今日はたった9時間で更新しております。夜ごらんになる習慣のある方は下に2本ほど、一日の間に、アップロードをさせていただきました。
で、このお断りの後に本文に入らせていただきます。
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何度もくりかしていますが、BSジャパンの番組(なお、ここで、お断りをしますが、研究発表者の名前を、小林利英と書いた日がありましたが、利延というのが正しい表記でした)を正しいと信じれば、ゴッホは一種の聖人となり、狂人ではなくなります。周りから狂人へと仕立て上げられた事となります。
精神病院というのは、より力の強い人間が、不都合な事を隠すために、一種の収監先として、利用をされる事があります。たとえばカミーユ・クローデルが、彫刻の世界では、師であったロダンと恋愛と芸術上のトラブルに陥り、彼女の方が精神病院へ入院することになりました。別にロダンが手配をしたとも思えませんが、結果として大局的に見ればそうなります。
ここで、全くの私的な仮説ですが、ゴーギャンが裏から手配をして、ゴッホを入院させたとすれば、この後年の、テオの銃撃を許したという事も二回目なので、わかるような気がします。つまり事実は、ゴーギャンが耳たぶを剣でそぎ落としたのですが、ゴッホがそれを許して世間には一切を発表しなかったので、かえってゴーギャンが恐怖に襲われたと考えると、ありうることとなります。
「いつ、真実を語られるかが、わからない。それが怖いから、彼を、ここで抹殺をしておこう」となると、非常に分かりやすくなります。
現在の私たちは、ゴーギャンの晩年が不幸であった事を知っているので、耳切り事件当時のゴーギャンが、力のある存在だったことを忘れていると思います。彼は株式仲買人でした。資本主義の興隆期で、今とは違って株式の売買は大衆のものではなくて、特権階級の専権事項だったでしょう。しかも仲買人とは、そういう大金持ちを心理操作して、利ざやを稼ぐ職業です。頭が良い人でなくてはできません。
だけど、金持ちほど、気持が汚い場合もあるでしょう。損失を責められたりする日もあって、ゴーギャンはもっと主体的に生きられる、絵の世界へ逃げたのでした。でも、顧客との縁が切れていないと仮定をすると、顧客は大金持ちであり、特権階級であった可能性はあるのです。
私は文化庁の在外研修生として、1998年にパリに渡ったのですが、そのときに意外なことを聞きました。「巴里って意外とコネが効くのよ。有力者に手配をしてもらえば、そんなこと・・・・・滞在期間を延長したいという、私の願い、それは、別のビザがいるわけですが、それが、・・・・・簡単にかなうわよ。たとえばシテ・デザール(後注1)へ入れるように手配をすれば」という話です。
びっくりしました。巴里とはフランス革命の起きた都市です。しかし、それは遠い昔のこととなっていた模様です。
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ここで、挿入となりますが、1950年代から1980年ごろまでの日本とは、世界に冠たる民主主義の実践国だったということが、事実だとすると、うなずける事がパリで、多々見受けられました。
それは、別に<<<日本人がフランス人より優れている>>>ということではなくて、日本が、第二次世界大戦の敗戦という大ショック療法を受けて、まるで、大革命が起きたかのような大変革を経験したおかげでした。戦前までは士農工商という、差別があったのです。その上さらに、華族制度もあったし、大地主の存在も大財閥の存在もあったのでした。の存在も一方ではあったのです。
ところが、新円切り替えとか、農地解放とか、天皇の人間宣言とか、いろいろ、あって、一気に、世界にたぐいまれなる、民主主義、および平等社会、が実現をしたのでした。
ただ、それゆえに、嫉妬社会ともなり、監視社会ともなり、しかも最近では、その民主主義平等主義も、相当に崩れてきています。
だから今の若い人たちは相当に苦しい状況に追い込まれている模様で、大変ですが、今、67歳の私にしてみると、巴里が古いと思えるほど、パリは、特権階級同士の融通がきく世界なのでした。
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しかし、ゴッホは<<<自分が、貧しい事に、ほこりさえ感じていた>>>気配がありますので、特権階級とは無縁でした。しかし、ゴーギャンは先ほども言った通り、画家になる前の職業上の付き合いがあったので、特権・階級・同士の根回しによってゴッホを入院させる事が出来るのです。
