今、23日(水曜)の午後3時ですが、推敲をおえました。長時間未完成のまま置いていたのを、お詫びもうしし上げます。
月曜日の朝は、旅行の話の続きを書くはずでした。が、自宅へいると、時間的な余裕があるせいで、かえっていろいろな、刺激に浸ってしまいます。で、気持ちが横へそらされてしまいます。本日はテレビから受けた刺激から、話を進めさせてくださいませ。
副題1、『大原麗子の、二人の夫は、なぜ、何も語らないのだ』
副題2、『中村久子という、四肢のない宗教家』
副題3、『中村久子と大原麗子・・・二人の父親は、決定的に違っていた』
副題4、『慈愛に満ちた祖母(久子)と、いじめてくる叔母(麗子)の差』
副題5、『実母が決定的に、違う心情を持っていた』
副題6、『大原麗子と、中村久子、その結婚の目的の違い』
副題7、『大原麗子と長電話』
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副題1『大原麗子の追悼番組で、なぜ、夫・二人は何も語らないのか?』
NHKBSプレミアムは、本日(月)の夜、興味深いものを二本並べています。そして、事前の宣伝もしていました。女優シリーズと、中国近代史の中での、日本と重要なかかわりを持った人物のシリーズです。
女優の方では、月曜日の、大原麗子は最も知りたい人の一人です。ミステリアスな雰囲気があります。ただ「どうして、孫文より大原麗子の方が、よい時間帯なのかしら?」との疑問をNHKへぶつけておきます。NHKは、ほぼ、税金に等しい視聴料を、とって運営されているのです。娯楽の方向ではなくて、貴重な資料を国民に提示するという方向で運営するべきであり、その点でいえば、女優の人生より、孫文と、日本の関係は重要です。
さてその大原麗子の方ですが、早い時間帯に放映されたので、主人と一緒に見ていたのです。それで、私が主人に質問をしていわく、「どうして、二人の、元夫だった人に質問をしないのかしら? どうして、彼らに何も語らせないのだろう。捨てた立場として、悪者になるからかしら」というと、「やはり、わがままだったのだろう」と主人は言います。主人の言い草では、芸術家は、一般的に、わがままだとのことです。
その通りだとは、思いますが、本日の大原麗子の番組を見て、子供時代の不幸が、大いに原因となっているのを知りました。その番組を逐一再現することはできないし、する必要もないのですが、ただ、一つ、強く印象付けられたのは、『彼女の思い出を特集する番組に、最も親しかった人たちが、登場しなかったのは、彼女の長電話に苦しめられ、それゆえに、喧嘩っぽい形で別れざるを得なかった人が多いのだろう』という側面です。
一般的には、真夜中には、電話をしてはならないのですが、一人暮らしをしている人間同士では、よくやることなのです。特に最晩年には、大原麗子には、仕事の依頼が少なくなっていて、それが、暇な時間を生み出し、さらに、不安な、気持ちも生んだ模様です。
特に芸術家とか、芸能人というのは、特別に感受性が強くて、電話で他人に相談したいものだと思います。私も逗子で、一人暮らしをしていた三年間には、長電話をこちらもしたし、相手からも大いにかかってきました。特に女性の一人暮らしというものはそういうものだと思います。
ところで、そういう寂しさを満たすものとして、まったく一人で我慢をしてしまうか、この様に甘えるかの中間を埋めるのが、つぃったーとか、ブログとか、フェイスブックだと思うのですが、かといって、そういう世界が、具体的な知人相手の長電話に取って代わることはないだろうし、それに相応する満足を与えてくれることもないのだと思います。
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副題2、『中村久子という、四肢のない宗教家』
旅行の話をしたいと冒頭に述べております。
あっち、こっちに回ったのですが、古いものを見るというテーマで行動をしたので、京都では、西、東、本願寺と、東寺を、拝見しました。この三つのお寺については語りたいことがあるのですが、それは、ちょっとあとへ回して、東本願寺がギャラリーを持っていて、そこで、中村久子展が開かれていたのを、ご報告をさせて下さい。
この人は、1897(明治30)年生まれで、亡くなったのは、1968(昭和43)年ですから、既に知らない方も多いでしょう。
私は一回自叙伝めいたものを読んでおり、知っておりました。が、その展覧会での表示を見ているうちに、自分が相当な、誤解をしていることがわかりました。
昔読んだ本の方の帯がセンセーショナルな文言で満ちていたせいかもしれませんが、
見世物小屋に、だるま女として、出ていたことを親が売りとばしたのだと思っていたのです。よく東北で、冷害のために、娘を身売りに出すということが、戦前まで行われていたのです。女中さんとか、女郎さんとしてです。
そういう職業も大変ですが、見世物小屋というと、さらに注目を集めるので、気の毒な仕事であり、不幸の極みに見えます。で、親が、育てきれないし、捨て子の一種として、預けたと考えていたのです。
さらに、別の側面から、普通の健康な子供だったのに、見世物小屋の主人が、四肢を切って、さらに効果が上がるようにしたのだとも誤解をしていました。
しかし、その二つとも、100%の誤解でした。
彼女はこの上ない不幸に見舞われていましたが、一方で、最高に幸せな人であり、その話は他人の胸を打ち、一種の宗教家と最後にはなっていった人なのでした。それゆえに、東本願寺が、教理の、公布のために、展覧会を開いているのです。
まず、四肢がないのは、遺伝的な障害ではなくて、切断によるものですが、その原因は、脱疽とか、壊疽と言われるもので、命を救うために、四肢を犠牲にしたということでした。足のしもやけが原因だったのです。
