・・・・・最も、弱いものへ寄り添う姿勢・・・・・
昨日、2010-5-30にNHKハイビジョンで、映画『誰も知らない』が放映されました。そのときにちらっとですが、気がついたことは、衛星第二放送で、夜の九時からあった、映画の時間がなくなっているのですよね。我が家ではケーブルで、こちらも見ることができるからいいんですが、これは、10年ぐらい前までは、===お金持ち優遇策だなあ。国家予算を使っているNHKがこういう姿勢をとるとは、日本も変わりましたね===と、批判心をもって、見ていた現象です。
さて、上の導入は、ちょっとしたわき道であり、本筋は、弱いこどもを、映画の主役にして、これらの製作、スタッフは何を語りたいかを注目をしたい点にあります。
映画そのものについては、誰も知らないの方は、途中から見始めたので、全体像についてはあれこれを、いえません。ただ、スクリーン上は12歳という設定になっている柳楽ゆうや君が、かわいくて、静かで、『ああ、この子に主演賞を上げたカンヌ映画祭審査員もすごいなあ。こんなひそやかな演技で、賞をとって、キャスト・スタッフは大喜びであろう。よかったね』とは、思いました。
ところで、この映画は、その少年と監督が有名ですが、実は、プロデューサーも凄腕でしたね。李鳳宇(?最後の字がただしいかどうかは、今は不明)氏で、この人はヒット作『フラガールを作ったり、以前、ここでもとり上げた、NHKの番組、『抵抗の系譜・・・・・還流シネマ』のインタビューアー(かつ、演出家?)をしている人です。
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こちらが、2003年の製作らしいのですが、2009年の日本公開がヴェルサイユの子です。後者は、全部見ていますから、語ることができるのですが、ギョームドパルデューが演じる(ほぼ主役)の社会不適合青年の描き方は、すばらしかったし、彼を囲む父親の描き方も、そこに一緒に住んでいる女性の描き方もすばらしかったです。
両方とも映画としては、もっとも弱いものを、主人公にしています。日本の方は、非常に淡々としていて、発しているメッセージも弱弱しくさえ感じますが、出演する五人のこども(捨てられた子、四人と、そこに加わる不登校の少女)がすべて、自然であいらしく、・・・・・特に、ひそやかな感じがすばらしいです。上品ですし。・・・・・・隠れてすんでいるという設定なので、小さい男の子以外は、すべて、ひっそりと、暮らしているのです。
学校にも行っていないという設定です。親に捨てられたために、コンビニで、ひそかに、賞味期限切れで捨てるものをもらって、生きているという設定です。コンビニは、昔は厳正だったのですよね。だから、大量に廃棄するものが出たのです。それを親切な店員さんから、ひそかに、裏口でもらって生きていると言う設定です。
筋だけ書くと、悲惨極まりないのですが、先ほども言ったように、子役陣の自然さと愛らしさで、救われます。それに日本人観客としては、『これが実話であるという裏話』を知っているので、『あの子達は、社会的な救済がすでに済んでいるのであろう。経済的には保護されたはずだ』と感じるので、やや安心してみていられるのです。
しかし、ことは、もっと、深く発展していきますよね。人間の幸せがお金ではなくて、兄弟で一緒に暮らすことなどという原初のところへ還元していくから・・・・・そこについては、ブログではいかんとも論じがたいところですが。
一方の『ヴェルサイユの子』ですが、子役は一人です。この子供のかわいいこと。ヨーロッパでは伝統的に、かわいすぎる子役を生んできました。『禁じられた遊び』(フランス)『けがれなきいたずら』(スペイン映画)『ニューシネマパラダイス』(イタリア映画)『コーラス』(フランス映画)等々、圧倒される演技(?)力を持った子供たちが、登場してきました。
このヴェルサイユの子でも、かわいい幼児が、母に捨てられて、幸運にも親切な青年に世話を受け、結局はその青年の実家で、成長して、そして、最後に実の母と再会して、そちらと暮らすと言う、ある意味でのハッピーエンドで、終わります。これはヨーロッパには中庸の美学とか、侘びさびの文化はなくて、起承転結がはっきりしているものが好まれることを示しているのでしょう。
