ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「ファイバー界のパイオニア 島貫昭子先生」  中野恵美子 

2017-03-01 15:57:21 | 中野恵美子
◆嶋貫昭子「Ply Split」個展作品 34×48cm 絹着物地・麻糸 2000

◆嶋貫昭子「Jardin inconnu」(第7回国際タペストリービエンナーレ展・ローザンヌ)  285×328cm  原毛・綿・ウール糸  1975

◆嶋貫昭子「Reflection」(第8回国際タペストリービエンナーレ展・ローザンヌ)  180×300cm  アクリル板・テトロン糸  1977

◆嶋貫昭子「Extension」(第3回ロンドンミニアチュール展・ロンドン)
20×20×9cm  和紙・化学繊維  1978

◆嶋貫昭子「Corduroy」 個展作品 
25×25cm  綿糸・テトロン糸   1984年

◆嶋貫昭子「Sprang 展」(現代、織の表現展・東京)
100×100×10cm 麻糸  1989

◆嶋貫昭子「Double Weave」個展作品
30×30cm  綿・麻糸   1992

◆嶋貫昭子「Ply-Split」 個展作品
30×30cm  着物地・綿コード  2002
 

2003年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 28号に掲載した記事を改めて下記します。

「ファイバー界のパイオニア 島貫昭子先生」  中野恵美子 
「テキスタイル・アート」、「ファイバーワーク」、「ファイバー・アート」といったことばが続く新しい染織を戦後の日本に上陸させた先駆者として、「島貫昭子」の名は燦然と輝く。しかも研究をたゆまず続けられ、その成果を現在でも個展の場で発表されているがその内容は後追いを辞さない。今回は本誌24号の藤本経子先生に続いてやはり東京造形大学でお世話になった島貫昭子先生について記述させて頂く。(以下敬称略す。)

