ART&CRAFT forum

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「出会いと織り」 篠宮和美

2017-07-29 10:06:45 | 篠宮和美
◆篠宮和美 “海から空へ”2000年 サイズ:W 440cm×H 205cm×D 10cm 素材:綿糸、ウール 技法:二重織、綴織


◆“FIREWORK” 1997年 サイズ:W 340×H 148×15cm  素材:綿、ウール 技法:二重織、綴織

◆“水の流れ” 1996年 サイズ:W 500×H 280×D 15cm 素材:綿、ウール 技法:二重織、綴織
 
◆“WORK2” 2002年 サイズ:W 20 ×H 20×D 20cm 
素材:綿、麻、ウール 技法:二重織、綴織 

◆“UNDERGROUND” 1996年 サイズ:W 140 ×H 98×D 15cm 素材:綿、麻、ウール 技法:二重織、綴織 

◆“FLOW” 2000年 サイズ:W 123 ×H 158×D 4cm 素材:綿、麻、ウール 技法:綴織

◆“SPECTRUM” 2004年 サイズ:W 98×H 140cm 素材:綿、麻、ウール
技法:綴織、コイリング


2006年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 40号に掲載した記事を改めて下記します。

 「出会いと織り」 篠宮和美

 2005年9月、私は15年ぶりにスウェーデンのストックホルムを訪れました。9月22日から始まったハンドクラフトの祭典『VAVMASSA KONFERENS』(第10回記念大会)の見学がてら、自分が歩いてきた道をちょっと振り返ってみたいと思ったからです。
 1987年だったと思いますが、群馬県立近代美術館で開催された『スウェーデンのテキスタイルアート展』へ行きました。その時の衝撃は今も鮮明に覚えています。タぺストリーの大きさはもとより、絵画のようでいて絵画では表現できない色の深さ、明るく透明で自由な色彩の表現に圧倒されました。同時に織った人のパワー、緊張感、楽しい感情が伝わってくる不思議さに驚き魅了されました。          
 展覧会そのものは、ハンドアルベーテッツ・ヴェンネル(テキスタイルアート友好協会・HV)の活動を紹介するものでした。HVは伝統的なスウェーデンの染織技術を土台に、より高い芸術性を求めて、画家、彫刻家、版画家、デザイナーたちが、染織作家との共同作業により、大きな作品を制作し、それらが国会議事堂、病院、学校、銀行など公共施設へ次々と飾られていきました。
 この展覧会で初めてタペストリーの迫力に出会い、やってみたい、勉強してみたいという気持ちが高まりました。私は早速HVへ手紙を書いて自分の思いを伝えました。外国人留学生枠2名でしたので、順番を待ち、HVのサマースクールに入学が許可されたのは1990年のことでした。
 「授業はスウェーデン語を使用します。スウェーデン語が解らなければ1ヶ月前に来て、語学学校へ入り、基本的な事は学んでください」。私のもとに送られてきた語学学校のパンフレットは移民のためのものであり、私は授業の始まる1ヶ月前にストックホルムに着きました。
 今考えてみると、この語学学校から、現在に至る、人と人との偶然であり必然である「出会い」が始まったようです。
 語学学校ではアルゼンチン出身のカルメンと友達になり、彼女の仕事先のテキスタイルデザイナー・シャルロッテに紹介されました。
シャルロッテはカーテンや壁紙、布地のデザイナーで、カルメンはデザインされた下絵に色を塗っていく仕事をしていました。私にも仕事を分けてくれて、授業が終わるとシャルロッテの仕事場へ行き、ふたりで下絵にポスターカラーで彩色していました。「お金は出せないけれどそのかわりに夕食は出します」という約束でした。私はなにしろ好奇心いっぱいのまま、シャルロッテのお手伝いをすることにしました。
 彼女の仕事場は、5名の女性たちと共同で借りているビルの1室でした。他の4名は画家2名、舞台の衣装制作者、プリントデザイナーで、夜になると、みんなで食事に行ったり、それぞれの自宅へ呼ばれたりしました。彼女らの旺盛な食欲(ダイエットに時々励んでいましたが)、おしゃべり、バイタリテイー、北欧女性の大地に根を張り、おおらかで陽気に人生を楽しんでいる姿に驚きました。
 こういう生き方もあるのだ。人生は楽しいし、輝きに満ちていて、悔しいこともいっぱいあるけれど、それを乗り越えて笑って笑って生きていきましょう。彼女たちは、全身を使ってそのことを表現していました。日本で毎日、ウジウジした生き方をしていた私は、心の奥底から何かが変わっていくような、むしろ変わらねばならないと思いました。技術を身に付け、自信を持つことが出来たら、彼女たちのように、笑って何事も乗り越えて生きていくことが出来るような気がして、ようし!ガンバルぞ?と思いました。
 1ヶ月の語学学校修了後HVへ入りました。同じクラスには20代から30代の女性15名がいました。学校の先生が多く、夏休みを利用して織りを学びに来ていました。デザインを考え出す方法、描いたデザインを下絵にして織る絵織り技法、糸の種類及び組み合わせ、作品の仕上げ方などを学びました。こうした授業の合間には仲間たちと、美術館や博物館へ行き、たくさんのタペストリーやテキスタイルを見ることができました。
 日本のわび・さびの繊細な色合いとは明らかに異なり、色の透明さ、鮮やかさ、力強さがとても印象的でした。湿度や緯度による太陽光線の波長の違いによって、人の眼に映える色調が異なり、それが生活全般に直接作用しているのかと思いましたが、それだけでは無いような気がしました。ひとときの明るい夏、長く暗い厳しい冬、この対照的な、北欧独特の自然条件の中で、一体となった幸福感と寂寥感。常に自由と平等を求め続ける人々の生活に根ざした、凛として真っ直ぐな目線。それらがタペストリーの力強さの根源にあると思いました。そんなことを考えながらHVのサマースクールを修了し、帰国しました。
