銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

日傘雅水が美麗オフィスを捨て、村松友視が小タウン誌に連載した、理由は、同根の筈

2014-02-13 21:44:02 | Weblog

 これは、(後注1 2月5日付)の続きですが、副題は1からはじめます。この前にどういうことを書いていたかというと、赤瀬川さんが、大問題なのだということを書いています。で、赤瀬川さんを支援してきた出版社・中央公論の編集長、湯川有紀子さんについていろいろを書いたのが、その文章です。本当は、国画会(直前)の続きを書きたいのですが、本日は外出をして疲労していますので、新しいものを書けません。2月のはじめに一部を書いていた、下の文章に加筆して、再度公開させてくださいませ。

 副題1、『日傘さんのムックに出会ったのは、本当に、チャネリングだと思う』  

副題2、『日傘さん、表参道の交差点で、変貌する。変だと直感した』  

副題3、『日傘さんは、すばらしいオフィスを捨てた。なぜか?』  

副題4、『小沼純一、山本冬彦、内海信彦の投稿時間の不思議さ』  

副題5、『片山容疑者(成りすまし疑惑)は、どこへ消えちゃったのだろう?』
副題6、『フェイスブックの世界で、とんでもないことが起こり始めた2012年1月ごろ』
副題7、『村松友視氏のエッセイ集、<幸田文のマッチ箱>には、竹久夢二の千代紙が使われている』

副題8、『村松友視が、鎌倉春秋社の、タウン誌に連載を始めた?』
副題9、『村松友視のヒット作は河出書房新社が多いので、・・・・・おや、おや、ここで、川名昭宣君が登場するのかな?・・・・・とも、思う』

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 副題1、『日傘さんのムックに出会ったのは、本当に、チャネリングだと思う』

  私は自分の手相は悪い方だと思っていて、手相占いは、避けて通っておりました。それが、急変したのは、現在はなくなってしまった銀座の福屋書店の一階です。マガジンハウス社のムックが平台においてあって、生まれて初めて、自分の手相 と似た手相が出ている本を見つけました。これは、どういうことかというと、日傘さんが日大芸術学部卒のインテリで、しかも、クライアントが、芸術家とか、 芸能人が多いので、私の手相と似ている手相が出ていたのです。

 もっとも、特徴があったのは、太陽線というのを、大きく解説してあったことです。一般の人は手相というと、生命線とか、結婚線を気にするみたいですが、私が気にしたのは、人気とか、創作とか、芸能や、芸術に関連している、部分で薬指の付け根に現れるものです。   その太陽線ですが、日傘さんに、連続して4回ほど観てもらったころよりは、さらに、よくなっています。大芸術家になるのをあきらめたので、本当は駄目に なっているはずですが、そうでもないのです。前は、あれこれ、たくさんやりすぎていて、分散していました。それから、付き合いも多くあって、好きな人も男 女合わせていっぱいいて、それで、そちらでも分散が象徴されていたので細い線がたくさんあったのです。しかし、仕事を制限してゆったりと暮らしていて、し かも、神様を信じていますね。それで、すっきりした一本の長い太陽線が出てきました。

 利き手のほうが他人から見える私らしいです。そちら は、社会階層的に無名であって、しかも無官および無冠であるので、さして、よい線はありません。だが、自分の本質を表すとされる、左手が華やかな、カツ、 力強い線へと変更しているので、『ああ、自分は、あきらめたといいながら、それでも、できるところでは、最大限の修行を続けているので、それが現れていま すね』と、ひそかに安心しているのです。芸術に関しても、左手には、大成功をするという線が現れてきているので、受賞とか、そう言うことは無くても、実質 的に、いい仕事はできるだろうと、ひそかに自信を持っているのですよ。だから、気分はすこぶる明るいです。そのよい仕事は、死後に報われることとなるだろ うと、それも信じているのです。

 でね、皆様にも、富山の置き薬みたいに、一家に一冊、お買い求めになっておいたらいいと思います。他の手相の本とはまるで違いますので。マガジンハウス社発行のムックで、アンアン別冊とも書いてあるはずです。著者は、日傘雅水さん・・・・・  この節の上の方で、日傘さんは、日大芸術学部卒のインテリで、といっていますが、学歴以上に上品な方なのです。お客が上等なのは、昔、YMOのマネージャーをしていたそうです。     でね、後で、その詳細を述べますが、例の敵さんたちが裏で動いたと推察され、今は、すでに別れ切っているので、そこまではっきりと述べますが、日傘さんご 自身にも、悩みはあったと思われますよ。だって、YMOの中で、唯一現役で、表舞台に出没している坂本龍一さんは、現在のマネージャー(といっても、一代 前の男の子)に対して、すこぶる横暴だと、ネットの世界で情報が、出回っています。外面がいい人の典型で、弱い立場の人間に対しては威張りまくるというこ とはあるでしょう。