人は様々な人、そして本との出会いで道が開かれてゆく。島貫昭子の場合も然りである。「織」の世界というものを身近に知ったのは戦後2期目の女子学生として入学した東京芸術大学で、「綴織り」を習っているという後輩からであった。授業の課題で提出したバッグのデザインが、「織物みたい」と評されたことから染織に興味をもち始めた時に「綴織り」という世界の存在を知ったことが次の世界を開くことになる。しかし「織物ではすぐに食べられない」ということで美術教師の道に進み、中学、高校、そして幼稚園でも教える。芸大卒業後しばらくは絵を描いていたが、描くことに違和感を感じ始め、人から譲り受けた古い織機で独学で実用品を織り始める。材料は、糸といっても残糸だが尾張一の宮へ夜汽車で買い求めに行ったという。そして生活工芸展(朝日新聞社主催)にウールの帽子や羽織を出品し、従来のものとは異なるデザインが評価され受賞する。その後1956年に結成された日本デザイナークラフトマン協会(後、1976年に日本クラフト・デザイン協会に改称)に発表の場を移す。丁度その頃クランブルック美術大学院(米)で学び帰国して間もない藤本経子氏や、スウェーデンで織物を学んだ水町真砂子氏に出会い、織の内容の広さ、深さを知る。
60年代後半の日本は北欧デザインやクラフトの全盛期で、デパートの催し等を通じ紹介される北欧にあこがれを抱いていた島貫は水町氏の帰国談により留学願望をより強くした。1969年勤務先の短大より私学研修費を得て初めての海外研修に半年間旅立つことになり、研修先としてまず籍をおいたのがストックホルムのハンドアルベテッツベンネル(手工芸友の会)であった。そこにはタピストリー工房の他に織物教室やニードルワーク等の部門もあり多様な北欧テキスタイルに触れるよい機会となった。
タピストリー部門は当時スエーデンテキスタイル界の第一人者といわれたエドナ・マルティン女史が主任で、丁度完成したばかりのタピストリー(著名なスエーデン画家の下絵による作品)が展示されており、同年スイス、ローザンヌで開催される第4回国際タピストリービエンナーレ展に出品されるものであった。1ヶ月余のスエーデン滞在で美しい北欧の風土やデザインに食傷気味の島貫にとり、日本では耳にしたこともなかった国際タピストリー展やその他の情報は未知の世界であるだけに魅力的であり、広くヨーロッパ各地の作家や作品に触れたい思いにかられ、北欧を離れることになる。
最初に訪ねたポーランドは、心地よく生活ができた北欧とは異なり全てが不自由であったが、それにも拘わらず、アートの世界は活気に満ちていた。繊維工場が改装されたウージ・テキスタイルミュージアムは今日でも国際タピストリー・トリエンナーレが開催されるが、当時は壁面も照明がままならず薄暗かった。しかしそこに吊り下げられていた多様な作品群はパワーに満ちており島貫は圧倒される。それらがマリヤ・ワーシケヴィッチ(マグダレーナ・アバカノヴィッチ(註1)の師)始め、その後のローザンヌで活躍する作家達の作品であったことを後日知る。続いてワルシャワのヨランタ・オヴィツカ(註2)の工房やパリのドウムール(註3)等で興味深い作品に接しながら、待望のローザンヌにたどりつく。元は宮殿であった美術館の各部屋の高い天井と広い空間には、平面から脱皮したものや可能性を求める自由な作品が繰り広げられていた。それらを目の当たりにして衝撃を受け、帰国してからはそれまでの実用的な織物とは異なる制作に取り組み、1975年の第7回展、77年の第8回展国際タピストリー展に出品する。水町氏との出会いが北欧へ、そしてエドナとの出会いがスイスへ、さらに最終的には自身のローザンヌ出品へとつながって行った。初めての海外の旅が太い1本の線となった。その後も国際展の出品を重ねる一方、海外情報をもとに織の研究を地道に続ける。
1973年頃だったと思う。筆者が造形大の学生の時に一冊の英語で書かれた技法書“THE TECHNIQUES OF RUG WEAVING (1968)”を授業で島貫先生から紹介された。技法書の少なかった当時、それはさながら織の世界のバイブルのようであった。我々もその分厚い本に感動し、むさぼるように訳したりサンプルを作ったりしたものである。著者のピーター・コリンウッド(Peter Collingwood)(註4)は1922年英国に生まれ、長じて医学を学ぶ。1947年軍部の仕事で英国南部にいた時に織物に興味を持ち始めたが、さらに1949年ヨルダンに従軍した折、現地の染織品に接しとりことなり、1950年には医学をやめ織物の道に進む。織物スタジオで働いた後1952年に工房を構え、床敷のカーペット、マクロゴーゼの壁掛けを中心に制作する。エリザベス女王より‘Sir’の称号を受ける。織の技法書の出筆に際し、医学を学んだその科学者としての姿勢が遺憾なく発揮され、合理的かつ適格な分析、記述となっている。しかもその本は藤本経子氏に紹介されたという。人のつながりをあらためて感じる。
「技法の展開」を作品制作の中心におく島貫にとり、コリンウッドはまさにピッタリの師となる。“THE TECHNIQUES OF RUG WEAVING”には敷物を中心に綴れ織、スマック織、パイル織、ブロック織等の技法について細部に至る迄詳しく記述されているがそれらのサンプルを実際に制作し、1984年にはパイル織の一種である「コーデュロイ技法」に基づく作品を個展で発表する。続いて1989年には“THE TECHNIQUES OF SPRANG- Plaiting on Stretched Threads-(1974)をもとに「スプラング技法」の作品を発表する。スプラングとは平行に張られた糸を緯糸なしに組み、面にする技法のことであるが、はじめはスエーデン製のリネンの色糸を使用していたが、後には骨董市で入手した古い絣布をスプラング作品に用い始める。布を用いるということは既に織られた布の表情を作品に取り込むことで別の表情が生まれることが面白いという。布裂の変容に惹かれ、1994年から98年の個展には「布によるスプラング」、「スプラングによるレリーフ」を発表する。
ピーター・コリンウッドは上記に続いて次の4冊を出版する。
◆“THE TECHNIQUES OF TABLET WEAVING”(1982)(カード織。数枚の8cm角位のカードの四隅の穴に糸を通し重ねて持ち、回転させて杼口を開口させ緯糸を入れていく技法でベルトを織るのによい技法)
◆“THE MAKER'S HAND A Close Look at Textile Structures ”(1987)(糸状の要素が機能的な構造を有すものを中心に作り方を分析、図式化したもの)
◆“RUG WEAVING TECHNIQUES BEYOND THE BASICS”(1990)(THE TECHNIQUES OF RUG WEAVINGの続編)
◆“The Techniques of PLY-SPLIT BRAIDING”(1998)(プライスプリットという技法はヨーロッパでもあまり知られていないが、遊牧民の間でラクダのベルト等を作るのに用いられる技法)
 いずれも具体的な資料に基づいた綿密な研究と解明がなされているが、島貫を最も惹き付けたのがプライスプリットの技法である。以前、アメリカを旅行した折にワシントンDC市にあるテキスタイルミュージアムで“Ply-split Camel Girths of West India”という本を入手して以来気になっていたというベルトの組み方がコリンウッドの本には克明に研究され、図解されていた。撚りあわせた糸を操作しながら面にする最も初原的なものである。以来とりつかれるようにサンプル制作を始め1998年の個展で作品を発表する。
 作品はいずれの技法であっても、それぞれの技法から様々な様相が導きだされ、彼女特有の素敵な色遣いで展開されている。一つの技法を展開し、発表し、ゆきつくところまでいったかと思う頃にコリンウッドの次の本が出版され、それにつられてまた次の目標が始まったという。現在では国内でもそれらの技法に関する本が出版されているが、コリンウッドの本には本の厚み分の内容があり、積み重ねの上で理解ができるし、また、きちんとサンプルを制作することでファイバーの組み立ての可能性が広がるという。じっくりと根のところから物事を始めることの重要さが伝わる。
 プライスプリットは素材に下撚りと上撚りをかけ、コード状の材料を作ることが作業の3分の1を占めるが、それだけに作品のサイズ、形体に適切な素材の選択が重要であり、これは試作を重ねながら自分の手と目で確かめることが求められその工程を省くことはできない。島貫はその魅力について「織機は用いないが織からつながり、織とは切り離せない。制約が少なくシンプルな分、異なった視点からの発想でアイディアが広がる。遊牧民が必要に迫られて作り出したものだが、より美しいものにしたいという欲望が機能だけの帯ではないものにしている。人間の手技が如何に素晴らしいかあらためて感動させられる。ピーターさんの情熱で解明されたその技法を広め伝えたい。実際に手を動かしながら見えてくる形を大切にしたい。」と語る。全ての図版にそって作られたサンプルの量が彼女の時間と情熱を物語る。「今、こうしていられるのはやめなかったから、というよりやめられなかったから。続けていればたまには謎が解けることもあり、行き詰まったようでもそれを乗り越えた時の喜びはたとえようもない。」と目を輝かす。
かつてMary Meigs Atwater による“BY WAYS IN HANDWEAVING”という本を先生が紹介して下さった。「手織りのわき道」ということであろうか。
織機を用いない織物に当初から関心をいだいていらした先生は、今ではわき道どころではなく、その奥深く入られ、逍遥し遊びの境地にあるようである。
人との出会い、本との出会いに導かれ、そしてご自身のあくなき探究心と好奇心によりなお前進を続けられる先生に少しでも近づけたらと思う。
なかの えみこ(東京造形大学教授)

(註1) マグダレーナ・アバカノヴィッチ  ファイバーアートの先駆者。
始めは平面のタピストリーであったが、繊維による立体作品へ、さらに金属素材へと作品が展開した世界的なポーランドのアーチスト。
(註2) ヨランタ・オヴィツカ  ポーランドの代表的な織作家。スケールの大きな作品を発表する。
(註3) ドウムール  パリの現代タピストリー専門のギャラリー。
 (註4) ピーター・コリンウッドは1984年に来日。東京テキスタイル研究所主催の「マクロゴーゼ展」が西武百貨店・渋谷店で開催され、「カードウィービング」のワークショップも行われた。