暖房の発達した今では、しもやけというものはほとんど聞きませんが、私が子供のころはしょっちゅうかかっていたものです。足の指が一種の凍傷みたいになって、紫色にはれて、やがて組織が崩れて、膿みたいになるもので、ダマリンとかいう薬を塗っていました。
私は皮膚が全体に弱くて、唇もしょっちゅう荒れていて、紫色の薬を塗られていました。ダマリンは、白いクリーム状だったので目立たなくて好きな薬でした。今でも目や口の端っこが荒れていますが、今の薬はたいていが透明なので助かります。便秘も治ったし、飲み薬はほとんどいらなくなって、低空飛行ながら、大体いつも同じレベルで暮らしているのですが、昔は、私を含めて、子供は病気にかかりやすかったのです。私は何度も「お前は、腺病質だから」と言って、危険なことはやらないように、外遊びもできるだけしないように、おんば日傘(?)で育ったみたいです。母自身も、線病室だ、せん病質だ」と、言われて育ったそうですよ。ともかく、昔は、こどもは病気にかかりやすく、すぐ死ぬものでもあったのです。
だけど、精神的な問題では、我が家では、大体家族全体が冷静で、メンバーの批判をずんずんするし、それは、数代前からだし、で・・・・・こういう家族は、「出世をするという意味では、効率は悪いな」と思いますけれど。仕方がないのです。
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副題3、『中村久子と大原麗子・・・二人の父親は、決定的に違っていた』
中村久子さんが、不幸だと客観的に見えるのは、父親が早死にをしてしまったことにも帰するでしょう。昔の庶民の家(中村さんは、たたみ屋さんだった)とか、女性そのものには経済力がなくて、お母さんは、再婚しなければなりませんでした。
その前の実父が、久子さんを、強く愛してくれたそうです。それは再婚後の継父が冷酷な扱いをした(座敷牢に閉じ込めた)ので、差が際立ったそうです。今でも、連れ子を虐待死はよく聞きますが、男性優位の昔の社会で、連れ子のあるような条件の悪い女性を、妻にめとるような男性は、どこか性格的に、欠陥があったのかもしれません。また、四肢がないということで、将来性がないとみられて、それによって、虐待に近い扱いへとなったのかも知れません。学校にもむろん行かれなかったのです。
この継父の家の祖母にあたる人も意地悪だったそうです。が、同居か、別居だったかはわからないものの、母方の祖母が、非常に愛情豊かな人で、あり、彼女は救われました。
ところで、大原麗子さんは、実の父親が、子供たちやら、妻に暴力を振るので、愛されたという思い出を持っていないのです。これも彼女の最晩年の、寂しさや不安を生んだと思います。大変きれいな人なのに、内面での充実がなかったのです。かの女は撮影現場でも孤独だったらしいですね。大勢の人と分け隔てなく付き合うということはとてもできない人だった模様です。
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副題4、『慈愛に満ちた祖母(久子)と、いじめてくる叔母(麗子)の差』
中村久子さんが、感謝している相手は数多くいるのですが、最初に上げているのが祖母です。この人は東本願寺はの熱心な信徒で、やさしくてかつ賢い人だった模様で、学校へもいけない久子を、人々と積極的に交わらせようと努力をしました。
展覧会では、いつ、どういう風に同居をしたのかが書いてありませんが、お母さんが継父(二番目の夫)との仲をよくするように努めて、(異父兄弟党が生まれたのかもしれませんが)、実母を招き入れたのではないかと感じます。久子さんは継父に、虐待をされた時期もあったそうですが、別の時期に祖母から、玄関に出るように言われて、どんなときにも気おくれをしないようなしつけとマナーを植え付けられたと言っています。または、実父が死ぬ八歳までの記憶なのかのしれません。
祖父母というものにとっては、孫は大変かわいいものです。でも、大原麗子さんの口からは、祖父母の思い出が語られることはありません。実父の側の、祖母の思い出も語られないし、母の実家の祖父母についても語られません。しかもまずいことに、叔母にいじめられたという思い出が語られるのです。
あのね。これは想像で、例の見て来たような嘘を言いの類ですが、そのおばさんが昔の言葉でいうオールドミスとか、「行かず後家」だったとしましょう。戦前や戦後は、女性は結婚をするのが当たり前であったので、非婚の女性はある意味での差別の対象でありました。ココは、現在のお若い読者には、反発を招く表現ではあろうと思いますが、それでも、事実として、そうだったのです。または、戦争によって、男性の数が少なくなっていたので、女性で未亡人だったり、未婚だった可能性はあります。
でも、どちらにしろ、このおばさんが、意地悪だった原因のひとつに、おばさん自身が社会から、そこはかとはない差別を受けていて、それゆえに、より弱い存在である麗子ちゃんに当たったという可能性はあります。
それから、インテリは、子育てがへただと言うことがあります。麗子さんの母が元先生だったというぐらいですから、その姉にあたるおばさんも知的な人である可能性は強いのです。このインテリであるということは子育てにおいてマイナスの要素の一つです。子育てには盲目的なほどの、一種の動物の本能に近いレベルの愛情が必要です。
しかも、後年、女優になっていく、大原麗子さんですから、小さい子ながらの、お色気というものもあったでしょう。それを、堅物のおばさんは嫌ったと思えばよくわかります。
しかし、問題はお母さんなのです。これが大問題なのです。
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副題5、『実母が決定的に、違う心情を持っていた』
