1998年4月1日発行のART&CRAFT FORUM 10号に掲載した記事を改めて下記します。
本物の漆を手にするまで、私は漆・漆工を(知らなかった)。いやもちろん漆という単語は知っていたし、漆工に対する自分なりのイメージは、やんわりとではあるものの持ってはいたから、(知らなかった)とするのは正確ではないのだろうけど……
1960年代といえば、日本が高度成長期真只中で、そんな時代に私は生れた。物心付いた時分には、現在とあまり変わらない生活環境に、社会全体がなっていたと思う。そんな中、我家にも「漆塗り」と呼ばれるものが確かにあって、食器棚の奥の方で、ちらりと見える恰好で出番を待っていた。もちろんそんな風だから日常食器ではなかった。毎年正月となると出番となるそれは、朱色をしていて、こってりとした肉厚の黒・白・金で、梅の古木が描かれていた。朱色のそいつは20数年間、私の前でシレッと漆器である事を演じ続けてきた。そしてそれこそが、私にとっての漆器のイメージそのものだった訳だが、大学の実習でそれが漆器とは全く別の、似て非なる物体であるという事を、ようやく知り得たのである。自分の無知と生活レベルの低さを嘆きはしたものの、不思議な事にそれで困った事は一度もなかった。
そもそもそんな私が、何故この素材を選択したのか……漆は液体であるが故、それ自体では自立しょうもない。何かに塗る、あるいは貼ける事によって、初めて形となってくれる。つまり平面・立体を問わずあらゆる表現を可能にする、幅の広い素材なのである。これは他の固形素材には無い、漆独特のものだろう。この素材に対して全くといっていいくらい素地の無かった私が惹かれたのは、まさにこういった特性に他ならない。
大学での実習そのものは、古典技法の習得を主とする淡々としたものだったが、手の内で様々に変化する本物は、私を飽きさせなかった。ただ何んとも言えない、無理やり自分を納得させている、妙な塩梅の感覚が、日に日に増大していった。そして御他聞に漏れず大気触れを経験する頃には、自分の内に芽生えた違和感の正体が、きっちり見える様になっていた。
唐突な話しで恐縮だが、寄席に落語を聞きに行った事があるのだろうか?。落語を愉しむという事、つまりそれを聞いて笑うという事、その事だけを取り出してしまえば、わざわざ寄席に行かずとも、TVをはじめとする各メディアで十分事足りる。実際私も友人に連れて行かれるまでは、その口だった。ところがそこで見て、聞いて、笑ったそれは、明らかにTVを通してインプットされてきた代物とは、全くの「別物」だった。もちろん生の迫力という毒気にあてられた、と言えなくもないが、この妙な感覚は例えば、贔屓のミュージシャンのコンサートに行って得られる感覚とは、明らかに趣を異にするものだ。寄席に出向いて落語を聞く事、コンサートに行って音楽を聞く事、行為としては同じ事なのだが、後者の場合普段聞いているCDなり、何なりを起点として、つうっーと一本の線上に乗った形で、その線の終着点つまり会場で、メディアの増幅となって現れている。寄席の落語はどうしても、この一本の線がどこかでスッパリ切られていて、どこか別の線上で増幅せずに変質して演じられている様に思えた。
落語の噺自体は、江戸時代に書かれたものがほとんどだ。よって登場する風影・人物も長屋だったり、熊さん・八っつあんだったりする。そして何よりも展開される噺そのものが江戸の時間と価値感だ。落語の笑いはまさにこの上に、ふんわりと乗った形で成立している。咄家はその熟練された話術によって、これを私たちの内に造り出す訳だが、そこに寄席という内に閉じた空間が、大きく作用してこそはじめて、落語というヴァーチャル・リアルが完成する。行ってみれば解ると思うが、その内には何もない。あるのは高座と客席、言ってみればガラガラのポン、でっかい箱だ。その箱に自らを投じた瞬間から、現実の空間からスッパリ切り離される。結果ここでの所在を決定付けるのは、咄家の噺のみである。こうしたある種の、洗脳システムに近い形態がとられてはじめて、私たちは「粋」という言葉の本質を、ようやく実感する事が出来るのだろう。やんぬるかな、もはや私にはたかだか二百年前の、日本語のニュアンスを実感するのにも、一苦労である。