「テキスタイル界のパイオニア-藤本經子先生-」 中野恵美子

2016-12-17 11:33:49 | 中野恵美子
◆藤本經子「そよ風 BREEZE(部分)」1983年 織編組織、絹・ウール

◆藤本經子「道  THE PATH」1982  織編組織、綿、44×143cm

◆藤本經子「亀甲  HEXAGONS」 1986、織編組織、ウール、85×180cm

◆藤本經子「星座  THE GALAXY」 1987

2002年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 24号に掲載した記事を改めて下記します。

 「テキスタイル界のパイオニア-藤本經子先生-」  中野恵美子

 「染織」を学ぶために入学した東京造形大学で二人の「織物」の先生に出会った。テキスタイル・デザイナーとして活躍された藤本經子先生とローザンヌの国際タピストリー展その他国際展で活躍された島貫昭子先生である。藤本先生の授業は2年次の「テキスタイル演習」であったと記憶している。3年、4年次に織物そのものの授業を島貫先生から受けた。両先生は「染織イコール着物」という先入観念の強かった私に、「テキスタイル」「タピストリー」という新しい世界の存在を示して下さった。約30年前のことである。その後、社会的にもそれらの動きは盛んになり今日に至っている。今回、ここでは藤本先生についてとりあげさせていただく。

 カナダの東海岸ハリファックスのノヴァスコシア大学のギャラリーで1997年に行われた展覧会のカタログが手許にある。編みと織りが組み合わさった作品写真が美しい。通常では織り得ない組織であるがまさに「名のない組織」である。そこに至るまでの経過を資料を基にたどってみる。

 藤本先生は終戦後、洋裁学校で学び、その後多摩美術大学で染色を専攻した。在学中に一冊の本-『基礎繊維工学』青木朗著、出版:文耀社-に出会う。組織という普遍性を有する世界に接した最初の出会いである。その本に基づいて卓上織機で中細編糸や有り合わせの布をほどいて染めた糸を用いて様々なサンプルを作った。大学卒業間際にアメリカ視察旅行から帰国したばかりの先生からユニークな名門校としてミシガン州のクランブルック アカデミー オブ アート(全米唯一の大学院のみの美術学校。以降CAAと記す)を薦められる。3年後に日本人として初めて留学する。大学卒業以来の夢が実現したのである。私も後年、同大学院に留学したが、造形大2年生の夏休みに、先生の仕事場にお手伝いに伺った折、同校のことを度々お聞きした。まさか後に行くことになるとは考えてもみなかったが、当時は「へ-そんな学校が世界にはあるのか」と遠い国の話しぐらいにしか思わなかった。しかし、留学の話がおきた時私の決断は早かった。潜在意識の中にしっかり存在していた。先生が渡米した1957年には船旅でサンフランシスコまで2週間を要したというが、私の時(1985年)は飛行機でロスアンゼルスでの乗り換え時間を含めて20時間近くかかった。現在はデトロイトまで直行便があり13時間で行ける。時の経過をあらためて感じる。

 言葉の不自由な中でただひたすら織りまくり、卒業作品を制作、そして卒論にとりかかる。その時携行していた本が卒論を書くにあたりに役にたつ。それは『やさしい合成繊維の話』、『第3の繊維』共に桜田一郎著であったが、日本の合成繊維の研究の動機、ビニロンの原料についての知識等を同著から得る。「織物の組織」についてまとめ、友人に英語を手直ししてもらって提出、めでたく卒業、修士号を取得する。卒業後は2年間ニューヨークで旅費代を稼ぐために働き貨物船で帰国。帰国して教職につく。それぞれの個性を引き出すことに努めた。

 教職につきながら当時の状況に疑問を次のように持ち始める。
『染織に関する本を探すと、・つくる方法 ・歴史的変遷 ・特定されたものの写真集などがほとんどである。これらは必要な専門書であるには相違ないが、それに加えてもっと広い普遍的な捉え方が何かある筈だと思っていた。例えば他の分野との間をつなげたり、共有できたりする見方である。しかし実際には何も固まっているわけではなかった。将来にむけて度々会議が持たれたが、私は決め手に欠けていて、単なる願望を繰り返すうち、日本の文化遺産の個別の名称が次々に取り上げられる心配な事態になった。これまでの専門別では欠落するものが出てくるので不十分、歴史的経過を連ねてみても、羅列するだけになる。材質分類から始めれば製造の工程別になってしまう…と、マイナス面ばかりを懸命に挙げているうち、例えば、広い意味の布は、種々のタイプが一つの共通点で認識できる構造の概念の一つで、いわば、ある丈夫さと、やわらかさ、それに生身の人間が着るための最も特徴的な細かい穴、或いは隙間の作り方の種類、またはタイプではないのか?』
染織に関して普遍的な捉え方を求め、広い意味での布の共通項は細かい穴の作り方であるという点にゆきあたった時にはからずも“THE PRIMARY STRUCTURES OF FABRICS” Irene Emery著を人から紹介される。それはある考えにそって現存する古代から現在までの布が再現され、分類された文献であるが、その本に出会って飛躍的な転換をせまられる。タテ、ヨコの線による象徴的な構成を下敷きにしてそこに単純なルールによる線のパターンを探し出して過不足なく充当する。無数のパターンが現れる。それらは交点の状態が「接する」「絡む」…の混在した生産性の非常に低い仮想のパターンであったが、顕在化したものを更に実物の布にするという行為により証明していく。又、組織図については、現在の織物と編み物の表示には全く両者間に関係がないが「結ぶ」も加えると、生産性はあがり、一つの組織となりうることも判明する。図の線と、糸で現れる線とは自ずと違ってくる。
 探究を重ねているうちに「生命の科学」という本で人工血管の記事の中の有孔性に着目し、さらに高分子化学の本の中に多孔物質とういうことばを見つける。合成物ではスチロール、合成ゴム、ウレタン形成シートなど、人工物では織物、編物。天然物では、樹皮や葉っぱ、人間を含む動物の皮や皮膜があげられる。さらに食品を見ていけば寒天、海苔、たたみいわし、パン等である。布に視点をあててみれば材質の種類は多岐に亘っている。これら多孔物質としての唯一の共通点は、天然物にしろ、人工物にしろ、生成、製造の過程で有機的に穴や間隔が作られる点であった。こうした経緯から「名のない組織」の考えがうまれてくるが、さらに形にするために整理した上で以下の①と②をまとめた。