 そしてさらに本格的に勉強しようと思い、京都の川島テキスタイルスクール(KTS)へ入学しました。そこでは次の出会いが待っていました。KTSには作家では、礒邉晴美先生、石崎朝子先生、小林尚美先生がいらっしゃいました。木下猛理事長がお元気な頃で、精力的に学校運営をされていました。綴織りの高向郁男先生、組織織りの小西誠二先生、染めの小野益三先生など最強のスタッフの中で学ぶことができて幸せな時代であったと思います。技術面でもそうでしたが精神面では木下理事長の、ものづくりを大切に思う気持ちに感動しました。「アテンションプリーズ」で始まる毎朝のスピーチがおもしろくて、考えさせられる時間を持つことが出来ました。人前で話すということは、ネタ探しに始まり、ユーモア、話題の展開、表情などあらゆる脳細胞をフル回転させていることを痛感しました。
 木下理事長の業績は『インカーネーション』という一冊の本になっています。手を使って織ることの重要性(もちろん織ることだけではありませんが)や精神性が理論化されていて、とてもすばらしい本です。
 「手創りにとりくむ事は、ただ作品を創造することにとどまらず、各自、人間を、人生を、創造することに外ならない」
 「緩歩とは静かな持続のことである。静かであるが、停止しないことでもある。-中略-手織りの心のよろこびと、作品のたのしさは、とりくみの積み重ね、言わば静かな持続の長さに比例する。器用や奇抜では、輝きを持つに至らない」
 「静かな持続」は私たちのあいだでは合い言葉になりました。手織りはデザイニングに始まり、素材の選定、機がけ、制織などどれをとっても物理的に時間がかかりますが、「ゆっくり」「おちついて」「いつまでも」の精神を持ち続けること、そしていちばん重要なのがデザイニングであることを木下理事長は示唆してくださいました。私の心の財産はどんどん増えていきました。
 礒邉晴美先生との出会いも大切な思い出です。KTSから離れても、 親しくさせていただき、亡くなられる直前まで、いろいろとお世話になりました。作家がどういう日常を送り、どういう方法で次々に作品を生み出していくのかを間近で見ることができました。作品と向き合うときの厳しさ、完璧性。下絵を何枚も描き、その中から一点を選び抜き、作品創りを始める清々しさ、潔さ、純粋な気持ち。しかし人に対しては寛容で、だれにでも心を開き、絶えず気を配り、明るく、ユーモアに溢れ、批判精神も旺盛でした。わたしはそんな先生が大好きでした。一歩でも近づきたいと思いました。今でも眼を閉じると、礒邉先生の語り口が耳に残っていて、身近に存在を感じることができます。生涯忘れられない女性です。
 KTSでは多くの出会いがあり、すばらしい時間を過ごすことが出来ました。それは私ばかりでなく、当時の学生だれもが感じたことでもあります。あの黄金の時間を共有できたことで、これから先は迷わず織りをやっていこうという気持ちがどんどん強くなりました。
 ところで私は、何故、織物が好きなのかと、ときおり考えます。没頭できること、夢中になれること、全てを忘れることが出来るという陶酔感の中に、ワクワクするものがあり、その気持ちをもう一度味わいたいために機に向かうことになるようです。たとえば私は竪機で二重織りをすることが多いのですが、完全に身体を動かして頭はただ一つのイメージを追い求めていく行為を続けていると、心の奥底から喜びがフツフツとマグマのように湧いてきます。何だろう?この感覚。もっと感じたいと思う心の動きはとても不思議です。
 子供の頃を振り返ってみようと思います。私が生まれた群馬県藤岡市は江戸時代より絹の産地で、当時は月12回の市が立ち、江戸や大坂の豪商たちが絹糸を買い付けに来たようです。私は神社で生まれましたが、境内には、江戸時代の越後屋(三井)から寄贈された御神輿、灯籠、水舎などが現在も残っています。明治になって「高山社」という養蚕学校が設立され、『清温育』という蚕の育成法を学びに、全国から学生が集まったそうです。境内には、創立者である高山長五郎翁功徳碑と初代校長の町田菊次郎翁頌徳碑が、仲良く二つ並んで立っています。宮司である父が近隣に、古い家を取り壊す御祓いに行くと、おみやげに、古い機織りの道具である糸巻きや杼など貰ってきていた記憶があります。子供の頃には、桑畑や養蚕農家もわずかとなりましたが、機織りの痕跡が確かに身近にありました。
 幼いの頃の神社は、精霊が宿っているような鎮守の森でした。境内には、松、樫、檜、榊、杉、樅、楠、椿、翌檜などの常緑樹が被い繁り、銀杏、栓、梅、桜、楓,楢などの落葉樹が季節に彩りをもたらしました。昆虫、カエル,ヘビ、モグラ、アヒル、捨て猫、捨て犬、色々な動物たちが共存し、その中を走り回り、叱られて、泣き場所を求めて木に登りました。巨木には何とも言えない安心感があり、心を癒してくれたことをよく覚えています。そして仰ぎ見て雲の流れをずーっと追い続けました。赤城山、谷川岳、榛名山、妙義山、浅間山をはるかに眺めると時間がたつのを忘れました。
 まわりに存在する自然達といっしょに生活できたことは、現在の制作の源泉になり、原風景となっています。心の中でいちばん好きな場所であり、満たされる場所なのでしょう。織りをしていて感じる安心感は、原風景の中に自然と溶け込めるからかもしれません。
 これから先どんな作品を織りだしていくか自分自身でもわかりませんが、日々のなかで感じたことを同時進行で作品にしていこうと思います。そして、スウェーデンで感じた自分の生活に根ざした凛として真っ直ぐな目線を研ぎ澄まし、「静かな持続」で織りを続けていけたらと思います。
 個人個人が点であり、そして出会いによってその点が結ばれ線になり、さらに平面から立体へ移行していくのは織物とよく似ています。
 出会うことでたくさんのことを学びました。現在、京都造形芸術大学の非常勤講師をしていますが、学生たちには、私が今まで出会った人々によって育まれた心の財産も、何かしらいっしょに伝えることができれば、少しは恩返しになるかなあと思っています。
                         