気触れて二進も三進も行かなくなった私は、朱色のあいつを見つめながら、本物を知ってしまった自分を恨んだ。知らなければこんなひどい目には遭わなくとも済んだ。そして何よりも例の朱色は長い時間、私にとっては漆器だったのだ。世の中には化学塗料製品を漆器と信じ、TVの落語を落語として、一生を終える人たちは山のように居るだろう。共に現在というベクトルの方位からは、はずれてしまったものだからだ。だから囲った世界の内側でしか実感できない。前出の違和感の正体は、囲いの無い世界で囲まれたものをいじる、空々しさ。あるいは、自分が囲いの中に入らなければならない、莫迦莫迦しさに他ならない。大きな虚脱感に苛まれた日々が暫く続いたが、次第にある考えが頭を巡る様になってきた。切っ掛けがあったのだ。
漆は漆樹から採取される。それは知っていた。ただそれについての実感は、まるでなかったのだが、幸運にもその場に立てる事が出来たのである。九月上旬のまだ暑さが残る頃だった。だから山にはまだ緑がたくさん残っていて、そんな中でも自然に生えた漆樹はそれと一目で分った。これでもか、と言わんばかりに、下から上まであらゆる個所に、黒々とした採集痕があるからだ。それがこっちから向こうのあっちの方まで、点々と繋がっている。膨大なスケールのインスタレーションだな。ただこれが並の、ただ膨大なだけのそれと決定的に違うのは、必要から生まれた行為による結果であるという事だ。言い尽くされた言い方で、実に口幅ったいが、人はどんなに文明が発展しょうとも、多かれ少なかれ様々な形で自然の恵を、享受しながら生きて行くだろう。しっとり溜った極微量の液体を眺めながら、人の営みの中にすっくり立った、漆の木がイメージとして浮かび上ってきた。そしてこの素材が囲い囲われしなければ、我々の中に実感として、生きられないのか、という想いが強くなってきた。少なくともこの風影からは、そんな弱々しいものは感じられなかった。どうしてこの素材はあんな風になってしまったのだろう。
いい意味でも、あるいは逆でも、この素材には長大な歴史がある。そしてあまり知られてはいないが、英語では“JAPAN¨だ。日本そのもの、そう考えると気が滅入る。いやいや、長大な歴史にビビルのも、気が滅入る様になるのも、自分なのだ、だから非難轟々覚悟の上で、すべてを捨て一から考え直してみようと、それには現在この素材が置かれている場所を、再確認し新たにこの素材が進んで行くであろう方位を、規定しなければならないと思うのだ。
現在私たちが手にする事ができる、化学塗料、樹脂は、漆工の囲いの中から派生してきたと言っていい。漆の質や、クオリティーを、別の簡易でローコストなものによって再現を、という事だ。だから本物は先ずコスト面で、そして複雑で習得しずらい工作面で、様々な他の要素で、次第に駆逐されていった。この事例から言える事は、どんなに頑張ってみても、漆工の囲いの中から発生した感覚や、工法を基にしているのであれば、必ずその必然性を問われる。「別に苦労して、しかも気触れなくたって、もっと便利で安い物はいくらでもあるよ。」と言われてしまえば返す言葉がない。「いや、この漆独特の塗り膚や、深みのある表情は他ではマネできない。」なんて、少なくともこの私が言いだしたりしたら、真赤なウソだろうな。真赤も真赤、例の朱色をつい最近まで、漆器と信じてきたんだから、そうした観念、突然持てないよ。だから、この素材に対して、私にとっての必然性の確立こそが、規定となり大きな仕事になってくれると思うのである。ずい分高いハードルとなりそうだが、価値は必ずあると思う。そしてこの素材と付き合って行く以上、もう一つ重要な事がある。