①仮想の形は、先ず作る方法を無視し、勿論技術も考えず、単純なシステムによって洗いざらい出した上、
 A)その中に必ず基本形があること。
 B)基本形の線の特徴は何か。
 C)基本形は全体像の中で何処に位置しているかを見極めるのが目的であった。実物模型は証拠品で、もし偶然にそれが美しければ予期せぬ余得であって、あの煩雑で七面倒な苦労も忘れられる。
②織りに編目の形は、既存の2つの技法を無理は承知で構造的に入れてみる。そのタイプはどれ位あるか、面積比の限界は何処迄かは未だ分からない。(織りに編目は編と書くに書けない程小さな面積の意味である)

以上の考えのもとに生産性は低く存在し難い“無名の”「名のない組織」が数々の試行錯誤の末、実際の形になり発表された。

 テキスタイルを上記のような形で捉え、研究された方は少ない。それにしても組織への取り組みもさることながら、参考とする資料の範囲の広さ、必要事項をすくいとっていく直感の鋭さには驚かされる。

 先生が東京造形大学で教職にあった初期の頃に教わった卒業生は高度な内容の課題と厳しかった先生の姿をいまだにはっきり覚えているという。『クランブルックでは個別指導の方向、つまりそれぞれの考えと速度に従って助言する。疑問に思っていないことを絶対に教えない。具体的な解決策や速効性のある方法はとらない。また、教授は自身のコピー生徒(作品がそっくり)をつくらない、傾向の違う生徒の考えを理解する努力をする。』と同大学院の教育姿勢について述べている。その体験に基づいて少人数ということもあったが、現場では個性を引き出そうと努めていらした。造形大では昨年テキスタイル専攻の卒業生、在校生有志によるZOB展の25回記念展が行われたが、各自の判断にゆだねられた自主的な作品が展示されていた。来場者が「自由な空気」を感じるという感想を述べて下さった。それは藤本先生が造形大の草創期に築かれた空気によるものではないかと指摘する方もいる。知らず知らずのうちに反映されているのであろうか。

 一方、新制作展には1969年から関わっているが、藤本先生の次のような考え方に鮮烈な印象を受けたと当時を知る人は言う。
●新制作は実験の場。
※ 何もないのに大きいものを作ってもしようがない。
※ 企業、商品企画にあわないもの、手の面白さを追求する。
※ テーマ性を有すことが大事。
※技術のみに対する視点なし、考え方に重点をおく。
※ パネル張りは布がかわいそう
※ 過去の物の再現は意味がない。
以上の考え方は今から見ても新鮮で、独自性がある。一方、デザイナーとして企業との仕事を数多く行なっていたことを付け加えておく。

 今回、この記事を書くにあたって、あらためて資料を見直したが、以前、折にふれ伺っていた断片があらためてつながり、CAAを体験したことで、「広く」物を見るという背景も実感として理解できる。私の頃はファイバーアートの境界がより広げられていたところでテーマは異なっていたが、行なわれていたこと、つまり徹底的な討論と個人の尊重は同じである。しかし先生の「名のない組織」を拝見していると、不肖の弟子であることを痛感する。先生のこだわりと追求心、そしてテキスタイルを単に手織りととらえず、広い視野の中で組み立て、捉え直していく姿勢にあらためて敬服する。その意味でもグローバルでアカデミックな先生である。

参考資料
『名のない組織。~、』(「バスケタリ-」20、21、22、23号p.231~270)
“Unnamed Structures in Textiles, Tsuneko Fujimoto, textiles”
 (Anna Leonowens Gallery, Nova Scotia College of Art and Design Hallifax, Nova Scotiaにおける展覧会のカタログ)





「作品とともに歩む」 中野恵美子

2016-07-01 11:45:47 | 中野恵美子
◆「時相」240H×200Wcm 絹、和紙

2000年9月20日発行のART&CRAFT FORUM 18号に掲載した記事を改めて下記します。

21世紀への手紙②
 「作品とともに歩む」   中野恵美子(染織造形作家)
 
 カーテン越しに入る光がやわらかい。気管切開による独特の呼吸音が規則正しいリズムを繰り返している。ガンの転移により植物人間化した父を看病していた時の事である。美術方面に私をすすめたかった父の意に反し文学部に進んだが、作ることは嫌いではない。「親からもらった命を大事に生きよう。生きた証として自分の作品といえるものができたら……」遅まきながら一大決心をする。若い人に混じって予備校に通い翌年、東京造形大学に入学する。28歳だった。

 染織といえば着物または服地の制作が一般的であったが、大学へ入ることで、当時、タピストリー界では草分け的存在の藤本経子先生、島貫昭子先生に出会いその道へと導かれていった。技法書の少なかった時代に、島貫先生により紹介されたピーター・コリンウッド(Peter Collingwood)の「テクニックス オブ ラグ ウィービング」(Techniques of Rug Weaving)は、さながらバイブルのようであり、むさぼるようにサンプル織に励んだ。そうした環境のなかで、織物による表現の世界へと方向が自然と定まっていく。今でこそ工芸素材による表現は当たり前であるが、その頃は目新しくその可能性に胸を踊らせながら取り組んだものである。

 今、振り返ってみると、折り目節目に人と出会い次の世界へと展開していったのがわかる。そして移り住んだ外国での影響が作品の内容に変化をもたらしてきた。変容は単に受け身であったのではなく、自ら求めた部分も大いにある。その流れに沿って辿ってみることにする。