『ゾウリとワラジ』 高宮紀子

2017-07-26 14:07:07 | 高宮紀子
◆左ゾウリ、右ワラジ


◆写真 3

◆写真 4

◆写真 5

民具のかご・作品としてのかご(25) 
 『ゾウリとワラジ』 高宮紀子

 このシリーズ22号にもゾウリのことを書きましたが、今回はゾウリとワラジについて書いてみます。
 テレビの時代劇を見ていると、その当時に使われたであろう、履物や笠などの被り物、蓑などが必ず出てきます。藁細工の先生から、“そういう時はドラマの話よりもそっちの方が気になります”、と言われ、いつしか私も気になるようになりました。そう言われてみると、いろいろな編み組み品が出てきます。例えば、ゾウリとワラジ。履物ですから、昔も必需品、大きくは映りませんが必ず出てきます。
 時代劇では間違いないと思いますが、よくゾウリのことをワラジと呼んでいるのを聞いたことがあります。似たような形をしているためと、ワラジという言葉の方が古そうだからなのか理由はわかりませんが、時々聞きます。ゾウリは、鼻緒がついている、つっかけ式のもので足指の間に緒をはさんで、ぺたんぺたんと音をさせて歩きます。これに対し、ワラジは足の裏にぴったり着けて履くタイプのものです。全体の作り方も少し違います。
 先日、人から聞いて、箱根町立郷土資料館にワラジ展を見に行きました。箱根は難所、昔の旅人はその山を越す前に、気分を引き締めて一泊して休み、あくる朝にはワラジも新しくしたそうです。資料館には珍しいワラジコレクションの展示もあり、また実際にワラジを作ってみるという企画も用意されていて、楽しむことができました。参加はできませんでしたが、後日、箱根をゾウリで歩くという体験ツアーも行われました。

 ここでゾウリとワラジの構造について説明します。ゾウリもワラジも芯縄(ゾウリの中を取っている縦の縄)を足の指や台にかけて、本体を編みます。違う所がいくつかあるのですが、まず大きいのは芯縄のこと。ゾウリの場合は必ず2本の縄を交差させて編みますが、ワラジの場合は交差しません。芯縄を交差させないで編んでいき、最後に芯縄をそのまま全部ひっぱらないで、何か工夫をします。
 例えば返しと呼ばれる大きなループ。(上のワラジの写真の下の部分)これは芯縄を長く残して、からめたり、根元をとめたりして、二つの大きなループとして残し、足首に固定する紐を通します。その他、足の裏にぴったり着けるために、本体と足を結ぶ紐を固定する乳という小さなループをいくつか付ける、といった工夫があります。普通、2つとか、4つなのですが、多いもので8つの乳があるもの、また逆に乳が無く、紐を編み込んでいくタイプもあります。中国や韓国にも同じような形のワラジがあり、やはり最後に残った芯縄を残し、ループとして伸ばしたり、全体を編み込んだりしています。
 ワラジとゾウリの違いは芯縄だけでなく、緒を付ける位置も違います。ワラジの場合はただ編地から出た芯縄を交差させて指の間にひっかけるので、足の指先は地面についています。現在では指が土につく履物なんて考えられませんが、昔はそれで歩きました。ゾウリの場合は緒の位置はぐんと内側にきますから、足は地面にはつきません。それでも歩くと土だらけになりますが。
 ゾウリやワラジには、それぞれいろいろなバリエーションがたくさんあります。地域ごとに生活も異なるので、その必要性からいろいろな形が生まれました。雪の上で履くものや、儀礼、そして神事や修行に使うもの、それぞれ面白いものが多くみられます。

 この写真(写真3)は日常生活用のゾウリの一つ、こんこんぞうりと呼ばれるスリッパ型のゾウリです。これは芯縄を交差させて編むゾウリの基本構造と同じですが、違いは甲の所です。
 以前、友人からこんこんぞうりの作り方を習いました。藁製ですが、芯縄をポリ紐で、布を細く切って藁の束に巻きつけたもので編みます。教えてくれた人はわざわざ群馬県の六合村(くにむら)という所に行ってこんこんぞうりを習ってきました。村には教える人がいて作り方を指導してくれるそうです。藁だけを使って作るよりは、カラフルな布が使えるので、今日風なおしゃれな履物になり、遠くからも習いに来ていたそうです。
 ゾウリと違うのは、甲の組みの部分を作るため、つま先を編む時に1束ずつ1往復だけ編み、後はそれぞれの藁の先を編まずに残しておきます。それらが何束かたまったら、甲の部分を組んでしまいます。つまり先っぽの足先を入れる部分を先に作り、足が乗る部分の残りを編みます。
 (写真4)このスリッパ型のゾウリは東北の方でも見ることができ、ゲンベイゾウリという名前が付けられて藁だけで作られています。後日、このゾウリを習う機会がありました。
 これは私が作ったゲンベイゾウリです。こんこんぞうりと同じ作り方ですが、布を巻いていませんので、ちょっと足を入れる具合がよろしくない。でも慣れれば足裏指圧のようです。
 藁だけで作ると素朴で気に入りましたが、地元の人は便所ぞうり、なんて呼んでいます。こんこんぞうりのように布で巻くと藁の先が見えなくきれいですし、編みも簡単ですが、藁だけで編むと藁の束がばらばらになってとてもたいへんでした。(写真5)