大きな不条理ですが、それをも、ゴッホが許したと仮定をしてみましょう。しかし、一般の人には話していないその耳切り事件の真相を、精神科医のガシェ博士には話していたと、これも仮定をすると、ゴッホの死亡時の、ガシェ博士の不思議な行動の数々をも、理解ができ、納得が行くこととなります。
Wikipedia によればガシェ博士と、ゴッホはパリで知り合った事となっています。ガシェ博士は週になんどか、パリへ診察をしに出かけていたのでした。貧しいゴッホが、当時は数が少なかったであろう、精神科医にかかる事ができたのは、精神科医の仲間内で、ゴッホが既に相当有名な存在になっていた事をうかがわせます。
ガシェ博士は、親切に好意を持ってオーヴェールに招いたといわれています。その下宿だって、ガシェ博士の紹介で入った可能性はあります。風貌が特異で、性格的にも順応性の低いゴッホを、受け入れる人が、なかなかいないと思われますが、その町の名士であるガシェ博士の紹介だったら、小さなカフェが下宿を引き受けてくれる可能性はあります。
だけど、ガシェ博士の潜在意識の中で、研究テーマとしてのゴッホへの興味がなかったと言ったらウソになると思います。実験動物と言ったら言い過ぎですが、とても、変わった例として、ゴッホをそばで観察したいと思っていたとしたら、非常に納得がいく事があるのです。
なぜ、週に何回も巴里へ出かけているガシェ博士が、銃弾を取り除く手術ができる外科医を、パリから呼ばなかったかですが、もし、<<<犯人がテオである>>>と、ガシェ博士が既に、推察をしていたら、それは、納得ができることとなるからです。
これも仮定ですが、金銭的援助をめぐるトラブルが、弟テオとの間に既にある事を、ゴッホから聞かされていたら、ガシェ博士が、弟テオの方を助けてやろうと考える可能性はあるのです。
ゴッホとは、単に患者と医師という関係だけではなくて、友人でもあったと記されていますが、精神科医としての研究対象として、ゴッホを観察したいと思っていたとすれば、ゴッホに感情移入をしていないわけです。だから、常識から判断すれば、テオの言い分は無理がないとなり、この銃撃を、予測をしていた範囲の事と考える可能性は高く、冷静極まりない判断の結果として、ゴッホを助けるよりも、テオの味方をしたいと考えた余地は残るのです。
テオがもし、銃撃を本当にしたとして、彼が秘密を最後まで守りえたのは、妻の支えもあったが、ガシェ博士の心理的な支援もあったと考えると、納得がいき易いのです。
でも、テオは、さすがにゴッホとは、血のつながった兄弟であるから、冷静極まりないガシェ博士とか、妻とはちがって、悩みと苦しみの果てに、自殺ではないものの、自らの命を、短縮することとなったのでした。
以上の二つは、まったくもって、私の直感的な判断に基づいていて、研究資料を当たったわけではありません。だけど、いつも心理学的な問題に興味がある私には、このように想像をされるのです。では、今日はここで。いったん、切りましょう。
(後注1)シテでザールとは、アトリエつきマンションで、800人程度が入所できる施設。大学ではなくて、すでに作家として自らを確立した人が、パリで、制作やら、発表が、容易にできるように、配慮をされていて、個展ができる画廊が5室も付属をしているし、プレスという版画用の機械がたくさん並んでいる工房も付属している。地の利は、ノートルダム寺院のすぐそばのセーヌ川中の島で、超便利。私自身も、一回日本へ帰宅した後で、そちらへ、再び学びに出かけたかったが、それはかなわず、後ほどニューヨークへ行くことと成った) 2009年11月2日 雨宮舜(川崎 千恵子)
で、このお断りの後に本文に入らせていただきます。
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何度もくりかしていますが、BSジャパンの番組(なお、ここで、お断りをしますが、研究発表者の名前を、小林利英と書いた日がありましたが、利延というのが正しい表記でした)を正しいと信じれば、ゴッホは一種の聖人となり、狂人ではなくなります。周りから狂人へと仕立て上げられた事となります。
精神病院というのは、より力の強い人間が、不都合な事を隠すために、一種の収監先として、利用をされる事があります。たとえばカミーユ・クローデルが、彫刻の世界では、師であったロダンと恋愛と芸術上のトラブルに陥り、彼女の方が精神病院へ入院することになりました。別にロダンが手配をしたとも思えませんが、結果として大局的に見ればそうなります。