中村久子の母は明治生まれの人です。しかも、田舎の畳屋さんに嫁いだ女性です。なんら、優越ポイントを持っていない人でした。でも、余裕ができた後か? 座敷牢へ閉じ込められていた久子を、自立できるように徹底的にしつけます。ご飯を食べることから始まって、ありとあらゆることをしつけました。それは、大変厳しい教え方で、絶対に、自分ひとりで、それが、できるようになるまで解放をしなかったそうです。当時は、泣いたり恨んだという久子も、後年、大きく母に感謝しています。で、どこかのお寺に石造りの悲母観音を寄贈しています。
彼女ができることは驚くほど、多くて、和服(大人の女性用の銘仙の着物)を縫ったり、より小さな、日本人形用の、着物も、自分ひとりで縫っています。そして、それを、三重苦の聖女として有名なヘレン・ケラー女史にプレゼントをしています。
久子は、そのような自立の力をつけてもらったうえで、一生を生きていく生活費を得るために、見世物小屋に入る決意をします。ここが、私がもっともおおきな誤解をしていたところなのですが、彼女は自らの意思で、興行界に入ったのです。それは、20歳の時であり、既に子供でもありませんでした。
何事も命令されてやるのは不幸ですが、自分が決定して、自分から入っていったのだったら、耐えられるものです。そして芸といっても、口で筆を咥えて「書」を書くことです。きちんと書道の先生について、立派な書を書いています。その書道の先生は、いつのときも、品を保つようにとも、教えたそうで、彼女はお寺の縁日などの、見世物小屋でも、気品を保って、芸をしていたのです。キャッチコピーこそ、だるま女というどぎついものでしたが・・・・・
一方の大原麗子さんですが、お母さんに大問題があったと見ます。悪人だったというわけではなくて、愛を知らない人だったと見ます。夫のいらいらも、彼女のやさしさとか、できすぎた女である態度とかが、生起させたのかもしれません。
そして、女性というものはフロイトの言う通りで、概して、娘には愛情を抱けないものなのです。そのうえ、『この子がいなかったら、再婚が自由にできたのに、邪魔だわ』と潜在意識の中で思ったかもしれません。それは、番組の中で、母からの手紙の実際が紹介されて、その中で、麗子が本当に求めていた「家へ帰ってきなさい」という文言がなかったという解説の声が、かぶさったので、やはりそうだったのかと思い当たったことです。実母の、実の姉がいくら麗子さんを嫌っても、実母である妹の方が、それに激しく抵抗をすれば、手は、お姉さんは出せないものなのです。この際の手というのはひっぱたいたという行動をさすのではなくて、心理的ないじめを指します。
実際のところは、実母の中に、愛は、芽生えていなかったということです。お母さんは、麗子さんを置いて、弟さんの方をつれて出ていれば、母の愛に目覚めたかもしれません。だが、男の子は家の跡取りとしてのこされ、それを切に希望した麗子の方だけを、つれて出たので、結局のところ、深くて、真実の母の愛までは、到達し得なかったのかもしれません。だから、NHKの番組内で解説をされたとおりに、彼女には帰る家がなかったのです。
でも、お母さんが仕事をする人としては優秀な人であって、後姿として、彼女に働くことを教えたのは、よかったですね。一種の不良として六本木をさまよいながらでも、いざスカウトされれば、ちゃんと、女優の仕事はできたからです。
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副題6、『大原麗子と、中村久子、その結婚の形と目的の違い』
中村久子さんは、心の面ではごく普通であることを、目的として生きてきたのです。
しかし、人生の途上で、数々のよき指導者と出会います。上に上げた芸事としての書道の先生も常に品のよさを保つように教え、次ぎの大きな出会いは、肢体が不自由ながら、神戸女学院の購買部で働き、経済的に自立をしている女性でした。また、宗教的な指導者にも次々と出会っています。
でも、41歳までの生活のばであった見世物小屋の座長もいい人だったと、推察されます。久子の境遇をよくわかっていて、夫たちを、紹介したり、夫婦で、一座の中で暮らすことができるように取り計らっていたみたいです。
一人目の夫は、関東大震災のときにか、なくなり、二人目の夫もなくなりましたが、三人目の夫が春琴抄の登場人物であるかのごとく、久子を守り、助けました。久子は、この夫との愛を信じて、威張りくさっているところもあったと、周りにいた人が証言をしています。
久子は、口、歯、また、へらとも鍵とも付かぬ道具の三つを使って、お裁縫まで、自分できましたが、四肢がないのですから、介助は受けたほうがよく、そのためには、結婚をするしかなかったのです。最初の夫に操を立てて未亡人として暮らすなどとは彼女にとっては贅沢の一種でした。
彼女はどんどん、よき出会いに恵まれます。人生の地平が開けて、著作をする人、または、講演をする人として、いわゆる文化人へと、変化していくのです。これは、一回も学校へ通ったことのない人の出世(?)としては、ある種のシンデレラ・ストーリーです。もし、これが現代の話であれば、妻と夫はやがて、話も合わなくなり、離婚に至ったということになるかも知れません。でも、彼女は、どんなにえらい立場の紳士と、出会おうとも、みせもの小屋の座長が世話をしてくれた年下の夫と別れることはありませんでした。
そういう行動の芯の中には、人に感謝する心があった模様です。その時点までの、夫が自分に対して、やってくれたことへの深い感謝が、わき目を振ったりは、しないことへつながりました。欲が深くは、ないのです。