現在人手できる漆の90%以上が、実は日本製ではない。中国からの輸入がほとんどだ。化石燃料と同様、いつ無くなるか分ったもんじゃあない。漆作家さんたちは、その時どうするのだろうと思い質ねてみた。「そうなったら私は、漆に最も近い化学塗料を漆と呼び、仕事をし伝統を継承してゆくだろう。」と言った。それってサギじゃあないのか!と言いそうになったが、ケンカが嫌いなのと、その人物がその道でけっこう偉い人だったので、黙っていた。この素材を手にすれば誰もが分る事だが、制作工程の複雑な事といったら、まず他にはないものだろう。そして前にも書いたが、液体である時も固形化後も、様々に変化してくれる。前者はともかく、後者の場合、漆が焼ける、透けると称してネガティブとされてきた事柄である。もちろん私はこれを、素材が本来持っている特性の一つとして取り込みたい。自分が立つ位置を少しだけ変えれば、ネガがポジに変る。つまり囲いの中から外へ出られる。そうした要素をこの素材は大量にかかえている。そしてさらにもはや他の素材では、経験しょうもないこれ等一切を基点とし、たとえそれが漆を直接使わずとも、経験したが故の発想で、この素材を以ってしか出来ない世界があるのではないか、とさえ思っている。よっぽどその方が、化学塗料を漆と呼ぶより、正当に継承してゆく事になるのだろうと思うけど…
二十年、あるいは三十年後、一滴も漆が無くなった日本でピカチューで目を回した世代が、今の我々では想像もつかない様なメディアを駆使し、漆の本質を表現したって一向に構わないと思う。それがイヤなら、とっとと囲いの中に入ればいい。誰も止めやしないんだから。
本物の漆を手にするまで、私は漆・漆工を(知らなかった)。いやもちろん漆という単語は知っていたし、漆工に対する自分なりのイメージは、やんわりとではあるものの持ってはいたから、(知らなかった)とするのは正確ではないのだろうけど……
1960年代といえば、日本が高度成長期真只中で、そんな時代に私は生れた。物心付いた時分には、現在とあまり変わらない生活環境に、社会全体がなっていたと思う。そんな中、我家にも「漆塗り」と呼ばれるものが確かにあって、食器棚の奥の方で、ちらりと見える恰好で出番を待っていた。もちろんそんな風だから日常食器ではなかった。毎年正月となると出番となるそれは、朱色をしていて、こってりとした肉厚の黒・白・金で、梅の古木が描かれていた。朱色のそいつは20数年間、私の前でシレッと漆器である事を演じ続けてきた。そしてそれこそが、私にとっての漆器のイメージそのものだった訳だが、大学の実習でそれが漆器とは全く別の、似て非なる物体であるという事を、ようやく知り得たのである。自分の無知と生活レベルの低さを嘆きはしたものの、不思議な事にそれで困った事は一度もなかった。
そもそもそんな私が、何故この素材を選択したのか……漆は液体であるが故、それ自体では自立しょうもない。何かに塗る、あるいは貼ける事によって、初めて形となってくれる。つまり平面・立体を問わずあらゆる表現を可能にする、幅の広い素材なのである。これは他の固形素材には無い、漆独特のものだろう。この素材に対して全くといっていいくらい素地の無かった私が惹かれたのは、まさにこういった特性に他ならない。
大学での実習そのものは、古典技法の習得を主とする淡々としたものだったが、手の内で様々に変化する本物は、私を飽きさせなかった。ただ何んとも言えない、無理やり自分を納得させている、妙な塩梅の感覚が、日に日に増大していった。そして御他聞に漏れず大気触れを経験する頃には、自分の内に芽生えた違和感の正体が、きっちり見える様になっていた。