 以前、自分のホームページでこんこんぞうりのことを書いたら、ある方から山形のゾウリを送ってもらいました。このゾウリもスリッパ型ですので、作り方はゲンペイゾウリと少し似ています。でも甲のところが違います。組の部分は少ないのですが、中央をきれいに編んでまとめています。これもスリッパの形ですが、なんと洗練された形だと思いました。
 ゾウリとワラジも芯縄を台や自分の足指にかけて編んでいる所を見ると、まるで織物のようにも見えます。芯縄をひっぱれるあたり、テンションをかけて編む織物と同じです。ただし形を広げたり、縮めたりしながら編めるので少し自由がききます。そして違うのは、立体になることです。
 今年、一株だけですが、庭でお米ができました。売っているものに比べたら、小さいし、実の入りが悪いのですが、まあ一応できました。それで取れた藁で注連縄を作りました。これだけのことなのですが、やってみるとすがすがしい気持ちでした。

「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの染色Ⅱ-  上野 八重子

2017-07-26 13:19:27 | 上野八重子
◆ピサック村の化学染料店

◆ワンカイヨの染色家宅(有害な媒染剤も使われている) 

◆土でコバルトブルーを染める(水で溶かす)

◆染色

◆アマゾンの藍

◆ツボに葉と水を入れ、三日間静地

◆三日間の状態

2006年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 39号に掲載した記事を改めて下記します。


「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの染色Ⅱ-  上野 八重子

 ◆古代と現代の染色事情
 古代アンデスの染織品を見たとき、色数と鮮やかさに「ほんとに草木染め?」と目を疑われる事でしょう。紀元前10世紀頃はまだ辰砂、タンニン酸、貝紫等での描き染めでしたが、紀元前 5~6世紀になると赤、黄、青、緑とカラフルな色遣いになってきます。現在の様な染色法があったとはとは考えられませんが、アンデスは世界有数の鉱山資源地で各所に露出した鉄、錫、銅、明礬石、銀、鉛の鉱床が見られる事から考えると自然の知恵としての媒染方法があったのではないでしょうか。いわゆる泥染め的な染色法が確立していたのでしょう。僅かに伝承で残っているものとして特殊な葉・灰・尿による媒染があります。
 20世紀初頭までは技法の移り変わりはあったものの天然染料による染色は行われておりました。しかし、その後、化学染料の発明、輸入により、長い間つちかわれてきた染色技法は絶えてしまいました(近代文明の入り込まない奥地では続いているかもしれませんが)。現在、市場では化学染料をスプーン1杯単位で売っています。インディヘナの間ではビビットな色合いが好まれていて、それが今、我々が目にするアンデスカラーと呼ばれている色なのです。
 途絶えてしまった文化を惜しみ、50年ほど前にドイツ人とスイス人の染織作家が中央アンデスのワンカイヨという町に住みついて、地元民自信が忘れ去ろうとしている染色技法を聞き取りながら草木染めの復活を始めました。しかし、それは「復活」と言うよりもヨーロッパの染色法を持ち込んだのでは…と思えます。
なぜなら、染材料はアンデスの植物を使うものの、明礬石以外は科学的な媒染剤…硫酸銅、硫酸第一鉄、重クロム酸カリウム(注1)他を使っているからです。「科学的媒染剤を使うから違う」と言うのではなく、染色法が途絶え、資料も残っていない現在では、復活と言うよりも現在の染色法を伝えながら、その中で新たなアンデス色を作るといった方が正しいのかもしれません。昔ながらの方法をたどり、古代色を復活させるのは不可能に近いのではと思うのです。無い物ねだりのような古代式染色法にこだわるのではなく、今の技術で色を出せたらそれはそれでいいのでは…と思うのですが。

 (注1) 別名;六価クロムと言われ、日本では公害問題で大 きく取り上げられた有毒薬品。ワンカイヨの染色家は料理 鍋兼染色タンクで通常に使っている。見慣れない媒染剤 だったので記号を控えておき、帰国後に判明したので注 意できませんでした。今から8年前の事。

 ◆リマの染織家と染色法
 そんな古代色に魅了され、再現を目指して研究を続けている日本人がいます。ペルーの首都リマに住まいと店を持ち、彼女なりの考えで染色を試みていました。屋外(注2)にある広い染め場とペルー人の若者二人を助手にしての作業は羨ましい限りだった事を20年経た今でも鮮明に思い出されます。本とワンカイヨの染織家と情報交換で得た知識を基に染色方法を積み重ねていったようです。ではその染色法を記してみましょう。

 ※5種類の染料を抽出する。
 ※それぞれの染液に媒染剤を入れる(目分量)
※糸を浸す(好みの色になったら出す)
 ※染めた糸を別の染液に浸す(重ね染め)
 ※何度か染めた染液に別の媒染剤を入れる(染液の色が変わる)
※糸を浸す(好みの色になったら出す)
  ※最後に濯ぐ