 それと、日傘さんの心痛の、別の原因ですが、芸能人は外の世界との戦いがありますね。テレビの世界、それから、大衆と の戦いがあります。人気という不安定なものを相手にしないといけません。そう言う世界で若い時に、いろいろ、心痛をなさったことがあるでしょう。そう言う 苦労の上の今だから、余計品がよく、慎重な性格になられたと思います。

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副題2、『日傘さん、表参道の交差点で、変貌する。変だと直感した』

  日傘さんは、新しいクライアントと、関係するときに、異常に警戒をしています。まず、秘書さんに電話をかけてアポを取るのですが、その次に、自分が知らせ たファックス番号にファックスが送られてきます。そこに、約束の日付と、相談を受けるオフィスが記されています。だから、住所不定だと、相談を受け入れて はもらえません。(笑い)    でも、それは、十分に理解ができますね。私が父の遺産を使い切ってしまい(無論、ゼロ円になったわけでは無く て、後600万円は残っていたのですが)収入が無いのは駄目だと考えて、その59歳のときにできる仕事として、「占い師をやろうと思うのよ。ネットを利用 して」といったら、母が大反対をしました。「やめなさい。そんなこと」と。他人の運命を占う何って、どれほど、ストレスが高いことであり、うらまれる可能 性も大きく、それによって、それこそ、ストーカーまがいの、追跡を受けることもあるでしょう。   だから、日傘さんの警戒振りは、妥当なものなのです。

 第一回目の相談のときに、私は本当に感動しました。自分より若い日傘さんの解説を聞いていると、自分の可能性を深く信じることができました。

  私に線がたくさんあるのは、生命線が二重であり、感情線が二重であり、頭脳線が二重であるからでした。その上、手相の教科書に出てくるようなありとあらゆ る線が、ほとんど全部あるからでした。で、一本しかないが、力強い線の人とはまるで違っている手相なのですが、それでも弱いとも言い切れないそうです。そ の上、手のひらがふくよかで、ピンク色をしているのは、健康で前向きであるとのことでした。確かに他の人の手のひらを見ても、私ほど、うっすらとし田ピン ク色のての平には、なかなか、出会いません。そして、指は適宜に長く、手は大きく、いろいろな作業をするのに向いているのでした。芸術の創作も労働の一種 ですから働きやすい手をしているのは、向いているのです。『よかった。よかった』と、思いました。   それは、パリに行く直前だったので、自分の未来が遠くまで広がっていることを信じられました。そして、パリで、三ヶ月修行をしてみて、実際に海外で、十分に太刀打ちできると、確信をしたので、 ニューヨークへも修行に行きたくなって、そう言う渡航を家族が許してくれないので、一人暮らしをはじめたのでした。日傘さんと、4回もあったのは、その ニューヨーク行きとか、帰国後とかの自分の現況を知りたいからでした。現況を知った上で、未来を決めるのは自分です。が、自分がどれほどの、ポジションに いるかは知りたいのでした。他人には見えない実力と言う意味でです。それが、手相でわかるのはすばらしいことでした。 

 私は、大きく感謝して、メルマガで、日傘さんの事を書きました。『特に表参道にあるオフィスがすばらしい環境で』、とか、『日傘さんのクライアントとしては、赤瀬川さんがい て、雑誌太陽の中で、ひどく感謝しておられます。その頁に利用されている写真はまさに、日傘さんのオフィスそのものです』とか書いたのです。    私は、それが、敵に利用をされるとは思いませんでした。だが、100%利用されていたのです。でも、賢い日傘さんは、私に対して「相談に来るな」とか、相 談の最中に明瞭にいじめるようなことはありませんでした。しかし、何かが、最初の頃とは違ってきたと、確実に感じる部分はありました。どこかで、それを感 じられるのです。 

