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「私の創作論」 木下 猛

2013-07-01 06:33:41 | 木下 猛

受肉(インカーネーション)  

19921010日発行のTEXTILE FORUM NO.20に掲載した記事を改めて下記します。

 私は 去る5月末に退職した。1936年来、K社に勤めてから、56年になる。終盤の17年ほどは 手創りの教育にかかわった。何一つ技術をもち合わさなかったから、せめても、“手創り”の命題を考え、まとめた。創作の場にある私の連帯であった。

 7月の末頃、東京テキスタイル研究所の三宅さんから、フォーラム新聞に何か書けと言ってきた。畏友からのこと、快諾した。締切ちかくなっても、まるで筆が進まず、現場を離れて僅か3ヶ月、私の思考の内実はすでに別件…余生を如何に燃焼させるか、“生と死をみつめて”…に移っていて、手創りの命題は既に懐古に属し、臨場感を欠くのである。評論的空文に陥ち、如何にも 空々しい。

 こんな事情で、かの日のエッセイに加筆して寄稿の責を果すことにする。寛恕を乞う次第である。

 テーマは 私の創作論。手創りの教育にかかわって 恒に 烈しく自分に問いかけた命題は二つあった。一つは 今の時代 何故に手創りか、言はゞ、手創りの現代的意味であり、他は、創作とは、何か、創作の本質論であったからである。

私の創作論 ……受肉(インカーネーション)……

 学問は知性の受肉(インカーネーション)であり、芸術は 感性の受肉である。感性が受肉して造形(形態、色彩、記号)となり、亦、楽章(音階、音色、コンポジション)となる。知性が欠落して、学問はなく、感性の空虚な芸術はない。

 人間とは、品性、知性、感性の受肉した主体であり、感性とは、感受性、感覚力など、心の情緒的な機能である。人、夫々によって多寡、強弱、又は振幅が異り、しかも自在である。

 然し、感性には具体的な質量がない。形態も、色彩も、音色もない。それは抽象的、個人的、心象的(フィーリング)である。これを具体化、実存化、客体化するには、受肉(インカーネーション)を経ねばならぬ。感性が受肉して はじめて、美術、工芸、音楽、文学等の芸術作品が生れる。

 受肉(インカーネーション) 余り一般的でない用語に触れて置こう。受肉とは聖書的(ビブリカル)な用語である。霊なる神が、人の貌をとり、言はば、肉体をもって、歴史のなかに顕現した、これが受肉の原点である。キリストがベツレヘムに生れ ナザレで育ち、30歳で宣教し 3年のち十字架につけられ死亡、復活し昇天した。歴史に顕われたキリストとその生涯を、人類に対する神の愛の受肉と言う。

 従って、受肉とは、見えない内実が見えるもの、啓示であり、隠れているものが現れるものへ、感性が、造形へ実を結ぶことである。だから当然に、内なるものと外なるものは密に応答しなければならず、血が通い、神経が走る活き活きした実体にならなかったら、感性が受肉したとは言えない。それは、創作とは無縁で 骸にすぎぬ。感性を造形へ受肉させるには、二つの手順を要する。デザイニングとテクニックである。感性の働きは、きわめて無秩序であり、断続的で、時に気まぐれでさえある。烈して迫ることもあるが、応々に、微弱である。その振幅を強め、整序し、斎合し、素材、形態、色彩など質量ともどもにその構成を錬成する。染織に関しては、制作に入る以前の一切を、デザイニングと言う。単にペーパープランの事ではない。これが決ると、素材をととのえ、染色、機がけ、製作(製織)そして仕上げと身体的な作業が進む。この一連のプロセスは、テクニックである。時に、デザイニングとテクニックが、別人のことがある。完成した作品の作家は、デザイナーである。

 ビブリカルの創世記に戻る。第一章の書き出し…はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、空しく闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神が“光あれ”と言われた。“…形なくむなしい天地は まさに想念に似ている。これに光を与えることから、天地創造がはじまった。創作は神の業の継承である。

 いつか京都新聞で、京大 長谷正当教授の“見えないものをいかに”を読んだ。抜粋は…われわれは見えるものの世界だけに生きているのではない。見えないものを包みこんだ世界がわれわれの住んでいる具体的な世界である。見えるもののみに信を置く自然主義的な眼は、この見えないものを無視するが、しかしわれわれを取り巻いている諸々の対象や出来事は、その色彩や輝きをこの見えざるものから くみとっているのであって、この背景を切り捨てるとき それらは意味や色彩を失って、平板で退屈なものになるのである。行為の意味や実在性は、そこに見えないものが、いかに浸透しているかによって異なってくる。例えば 一人の女性が衣服を縫っているとして それを牢獄で強制されている場合と、生れてくる子供のための場合を思い浮かべてみればよい。そこでは衣服を縫うという全く同一の行為が全く別のものになる。一方にある意味の歓びが、他方では全く奪われているのは その行為を自己の存在の全体から発動せしむるようなもの、時間のうちにあって、時間を超えるような見えない何かの感覚が、そこにあるからである。行為や出来事のうちで出会う、この見えない何かの感覚を“深さの次元”(P.ティリッヒ)とも“場所”(西田幾太郎)とも名づけることが出来る。この深さの次元を聞き保持するところに文化や宗教の働きがある。……

 少しながい引用になったが、創作に於ける、見える造形となる以前に その造形を自己の存在の全体から発動せしむる、時間のうちにあつく時間を超ゆる見えない“深さの次元”を保持せねばならないのである。

 かねてから、私は、創作の創をデザイニングと解している。見えない場所での全人的な感覚活動で見えるものにする前提一構成と表現にかヽわる一切を含む。そして、作をテクニックと読んでいる。これは 見えないものを見えるものに移行する技術的、実践的行為のすべてである。創も作も、ともに優れているにこしたことはない。だが、決定的に重要なのは 創である。

 手創りを持続できない最大の事由、又は、数年、織りを続けてきたが、同じ様なものばかりで面白くない、これらは 創を欠いて、作に走ったことにある。ウィバーズ、ニュース、レター(1976.5)にパトリシア、マラーカーは すばらしいエッセイを書いていた。…人々は 工房から工房へ渉りあるき、テクニック(作)は積み重ねるが、デザイニング(創)、見えるものを超えて、ものを見る能力が少しも改まらない。デザインとは、何か考案されたもの、形や色彩のきびしい組み合わせの法則のように考えているが、実は、デザインとは、ものを対象にするよりは、人間にはじまるのである。……ウィーバーの多くはデザインの問題を避けて通るから可能性への冒険を見のがす結果になる。デザインとテクニックは、経糸と横糸のように相互依存しあうものである。私はアーティストではないから、ただ役に立つものを織りさえすればよい、こんなセリフは平凡な色、ありふれた柄ばかりをつくる言い訳にはならない。又、テクニックは学ぶことが出来るが、デザインの感覚は生れながらのもので あとからつけ足しは出来ないなど全く馬鹿げた言い逃れにすぎない。……と、全く同感である。

 些か冗長に亘ったが、私の創作についての考えを申し述べた。

 私は 冒頭のインカーネーションが大好きである。想えば、20世紀後半の驚異的な技術革新、ハイテクノロジーのすべても 血みどろな知性の苦闘が受肉した結晶で、棚ぼたなど一つもない。止まるをしらなかった経済も深い次元を欠いて、バブルと潰えた。戦後の民主々義は 果たして真正か。形式とシステムを借用し模倣して今日に至ったのか、自由と責任の人格的な受肉として、内面的な苦悩を経て、定着しつつあるのか。

 独断を詫びて この稿を終わる。