ともかく、お互いに必要な人として、かつ、表も裏も、公的な生活も、私的な生活も一緒にいる人としての、夫であり、妻でした。久子さんは、見世物小屋という大家族の中で、20歳から41歳まではすごしています。だから、ほかの家族とか、ほかの夫婦を見る機会も多かったでしょう。それで、親の姿からだけではなくて、この様な共同生活をする見世物小屋の内部でも、学ぶ機会が多かったと推察されます。
動物園でも、動物園で、生まれた象とか、トラや、熊が子育てをしないので、母親が育児を知らず、赤ちゃんを虐待するので、飼育員がかわって育てるということが、よく言われます。実は都会の、核・家族制度は、人間社会(特に、日本)の社会に、大きな禍根というか、問題を生んでいるのかもしれないのです。子育てなんて、面倒極まりなく、親に労働と奉仕を要求するものですが、そんな基本的なことにさえ、わきまえがないので、なくから面倒くさいから、ご飯をやらないで、自然死を待とうなどと言う考えの親が多いのかもしれません。中学生になって、餓死に近い例が、報告をされていますから、それ以外の発見されていないケースで、恐ろしいことが多発している可能性はあります。
そういう実例を身近には見ていなかった人の一人としての、大原麗子さんは、芝居やテレビドラマで、夫婦生活を見ることはあっても、それは、ドラマチックな場面が切り取られているわけで、ごくごく普通のところが、見えていなかったわけです。
ここで、ちょっとした余談に入りますが、フジテレビの番組で、とんねるずの食わず嫌いというのがあります。あれを番組の推薦ランに誘われて何回か、見ていますが、最初はなんて下らない(=意味のない)番組だろうと驚き入ったのですよ。だけど、だんだん違う考えにもいたりました。 『これは、昔からあるごく普通の夕食の景色を再現しているのだ。と、言うことは、今では、そのごく普通の夕食の景色というのが社会の中から奪われているのだ。だから、一種の理想の食卓の形として、この番組は、提示されており、視聴者に支持されているのだろう』と、わかってきたのです。
夫婦なんて、「一緒に子供を育てる」とか、「一緒に朝食と夕食を食べる」とか言うことで、形成されていくものだと思います。そういうごく普通の時間を一緒に過ごすことが、女優だとできなかったわけでしょう。相手からの呼び出し次第で、動かなくてはならない仕事ですから。しかも、夫が、マネージャーとか、一般男性であったりするケースだったら、相手が折れてくれるでしょうが、彼女の二人の夫は、どちらも、スケデュールが複雑な人で、そちら側から、麗子さん側に折れて出る可能性はなかったのです。
それでも、家庭像が飲み込めている女性だったら、一週間に一回ぐらいは、それを成立させる日を作って、あとは『ごめんなちゃーい』ぐらいで、済ませられるのだけれど、大原麗子さんには、そのごく普通の家庭像と言うのは飲み込めていなかったと思いますよ。だから、個性的な二人が、とげも納めず、同じ空間にいるということになって、しかも、金銭的にも老後の介護と言う意味でも、相手を必要としていないから、やがて離婚に至るのは当たり前です。
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副題7、『大原麗子と長電話』
全く対照的な二人ですが、中村久子さんに四肢がないという障害があったわけですが、大原麗子さんにも心の中に、障害があったのです。そのことをだれも認めたがらないが、育ちの過程で、十分な愛情を与えられなかった人は、いい意味での自尊心とか、自己愛とか、自立心とかの面で欠けているところがあるのです。
で、もし、彼女の結婚が、いまだに継続していたら、絶対にやらなかったであろう、友人たちに長電話をかけて嫌われるということになってしまいました。
草間弥生なんかも、もし、精神病院で夜を過ごすのでなかったら、電話を誰彼にかけまくった人になったでしょう。ところで、私が心配するのは、今は、インテリのお母さんが多いということです。私の母は、資格は別に何もなかったが、いわゆる、頭の良い出来る女で、家庭の中に常にいたのですが、事実上の、キャリアーウーマンでした。ので、私は、大原麗子と似たところがあります。ただ、家庭を持ち、子供が二人もいるし、何とか、何とか、普通に生きているわけですが
・・・・・その私もまた、そのインテリのお母さんのひとりであり、また、子供にさびしい思いをさせている家庭という連鎖の中の一人なのです。だから、子供たちから、「普通であってほしい」と激しく抵抗をされ、かつ、そのように、願われました。で、私はできるだけ、普通であるように努めているのです。特に45~55までは、そのことだけに、が、専念しました。最近です。個性横溢の、芸術家魂を、発揮できるのは。
つくづく思うのですが、親子関係って、人間の基本部分を作る大切なものです。で、うちの主人は、『女性は、大学を出る必要はない。高校を出たらすぐ結婚をした方がいい。そして、若いうちに子育てをする。一人ではなくて、二人以上。そのあと(35歳以上か?)で、学びたい人は、大学へ入ればいい』と言います。それは、極論ででもあろうが、・・・・・
私は、お父さん(男性)の給料を絶対に上げる必要があると考えています。今のお若い方への低収入への、縛りは変ですし、年功序列制度を外したのも変です。
大原麗子さんは、お顔が抜群にきれいだし、感性も豊かなので、若いうちは、その隠されていた欠陥(親からの十分な慈しみが足りないせいで、いつも不安感に満たされていた)が、表面に出ることなく、暮らして来ることができました。それなのに、最晩年で、その弱点がご自分を苦しめたのです。ある種の被害者です。もって瞑目をし、哀悼の意を表します。
ただ、彼女のためを思って、彼女のこの世への貢献を語れば、その美しさによって、
広い範囲の、不特定多数の人に慰めを与えていたとは、言えますね。さすれば、その人生も十分に意義があるということになるでしょう。
2011年21日に書き始め、23日の早朝にいったん纏め上げ、午後三時に推敲終える。
