・・・・いや、私がここで真に言いたいことは、「自分は歌がうまいです」と言うことではないのです。そうではなくて、『芸術家って、どんなものなのか』を、お知らせしたいだけです。

 芸術家って、コンクールに一等を取ったから、・・・・・そうです。そういう褒章を受けた結果、芸術家になるわけではないのです。

 芸術家って、体の中に美しいものを一杯溜め込んでいる人間です。先祖がもたらしたもの、文明と言う名で受け継がれているものを、体の中に一杯記憶している存在です。そして『それらを、自分独自の解釈でもって、新たな形で外に吐き出したい』と願っている人間です。それが芸術家なのです。その行動が奇矯であろうとなかろうと、上品に見えようと見えまいと、自分の中にあるものを必死で外に出そうとする人間が、芸術家です。

 そして、高いエネルギーを持っている増山麗奈は、今のところ(というのは2006年の個展を見た結果ですが)、作品上の洗練が足りない、人、ではあるけれど、真に芸術家となる、いや、今すでに芸術家となっている存在でした。
 私の目に、多摩川の丸子橋の街路灯がにじんで見えました。「よい出遭いのひとつだった」と、しみじみ思いました。これが、二〇〇六年三月二十四日のことでありました。

 しかし、そんなに、感動をしながら、なぜか切なくてたまらず、次の日に自宅で夫にそのことを述べました。するとすこし沈黙をした後で、つぶやくように、「美人は損をする」と言ったのですよ。それは、見事に、私の心の中にあるわだかまりを再表現していました。なぜ切ないかと言えば、あんなに、心を尽くしても、個展とはそうそう、大勢の方が見えるものでもないのです。それが、大衆的なレベルで、成功するか成功しないかは『天のみぞ知る』不可思議さがあるのです。その後、増山麗奈に関しては、追認報道がでません。これがこの文章を書いた六年後、違ってきているわけですが・・・・・面白いことです。

 ここで、文章としての、2006年時の初稿に戻れば、『 』内となりますが・・・・・『残念ながら、M投資ファンドとか、H六本木ヒルズ社長ほどブレイクはできませんでした』・・・・・驚きますね。それらのその当時の有名人が、のきなみ静かになっています。世の中は変わります。

 いや、これからの増山さんはわかりません。しかし、既に七回ほど個展をしていて、二十年にわたる公募団体展活動をしている私には、芸術家が正しく世に認められることの少ない現象に、自分を含めて、なんと哀切な気持ちを持つでしょう。
 
 でも、夫がどうして、そういう警抜な言葉を吐いたかが不思議で、さらに問い合わせると、「美人と言うのは、人から注目をされる。だから常に『その注目とか、人気を、継続させなければならない』と言う、強迫観念もある。それで、やや神経質になる」と言うのです。驚きました。その解釈は当たっているでしょう。一種の上昇志向というか。・・・・・常に動き回り、働き続ける存在・・・・・報酬や計算を度外視して、尽くしぬく存在としての、増山麗奈。

 それを共感したのは、私が美人だからではありません。でも、どこか、小さいときから教室の前に立つ子、講堂なら壇上に立って答辞等を述べる子ではありました。それゆえに、今でも、働き続けています。お金を稼ぐと言う点ではなく、自分に与えられたと思う仕事をする点で働き続けています。天命と言ってはあまりにも大げさかな。でも、同年齢の方々より、圧倒的に動き回り、創作し、活動をしています。が、それがどう報われるかというと、全然なのです。・・・・・ふ、ふ、ふ・・・・・悲しみをこめて、自嘲をこめて、笑うしかない。         二〇〇六年三月二十六日

 再録は2010年の4月  ブログへアップは、14日 雨宮舜

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