ここで、全くの私的な仮説ですが、ゴーギャンが裏から手配をして、ゴッホを入院させたとすれば、この後年の、テオの銃撃を許したという事も二回目なので、わかるような気がします。つまり事実は、ゴーギャンが耳たぶを剣でそぎ落としたのですが、ゴッホがそれを許して世間には一切を発表しなかったので、かえってゴーギャンが恐怖に襲われたと考えると、ありうることとなります。
「いつ、真実を語られるかが、わからない。それが怖いから、彼を、ここで抹殺をしておこう」となると、非常に分かりやすくなります。
現在の私たちは、ゴーギャンの晩年が不幸であった事を知っているので、耳切り事件当時のゴーギャンが、力のある存在だったことを忘れていると思います。彼は株式仲買人でした。資本主義の興隆期で、今とは違って株式の売買は大衆のものではなくて、特権階級の専権事項だったでしょう。しかも仲買人とは、そういう大金持ちを心理操作して、利ざやを稼ぐ職業です。頭が良い人でなくてはできません。
だけど、金持ちほど、気持が汚い場合もあるでしょう。損失を責められたりする日もあって、ゴーギャンはもっと主体的に生きられる、絵の世界へ逃げたのでした。でも、顧客との縁が切れていないと仮定をすると、顧客は大金持ちであり、特権階級であった可能性はあるのです。
私は文化庁の在外研修生として、1998年にパリに渡ったのですが、そのときに意外なことを聞きました。「巴里って意外とコネが効くのよ。有力者に手配をしてもらえば、そんなこと・・・・・滞在期間を延長したいという、私の願い、それは、別のビザがいるわけですが、それが、・・・・・簡単にかなうわよ。たとえばシテ・デザール(後注1)へ入れるように手配をすれば」という話です。
びっくりしました。巴里とはフランス革命の起きた都市です。しかし、それは遠い昔のこととなっていた模様です。
~~~~~~~~~~
ここで、挿入となりますが、1950年代から1980年ごろまでの日本とは、世界に冠たる民主主義の実践国だったということが、事実だとすると、うなずける事がパリで、多々見受けられました。
それは、別に<<<日本人がフランス人より優れている>>>ということではなくて、日本が、第二次世界大戦の敗戦という大ショック療法を受けて、まるで、大革命が起きたかのような大変革を経験したおかげでした。戦前までは士農工商という、差別があったのです。その上さらに、華族制度もあったし、大地主の存在も大財閥の存在もあったのでした。の存在も一方ではあったのです。
ところが、新円切り替えとか、農地解放とか、天皇の人間宣言とか、いろいろ、あって、一気に、世界にたぐいまれなる、民主主義、および平等社会、が実現をしたのでした。
ただ、それゆえに、嫉妬社会ともなり、監視社会ともなり、しかも最近では、その民主主義平等主義も、相当に崩れてきています。
だから今の若い人たちは相当に苦しい状況に追い込まれている模様で、大変ですが、今、67歳の私にしてみると、巴里が古いと思えるほど、パリは、特権階級同士の融通がきく世界なのでした。
~~~~~~~~~~~~
しかし、ゴッホは<<<自分が、貧しい事に、ほこりさえ感じていた>>>気配がありますので、特権階級とは無縁でした。しかし、ゴーギャンは先ほども言った通り、画家になる前の職業上の付き合いがあったので、特権・階級・同士の根回しによってゴッホを入院させる事が出来るのです。
大きな不条理ですが、それをも、ゴッホが許したと仮定をしてみましょう。しかし、一般の人には話していないその耳切り事件の真相を、精神科医のガシェ博士には話していたと、これも仮定をすると、ゴッホの死亡時の、ガシェ博士の不思議な行動の数々をも、理解ができ、納得が行くこととなります。
Wikipedia によればガシェ博士と、ゴッホはパリで知り合った事となっています。ガシェ博士は週になんどか、パリへ診察をしに出かけていたのでした。貧しいゴッホが、当時は数が少なかったであろう、精神科医にかかる事ができたのは、精神科医の仲間内で、ゴッホが既に相当有名な存在になっていた事をうかがわせます。
ガシェ博士は、親切に好意を持ってオーヴェールに招いたといわれています。その下宿だって、ガシェ博士の紹介で入った可能性はあります。風貌が特異で、性格的にも順応性の低いゴッホを、受け入れる人が、なかなかいないと思われますが、その町の名士であるガシェ博士の紹介だったら、小さなカフェが下宿を引き受けてくれる可能性はあります。
だけど、ガシェ博士の潜在意識の中で、研究テーマとしてのゴッホへの興味がなかったと言ったらウソになると思います。実験動物と言ったら言い過ぎですが、とても、変わった例として、ゴッホをそばで観察したいと思っていたとしたら、非常に納得がいく事があるのです。