雨宮舜(本名、川崎千恵子)
月曜日の朝は、旅行の話の続きを書くはずでした。が、自宅へいると、時間的な余裕があるせいで、かえっていろいろな、刺激に浸ってしまいます。で、気持ちが横へそらされてしまいます。本日はテレビから受けた刺激から、話を進めさせてくださいませ。
副題1、『大原麗子の、二人の夫は、なぜ、何も語らないのだ』
副題2、『中村久子という、四肢のない宗教家』
副題3、『中村久子と大原麗子・・・二人の父親は、決定的に違っていた』
副題4、『慈愛に満ちた祖母(久子)と、いじめてくる叔母(麗子)の差』
副題5、『実母が決定的に、違う心情を持っていた』
副題6、『大原麗子と、中村久子、その結婚の目的の違い』
副題7、『大原麗子と長電話』
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副題1『大原麗子の追悼番組で、なぜ、夫・二人は何も語らないのか?』
NHKBSプレミアムは、本日(月)の夜、興味深いものを二本並べています。そして、事前の宣伝もしていました。女優シリーズと、中国近代史の中での、日本と重要なかかわりを持った人物のシリーズです。
女優の方では、月曜日の、大原麗子は最も知りたい人の一人です。ミステリアスな雰囲気があります。ただ「どうして、孫文より大原麗子の方が、よい時間帯なのかしら?」との疑問をNHKへぶつけておきます。NHKは、ほぼ、税金に等しい視聴料を、とって運営されているのです。娯楽の方向ではなくて、貴重な資料を国民に提示するという方向で運営するべきであり、その点でいえば、女優の人生より、孫文と、日本の関係は重要です。
さてその大原麗子の方ですが、早い時間帯に放映されたので、主人と一緒に見ていたのです。それで、私が主人に質問をしていわく、「どうして、二人の、元夫だった人に質問をしないのかしら? どうして、彼らに何も語らせないのだろう。捨てた立場として、悪者になるからかしら」というと、「やはり、わがままだったのだろう」と主人は言います。主人の言い草では、芸術家は、一般的に、わがままだとのことです。
その通りだとは、思いますが、本日の大原麗子の番組を見て、子供時代の不幸が、大いに原因となっているのを知りました。その番組を逐一再現することはできないし、する必要もないのですが、ただ、一つ、強く印象付けられたのは、『彼女の思い出を特集する番組に、最も親しかった人たちが、登場しなかったのは、彼女の長電話に苦しめられ、それゆえに、喧嘩っぽい形で別れざるを得なかった人が多いのだろう』という側面です。
一般的には、真夜中には、電話をしてはならないのですが、一人暮らしをしている人間同士では、よくやることなのです。特に最晩年には、大原麗子には、仕事の依頼が少なくなっていて、それが、暇な時間を生み出し、さらに、不安な、気持ちも生んだ模様です。
特に芸術家とか、芸能人というのは、特別に感受性が強くて、電話で他人に相談したいものだと思います。私も逗子で、一人暮らしをしていた三年間には、長電話をこちらもしたし、相手からも大いにかかってきました。特に女性の一人暮らしというものはそういうものだと思います。
ところで、そういう寂しさを満たすものとして、まったく一人で我慢をしてしまうか、この様に甘えるかの中間を埋めるのが、つぃったーとか、ブログとか、フェイスブックだと思うのですが、かといって、そういう世界が、具体的な知人相手の長電話に取って代わることはないだろうし、それに相応する満足を与えてくれることもないのだと思います。
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副題2、『中村久子という、四肢のない宗教家』
旅行の話をしたいと冒頭に述べております。
あっち、こっちに回ったのですが、古いものを見るというテーマで行動をしたので、京都では、西、東、本願寺と、東寺を、拝見しました。この三つのお寺については語りたいことがあるのですが、それは、ちょっとあとへ回して、東本願寺がギャラリーを持っていて、そこで、中村久子展が開かれていたのを、ご報告をさせて下さい。
この人は、1897(明治30)年生まれで、亡くなったのは、1968(昭和43)年ですから、既に知らない方も多いでしょう。
私は一回自叙伝めいたものを読んでおり、知っておりました。が、その展覧会での表示を見ているうちに、自分が相当な、誤解をしていることがわかりました。
昔読んだ本の方の帯がセンセーショナルな文言で満ちていたせいかもしれませんが、
見世物小屋に、だるま女として、出ていたことを親が売りとばしたのだと思っていたのです。よく東北で、冷害のために、娘を身売りに出すということが、戦前まで行われていたのです。女中さんとか、女郎さんとしてです。
そういう職業も大変ですが、見世物小屋というと、さらに注目を集めるので、気の毒な仕事であり、不幸の極みに見えます。で、親が、育てきれないし、捨て子の一種として、預けたと考えていたのです。
さらに、別の側面から、普通の健康な子供だったのに、見世物小屋の主人が、四肢を切って、さらに効果が上がるようにしたのだとも誤解をしていました。
しかし、その二つとも、100%の誤解でした。
彼女はこの上ない不幸に見舞われていましたが、一方で、最高に幸せな人であり、その話は他人の胸を打ち、一種の宗教家と最後にはなっていった人なのでした。それゆえに、東本願寺が、教理の、公布のために、展覧会を開いているのです。
まず、四肢がないのは、遺伝的な障害ではなくて、切断によるものですが、その原因は、脱疽とか、壊疽と言われるもので、命を救うために、四肢を犠牲にしたということでした。足のしもやけが原因だったのです。