言葉で表すとしたら「同浴、混媒染」とでも言えるでしょうか。日本で草木染めを学んだ人が来ると目を丸くして「そんな事をしてはいけないと教わりました!」と言うのだそうです。彼女曰く「秤も無かった時代に何を何g…なんてやってる訳無いじゃない!」と一言。その言葉の中には、失敗を繰り返し、経験を積み重ねた者のみが言える重さがありました。目から鱗の一言でした。幸い…と言うか、当時まだ草木染めを知らなかった私には“何でも良し”のペルー式染色法がすんなりと頭に入ってきたのです。しかし今、染色に携わる身になり、この時の事を思い起こすと、やはり「そんな事をしてはいけません!」と発してしまう程、日本での染色法とは大きな違いがあるのです。
 天然染料による染色は古代から現代に至るまで世界中で脈々と受け継がれています。絹が主な国、他にも綿、麻、羊毛、獣毛とその地で使われる素材の違い、また気候風土に適した助剤としての草木実があり…と、故に同じ染料でも地域が変わると染色法が違ってくることになります。我々の染色法と違うからと言って「それは間違っている」と言うのではなく「それもありか…」なのです。

  (注2) リマは年間を通してほとんど雨が降らないので屋外でOKなのです。

◆コバルトブルーの染料
 ペルーで会う1年前、銀座で彼女のアルパカセーター展があり、そこで見たコバルトブルーの染め糸…、その染料は何と「土」だと言うのです。日本にいると青=藍染めと思ってしまいますが、言われてみると藍とは青さが違うのです。
1年後、リマの染め場で手にした土は白っぽい乾いた粘土の様な感じです。水に溶かすと白濁し、その中に何やら媒染剤を加えると液はサッとコバルトブルーに変わり見た事もない美しい染液になりました。その中に糸を入れると吸い込まれるように糸が染まっていきます。喉から手が出る程欲しい染料でしたが一握りの持ち帰りを許されただけで残念ながら入手先は秘密とのこと。その後、ウルグアイの草木染め糸を入手した際、中に同じ色があり南米では普通の色としてある事を知り、豊かな鉱物資源を抱えたアンデス山脈の恩恵を深く感じたのでした。

◆アンデスの藍染め
 藍、藍染め…と一口で言ってしまえば、思い浮かべるのは一番身近な藍の葉と染色法だと思います。例えば日本の場合は、たで藍の葉と地面に埋め込まれた藍瓶が頭に浮かぶでしょう。藍という言葉そのものは一つの植物を指すのではなく、藍の色素を含む植物を総称するもので、藍の世界分布地図によるとインド藍系、蓼藍系、琉球藍系、大青系とあり、各地域の気候風土により、それぞれ異なった品種の植物が用いられています。その地図の中でアマゾン地域が?マークになっており品種不明との事。
 リマで退屈な日を過ごしていた時、アマゾンから運ばれてきた藍を見る事が出来ました。観葉植物カポックに似て7枚の葉が付き、一見「これ、藍?」と言いたくなる葉です。早速、生葉染めを試みたものの、葉が厚くて思うように揉み出す事が出来ません。やむなくミキサーを使い何とか染められたものの蓼藍生葉のようなスカイブルーにはならず濃緑色となりました。
次に、アンデスの藍染めを記してみましょう。

※大きな壺に葉をそのまま口まで詰め込みます。
※葉が隠れるまで水を入れます。
※日当たりの良い場所に3日間そのまま放置。(リマは日中の気温が40℃以上になる)
※3日目になると葉からインジカンが溶出し、醗 酵して紺色の泡が盛り上がってきます。
※その状態になったら、バナナ葉の灰を入れてよくかき混ぜます。
※漉して染色可能です。
な~んて簡単なのでしょう。熱い陽射しに助けられての藍染めです。
 実はこの染色法はアンデスだけに限られた方法ではなく、日本でも沈殿藍を作る工程で行う事が出来ます。ただし、バナナ灰は無理なので消石灰を使う事になるのですが…。
 次回はコチニールを求めて養産場に行った話を交えて染織品を紹介したいと思います。(つづく)



『インドネシアの絣(イカット)』-今も息づくイカット(後編)- 富田和子

2017-07-22 10:22:06 | 富田和子
◆トゥガナン村にて、正装の子供達
儀式によってお揃いの時もあれば、思い思いの衣装の時もある
 向かって左側の胸布はソンケットで、腰布はウンドゥック 中央はグリンシン 右側はプラダ

◆結婚式
結婚式や舞踊の時の祭壇の装飾や衣装には、華やかで色鮮やかな、ソンケットやプラダが使われるのが一般的である


 ◆トゥガナン村にて グリンシンで正装した娘達

◆バリ島主な染織品

◆BaG-wayan
・グリンシン(gringsing)…経緯絣(ダブルイカット)
素材:手紡ぎの木綿 植物染料
用途:トゥガナン村の衣装として、また厄除けの布として宗教儀礼に使用
模様:花、果物、太陽、星、さそり、影絵芝居など


◆Bali Cepuk
・チュプック(cepuk) …緯絣(シングルイカット) 
素材:手紡ぎの木綿 植物染料
用途:祭儀、特に葬儀用に、また祈祷師や魔女ランダの衣装に使用
模様:幾何学模様
バリ島東南のプニダ島で織られている