 ある日、地下鉄を利用しないで、渋谷から表参道まで歩いていった日があります。表参道の交差点で、偶然にも日傘さんが、 左側にいたのです。声をかけると、びっくりした彼女は素顔を見せました。ひそかな嫌悪感が表情に浮かんでいました。私は銀座や、鎌倉などの、別方向で、 散々、いじめを受けていましたので、『もしかしたら、ここにも敵の手が入ったかな?』とは思いました。が、一瞬の後に、日傘さんはプロの顔を回復して、私 と一緒にオフィスまで歩いていきました。 この日の後で、もう一回ほど、行ったかな? だけど、さらに確実に日傘さんの裏に手が入ったことが判ることがありました。

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副題3、『日傘さんは、すばらしいオフィスを捨てた。なぜか?』

  雑誌太陽の特集で、赤瀬川さんが、日傘雅水さんに大きく感謝していると言いましたね。老人力がヒットした頃の赤瀬川さんは、自信満々でしたが、千円札裁判 の渦中では、大きな心労に見舞われていたのです。だけど、赤瀬川さんの、利き手と反対の手に、きっと、将来の大成功が約束をされていて、それを日高さんが 読み解いてあげたのでした。繊細で、頭の善い人は将来を予測しすぎるのです。で、なかなか、単純には、なれません。将来に対して過剰に心配してしまい消耗 をします。私も日高さんに、もっと、単純になったほうがいいですよと言われましたが、赤瀬川さんも、すっきりと、自分の、利き手ではないほうを読み解いて もらって、大感謝なさったのだと思います。占いに対する偏見がまだ、残っている時期に、赤瀬川さんの男気を感じ取れる3頁でした。

 日傘さんのオフィスですが、南に面して白いカーテンが下がっていますが、季節がいいと窓が開いていて、そのカーテンが風に揺れています。表参道のある個人のお宅が、2階の一部分を、1DKのアパートに改築してあり、日傘さんは、そのうちの二つを借りている模様でした。ひとつを休憩場所(もしかしたら、猫もつれてきて あった)と、ひとつをオフィスへ使っておられました。

 で、面接(=相談)を受けに行かなくなっても、私は、本を届けていました。どことなく、変だとは思いましたが、私は意外と楽天的なところもあって、いいほうに考えれば、いい方向へ向くとも思っているのです。だから、ここで書く、たいていの悪事は、数年前のことです。   たいていの事は我慢をするのですが、最近のNHKがあまりにも悪辣なので、そこから、泡沫候補としての、秋山祐徳太子氏に関するあれこれに入り、秋山氏に 入るのなら、赤瀬川さんについても記述しないと駄目だと思うから、赤瀬川さんについて語り、赤瀬川さんについて語るのなら、日傘雅水さんについても語らない と駄目だとなっていくのです。    日傘さんをメンターとして信じるからこそ、本を贈りました。特に、3冊目の本までは、私としてはまだ、彼女を100%信じられるほどの、関係にあったと、思います。4冊目と、5冊目をどうしたのか、はっきり覚えておりませんが、6冊目が強烈でした。  

 日傘さんは、そのお宅から引っ越してしまっていたのです。日傘さんが書いた瀟洒なエッセイをすでに読んでいて、彼女がお金持ちなのは知っていました。両親 からの生前贈与があって、表参道近辺らしい、便利なところへ、マンションをすでに買ってあるのは知っていました。そして、彼女は大変に人気のある手相観 (=カウンセラー)であって、オフィスを借りるお金が逼迫したと言うのは考えられませんでした。    カウンセリングって、心理学者でも、当時は、一時間一万円で あって、日傘さんも同じでした。月に、20日、一日に、4件の相談があったとしても、80万円です。他にも雑誌の連載を持っておられ、ムックも出版されて いるのですから、収入があり、二つも同時にアパートを返すことなど、考えられません。

 だけど、アパートの住人用の郵便受けに昔は確かにあった、日傘さんの名前がないのです。で、私は大家さんの玄関を訪ねました。ドアが開くと思いがけない大きさで、バイオリンの音が聞こえ、それは、CDでは ないことが確かなのです。誰が練習をしているのだろうと思ったり、しながら、一方で、こんなに自由にバイオリンを弾きこなすメンバーがいるのでは、ケン高く威張っているひとかしらと、それを心配するのでした。  ところが、あにはからんや、ひどく気さくなひとで、「日傘さんは、すぐ近所に住ん でいるのですよ。案内してあげます」と、おっしゃいます。   私はのどから手が出るほど、その提案に乗りたいと思いました。もし、このレディと一緒に訪問をしたら、日傘さんの本心がわかる。   『裏側から、教唆命令を受けて、引っ越したのか、そうではないのかが、わかる』と、感じましたが、目の前にいる正直で、善良な奥様を巻き込 むのは、止めにしました。ただ、日傘さんが、この大家さんにすかれていることはわかり、それは、第一回目に示した、日傘さんの温情あり、上品な感じと、ぴったり符号をするので、それに満足をしただけでした。  

