未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle




私は韓国映画が好きだ。

一部の「声のデカい教養のないその癖自分達は高尚だと言いたげなただヒステリックな暇人達」の啓蒙活動により、骨抜きにされてしまった日本のドラマ、映画。

主戦場から排斥された有り余る熱意と情熱と欲望は、サブカルへと戦いの場を移し、数多の傑作を生み出しているのだか、やはり、映画界にそれが生かされていないのが寂しい。

日本が失ってしまった勢いが、韓国映画には健在である。

そんな中、前評判の高かった「パラサイト」を、期待満々で先行上演で観に行ったのだが、正直、期待外れに終わった。

冒頭で「ネタバレ」禁止のお願いがあったので、しばらく控えていたが、そろそろ書いてもいーんじゃないか?

以下、「ネタバレ」を含むので、まだ観ていない人は抜けて欲しい。

・・・

なお、「映像が素晴らしい」とか「カット割りがどーの」との面からの評価は、私には分からない部分であるので、映画全体を否定しているわけではない。


では。


一番の原因は、展開に唐突感が感じられ、共感に至らなかったことである。

家族全員での食事のシーンから、帰宅するまでの流れ。

ここはね、震えるほどの感銘を受けた。

家族の団欒が打ち砕かれる切っ掛けとなったのは雨だ。

そして、帰宅後の現実も、雨によってもたらされている。

ここまで、雨をキーにして、実は副題に重要な意味があったことも明らかになって行く。

一見、美しく見える雨。見惚れる家族。だが雨によりそれが打ち切られ、帰宅の途中で激しさを増し、そして天罰とでも言いたげな現実が、雨によってもたらされる。

この流れが、ストーリーとして、映像を伴った、映画ならではのストーリーとして、私の魂を震え上がらせた。

一見、一つの勝利を勝ち獲ったかに見えた、弱者が強者から勝ち取ったかに見えた、ひと時の至福の時間。

それが雨という、たった一つの、それほどの暴挙でもない、日常的な不運が切っ掛けで、全て打ち砕かれ、現実を思い知らされることになる。

所詮、虚構の上に成り立った豊かさは、幻に過ぎないことを、イヤと言うほど突き付けらる。

恐らく、ここで映画が終了していら、魂が震えたままで映画が終了していら、かなり深い感銘を受けていたに違いない。

だが、その翌日からの部分の、取って付けた感が半端ない。

ストーリー展開にも、必然性というのか、ひとつの物語としての流れが感じられない。

後半がメインなのであれば、その行動に至った心理的背景などが、それ以前で描かれていなければ、共感を得ることは難しい。

「え゛っ?何で?」

と、?が沢山付いたまま、映画は終わってしまった。

頭上に?を浮かべたまま、ポカンと口を開けたままで、映画は終わってしまった。

弱者に現実を突き詰めたまま終わってしまっては、多くの観客からの賛同を得るのが難しいと、制作サイドからチャチャが入ったのでは?と、私にはそう疑えてしまうようなあっけなさであった。

弱者を侮ってはいけない。とのカタルシスを与えて、ファンサービスとしたのではないか。

んー。

最後の父の行動も、息子の行動も、全くピンと来ないのだが。。。

まっ、私には欠けているネジが沢山あるから、理解できないだけなのかもしれないが。

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