暖房の発達した今では、しもやけというものはほとんど聞きませんが、私が子供のころはしょっちゅうかかっていたものです。足の指が一種の凍傷みたいになって、紫色にはれて、やがて組織が崩れて、膿みたいになるもので、ダマリンとかいう薬を塗っていました。
私は皮膚が全体に弱くて、唇もしょっちゅう荒れていて、紫色の薬を塗られていました。ダマリンは、白いクリーム状だったので目立たなくて好きな薬でした。今でも目や口の端っこが荒れていますが、今の薬はたいていが透明なので助かります。便秘も治ったし、飲み薬はほとんどいらなくなって、低空飛行ながら、大体いつも同じレベルで暮らしているのですが、昔は、私を含めて、子供は病気にかかりやすかったのです。私は何度も「お前は、腺病質だから」と言って、危険なことはやらないように、外遊びもできるだけしないように、おんば日傘(?)で育ったみたいです。母自身も、線病室だ、せん病質だ」と、言われて育ったそうですよ。ともかく、昔は、こどもは病気にかかりやすく、すぐ死ぬものでもあったのです。
だけど、精神的な問題では、我が家では、大体家族全体が冷静で、メンバーの批判をずんずんするし、それは、数代前からだし、で・・・・・こういう家族は、「出世をするという意味では、効率は悪いな」と思いますけれど。仕方がないのです。
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副題3、『中村久子と大原麗子・・・二人の父親は、決定的に違っていた』
中村久子さんが、不幸だと客観的に見えるのは、父親が早死にをしてしまったことにも帰するでしょう。昔の庶民の家(中村さんは、たたみ屋さんだった)とか、女性そのものには経済力がなくて、お母さんは、再婚しなければなりませんでした。
その前の実父が、久子さんを、強く愛してくれたそうです。それは再婚後の継父が冷酷な扱いをした(座敷牢に閉じ込めた)ので、差が際立ったそうです。今でも、連れ子を虐待死はよく聞きますが、男性優位の昔の社会で、連れ子のあるような条件の悪い女性を、妻にめとるような男性は、どこか性格的に、欠陥があったのかもしれません。また、四肢がないということで、将来性がないとみられて、それによって、虐待に近い扱いへとなったのかも知れません。学校にもむろん行かれなかったのです。
この継父の家の祖母にあたる人も意地悪だったそうです。が、同居か、別居だったかはわからないものの、母方の祖母が、非常に愛情豊かな人で、あり、彼女は救われました。
ところで、大原麗子さんは、実の父親が、子供たちやら、妻に暴力を振るので、愛されたという思い出を持っていないのです。これも彼女の最晩年の、寂しさや不安を生んだと思います。大変きれいな人なのに、内面での充実がなかったのです。かの女は撮影現場でも孤独だったらしいですね。大勢の人と分け隔てなく付き合うということはとてもできない人だった模様です。
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副題4、『慈愛に満ちた祖母(久子)と、いじめてくる叔母(麗子)の差』
中村久子さんが、感謝している相手は数多くいるのですが、最初に上げているのが祖母です。この人は東本願寺はの熱心な信徒で、やさしくてかつ賢い人だった模様で、学校へもいけない久子を、人々と積極的に交わらせようと努力をしました。
展覧会では、いつ、どういう風に同居をしたのかが書いてありませんが、お母さんが継父(二番目の夫)との仲をよくするように努めて、(異父兄弟党が生まれたのかもしれませんが)、実母を招き入れたのではないかと感じます。久子さんは継父に、虐待をされた時期もあったそうですが、別の時期に祖母から、玄関に出るように言われて、どんなときにも気おくれをしないようなしつけとマナーを植え付けられたと言っています。または、実父が死ぬ八歳までの記憶なのかのしれません。
祖父母というものにとっては、孫は大変かわいいものです。でも、大原麗子さんの口からは、祖父母の思い出が語られることはありません。実父の側の、祖母の思い出も語られないし、母の実家の祖父母についても語られません。しかもまずいことに、叔母にいじめられたという思い出が語られるのです。
あのね。これは想像で、例の見て来たような嘘を言いの類ですが、そのおばさんが昔の言葉でいうオールドミスとか、「行かず後家」だったとしましょう。戦前や戦後は、女性は結婚をするのが当たり前であったので、非婚の女性はある意味での差別の対象でありました。ココは、現在のお若い読者には、反発を招く表現ではあろうと思いますが、それでも、事実として、そうだったのです。または、戦争によって、男性の数が少なくなっていたので、女性で未亡人だったり、未婚だった可能性はあります。
でも、どちらにしろ、このおばさんが、意地悪だった原因のひとつに、おばさん自身が社会から、そこはかとはない差別を受けていて、それゆえに、より弱い存在である麗子ちゃんに当たったという可能性はあります。
それから、インテリは、子育てがへただと言うことがあります。麗子さんの母が元先生だったというぐらいですから、その姉にあたるおばさんも知的な人である可能性は強いのです。このインテリであるということは子育てにおいてマイナスの要素の一つです。子育てには盲目的なほどの、一種の動物の本能に近いレベルの愛情が必要です。
しかも、後年、女優になっていく、大原麗子さんですから、小さい子ながらの、お色気というものもあったでしょう。それを、堅物のおばさんは嫌ったと思えばよくわかります。
しかし、問題はお母さんなのです。これが大問題なのです。
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副題5、『実母が決定的に、違う心情を持っていた』