 日傘さんがなぜ、引っ越したかですが、これは、例のアメリカキササゲの伐採と同じ伝でしょう。小町通の白黒の御影石のモザイクを取り去ってしまったのも同じ伝です。私の文章に露出した物証は、すべて、消し去っていくという手なのです。    それは、この雪ノ下二丁目のアジサイ畑欺もう事件で、盗み取られている土地が、「絶対に嘘だ」として行きたい連中がいて、そこを、消滅するために、すべて が、そうなっているのです。  雪ノ下に住む、礼儀知らずで、わがままで、傲慢で欲張りな主婦、三人のために、日傘さんは、長年慣れ親しんだよい環境から、引越しをしなければ成らなくなったのでした。別のオフィスを借りるとしても、お家賃も高くなるでしょうし・・・・・気の毒な事です。    これは、鎌倉の駅のホームから見える喫茶店『映画館』というのが大船に引っ越したのと同じ手法です。その喫茶店のことを文章に書いたので、引越しを迫られたのでした。表向きは地主さんが、土地を売ったということです。ただし、売った当日に、3者が転売をしていて、不思議な売買でした。今は新しいビルが立って、歯医者さんが入っています。

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副題4、『小沼純一、山本冬彦、内海信彦・・・・・ここに書いたことが、副題6と、重複するので削除しました』

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副題5、『片山容疑者(成りすまし疑惑)は、どこへ消えちゃったのだろう?』

 2013年のお正月でしたっけ。江ノ島にいる野良猫の首に、小型のSDカードがつけられていて、そのいたずらから片山容疑者が、成りすまし事件の犯人として逮捕されました。だが、続報がちっとも出ません。私は別に疑問を持っておりません。最初からそう言う事件だと思っておりました。

 フェイスブックにおける梅森伸一君という美術かが毎晩、私を苦しめたのですよね。彼は、私を友達として切ってきながら、毎晩、『梅森伸一さんが、あなたのご紹介で、○○さんと、友達になりました』と、905人いた私の友達を毎晩4,5人ずつ奪って行くのです。梅森伸一さんが100人以上の友達ができて勢いが付いたのは、私が励ましてあげて、2011年5月当時、初めて一ヶ月で、180人ぐらいできた友達に紹介してあげたからでした。だが、その恩も、者川、私を友達としては捨て去って、なお、私の友人だけは奪って行く。その種の悪辣さに毎晩、毎晩、直面したわけですが、私はこれこそ、古村浩三君がやっているのではないかと、感じ始めたのでした。

 古村浩三君は、ロックフェラー4世と、学生寮友達として知り合いなので、なんか、信じられない形で、いじめてくるのですよ。フィリピンから、2500ドル(25万円)要求するメールが知人に送られてきたそうですが、それも成りすまし疑惑ですね。ともかく、私が成りすまし疑惑について書いたとたん旧に事件が起こされ、その後片山容疑者が逮捕されました。

 私は、これは、冤罪か、片山容疑者は、納得をして犯人を引き受けていると感じています。ただ、ここに降格と、再び、事件が燃え上がるでしょうからかわいそうで、今まで書きませんでした。だが、片山容疑者の問題が再燃したら、私のブログが以下に真実を述べているかを、お感じ取りくださいませ。本日の一文は、自分の思い出を語りながら、また、政治についても語っているものであります。、

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副題6、『フェイスブックの世界で、とんでもないことが起こり始めた2012年1月ごろ』

 梅森伸一君のフェイスブックにおける成りすまし疑惑については、どこかで、丁寧に書いています。後で、見つけられたら、リンク先を見つけておきます。だが、本日、まったく新しく語るのは、小沼純一さんのことです。この方が、2012年の、1月か、2月ごろ、私が投稿する時間をめがけて、大量の投稿をされるようになりました。