日本はあいまいであることを尊ぶのです。
どちらがよいとか、悪いという意味ではなくて、そういう文化があるのです。で、観客としては、カタルシスを与えられるのは、ベルサイユの子をはじめとして、ヨーロッパ映画の方です。
しかし、ここからまた、挿入ですが、ヴェルサイユの子では、ギョームドパルデューが演じる、青年の方の将来が気にかかります。青年はいったんは、ホームレスから、社会復帰をするのです。その不条理にも自分に預けられた、幼児を養うためです。
ここで、映画の観客としては、美しい女性である幼児の母と再会して、二人が結婚をすることを夢見るのですが、実際にはそうはならず、青年は、社会へ再び失望をして、幼児を父親の元へ残して、放浪の旅へ出るのです。ここは観客としては、肩透かしを受けたような、感じがして、『もしかすると、ギョームが病気再発、または、仕事をより選んだ? からこれから先の出演が見込めず、こうなったのであろうか? などと想像をしましたが、わかりません。というのもヴェルサイユの森の中の、ホームレス生活の描写が秀逸で、時間をかけてありますから、それに比べると都市に戻って、常識人の生活に入るところの、描写が、少ないからです。
さて、そのように洋の東西文化の違いを反映している映画二つですが、どちらも、もっとも力の弱い、見捨てられた存在に光を当てて、哲学的な問いかけをしているという意味では、重要な共通点があります。
カンヌ映画祭が、日本映画の『誰も知らない』に主演男優賞としてでも、光を当ててくれたことは、不思議な救いです。カンヌ映画祭などという場面は、もっとも華やかな社交場のひとつです。王宮文化が途絶えた現在では、そこにこセレブが集まる場所だからです。
あ、ここで、またまた、挿入ですが、この間、鎌倉でバスに乗っていたら、隣の席に、日本生まれだけれど、ニースに今住んでいるという女性と隣り合わせました。マスコミ有名人ではないけれど、戦後日本人女性が理想としたであろう生活・・・(つまり、白人でありかつ上流社会の人と結婚をして、ヨーロッパで優雅な生活を送る)・・・を実践している女性です。60過ぎだと思われますが、ふむ。ふむ。と、目を見張る思いで見つめましたけれど・・・・・少し話もしました。彼女はバタ臭いという言葉どおりのファッション(肌の露出が多い半ズボンスタイル)だったし、英語でもなく、フランス語でもなく、イタリア語でも、スペイン語でもない言葉を使っていましたが、私は元、日本人であることはすぐわかったのです。
ですから、カンヌ映画祭で、最も貧乏である子供が主役の映画が出品されたとしても、そこへ集う人には、社交儀礼が求められるし、メディアや、観衆ほかの人々から注目をされることへ耐える資質をも求められるわけです。ここが不思議極まりないというか、人間の生活の業であるというか、なのです。もっとも純粋なる者は、世に出ません。
映画『誰も知らない』は、実話を基にして製作をされているそうです。ですから、モデルになった子供たちのその後も大変、気にかかるところです。しかし、ともかくとして、映画監督や製作者が、何をテーマにするかというときに、こういう隙間というか、誰も注目をしない、究極の負け組み(?)を主題にして、何らかの、メッセージを、つむぎだす才能は、やはり、比較すれば、純粋な方でしょう。それとも、高度に、ダブルスタンダードが構築されているのかな。
このテーマは、ギョームドパルデューにしても発展をしていくし、映画に登場した子供たち(養育放棄という虐待を受けた)のその後を社会問題として書く方向へも発展をしていきます。それを、書くことができたら、続編として発表します。
裏話を、さらけ出すのはみっともないかもしれませんが、私も、このブログだけに専念できる生活を送ることはできません。それができれば、それは、幸いですが、そうも行かないので、集中して、文案を、追及することもできません。お許しくださいませ。