●-日本-  
 卆制の研究課題である「テクスチュア」から派生して綿テープによるテクスチュア制作、さらには組みへと展開させていくことそれが卒業後も続いた。染織そのものは日常生活の中で宮参り、七五三、成人、結婚と人生の「ハレ」の場を飾る。人の一生は白の産衣で始まり、白の帷子で終わる。その間を色が彩る。また、1年のサイクルにも農耕を中心とした日本では正月、節句、田植え、収穫、そして祭りと「ハレ」がある。テーマは主にその「ハレ」に関するものをとりあげ、技法としてはベルトを織りそれを組むというものであった。

①「饗宴」(230H×170W・ ウール) 
 ②「舞」(160H×360W・ BSF、ウール、銀糸、金属)

 色々、展開をこころみていたが表現として考えた時、真に内容をとらえているのだろうか? 表層的、装飾的になっているのではないか? 意味、内容のあるものにするにはどうしたらよいのだろうか? 次々と疑問がわく。そのような折、アメリカ、ミシガン州にあるクランブルック・アカデミー・オブ・アート(Cranbrook Academy of Art:全米唯一の大学院のみの美術学校)の教授ゲルハルト・ノデル(Gerhardt Knodel)氏(現・学長)に出会い渡米する。中年の留学である。  

●-アメリカ-
 “What is art for you?”“What does it mean for you?”“Why do you use this material?”“What is the necessity?”とさながら禅問答のような質問攻めにあい、慣れない英語で“What to say”“How to say”に追いまくられる毎日であった。

 当時読んだ本、ガストン・バシュラル(Gaston Bachelard)が『ポエティック・オブ・レヴェリ』(The Poetics of Reverie)の中で「人は貝を外側から作るが、貝は内側からつくる。」「アフロディテは貝から生まれた。大は小から生ず。」と述べている。この一文は、パターンとして貝殻の模様につい目がいくが、貝殻は命を育むものとして存在すること、内側にあるものとの関係で外側も成り立つという当たり前のことにあらためて思いを至らせてくれた。

 客観的にとらえていた「祀り」「祭り」を主観的につくることを試みる。

③“The Gurdian”(240H.×90W・  サイザル、麻、金属糸、木) 
漠然とした存在、呼吸する存在‘something behind’を求めて制作する。パターンとしてではなく、「気」をすくいとるかのようにピックアップ技法で織る。
④“Pachamama, Stepping Out”(360H×130W×110D・ サイザル、麻、金属糸、木)
 トウレッキングで訪れたアンデスの女神パ チャママが歩み出す姿と自分自身壁から抜け出したい思い、そして布自体の自立性を重ねあわせて表現する。棒が布を支え、布が棒を支え立体としての意味が出る。

 「黙っていても作品は語る」という日本から、制作の背景をことばでもとらえていくアメリカでの留学体験は、創ることそのものを、自分自身を、そして自国の文化、環境をあらためて見直すよい機会となった。最終的には「作品が語る」が、掘りさげはやはり必要である。壊され、立ち直り、“Pachamama, Stepping Out”のように一歩踏み出してクランブルックを修了する。2年のアメリカ生活を終え帰国すると今度は主人の転勤で南米ブラジルで生活することになる。

●-ブラジル-
 多民族の人々が生活するブラジルは気候も人々の気質も日本、北米とは完全に異なる。また新たなスタートである。広大な大地、豊かな自然。珍しい動植物の数々。造物主はすごいデザイナー!とその様相の豊かさに目をみはらされる。初めて降り立ったリオデジャネイロの赤い土の色が忘れられない。今でも目に焼き付いている。以来その色は自分の作品に血脈のように登場する。 むきだしにさらされた鉱物質を含む地層をみていると地球の生成に関心がいく。動植物等生命を育む大地の存在は母なる大地として認識できるが、一度掘ってしまえば補給のつかない鉱物を宿す大地も母ということばがつくのであろうか。他愛ないことを考えていた。

南米といえばプレ・インカの織物は染織史には欠かせない。そのアンデスに滞米中の1986年に引き続き88, 90年の計3回、各1ヶ月 トウ レッキングをしながら村々を訪ね人々の暮らし、染織と生活との関わりを見て歩いた。16世紀半ばにスペイン人フランシスコ・ピサロによりインカ帝国は滅ぼされたが、それまで染織品がアンデスの人々の日常はもとより社会構造の中に如何に深く関わっていたかもあらためて知る。 南半球で生活することにより、これまで征服者側のみの歴史を学んできたということに気付かされ、歴史観、世界観が広がった。

 ことば(ポルトガル語)を覚え、人々と知り合い、作品を作りためるのに3年という時間は丁度よい期間であった。サンパウロ近代美術館の1室で個展をする。ブラジルの赤い土を一面に敷いて作品を展示した。

⑤“Inside and Outside”(160H×300W×19D・ サイザル、麻、針金)


 ⑥“Homage to the Earth”(「大地に捧ぐ」210H×60W×60D・ サイザル、麻、金属糸、金属)支持体は背骨となり、作品と一体化する。

●-そして再び日本-
 3年間暮らしたブラジルでは材料は色々あったが入手に不自由を感じ、そのことは素材、技法、そして内容を今一度見直すよい機会となった。帰国後、素材を自分の環境から得られるものに限ってみる。主人の母親がたしなむ書道の反古紙に着目する。かつて訪れた宮城県白石市の「紙布」の素晴らしさ、山形県鶴岡市致道博物館・民具の館で見た着物は緯糸に大福帳の和紙が織り込まれ絣のように見えていた、その印象及び記憶が和紙による制作へと私を促す。また、反古紙を素材として再利用することは彼女の書道に費やした時間、エネルギーを追体験し作品にとりいれることになる。さらに織り込まれた文字が情報の内包、時間の凝縮へとつながる。さながら一粒の砂にも生成の情報が宿るように。

 ものの生成には熱、圧力等の物理的な力が大きく働いている。そのような無作為の行為を如何に自分の作品にとりこむかも課題であった。強撚糸と和紙を組み合わせて織り、整織後湯に浸けてみる。強撚糸は水と温度という物理的条件により見る間に縮む。ぬれてやわらかくなった和紙は、それにつられて平面から半立体へと変容し、思いがけない効果を呈す。縮むことで生じた表情は時には和紙であることを忘れさせ、石のように見えることすらある。石のようでありながら実は紙であり、重そうに見えて軽い。