 やがて、それは、山本冬彦さんに、伝播し、内海信彦さんに伝播し、織姫まき、さんに伝播し、と言う様にして、私が投稿している最中に、次から次へと、その人たちが大量の投稿をするので、私が、投稿する文章が、ほとんど、見えないことになってきました。

 梅森伸一のケースがあるので、これも本人がやっているのか、成りすまし人間がやっているのかがわからないのですが、まあ、本当に神経を使い切らされました。

 しかし、小沼純一さんのケースだけは、なんとなく、ピーンと来るものがありました。単に、成りすまし疑惑人が、一回投稿されている小沼さんの投稿を、その時間帯に再び、シェアと言う形で、入れなおすと言うよりも、むしろ、意図的に、その時間帯に、入れ込むのを、ご本人も自覚をしてやっているのではないかと、・・・・・その様に感じ取られるのです。

 それは、坂本龍一さんが、BSプレミアムの企画として放映した、スコラが、そのころ、NHKが、ETVでも、再放送をしたことで、小沼純一さんが、私の目に、飛び込んで来ざるを得ないこととなってきたからです。坂本龍一さんが、司会をするその番組で、論を展開しやすいように、あいずちをうったり、持論を展開して、坂本さんの番組を充実させる協力者が、二人登場します。その中で、小沼純一さんは、重要な役目をしていたのでした。

 ここは、非常に簡単にまとめますが、坂本龍一さんは、日傘雅水さんから、連絡を受けて、「小沼さんに、かくかくしかじかの行動をとる様に、してください」と依頼されて、そのとおり、に、小沼さんが行動をとった・・・・・可能性があると言うこと。

 次に内海信彦さんですが、こちらも、しかるべき筋から頼まれて、同じことをされたと言うこと。そう言う形で、言論封殺されたと言うこと。

 それを、目撃した時に、日傘雅水さんが、『表参道の交差点で、ぞっとする感覚を、私に与えたのは、間違いではなかったのだわ』と、わかってきたのです。

 日傘さんは、確信犯的に、『川崎千恵子をいじめるために、小沼純一さんに、かくかくしかじか投下たちで、川崎千恵子のフェイスブック紙上の投稿を、邪魔する様に行動をしてください』と、頼んだ筈で、その前段階として、日傘さんに、それが大切なことだと、信じ込ませたのは、赤瀬川原平さんでしょう。じゃあ、赤瀬川さんにそれを頼んだのは誰ですか?

 無論村松友視氏でしょうね。

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副題7、『村松友視氏のエッセイ集、<幸田文のマッチ箱>には、竹久夢二の千代紙が使われている』

 私は、2005年3月ごろ、八重洲ブックセンター一階の平台に、『幸田文のマッチ箱』と言うエッセイ集を見つけたとたん、即座に買いました。こうだあやが、大好きだし、このエッセイ集そのものも、どこかの書評で読んだはずだし、・・・・そして、何よりも装丁がすばらしかった。この本がどこへ言っちゃったか、今見当たらないのです。最近、本、特に名簿類が、盗まれてしまっています。美術家連盟の名簿など、色変わりで、三冊はある筈ですが見当たりません。そのほか、美術界に関しては、各種の紳士録が、ある筈ですが、見当たりません。だから、この幸田文のマッチ箱というエッセイも一回、自分がメルマガの世界で書いているので、盗まれたのだと感じます。やっぱり手元にそれがあって、文章を書くのと、それが、なくなってしまって、文章を書くのではまるで違いますから。

 特に両親の貴重な写真や、新聞や写真が載ったのだけれど、その切抜きも盗まれていて、・・・・国会図書館に、ある筈よねと、思っていたら、マイクロフィルムかを理由として、それらの新聞記事がすでにない・・・・・とか、本当に狙われきっていますが・・・・・・

 本日は、DVDプレイヤーが、30秒で、消えると言う憂き目に会っています。ニュースの録画が、読み取れません。

 でね、装丁が、すばらしいのですが、そのデザイナー名がわかりません。だが、デザインの基本資料がわかっています。何かと言うと千代紙で、マッチ棒がデザインをされているものです。黒地に、マッチの棒部分が、明度の低い、各職を使って、カラフルに散らばっているもので、この千代紙がもし原寸大のものだったら、デザインがまるで、していない様に見えて、周到なデザインに仕上がっている装丁です。何を言っているかと言うと、千代紙の中では、マッチ棒の長さは、原寸大ではありません。もちろん縮小をされています。しかし、4X6版の中で、ちょうどいう具合にちりばめられているのです。