では、2010年5月31日 雨宮 舜
昨日、2010-5-30にNHKハイビジョンで、映画『誰も知らない』が放映されました。そのときにちらっとですが、気がついたことは、衛星第二放送で、夜の九時からあった、映画の時間がなくなっているのですよね。我が家ではケーブルで、こちらも見ることができるからいいんですが、これは、10年ぐらい前までは、===お金持ち優遇策だなあ。国家予算を使っているNHKがこういう姿勢をとるとは、日本も変わりましたね===と、批判心をもって、見ていた現象です。
さて、上の導入は、ちょっとしたわき道であり、本筋は、弱いこどもを、映画の主役にして、これらの製作、スタッフは何を語りたいかを注目をしたい点にあります。
映画そのものについては、誰も知らないの方は、途中から見始めたので、全体像についてはあれこれを、いえません。ただ、スクリーン上は12歳という設定になっている柳楽ゆうや君が、かわいくて、静かで、『ああ、この子に主演賞を上げたカンヌ映画祭審査員もすごいなあ。こんなひそやかな演技で、賞をとって、キャスト・スタッフは大喜びであろう。よかったね』とは、思いました。
ところで、この映画は、その少年と監督が有名ですが、実は、プロデューサーも凄腕でしたね。李鳳宇(?最後の字がただしいかどうかは、今は不明)氏で、この人はヒット作『フラガールを作ったり、以前、ここでもとり上げた、NHKの番組、『抵抗の系譜・・・・・還流シネマ』のインタビューアー(かつ、演出家?)をしている人です。
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こちらが、2003年の製作らしいのですが、2009年の日本公開がヴェルサイユの子です。後者は、全部見ていますから、語ることができるのですが、ギョームドパルデューが演じる(ほぼ主役)の社会不適合青年の描き方は、すばらしかったし、彼を囲む父親の描き方も、そこに一緒に住んでいる女性の描き方もすばらしかったです。
両方とも映画としては、もっとも弱いものを、主人公にしています。日本の方は、非常に淡々としていて、発しているメッセージも弱弱しくさえ感じますが、出演する五人のこども(捨てられた子、四人と、そこに加わる不登校の少女)がすべて、自然であいらしく、・・・・・特に、ひそやかな感じがすばらしいです。上品ですし。・・・・・・隠れてすんでいるという設定なので、小さい男の子以外は、すべて、ひっそりと、暮らしているのです。
学校にも行っていないという設定です。親に捨てられたために、コンビニで、ひそかに、賞味期限切れで捨てるものをもらって、生きているという設定です。コンビニは、昔は厳正だったのですよね。だから、大量に廃棄するものが出たのです。それを親切な店員さんから、ひそかに、裏口でもらって生きていると言う設定です。
筋だけ書くと、悲惨極まりないのですが、先ほども言ったように、子役陣の自然さと愛らしさで、救われます。それに日本人観客としては、『これが実話であるという裏話』を知っているので、『あの子達は、社会的な救済がすでに済んでいるのであろう。経済的には保護されたはずだ』と感じるので、やや安心してみていられるのです。
しかし、ことは、もっと、深く発展していきますよね。人間の幸せがお金ではなくて、兄弟で一緒に暮らすことなどという原初のところへ還元していくから・・・・・そこについては、ブログではいかんとも論じがたいところですが。
一方の『ヴェルサイユの子』ですが、子役は一人です。この子供のかわいいこと。ヨーロッパでは伝統的に、かわいすぎる子役を生んできました。『禁じられた遊び』(フランス)『けがれなきいたずら』(スペイン映画)『ニューシネマパラダイス』(イタリア映画)『コーラス』(フランス映画)等々、圧倒される演技(?)力を持った子供たちが、登場してきました。
このヴェルサイユの子でも、かわいい幼児が、母に捨てられて、幸運にも親切な青年に世話を受け、結局はその青年の実家で、成長して、そして、最後に実の母と再会して、そちらと暮らすと言う、ある意味でのハッピーエンドで、終わります。これはヨーロッパには中庸の美学とか、侘びさびの文化はなくて、起承転結がはっきりしているものが好まれることを示しているのでしょう。