 和紙といえば墨と柿渋。水に強いことから色も必然的にきまってくる。墨の濃淡の美しさにひかれるようになったのもこの頃である。
 試行錯誤の連続だが、様々な体験、記憶、メッセージが素材の記憶と共に渾然一体となって現れてくる世界、時間、空間の集積がかもし出す広がり、奥行き、そんなものを求めて制作する。作品を通して見る人とコミュニケーションできればと思う。

 ⑦「時相」(240H×200W・ 絹、和紙)

●-更に- 
 今、コンピューターライズド・ジャカードに取り組み始めた。コンピューター上のデジタル情報が織機の上で経糸及び緯糸の直交により具体的な情報・存在となるその瞬間を面白く思う。画像を取り込み、複雑な組織を入れる。手機ではできないことの可能性にひかれる。時間はスパイラルを描いて流れるのであろうか。造形大卒業前後、織の組織を色々試そうと、こわれかけたドビー織機を動かしていたことがあった。かつての体験がよみがえり新たな世界へとつながる。

 一貫して経糸と緯糸により繰り広げられる世界に取り組んできたが、「織」でできること、素材そのものの可能性及びイメージが糸化、具体化してあらわれること等興味はつきない。染織を通しての自己確認の歩みはまだまだ続く。さながら道標をたてながら一歩一歩、歩むかのように。作品とともに歩む。      (なかのえみこ・東京造形大学教授)


「個展道標に至るまで」 中野恵美子

2016-03-01 15:38:48 | 中野恵美子
◆「PACHAMAMA .STEPPING OUT」  1987
素材:サイザル、レーヨン、木
技法:織
H 360×W 120×D 110cm

◆「THE GUADIAN」  1986
素材:サイザル、レーヨン、木
技法:織
H 240×W 90cm

◆「舞」  1981
素材:BSF、ウール
技法:織、巻き技法
H 60×W 360cm

1997年7月25日発行のART&CRAFT FORUM 8号に掲載した記事を改めて下記します。

 初めての個展(1982年)を前に、一枚の絵はがきを受け取った。手足のはえた樹に歯をむきだしているこうもりや森の生き物がワサワサといる。月夜の深い森でさながら祝宴を開いているようで、動物の笑い声や鳥の鳴き声が聞こえてくるようであった。しばらく疎遠になっていた小学校時代の「絵のお稽古」の先生の作品である。ものの向こうに音や光、空気が感じられる。こんな作品が作れたらとつくづくと思った。
 個展は華やかな印象を残して終わったが課題が残った。「ハレ」というテーマのもと素材をいじり技法をこなし、形にはなるようになったが何かが欠けている。これから色や形をかえて展開はできるであろう。でもこのままでは表層的になってしまうのではないか。疑問が生じた。それ以降「作品」なるものを求めて遍歴の旅が始まった。

 海外で勉強をするということを考え始めた折、全米唯一の大学院のみの美術学校であるクランブルック・アカデミー・オブ・アートの教授ゲルハルト・ノデル氏(現・学長)に出会いヒョンなことから中年の留学をすることになった。別に日本が嫌いになったわけでもなし、今やっていることを手直ししてもらえればといった安易な気持ちであった。ところが行った先はまるで道場さながら“WHY?”“WHY?”と禅問答のように質問攻めにあう。ハードルをいくつか越えることができても先が続かない。そのことに愕然としショックを受け自己崩壊が始まる。
 「アートとは」を問い、考え、制作をし、ただただ試行錯誤の連続であった。アートの根源は祭儀にまつわるものという説に自分なりに行き当たり修了作品は3m60cm高さの「パチャママ・ステッピング・アウト](東京では未発表)というアンデスの大地の女神にまつわるものを作った。木が布を支え、布が木を支えスカルプチュアル・フォームとしてはうまくいき気に入っている。しかしクランブルックで学んだことの一番は、制作にあたっての入ロが日本でのやり方と異なるということであった。だが気がついたからといって、分かったからといってすぐ出来るものではない。まともや新たな課題を抱えてしまった。
 アメリカから帰国後、夫のブラジル転勤にともないサン・パウロで生活することになりそこで制作を続ける。外国と一口にいっても北米と南米とは異なる。新しい環境に慣れ生活習慣を覚え、材料探しも含め単独で行動できるようにとポルトガル語を学び、またゼロからのスタートである。織機と基本的な材料のみを持参し、現地の材料での作品作りを心がけたが、材料の入手が簡単のようでいてなかなか思うようにいかない。サイザルが手に入りようやく制作できるようになったが、使い終わると次が中々人ってこない。青空市場の魚屋で人手したかわはぎの皮をアルコールでふいて、一年間干しオブジェを作ったりもしていた。荒っぽい環境のもとサンバの音楽を聞きながらブラジルの印象をともかく形にしていた。そのような中で材料についてあらためて考えるようになった。考えてみれば民族的なものは皆身近な又は貴重な材料で作られている。自分の「身近な」材料はと見直してみると、長年生活を共にしている夫の母親の書道の反古紙がある。早速保管を依頼した。
 5年ぶりに日本に落ち着く。和紙の使用による制作を始める。しかし自分の育った国での制作開始に一見何ら問題がないようであっても外国をうろうろしたあとでは心理的にもぎくしゃくしている。大学に職を得、その準備にもかなりのエネルギーを取られる。正直にいって制作どころではなかった。どうせできないならと水泳教室に通っていた。バタフライが泳げるようになった。体力もついた。教え子達が卒業後も頑張って制作しているのを見て安堵もした。そうなるとまた作りたくなる。つまり創造は余剰エネルギーである。早速、織機に経糸をはり和紙を織り込んでみた。