なぜ、週に何回も巴里へ出かけているガシェ博士が、銃弾を取り除く手術ができる外科医を、パリから呼ばなかったかですが、もし、<<<犯人がテオである>>>と、ガシェ博士が既に、推察をしていたら、それは、納得ができることとなるからです。
これも仮定ですが、金銭的援助をめぐるトラブルが、弟テオとの間に既にある事を、ゴッホから聞かされていたら、ガシェ博士が、弟テオの方を助けてやろうと考える可能性はあるのです。
ゴッホとは、単に患者と医師という関係だけではなくて、友人でもあったと記されていますが、精神科医としての研究対象として、ゴッホを観察したいと思っていたとすれば、ゴッホに感情移入をしていないわけです。だから、常識から判断すれば、テオの言い分は無理がないとなり、この銃撃を、予測をしていた範囲の事と考える可能性は高く、冷静極まりない判断の結果として、ゴッホを助けるよりも、テオの味方をしたいと考えた余地は残るのです。
テオがもし、銃撃を本当にしたとして、彼が秘密を最後まで守りえたのは、妻の支えもあったが、ガシェ博士の心理的な支援もあったと考えると、納得がいき易いのです。
でも、テオは、さすがにゴッホとは、血のつながった兄弟であるから、冷静極まりないガシェ博士とか、妻とはちがって、悩みと苦しみの果てに、自殺ではないものの、自らの命を、短縮することとなったのでした。
以上の二つは、まったくもって、私の直感的な判断に基づいていて、研究資料を当たったわけではありません。だけど、いつも心理学的な問題に興味がある私には、このように想像をされるのです。では、今日はここで。いったん、切りましょう。
(後注1)シテでザールとは、アトリエつきマンションで、800人程度が入所できる施設。大学ではなくて、すでに作家として自らを確立した人が、パリで、制作やら、発表が、容易にできるように、配慮をされていて、個展ができる画廊が5室も付属をしているし、プレスという版画用の機械がたくさん並んでいる工房も付属している。地の利は、ノートルダム寺院のすぐそばのセーヌ川中の島で、超便利。私自身も、一回日本へ帰宅した後で、そちらへ、再び学びに出かけたかったが、それはかなわず、後ほどニューヨークへ行くことと成った) 2009年11月2日 雨宮舜(川崎 千恵子)
私については山本卓男で検索していただきますと、ヒューマン・クリエーションというサイトとyou Mediaというサイトが出ます。いま、たちあげようとしているのはyoumedia.laの方です。
よろしくお願いいたします。
また、それを、簡略にしたものが、市販で特に中古書誌上で手に入ると思います。小林秀雄訳だったでしょう。
ところで、私は画家が専業でライターではないので、書庫等を保持しておらず、今現在、あなた様のお問い合わせに対して、どの本のどの頁にあったかをお知らせをすることができません。
が、どうしてもこれだけはお知らせをしたいと願っていることは、この文章は、前後、相当長くつづいているとのことです。
ごく最近の名著で同じく小林さんという苗字の方のが、どこかこのブログ内でも出てきます。それをかねて左側のカレンダーでこの文章の前後の薄いブルーの字をクリックしていただけますと幸いです。
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10月28日、31日、11月1日は、見つけていただいた文章の下に、もういっぺん入っています。
さらに、11月4日、8日、11日と続きます。
AtelierCK@aol.comにご連絡をいただければ、さらに、この件でお話ができるかも知ません では。
また、それを、簡略にしたものが、市販で特に中古書誌上で手に入ると思います。小林秀雄訳だったでしょう。
ところで、私は画家が専業でライターではないので、書庫等を保持しておらず、今現在、あなた様のお問い合わせに対して、どの本のどの頁にあったかをお知らせをすることができません。
が、どうしてもこれだけはお知らせをしたいと願っていることは、この文章は、前後、相当長くつづいているとのことです。
ごく最近の名著で同じく小林さんという苗字の方のが、どこかこのブログ内でも出てきます。それをかねて左側のカレンダーでこの文章の前後の薄いブルーの字をクリックしていただけますと幸いです。
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10月28日、31日、11月1日は、見つけていただいた文章の下に、もういっぺん入っています。
さらに、11月4日、8日、11日と続きます。
AtelierCK@aol.comにご連絡をいただければ、さらに、この件でお話ができるかも知ません では。