日本はあいまいであることを尊ぶのです。
どちらがよいとか、悪いという意味ではなくて、そういう文化があるのです。で、観客としては、カタルシスを与えられるのは、ベルサイユの子をはじめとして、ヨーロッパ映画の方です。
しかし、ここからまた、挿入ですが、ヴェルサイユの子では、ギョームドパルデューが演じる、青年の方の将来が気にかかります。青年はいったんは、ホームレスから、社会復帰をするのです。その不条理にも自分に預けられた、幼児を養うためです。
ここで、映画の観客としては、美しい女性である幼児の母と再会して、二人が結婚をすることを夢見るのですが、実際にはそうはならず、青年は、社会へ再び失望をして、幼児を父親の元へ残して、放浪の旅へ出るのです。ここは観客としては、肩透かしを受けたような、感じがして、『もしかすると、ギョームが病気再発、または、仕事をより選んだ? からこれから先の出演が見込めず、こうなったのであろうか? などと想像をしましたが、わかりません。というのもヴェルサイユの森の中の、ホームレス生活の描写が秀逸で、時間をかけてありますから、それに比べると都市に戻って、常識人の生活に入るところの、描写が、少ないからです。
さて、そのように洋の東西文化の違いを反映している映画二つですが、どちらも、もっとも力の弱い、見捨てられた存在に光を当てて、哲学的な問いかけをしているという意味では、重要な共通点があります。
カンヌ映画祭が、日本映画の『誰も知らない』に主演男優賞としてでも、光を当ててくれたことは、不思議な救いです。カンヌ映画祭などという場面は、もっとも華やかな社交場のひとつです。王宮文化が途絶えた現在では、そこにこセレブが集まる場所だからです。
あ、ここで、またまた、挿入ですが、この間、鎌倉でバスに乗っていたら、隣の席に、日本生まれだけれど、ニースに今住んでいるという女性と隣り合わせました。マスコミ有名人ではないけれど、戦後日本人女性が理想としたであろう生活・・・(つまり、白人でありかつ上流社会の人と結婚をして、ヨーロッパで優雅な生活を送る)・・・を実践している女性です。60過ぎだと思われますが、ふむ。ふむ。と、目を見張る思いで見つめましたけれど・・・・・少し話もしました。彼女はバタ臭いという言葉どおりのファッション(肌の露出が多い半ズボンスタイル)だったし、英語でもなく、フランス語でもなく、イタリア語でも、スペイン語でもない言葉を使っていましたが、私は元、日本人であることはすぐわかったのです。
ですから、カンヌ映画祭で、最も貧乏である子供が主役の映画が出品されたとしても、そこへ集う人には、社交儀礼が求められるし、メディアや、観衆ほかの人々から注目をされることへ耐える資質をも求められるわけです。ここが不思議極まりないというか、人間の生活の業であるというか、なのです。もっとも純粋なる者は、世に出ません。
映画『誰も知らない』は、実話を基にして製作をされているそうです。ですから、モデルになった子供たちのその後も大変、気にかかるところです。しかし、ともかくとして、映画監督や製作者が、何をテーマにするかというときに、こういう隙間というか、誰も注目をしない、究極の負け組み(?)を主題にして、何らかの、メッセージを、つむぎだす才能は、やはり、比較すれば、純粋な方でしょう。それとも、高度に、ダブルスタンダードが構築されているのかな。
このテーマは、ギョームドパルデューにしても発展をしていくし、映画に登場した子供たち(養育放棄という虐待を受けた)のその後を社会問題として書く方向へも発展をしていきます。それを、書くことができたら、続編として発表します。
裏話を、さらけ出すのはみっともないかもしれませんが、私も、このブログだけに専念できる生活を送ることはできません。それができれば、それは、幸いですが、そうも行かないので、集中して、文案を、追及することもできません。お許しくださいませ。
では、2010年5月31日 雨宮 舜