唐突な話しで恐縮だが、寄席に落語を聞きに行った事があるのだろうか?。落語を愉しむという事、つまりそれを聞いて笑うという事、その事だけを取り出してしまえば、わざわざ寄席に行かずとも、TVをはじめとする各メディアで十分事足りる。実際私も友人に連れて行かれるまでは、その口だった。ところがそこで見て、聞いて、笑ったそれは、明らかにTVを通してインプットされてきた代物とは、全くの「別物」だった。もちろん生の迫力という毒気にあてられた、と言えなくもないが、この妙な感覚は例えば、贔屓のミュージシャンのコンサートに行って得られる感覚とは、明らかに趣を異にするものだ。寄席に出向いて落語を聞く事、コンサートに行って音楽を聞く事、行為としては同じ事なのだが、後者の場合普段聞いているCDなり、何なりを起点として、つうっーと一本の線上に乗った形で、その線の終着点つまり会場で、メディアの増幅となって現れている。寄席の落語はどうしても、この一本の線がどこかでスッパリ切られていて、どこか別の線上で増幅せずに変質して演じられている様に思えた。
落語の噺自体は、江戸時代に書かれたものがほとんどだ。よって登場する風影・人物も長屋だったり、熊さん・八っつあんだったりする。そして何よりも展開される噺そのものが江戸の時間と価値感だ。落語の笑いはまさにこの上に、ふんわりと乗った形で成立している。咄家はその熟練された話術によって、これを私たちの内に造り出す訳だが、そこに寄席という内に閉じた空間が、大きく作用してこそはじめて、落語というヴァーチャル・リアルが完成する。行ってみれば解ると思うが、その内には何もない。あるのは高座と客席、言ってみればガラガラのポン、でっかい箱だ。その箱に自らを投じた瞬間から、現実の空間からスッパリ切り離される。結果ここでの所在を決定付けるのは、咄家の噺のみである。こうしたある種の、洗脳システムに近い形態がとられてはじめて、私たちは「粋」という言葉の本質を、ようやく実感する事が出来るのだろう。やんぬるかな、もはや私にはたかだか二百年前の、日本語のニュアンスを実感するのにも、一苦労である。
気触れて二進も三進も行かなくなった私は、朱色のあいつを見つめながら、本物を知ってしまった自分を恨んだ。知らなければこんなひどい目には遭わなくとも済んだ。そして何よりも例の朱色は長い時間、私にとっては漆器だったのだ。世の中には化学塗料製品を漆器と信じ、TVの落語を落語として、一生を終える人たちは山のように居るだろう。共に現在というベクトルの方位からは、はずれてしまったものだからだ。だから囲った世界の内側でしか実感できない。前出の違和感の正体は、囲いの無い世界で囲まれたものをいじる、空々しさ。あるいは、自分が囲いの中に入らなければならない、莫迦莫迦しさに他ならない。大きな虚脱感に苛まれた日々が暫く続いたが、次第にある考えが頭を巡る様になってきた。切っ掛けがあったのだ。
漆は漆樹から採取される。それは知っていた。ただそれについての実感は、まるでなかったのだが、幸運にもその場に立てる事が出来たのである。九月上旬のまだ暑さが残る頃だった。だから山にはまだ緑がたくさん残っていて、そんな中でも自然に生えた漆樹はそれと一目で分った。これでもか、と言わんばかりに、下から上まであらゆる個所に、黒々とした採集痕があるからだ。それがこっちから向こうのあっちの方まで、点々と繋がっている。膨大なスケールのインスタレーションだな。ただこれが並の、ただ膨大なだけのそれと決定的に違うのは、必要から生まれた行為による結果であるという事だ。言い尽くされた言い方で、実に口幅ったいが、人はどんなに文明が発展しょうとも、多かれ少なかれ様々な形で自然の恵を、享受しながら生きて行くだろう。しっとり溜った極微量の液体を眺めながら、人の営みの中にすっくり立った、漆の木がイメージとして浮かび上ってきた。そしてこの素材が囲い囲われしなければ、我々の中に実感として、生きられないのか、という想いが強くなってきた。少なくともこの風影からは、そんな弱々しいものは感じられなかった。どうしてこの素材はあんな風になってしまったのだろう。