◆Bali Endek
・ウンドゥック(endek)…緯絣(シングルイカット)
素材:木綿、絹、レーヨン、またこれらの組み合わせ
用途:祭儀の正装、また服地やホテルの制服としてなど、広く一般的に使用
模様:花、動物などの具象模様、幾何学模様など多種
※現在では括りと刷り込み法とを併用し、高機で織られ、ある程度量産されている
豊富な色使いが特徴

◆Bali Songket
・ソンケット(songket)…緯糸浮織
色無地に金糸や銀糸、色糸を緯糸に使い模様を織り表したもの
素材:絹、木綿
用途:元々は王族の祭儀の衣装に使用 
模様:花をモティーフとしたものが多い

◆Bali Perada
・プラダ(perada)…印金
素材:絹、木綿あるいは合成繊維の色無地布に金箔あるいは金泥で模様を描いたもの
模様:蓮などの花、卍、影絵芝居などをモティーフとしたもの
用途:寺院や祭壇の装飾、舞踊や特に花婿花嫁の衣装に使用
※現在では絹はほとんど用いられず、金箔は今も純金箔が使用されているが、金泥には純金ではなく、真鍮粉などが代用されている また、手描きではなく、シルクスクリーンによるプリントも量産されている

◆Bali Poleng
・ポレン(poleng)…織
素材:木綿
模様:白と黒の格子柄  白と黒の2色は、善と悪、聖と邪、生と死、昼と夜といった同時に存在し相対立する概念をあらわしたもの
用途:寺院の石像に供物に巻かれていたり、葬儀時に男性の揃いの腰布として、白や黄色の無地の布と共に神聖な儀式に欠かせない布である


2006年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 39号に掲載した記事を改めて下記します。

『インドネシアの絣(イカット)』-今も息づくイカット(後編)- 富田和子

 ◆祭儀のための暮らしの中で
2億人を上回る人口のうち、90%近くがイスラム教徒を占めるインドネシアは世界最大のイスラム教国家でもある。 その中にあって、唯一、ヒンドゥー教を信仰するバリ島は広大なインドネシアの中で極めて特殊な存在である。 東京都の2.6倍の面積に、約300万人の人々が暮らしているバリ島には西暦の他に、ウク暦とサカ暦という二つの暦がある。 ウク暦は210日(35日×6ヶ月)を1年とするバリ独自の暦で、主に宗教儀礼使われ、サカ暦は月の満ち欠けを基にして354日を1年とする太陰暦で、主に農耕作業に使われている。バリではこれら三つの暦を使い分けなければならない。

 バリ・ヒンドゥーへの信仰が生活の基盤であり、神々のすむ島と言われるバリ島は、またウパチャラの島でもあり、芸能の島でもある。 ウパチャラとは祭礼や儀式のことを言う。 日本でも通常行われている、冠(元服)婚(婚礼)葬(葬儀)祭(祖先の祭祀)にあたる祭儀は、当然、数日間かけた盛大なものとなる。またその他にも、個人の成長過程にともなって行われる家族単位の通過儀礼から、神々に対して、死者の霊や悪霊に、自然や身の回りの物に対して等々、村や周辺地域で行われるもの、全島あげてのものまで、様々なウパチャラが執り行われるのである。

 日本のお盆にあたる「ガルンガン(先祖の霊を迎える)」と「クニンガン(先祖の霊を送る)」や、寺院の創設を記念する「オダラン」は1年に1度執り行われるが、ウク暦に従って210日ごとの周期となる。学問、知識、芸術の女神の日には、書物にお供えをして感謝の祈りを捧げるというように、 鉄製品に、果物や椰子の木に、道具に対して感謝したり、家族や村の加護を願って、寺院で祈りを捧げる日もある。 一方、バリ・ヒンドゥーの新年や農耕儀礼はサカ暦によるもので、354日ごとに巡ってくる。 島中が寺院だらけのような印象を受けるこの島のどこかで、毎日必ずウパチャラがあると言っても不思議ではではないし、彼らの人生のためにウパチャラがあるというよりは、むしろウパチャラを行うために、この世に生を受けたようにさえ思える。そして死後もなお続く。 死者の霊魂は 死霊となって穢れているが、儀礼によって浄化されると、祖霊となって神格化され、天界に行くことができる。やがて時を経て、祖先の霊魂は子孫の体内に入り再生するという。 これは仏教の「輪廻転生」にも通じるものであるが、バリでは子供の生後105日目(ウク暦の3ヶ月)に招魂の儀礼を行い、祖霊を招き、子供の体内に甦らせるという。また、バリの人が死ぬまでに必ず行わなければならない「ポトン・ギギ(歯を削る)」という儀式もある。
尖っている犬歯を削って平らにすることによって、獣性を廃し、完全な人間性を獲得できるというものである。 もしも、歯を削る儀式を行わずに死ぬと、その死者の霊魂は穢れたままで悪霊となり、天界に行くができないという。 

 そもそも、儀礼という行動様式は、日常生活とは異なった時間と空間の中で、歌や踊り、華やかな衣装や飾り物などを伴って行うことにより、ある場合は荘厳な雰囲気を、またある場合は陽気な喧噪状態を作り出し、社会の連帯といった価値観や,結婚・死といった重大なる事件を明確に表現し、心に強く刻みこむ働きを持つという。 バリの伝統的な芸能文化は、こうして頻繁に行われる祭儀=ウパチャラによって受け継がれてきた。
それと共に祭儀の正装、祭壇の装飾や供物として、また舞踊家や演奏家の衣装としても、布は必要不可欠なものであり、大きな役割を果たしてきた。 そんなバリの染織品は実に多種多彩である。