 これが、2003年か04年に、東京の伊勢辰などで、いまだに手に入るものか? そうだったら、すごい話で、私も買いに行きたいぐらいですが、・・・・・なんと、なんと、千代紙の方のデザインは、竹久夢二がやっているのだそうです。うーん、すごい、すごい。

 ここで、今書いているものと連動するのですが、竹久夢二って、いうなれば現代では、横尾忠則に当たるのです。イラストレーター兼、デザイナーです。一方で、FINE ARTS系の人として、梅原隆三郎が、いて、安井曾太郎がいる。昭和初期にも今も残る、両者の対立があったのかもしれませんが、メディアの発達が今しも、だったので、他者の動静に触れることも少なくて、夢二は劣等感や、プレッシャーを感じている事もなかったのでしょうか?

 そして、もうひとつチャネリングを感じます。それは、神楽坂です。村松友視の『幸田文のマッチ箱』は、神楽坂が舞台です。『え、そうすると、幸田文が、芸者の世界を描いた<流れる>は神楽坂が舞台?などとも思いますが、・・・・・神楽坂って、今はまったく残っていないと思いますが、戦前は、一種の花街だったのですよね。ともかく、戦後村松友視が、原稿をもらいに言った幸田文の家はそこにあったのです。

 幸田文は、市販のマッチ箱に、美しい紙を張って、小さな工芸品と化し、それを、もらった人に、気兼ねをさせない手土産として、持たせて帰ったそうです。今の貨幣価値に直すと、一個が、100円にもならない手土産ですが、非常に美しい千代紙や、包装紙がはってあると、美しい世界でひとつだけの宝物になります。ああ、そういえば、受動喫煙、受動喫煙と、はやし立て、タバコとか、喫煙行動の周辺に育った文化をまるで押しつぶして言ったのは誰のせいだっけ?

 そして、そのことで、世間が、心理的に言うと、まるで、貧相に貧者になったのは、誰のせいだ?

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副題8、『村松友視が、鎌倉春秋社の、タウン誌に連載を始めた?』

 私がエッセイに書いたことは、すぐ、敵さんが利用します。村松友視の文章に接したのは初めてですが、よいエッセイとは、小さな現象を捉えて、読者を飽きさせず、最後まで、読みきらせるところに、その判断基準があると思っている私は、マッチ箱という小さなアイテムを語って、一冊を読みきらせてしまう村松友視とは、さすがな力量の持ち主ですねと思ったわけです。

 さあ、この村松友視が、伊藤玄二郎+井上ひ指し、陣営に取り込まれてしまいました。そのことを露骨に知らされたのが、鎌倉春秋と言う、380円で買える小冊子に、村松友視が、連載を始めた時でした。さて、どうするかですが、どうしようもないので、彫っておくわけですが、

 都知事選、泡沫候補、秋山祐徳太子、赤瀬川原平と、着たら、思い出す人物として、村松友視が浮かんだと言うわけです。ただ、もうひとつ私にとっては、思わぬ、余得がありました。これは、村松友視のwikipediaを、本日はじめて引いて、その結果、本日初めて、知ったことなのですが、

 村松友視って、母も、中央公論に勤務だったのだそうです。『オー、戦前のキャリアーウーマン、モボと、モガの時代の最先端ガールですね』と、懐かしく思うのです。私の父は、お見合いで、呼応等女学校を出ただけの母と結婚をしたわけですが、母にもっと教養を高く、そして、おしゃれなモガになってもらいたいわけでした。ですから結婚後、お勤めをする様に薦めたのです。養父母に気に入られなくて、追い出されてしまったが、母の実父は旧制商業中学の校長ですから、「そう言うコネを使ったの?」と、後日も後日、私が聞くと、「ぜんぜん、そんなことはしないわよ。ただ、履歴書の字がきれいだとは、ほめられたけれど」と、いって最初は横浜正金銀行に勤めました。戦前って、働く女の人が少なかったので、ちょっと、しっかりしている=頭がいいと認められる)といい会社に勤められたみたいですね。試験もなくて。