いい意味でも、あるいは逆でも、この素材には長大な歴史がある。そしてあまり知られてはいないが、英語では“JAPAN¨だ。日本そのもの、そう考えると気が滅入る。いやいや、長大な歴史にビビルのも、気が滅入る様になるのも、自分なのだ、だから非難轟々覚悟の上で、すべてを捨て一から考え直してみようと、それには現在この素材が置かれている場所を、再確認し新たにこの素材が進んで行くであろう方位を、規定しなければならないと思うのだ。
現在私たちが手にする事ができる、化学塗料、樹脂は、漆工の囲いの中から派生してきたと言っていい。漆の質や、クオリティーを、別の簡易でローコストなものによって再現を、という事だ。だから本物は先ずコスト面で、そして複雑で習得しずらい工作面で、様々な他の要素で、次第に駆逐されていった。この事例から言える事は、どんなに頑張ってみても、漆工の囲いの中から発生した感覚や、工法を基にしているのであれば、必ずその必然性を問われる。「別に苦労して、しかも気触れなくたって、もっと便利で安い物はいくらでもあるよ。」と言われてしまえば返す言葉がない。「いや、この漆独特の塗り膚や、深みのある表情は他ではマネできない。」なんて、少なくともこの私が言いだしたりしたら、真赤なウソだろうな。真赤も真赤、例の朱色をつい最近まで、漆器と信じてきたんだから、そうした観念、突然持てないよ。だから、この素材に対して、私にとっての必然性の確立こそが、規定となり大きな仕事になってくれると思うのである。ずい分高いハードルとなりそうだが、価値は必ずあると思う。そしてこの素材と付き合って行く以上、もう一つ重要な事がある。
現在人手できる漆の90%以上が、実は日本製ではない。中国からの輸入がほとんどだ。化石燃料と同様、いつ無くなるか分ったもんじゃあない。漆作家さんたちは、その時どうするのだろうと思い質ねてみた。「そうなったら私は、漆に最も近い化学塗料を漆と呼び、仕事をし伝統を継承してゆくだろう。」と言った。それってサギじゃあないのか!と言いそうになったが、ケンカが嫌いなのと、その人物がその道でけっこう偉い人だったので、黙っていた。この素材を手にすれば誰もが分る事だが、制作工程の複雑な事といったら、まず他にはないものだろう。そして前にも書いたが、液体である時も固形化後も、様々に変化してくれる。前者はともかく、後者の場合、漆が焼ける、透けると称してネガティブとされてきた事柄である。もちろん私はこれを、素材が本来持っている特性の一つとして取り込みたい。自分が立つ位置を少しだけ変えれば、ネガがポジに変る。つまり囲いの中から外へ出られる。そうした要素をこの素材は大量にかかえている。そしてさらにもはや他の素材では、経験しょうもないこれ等一切を基点とし、たとえそれが漆を直接使わずとも、経験したが故の発想で、この素材を以ってしか出来ない世界があるのではないか、とさえ思っている。よっぽどその方が、化学塗料を漆と呼ぶより、正当に継承してゆく事になるのだろうと思うけど…
二十年、あるいは三十年後、一滴も漆が無くなった日本でピカチューで目を回した世代が、今の我々では想像もつかない様なメディアを駆使し、漆の本質を表現したって一向に構わないと思う。それがイヤなら、とっとと囲いの中に入ればいい。誰も止めやしないんだから。