◆バリ・アガの村
 13世紀から16世紀にかけて、ジャワ島東部で隆盛を極めたマジャパイト王国の時代に、バリ島の各地にも、ヒンドゥー・ジャワ文化が広まった。その後イスラム勢力が台頭し、16世紀前半に王国が滅亡した時に、その一部の人々はバリ島に逃れてきた。その後、ジャワ島はイスラム化したので、バリ島はヒンドゥー・ジャワ文化を継承する唯一の島になった。そして、ヒンドゥー・ジャワ文化以前に伝わった仏教、ヒンドゥー教、さらに古来からのバリ島土着の文化と統合され、ヒンドゥー・バリという独特の文化を築き、発展させてきた。しかし、このヒンドゥー・ジャワ文化を受け入れずにきた人々もいる。彼らはバリ・アガ(純粋のバリ人)と称され、一般のバリ人とは別の社会を形成し、ヒンドゥー・ジャワ文化の影響を受ける以前の生活様式や伝統を、今日に伝えている。 現在、バリ島東部の山間地域にバリ・アガの住む集落が数カ所残っている。そのうちの一つに、「グリンシン」という経緯絣を織っている人々の住む「トゥンガナン・プグリンシンガン村」がある。このトゥンガナン村は、山裾の南斜面に沿って作られた、南北500m、東西250mほどの長方形の集落である。周囲三方を小高い山に囲まれて、わずかに開かれた南側に村の入口がある。さらに、この村の入口付近は、塀で囲われており、外からの侵入を拒んでいるかのように存在している。入口には記帳所があり、観光客はいくらかの寄付金を納めてから村へ入る。村には3本の広い通りが南北に並んで伸び、その両側に家並が続く。村の入口に通じている最も大きな通りに面した家々では、観光客相手に工芸品を販売しており、運が良ければグリンシンの実演を見ることもできる。

 ◆ 魔除けの布として - マジカルイカット
 
 経緯絣が織られているのは、世界の中でも日本とインドとインドネシアだけである。しかも、イカットの盛んなインドネシアにおいて、このバリ島のトゥンガナン村にだけ経緯絣は存在する。つまりここは、東南アジア唯一の経緯絣の産地ということである。グリンシンの絣模様は約20種類ほどあり、絣括りの単位である正方形から構成された幾何学的な模様が主体となっている。模様には、花、果物、太陽、星、蠍、影絵芝居のワヤン人形などがモチ-フとして用いられている。布の大きさは5種類に分けられ、その用途によって、名称も異なっている。おもに村人の腰布、腰帯、胸布、肩掛けといった祭儀礼用の衣装および供物として使用されている。手紡ぎの木綿糸を用い、経糸と緯糸の両方に絣括りをし、植物染料で染め分けて、絣模様を合わせながら織り上げていく経緯絣(ダブル・イカット)の製作は手間暇が掛かり、根気のいる仕事である。なぜトゥンガナンが東南アジア唯一の経緯絣の村なのか、いつごろ、どこから、どのような経路で、グリンシンの染織技法が伝わったのかは不明であるが、次のような言い伝えがあるという。バリ・アガの人々にとっての最高神はインドラであり、最初の人間の創造者として崇拝されている。ある晩、インドラは薬木の上に座り、月光の輝きと星の美しさ楽しんでいた。そしてそれをイメージとパターンに変え、最初のバリ島の人の神聖な衣服と定めた。その後、神インドラは経緯絣の布の作り方を少女と女性達に教え、それ以来、神から与えられた魔法のグリンシンは、儀式用の織物としてバリで最も神聖で重要な布になったという。 「グリンシン」という名称は、gering(病気)、sing(なし)、という言葉から成る。つまり、「無病息災」を意味するバリ語で、村人のみならず、バリ人にとっても、魔除けや病気の治癒のための呪術的な力を持った布としてもてはやされてきた。例えば、歯を削る儀式の時には枕を覆ったり、葬式の際には死者や棺を覆ったりと、恐れを感じるときの身を守る魔除けの布としても使われたという。ただ現在では、希少価値であり、高価になってしまったグリンシンが一般のバリ人の儀式で使われることはほとんど見られなくなってしまった。  古きバリの文化を継承するトゥガナン村の人々は、一般のバリ人よりもさらに祭儀に忙しい日々を過ごす。この村独自の暦によって祭儀の年間スケジュ-ルが決められている。暦は3年周期で繰り返され、1年目は360日を、2年目は352日を12カ月に分けて普通の年とし、3年目は383日を13カ月に分けて特別の年として、祭儀も盛大に行われる。 中でも、毎年第5の月(西暦の6月頃)は、1年の内で一番大きなウパチャラの月となる。村人達は、約1ヶ月間に渡って様々な祭礼・儀式をこなしていく。かってはバリの各地で行われていたが、今では途絶えてしまった儀式もこの村には残されている。また、普段トゥガナン村を訪れても、商品としての布を見ることはできるが、グリンシンを着た姿にお目にかかれることはまずない。ウパチャラの時期は各家に伝わる見事なグリンシンによる正装ををじっくりと鑑賞することもできる。村内結婚を基本とする村の閉鎖的な独自性と共にグリンシンの染織技法は守られ、伝えられてきた。1970年代には織り手が少なく風前の灯火であったが、海外からの注目と村内での技術指導により、今では若い世代へと受け継がれている。  インドネシアの人々の人生において、布との関係は私たちが想像する以上に密接な関係がある。布の用途とは身にまとい、ものを包むといった実用性だけではなく、彼らの人生観や世界観を表すものでもある。神や祖先への供物、婚礼の贈与品、死者への餞別、魔除けや神へのメッセージなど、広大で多民族のインドネシアでは、民族の象徴や存在証明として、精神性への用途も実に重要であり、今もなお息づいている。そして、自ら自由に模様を織り出すことのできるイカットには、さらに作り手の思いが込められていくようである。