中村久子の母は明治生まれの人です。しかも、田舎の畳屋さんに嫁いだ女性です。なんら、優越ポイントを持っていない人でした。でも、余裕ができた後か? 座敷牢へ閉じ込められていた久子を、自立できるように徹底的にしつけます。ご飯を食べることから始まって、ありとあらゆることをしつけました。それは、大変厳しい教え方で、絶対に、自分ひとりで、それが、できるようになるまで解放をしなかったそうです。当時は、泣いたり恨んだという久子も、後年、大きく母に感謝しています。で、どこかのお寺に石造りの悲母観音を寄贈しています。
彼女ができることは驚くほど、多くて、和服(大人の女性用の銘仙の着物)を縫ったり、より小さな、日本人形用の、着物も、自分ひとりで縫っています。そして、それを、三重苦の聖女として有名なヘレン・ケラー女史にプレゼントをしています。
久子は、そのような自立の力をつけてもらったうえで、一生を生きていく生活費を得るために、見世物小屋に入る決意をします。ここが、私がもっともおおきな誤解をしていたところなのですが、彼女は自らの意思で、興行界に入ったのです。それは、20歳の時であり、既に子供でもありませんでした。
何事も命令されてやるのは不幸ですが、自分が決定して、自分から入っていったのだったら、耐えられるものです。そして芸といっても、口で筆を咥えて「書」を書くことです。きちんと書道の先生について、立派な書を書いています。その書道の先生は、いつのときも、品を保つようにとも、教えたそうで、彼女はお寺の縁日などの、見世物小屋でも、気品を保って、芸をしていたのです。キャッチコピーこそ、だるま女というどぎついものでしたが・・・・・
一方の大原麗子さんですが、お母さんに大問題があったと見ます。悪人だったというわけではなくて、愛を知らない人だったと見ます。夫のいらいらも、彼女のやさしさとか、できすぎた女である態度とかが、生起させたのかもしれません。
そして、女性というものはフロイトの言う通りで、概して、娘には愛情を抱けないものなのです。そのうえ、『この子がいなかったら、再婚が自由にできたのに、邪魔だわ』と潜在意識の中で思ったかもしれません。それは、番組の中で、母からの手紙の実際が紹介されて、その中で、麗子が本当に求めていた「家へ帰ってきなさい」という文言がなかったという解説の声が、かぶさったので、やはりそうだったのかと思い当たったことです。実母の、実の姉がいくら麗子さんを嫌っても、実母である妹の方が、それに激しく抵抗をすれば、手は、お姉さんは出せないものなのです。この際の手というのはひっぱたいたという行動をさすのではなくて、心理的ないじめを指します。
実際のところは、実母の中に、愛は、芽生えていなかったということです。お母さんは、麗子さんを置いて、弟さんの方をつれて出ていれば、母の愛に目覚めたかもしれません。だが、男の子は家の跡取りとしてのこされ、それを切に希望した麗子の方だけを、つれて出たので、結局のところ、深くて、真実の母の愛までは、到達し得なかったのかもしれません。だから、NHKの番組内で解説をされたとおりに、彼女には帰る家がなかったのです。
でも、お母さんが仕事をする人としては優秀な人であって、後姿として、彼女に働くことを教えたのは、よかったですね。一種の不良として六本木をさまよいながらでも、いざスカウトされれば、ちゃんと、女優の仕事はできたからです。
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副題6、『大原麗子と、中村久子、その結婚の形と目的の違い』
中村久子さんは、心の面ではごく普通であることを、目的として生きてきたのです。
しかし、人生の途上で、数々のよき指導者と出会います。上に上げた芸事としての書道の先生も常に品のよさを保つように教え、次ぎの大きな出会いは、肢体が不自由ながら、神戸女学院の購買部で働き、経済的に自立をしている女性でした。また、宗教的な指導者にも次々と出会っています。
でも、41歳までの生活のばであった見世物小屋の座長もいい人だったと、推察されます。久子の境遇をよくわかっていて、夫たちを、紹介したり、夫婦で、一座の中で暮らすことができるように取り計らっていたみたいです。
一人目の夫は、関東大震災のときにか、なくなり、二人目の夫もなくなりましたが、三人目の夫が春琴抄の登場人物であるかのごとく、久子を守り、助けました。久子は、この夫との愛を信じて、威張りくさっているところもあったと、周りにいた人が証言をしています。
久子は、口、歯、また、へらとも鍵とも付かぬ道具の三つを使って、お裁縫まで、自分できましたが、四肢がないのですから、介助は受けたほうがよく、そのためには、結婚をするしかなかったのです。最初の夫に操を立てて未亡人として暮らすなどとは彼女にとっては贅沢の一種でした。
彼女はどんどん、よき出会いに恵まれます。人生の地平が開けて、著作をする人、または、講演をする人として、いわゆる文化人へと、変化していくのです。これは、一回も学校へ通ったことのない人の出世(?)としては、ある種のシンデレラ・ストーリーです。もし、これが現代の話であれば、妻と夫はやがて、話も合わなくなり、離婚に至ったということになるかも知れません。でも、彼女は、どんなにえらい立場の紳士と、出会おうとも、みせもの小屋の座長が世話をしてくれた年下の夫と別れることはありませんでした。
そういう行動の芯の中には、人に感謝する心があった模様です。その時点までの、夫が自分に対して、やってくれたことへの深い感謝が、わき目を振ったりは、しないことへつながりました。欲が深くは、ないのです。
ともかく、お互いに必要な人として、かつ、表も裏も、公的な生活も、私的な生活も一緒にいる人としての、夫であり、妻でした。久子さんは、見世物小屋という大家族の中で、20歳から41歳まではすごしています。だから、ほかの家族とか、ほかの夫婦を見る機会も多かったでしょう。それで、親の姿からだけではなくて、この様な共同生活をする見世物小屋の内部でも、学ぶ機会が多かったと推察されます。