 その横浜正金銀行の頭取が、原美術館のある、御殿山のお屋敷を買った人なのでした。横浜正金銀行は名前が変わり、しかも、三菱銀行に合併されてしまいました。父の方は、そのころ、ハヤマ石油(後に丸善石油となり、その後、どういう形でどこと合併をしたのか私は知らない)に勤務していたので、横浜に住んでいたのです。だが、正金銀行は、主婦とは、両立しないほど、夜遅く帰るので、五時で、ぴたっと帰れる、日産自動車に、勤務先を変更したそうです。今だったら考えられないです。パートや派遣制度がなかった時代に、ひょい、ひょいと、大企業を渡り歩けるなんて。(笑い)

 母は器量は駄目なんだけど、頭はよかったのだと思います。そして、父は母を立てて、財産などもいつも平等に形成していましたから、私の実家って、相当にモダンだったのです。主人と結婚をして、時代が、50年か、100年よみがえったみたいでした。主人の考えが古臭くてね。(笑い)

 もし、私が結婚後作り上げた家庭が、私の実家見たいな家風で、運営されていたら、私は別に逗子で一人暮らしをする必要がなくて、「はい、これから、NYへ、海外修行に行きますね」と宣言するだけで、ニューヨークへ武者修行に出発できたと思います。父と母は、それほど、モダンな夫婦関係をとっていました。だけど、私の夫がそう言うことを許さないタイプだったので、仕方がなくて、一人暮らしをしていたわけです。

 村松友視は、夫婦ともに中央公論に勤務するモダンな両親の元に生まれたので、それをデータとして公開しているわけですが、そこが、秘匿されている伊藤玄二郎の方も、私は、『母は元編集者だっただろう』と言う仮説を立てていますね。それゆえに、そこが、村松友身とかみ合ったので、立った380円のタウン誌に連載を載せることを了承をしたのだろうと思います。

 こちらの説は伊藤玄二郎が、人たらしの天才であって、二人羽織である、井上ひさしの忠告をすぐ聞くところがあると言う説に基づいています。私が、エッセイメルマガで、取り上げた人物は美術界の人にしろ、文章系の人にしろ、「すべて、こちら側の人間なのだよ」と言いたいのが、伊藤玄二郎の手法ですから。しかし、下にリンク先を上げている文章に登場した、湯川有紀子さんが、その当時、また、中央公論に在社する現役の編集長(中央公論)だった可能性は強く、さすれば、村松友視を、そちらも動かせるわけですね。

 私は今、謎解きをしているわけです。どうして、これほどの、損害をこうむるのかと言う意味で。その謎解きに一環が、この文章でした。ここでは答えまでは行っていません。ただ、表参道、銀座、京橋、早稲田、神楽坂、鎌倉などの、地域が、すべて、網羅されて、私がいじめられているとは、わかってきていますよ。そして、表側からは、それが、できないので、間接的、間接的に、行われるのですが、すべての裏側はピーンと来ています。・・・・と、宣言をしておこう。何にも役に立たないかもしれないが、100年後の歴史的資料にはなるでしょうから。

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副題9、『村松友視のヒット作は河出書房新社が多いので、・・・・・おや、おや、ここで、川名昭宣君が登場するのかな?・・・・・とも、思う』

 その『幸田文のマッチ箱』が、手元にあれば、確認ができるのですが、編集者が誰だったかを。川名昭宣君ではなかったと思います。川名昭宣君というのは、これまた、私にとって、大学の同期生ですが、彼がいて、どうして、伊藤玄二郎は、河出から、『びょんぶ』と言う豪華本(らしい)を出版することができたのか?・・・・・と、書いたとたんに、全国の図書館から「びょんぶ」が消えてしまいました。これが、また、大問題なのですが、村松友視が河出出出版したものに、ヒット作が多くて、その影に、もしですが、川名君がいたら、これまた、いろいろな、リングがつながってきます。

 私の人生は、なぞに付くなぞに、取り囲まれてしまったので、そりゃあ、頭がよくならなくて、どうしますか? 平和に安心して生きて行くためには、考えに考えて、考え続けないとならないのですもの・・・・・

では、2014年2月5日初稿を書き、13日に加筆する。

  雨宮舜 (本名 川崎 千恵子)なお、このブログの2010年より数え始めた伸べ訪問回数は、2042454です。
(後注1)読売が中公に乗り込んだ裏側は?・・・赤瀬川原平、湯川有紀子、澤地久枝、有馬頼義、里美、村松友視

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