 「和紙と織り」といえば紙布で有名な宮城県白石市を20年程前に訪れたことがある。紙布の保存に努められていた片倉信光氏に紙糸で作られたものを見せて頂き、説明を受けた時には和紙の丈夫さ、可能性に驚かされたものであつた。また鶴岡市致道博物館・民具の館で見た着物(大福帳の和紙が緯糸として織り込まれ墨の字がちらちらして絣模様のようになっていた)が印象に残っている。和紙と織りはすでに自分の中でも結びついていた。あとはテーマである。かつて訪れたカナディアン・ロッキー、アンデス、そしてブラジルではその広大さ、豊かさに感銘を受けた。言い古された表現だが「母なる大地」そのものであった。大地は命を育み、また受け入れる。地に還るともいう。「大地に捧ぐ」というタイトルで制作したこともある、知人から敦煌の砂を少量もらって以来、旅先の世界各地の砂を集めている。色も粒子も異なりそれぞれに生成の情報を宿している。紙布の墨字が情報の断片となっていることとイメージが重なる。そうだ紙で土、石を作ろう。軽いもので重そうなものを作る、そのパラドックスが面白い。アンデスで見た遺跡、風化した石の姿の美しさ石や壁に描かれた記号やシンボルが途端に目に浮かぶ。和紙に墨でそれらを描く。和紙ににじむ墨の色は美しく気持ちを白由にしてくれる。紙の質により墨に対する反応が様々で実に微妙である。紙質の違いは製織後湯につけるという作業過程でも十分発揮され皺の出方が微妙に違ってくる。使用した和紙は書道や墨画の反古紙、自分でシルクスクリーンを施した新しい和紙等様々であるが紙は記録という要素を有し時間そのものも保持する。さらに反古紙を織り込むことは始めにその紙と向き合っていた者の時間を重層することになる。結果として「時間」をとりこむことができる。

 技法としては織技法を用いているが、経糸と緯糸の中でそれらをどのように展開するかが私にとり課題であった。「織る」という行為を単に面を構成するものとしてとらえる。「ファイバーアート」というメディアつまり技法の展開、素材の追及に重点が置かれがちだが、アートという以上「内容」の表現に対し如何に取り組むかが重要であろう。世界各地の布を見ていくと皆それぞれに自然観、宇宙観、宗教観、神話、物語等が織り込まれている。「概念(コンセプト)」が技法、素材、色彩等の要素と渾然一体化した中に必然を伴って具体化されている。そのことを見落としているようである。過去の染織品をその観点からみると可能性が広がる。ものの向こうにある広がりということであろうか。内容を盛り込むことはもとより、さらに何らかの自然の力を取り込むことを求める。和服の「お召し」の講演を聞く機会があったが、その中で言及された強燃糸の話しから和紙を組み合わせることを思いつく。試してみると案の上、糸の撚りが戻る動きにつられ全体が縮む。物理的変化で意外な面白さが生まれる。
 テキスタイル・デザイン、ファイバーアートといった今日的なものの洗礼をうけた者が、長い曲折を経て「和紙」「紙布」「縮み」といった日本の伝統をとりいれることでようやく視界が広がる地点にたどり着いた。初めての個展の案内状に頂いた今は亡き久保貞次郎氏(評論家)の文章があらためて思い出される。以下に引用する。
 『中野恵美子さんの作品はモダンで、人間解放の精神が燃えている。織という伝統的技法を自由に、今日の生命の燃焼のなかで、駆使し、束縛されていないところを、ぼくは称讃したい。「人間は自己の解放者である。」という教えは、ヘンリー・ミラーが師とあおいだクリシュナムルテイの言葉だ。ぼくが中野さんの織に魅せられるのは、かの女が、織のなかで、この自己解放を実現しようと努めている点である。自己解放とは、おのれが陥ちこんだ環境から、おのれを救い出す努力であり、そのためには、あなた自身の力、あなたの内部にひそんでいる力を発見するために、あらゆる種類の経験と必死に格闘する決心と意志とを持たねばならない。中野さんは、織を通してその格闘をつづけている。』
 作品制作は「今」の自分を確認する行為ともいえる。ここまで来たと「道標」がまた立てられるよう、これからも歩み続けていくつもりである。            

「 アンデスの旅 -山と人と織物と-」 中野恵美子

2013-05-01 09:06:15 | 中野恵美子

1990215日発行のTEXTILE FORUM NO.12に掲載した記事を改めて下記します。

 

 寒い。身体が芯から冷える。傍らを流れるせせらぎの音が夜の静寂に響く。寝袋の中で何度も寝返りを打つ。その度にテントシートの下に大地を感じる。その大地から底冷えがジワジワと伝わる。

 何でこんな所に来てしまったのだろう。地面の上に寝ずともベッドでぬくぬくと寝ていられたものを……。後悔が頭の中をよぎる。ガサゴソと這い出し、クスコの近くの村で手に入れたマンタ(ショール〉を取り出し寝袋の上にかける。重さも防寒のうち。インディオが身につけて離さない布の有難味がよくわかる。

 アンデスの山ひだの懐に抱かれながらキャンプをした時のことである。

 通って来たフイヨクのの村人の生活が脳裏から離れない。アドベ(日干しレンガ)で壁を築きその上にアンデス地帯に生えているイチュの葉を乗せて屋根とした一間だけの家が彼等の住居である。

部屋の奥には三畳位の棚がある。そこに人が寝るのだろう。何枚もの羊の毛皮や織物が置いてある。入り口に近い所は台所と覚しく竃が一つあり、その火にクーイ(モルモット)の串ざしが乗っている。電気、水道、ましてやトイレ、シャワーもない。クスコから奥に入った標高五千メートルの山の中は、近代文明が届くには遠すぎる。人々はこの世に生を受け、動物と共に生き、動物のように生き、じゃが芋、トウモロコシを栽培し大地の恵みをそのまま享受して生きている。