動物園でも、動物園で、生まれた象とか、トラや、熊が子育てをしないので、母親が育児を知らず、赤ちゃんを虐待するので、飼育員がかわって育てるということが、よく言われます。実は都会の、核・家族制度は、人間社会(特に、日本)の社会に、大きな禍根というか、問題を生んでいるのかもしれないのです。子育てなんて、面倒極まりなく、親に労働と奉仕を要求するものですが、そんな基本的なことにさえ、わきまえがないので、なくから面倒くさいから、ご飯をやらないで、自然死を待とうなどと言う考えの親が多いのかもしれません。中学生になって、餓死に近い例が、報告をされていますから、それ以外の発見されていないケースで、恐ろしいことが多発している可能性はあります。
そういう実例を身近には見ていなかった人の一人としての、大原麗子さんは、芝居やテレビドラマで、夫婦生活を見ることはあっても、それは、ドラマチックな場面が切り取られているわけで、ごくごく普通のところが、見えていなかったわけです。
ここで、ちょっとした余談に入りますが、フジテレビの番組で、とんねるずの食わず嫌いというのがあります。あれを番組の推薦ランに誘われて何回か、見ていますが、最初はなんて下らない(=意味のない)番組だろうと驚き入ったのですよ。だけど、だんだん違う考えにもいたりました。 『これは、昔からあるごく普通の夕食の景色を再現しているのだ。と、言うことは、今では、そのごく普通の夕食の景色というのが社会の中から奪われているのだ。だから、一種の理想の食卓の形として、この番組は、提示されており、視聴者に支持されているのだろう』と、わかってきたのです。
夫婦なんて、「一緒に子供を育てる」とか、「一緒に朝食と夕食を食べる」とか言うことで、形成されていくものだと思います。そういうごく普通の時間を一緒に過ごすことが、女優だとできなかったわけでしょう。相手からの呼び出し次第で、動かなくてはならない仕事ですから。しかも、夫が、マネージャーとか、一般男性であったりするケースだったら、相手が折れてくれるでしょうが、彼女の二人の夫は、どちらも、スケデュールが複雑な人で、そちら側から、麗子さん側に折れて出る可能性はなかったのです。
それでも、家庭像が飲み込めている女性だったら、一週間に一回ぐらいは、それを成立させる日を作って、あとは『ごめんなちゃーい』ぐらいで、済ませられるのだけれど、大原麗子さんには、そのごく普通の家庭像と言うのは飲み込めていなかったと思いますよ。だから、個性的な二人が、とげも納めず、同じ空間にいるということになって、しかも、金銭的にも老後の介護と言う意味でも、相手を必要としていないから、やがて離婚に至るのは当たり前です。
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副題7、『大原麗子と長電話』
全く対照的な二人ですが、中村久子さんに四肢がないという障害があったわけですが、大原麗子さんにも心の中に、障害があったのです。そのことをだれも認めたがらないが、育ちの過程で、十分な愛情を与えられなかった人は、いい意味での自尊心とか、自己愛とか、自立心とかの面で欠けているところがあるのです。
で、もし、彼女の結婚が、いまだに継続していたら、絶対にやらなかったであろう、友人たちに長電話をかけて嫌われるということになってしまいました。
草間弥生なんかも、もし、精神病院で夜を過ごすのでなかったら、電話を誰彼にかけまくった人になったでしょう。ところで、私が心配するのは、今は、インテリのお母さんが多いということです。私の母は、資格は別に何もなかったが、いわゆる、頭の良い出来る女で、家庭の中に常にいたのですが、事実上の、キャリアーウーマンでした。ので、私は、大原麗子と似たところがあります。ただ、家庭を持ち、子供が二人もいるし、何とか、何とか、普通に生きているわけですが
・・・・・その私もまた、そのインテリのお母さんのひとりであり、また、子供にさびしい思いをさせている家庭という連鎖の中の一人なのです。だから、子供たちから、「普通であってほしい」と激しく抵抗をされ、かつ、そのように、願われました。で、私はできるだけ、普通であるように努めているのです。特に45~55までは、そのことだけに、が、専念しました。最近です。個性横溢の、芸術家魂を、発揮できるのは。
つくづく思うのですが、親子関係って、人間の基本部分を作る大切なものです。で、うちの主人は、『女性は、大学を出る必要はない。高校を出たらすぐ結婚をした方がいい。そして、若いうちに子育てをする。一人ではなくて、二人以上。そのあと(35歳以上か?)で、学びたい人は、大学へ入ればいい』と言います。それは、極論ででもあろうが、・・・・・
私は、お父さん(男性)の給料を絶対に上げる必要があると考えています。今のお若い方への低収入への、縛りは変ですし、年功序列制度を外したのも変です。
大原麗子さんは、お顔が抜群にきれいだし、感性も豊かなので、若いうちは、その隠されていた欠陥(親からの十分な慈しみが足りないせいで、いつも不安感に満たされていた)が、表面に出ることなく、暮らして来ることができました。それなのに、最晩年で、その弱点がご自分を苦しめたのです。ある種の被害者です。もって瞑目をし、哀悼の意を表します。
ただ、彼女のためを思って、彼女のこの世への貢献を語れば、その美しさによって、
広い範囲の、不特定多数の人に慰めを与えていたとは、言えますね。さすれば、その人生も十分に意義があるということになるでしょう。
2011年21日に書き始め、23日の早朝にいったん纏め上げ、午後三時に推敲終える。
雨宮舜(本名、川崎千恵子)