『古びない新鮮』  榛葉莟子

2017-07-19 13:02:34 | 榛葉莟子
2006年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 39号に掲載した記事を改めて下記します。

『古びない新鮮』  榛葉莟子


 爬虫類が好きという質はあるとは知ってはいても、その質ではないので蛇をペットにしていると聞けばちょっとぎょっとする。ここでは夏の頃、草むらから這い出してくる蛇はよく見かける。道路でも車に押しつぶされたそれもよく見かける。危険のないひなた蛇と教わったそれは、荒縄くらいの黒いような地に赤と黄色の縞模様がある。秋口の頃、我が家に蛇騒動があった。その日、庭の端の草むらで猫がその蛇とにらみ合っているのを目撃した。野性味の強い若いトラの猫は実を言うと獲物を口にくわえ得意気に私に誉めてほしいらしく見せにくることがたびたびある。よくやったよくやったと誉めつつ外へ出す。それがもしも蛇だったら・・ぞっとして強引に猫を抱き上げた。シュウと草の中に蛇は消えた。ペットの猫とはいえ種が異なる動物、共に暮らしながらもどこかで線を引いておく覚悟はいる。そんな出来事も手伝ったのだろうか。夕方時、カサコソコトンと出所不明の音がとぎれとぎれ聞こえていた。何だろう何だろうとさがした音の出所は雑誌など積んである箱の中だった。物を出して覗くと薄暗がりの隅に何かがいた。赤と黄色の色が動いたのを見た途端の驚きはわれながら尋常ではなかった。とにかく家の者が帰宅するまで厳重に蓋をしてぐるぐる巻きにテープをかけた。それからヒヤヒヤドキドキしながら待ったながいながい数時間後、息ができないくらい笑いころげることになるとは思いもしなかった。箱の隅にうずくまっていたものは、不用になって束ねてあった赤と黄色の差し込みのついたテレビ用の太いコードだった。疑ることもなく猫と蛇の騒動からあの蛇が忍びこみとぐろを巻いていると思い込んだ。なぜならひゅっと動いたのだ。それにしても動いたものが何なのか謎だけが残った。
 硝子越しに空を覗く。少し風はあるけれど小春日和かなとひとり散歩に出た。けれど思いのほか風は冷たい。あたりを明るく照らすようにしていた紅葉の雑木林の盛りもおしまいになりつつある。つい数日前にはあんなに枝がしなるほど柿の実がぶら下がって茜色の木の印象だった其処何処の柿の木は、一夜にして刈り取られたかのようにさっぱりと丸坊主だ。とはいってもどの柿の木も枝の先端には一つ二つ、あるいはいくつかの柿の実が必ず残っている。取り尽さない。小鳥たちへのおすそわけでもあるのだろうし、柿の木への感謝とか見えぬものと通じあったような、収穫した人の謙虚な心のかたちとも思える。家々の軒下には干柿用の縄暖簾ならぬ柿の実暖簾が吊るされはじめ、そのあたりにほのぼのとしたのどかな気配が漂っている。そういえば八ヶ岳の麓のこのあたりでは渋柿しか育たないと聞いた。土の成分の影響か何かはまったく分からないけれどもたとえ甘柿の苗木を植えても渋柿になるという。渋柿だから干柿にするにすることなど田舎に暮らしてから知ったことで、無知といえば無知だが渋抜きの方法を知らなければこの土地の柿は食べられないから私もいろいろ教わり覚えた。その土地その土地に暮らしてというというよりも生活して、はてな?にぶつかって初めて知る先人の知恵。古びない新鮮。
 散歩に出れば大体その荒れ地の道に出る。秋口、荒れ地に根を張ったいくつもの大きな株を持つすすきの、あの束ねた絹糸のごとくつややかな群生の見事さは誰もがすばらしく美しいとふつう単純に感動する。向こうからの誘惑にするりとのる受身の感動ともいえる。たとえば渓谷一帯のたけなわの紅葉をそこに架かる橋の上から眺めた時、絢爛豪華な綾錦の豊かに冗舌な色彩の誘惑に歓声をあげ、綾錦の感動を自分のみに吸収する。向こうからはたらきかけて来る冗舌を受けるこちらはいただくばかりで、カラフルな情報に惑わされる眼は受身になる。受身の眼はたいくつだ。
 そして、狭間の季節の今だからこそのカラフルを通過してきた風景がある。晩秋のこの時、荒れ地のすすきは刈られることすらもなく十五夜の夜を呑み込んだまま艶やかだった彩は蒸発しつくし、化石かしたかのような群生へと一変している。去年もおととしも、先おととしももっと前もいつのまにか立ち止まっているそこには古びない新鮮がある。素朴な匂いのたちこめるそこ。地の底の沈黙を潜り抜け吹いてくるかのような遠い風の気配に耳を澄まし、いつのまにか立ち止まるそこ。ただそれだけのそこがいい。そこは底でもあり、後でもあり裏でもあり、奥や隅や逆や角や狭間や未完成とか不安定とか、どちらかと言えば冗舌ではない寡黙などこか隠花植物的な匂いのそこなのだ。見るそこが寡黙であればあるほど、逆にこちら側からの能動的なはたらきかけは想像を生む人は想像するように見てしまうし、見えてしまうのだから。