 屋外ではこの家の若い主人フェリシアーノとその妻フォルトゥナータが泣きぐずる一才位の男の子をあやしている。一昨年ここを訪れた時にもその位の子がいたが病死したという。今、目の前にいる子はその後生まれたのだが、又、病気で危ない。山の生活は衛生状態も悪く乳幼児の死亡率が高い。クスコから同行したアンドレアスが薬を少量飲ませる。様子を見て医者に見せに下の村迄その子を連れて行くと言っている。たまに訪れる外との連絡が唯一の頼りである。徒歩だと一昼夜かかる距離、車だともっと早く着くだろう。無事を祈る他ない。他になす術のない所では祈りは切実である。

 焼き上がったクーイをフェリシアーノが皆に差し出す。結婚式等、特別の時以外は滅多に口にしないという御馳走を我々外国からの珍客に用意してくれたのだ。どう見ても骨と皮ばかり。姿のまま串ざしというのはどうも手が出にくいが、せっかくの好意、食べてみる。香ばしく焼けていてそれなりに食べれた。

 「グッド・モーニング。」「ブエノス・ディアス」テントの外で人の声がする。昨夜は、なかなか寝つけなかったが明け方近くになってよく眠れたようだ。身仕度をして外に出る。空がぬけるように青い。昨日は見えなかった山々が遠くに見える。静かだが堂々としてたじろぐことのない山の姿に心の安らぎを覚える。空気はヒヤッとして冷たい。この山の空気が好きなのだ。これを肌に感じるために来たのだ。あ一来てよかった。昨夜の後悔が嘘のように気持が晴れてゆく。太陽が昇りさえすれば全てが解決する。

 アンデスはインカ文明、プレ・インカ文明へと逆のぼってゆけるが、プレ・インカ文明は海岸地帯に栄えたので、乾燥した気候のおかげで墳墓から発掘される遺品の保存状態はよく、織物、陶器を通じて当時の文明が如何に秀れたものであったか推測できる。

 織物を手がけている者にとり、その素晴しいプレ・インカの布は憧れであった。そのような布がかって織られた所、その末えいが今なお生きる国、ペルーに行つてみたい、その空間を体験してみたいというのが長年の夢であった。その夢がかない、一九八六年と八八年の二回、最初はアメリカから、二回目はブラジルから、共に五月の約一ヶ月を「織人の山歩き」というアメリカ人のツアーに参加しアンデスの山あいをテントで過ごしながら人里離れたを訪れ山越えをした。

 標高四千~六千メートルの山が数千キロ続くアンデス一帯の自然は厳しい。高地に適すリャマ、アルパカを飼い、その毛を紡いで糸とし、後帯機という簡単な道具で布を織り、身を覆う。糸は山で採れる植物で染める。そして目の前にいる動物、鳥、さらには神とも崇める太陽を意匠化して織り込む。祈りが、生活が、彼等の思いが感じられる。ものを作る上での動機、表現することの意味、過程等全ての原点がここにはある。

後帯機による織物の特徴は次の通りである。織る時には自分の体に道具を結びつけ経糸を張らせる。経糸を交互にあげるために糸綜絖を用いる。緯糸の打ち込みには刀杼という板状のものを使用する。でき上がった布の四辺は全て耳になっている。数本の棒から成る道具を用いて複雑な表現を行ないイメージ豊かな世界を繰り広げているのにはただただ感嘆する。

 周囲の環境に同化し自然の一部となってひっそりと数件の家が寄りそうようにたっている。その家々の軒下で、家の近くの陽の当たる山の斜面で村の女達が地面に腰を落とし、足を投げ出してせっせと織物に励んでいる。柄は幼い時から見よう見真似で覚え体の中に

 入っているのだろう。経糸を素早くすくいながら織り進めている。その柄は地域ごとに特徴があり、代々伝わるものを自分達で組み合わせながら織り出している。傍では子供が糸紡ぎの道具を上手に操っている。アンデスの女は働き者である。夜は刈りとった原毛を暗がりの中でほぐし紡ぎ易いようにし、昼間は歩きながら糸を紡ぎ、その糸を機にかけて織る。一枚の布を仕上げるのに数カ月かかるという。

 彼等の服装は大人も子供も男は帽子にシャツ、ズボンそしてポンチョを着、足にはタイ ヤのゴムでできたサンダル又は裸足。女は帽子の下には長い黒髪の三ツ編みのお下げ。上 着を着、何枚ものスカートを重ねてはく。足はサンダル又は裸足。そしてマンタをはおる。マンタは風呂敷ともなり、中には羊、野菜、赤ん坊等何でも包み、肩に背負い運ぶ。何世紀も何世紀も同じ姿をしている。

 一日中、山を歩き続けても行き交う人も稀で、リャマ、アルパカ、羊が所々で草を喰ん でいるのを見かける程度である。遠くのじゃが芋畑では赤いポンチョを着た村の男が収穫 にいそしんでいる。あたりには高山植物が赤や黄の花をけなげにも咲かせている。遠くに は万年雪を抱く山の頂きが青空を背景にくっきり見える。

 「大地」厳しいが優しい大地。全てを育くむ大地。我々が又帰ってゆく大地。足下に大 地をしっかり踏みしめ、大空にむかって両手を伸ばし、胸いっぱいに深呼吸をする。大自 然のエネルギーが全身にみなぎる。自分が自然と共にあることをつくづくと感じる。何と 素晴しいことだろう。何と有難いことだろう。壮大な自然を前に自分が謙虚になってゆく。

 八日間にわたる山歩きを終え、オイヤイタンボに戻る。道案内をしてくれたフェリシアーノの子供は命をとりとめたという連絡が入っていた。よかった。本当によかった。夜は村人がアンデスの歌を聞かせてくれる。曲に合わせて宿の少年が足で床を叩きつけるように踊っている。あたかも大地との呼応を求めるかのように。ケーナの音は滅んでいったインカ人の悲しみを伝えるかの如く物哀しいが、少年の大地を打ちつける足音は力強い。アンデスの山に包まれてこれからも彼等は生き続け、インカの物語りを語り続けていくだろう。彼等の祖先がしたように。

 澄み渡った夜空には南十字星が美しく輝く。違い昔インカ人も仰ぎ見たであろう。「悠久なる自然」まさにその通り。アンデスは広くて大きい。又訪れたい土地である。