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「かたちを織る-平面から立体織りへ-」 小名木陽一

2017-02-06 12:34:30 | 小名木陽一
◆写真2  小名木陽一 獄中羅漢文 (部分)ラミー、羊毛 綴織 1970年

◆写真1 小名木陽一 「夜の来訪者」 紙、グワッシュ 1955年

◆写真3  小名木陽一 「裸の花嫁」 木綿  立体織  1972年  京都市美術館蔵

◆写真4  小名木陽一   「赤い手袋」 木綿  立体織  1976年 
撮影:畠山  崇

◆写真5 小名木陽一  「自立の試み-white R」ポリエステル 立体織  1981年

◆写真6  小名木陽一  「飛翔の試み」 ポリエステル、ポリプロピレン  平織  1981年

◆写真7  小名木陽一  「黄色のルート」 ジュート、羊毛、ステンレス  平織  1983年

◆写真8 小名木陽一  「床を流れて」 ラミー、羊毛、鉛、木   絣織   1987年

◆写真9  小名木陽一   「壁に掛けられた黄色いピラミッド」 
ジュート、羊毛  二重織  1998年

◆写真10  小名木陽一  「壁に掛けられた黄色い半球」
ジュート、羊毛、平織   1998年

2003年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 27号に掲載した記事を改めて下記します。

 「かたちを織る-平面から立体織りへ-」 小名木陽一

 染色捺染の仕事は、横の送り、縦の送りをつけて縦横に柄(パターン)を繰り返して空白を充填していく。織物の場合も同じで、釜数は横のレピート、返しは縦方向のレピートである。ひとつのパターンを繰り返すためには、パターン化が必要であり、パターン化したものの反復によって生じた総柄はもともとのパターンとは異質なものとなる。「うわあ、すごーい」と圧倒され、圧倒するもの、つまり装飾である。

 一つのものを反復を繰り返してつくりだされた集合体は、もともとの個々の集合以上の、あるいはまったく別のなにものかに変質する。集合という作業によって個々が変質するからである。いったん集團の構成単位となった個々は、もはや集合以前の個々ではないし、もとの個々に立ち戻ることはできない。こうした個と集團の関係は人間社会の場合も同じである。一個の人間が一つの組織(職業)を選択したとき、その組織の構成員として外見も内実も同一性を強制され変質し、もとの個人とは異質なものとなる。同族、同郷、同窓は横のレピート、同社、同系列は縦のレピートと集合体が膨れ上がっていく。その結果生ずる集團の威力によって他を威嚇し覇権する存在となる。すなわち団体、企業、国家、帝国である。

 この時期の最大の関心は、人の顔や仮面で空白を埋め尽くすことであった。『夜の来訪者』(写真1)は警官の反復、『衛兵入塞文』は兵士の反復、『獄中羅漢文』(写真2)は羅漢の反復である。それらの反復と繰り返しで空間を充填していくことであった。

 もう一つの動機は赤との出会いである。タブローの時代にはモノクロームな画面が殆どでなかなか色が使えなかった。1958年の秋、京都の博物館の一室で中東の織物の鮮烈な赤の色と出会ったことが、織りの世界に引き込まれるきっかけだったと以前述べたことがあった。紙やキャンバスの支持体の上に固着された表面の色ではなく、繊維の中に染着した色が組織されて織物の色となり、そのなかから発する実物の色だった。このときの「深くてしかも鮮烈な赤の色」を使うことが目標となり、その後の作品の色彩を支配していくことになった。

 ただ、これは当初から問題であったが、下絵を忠実に織り出すことは他人の下絵にせよ、自分が描いたものにせよ、絵を織物に模製することでは同じである。絵の方が遥かに早くて直接的である。なぜ織物でなければならないのか、と問われれば織物が好きだからとしか答えようがない。ただ下絵と織物では説得力がちがう。織物の面倒な手続きと時間が説得力となる。これは画面が説得するのではなくて、素材と素材に関わる手続きの問題ではないだろうか。綴織だろうが、紋織だろうが、コンピュータ・ジャカードだろうが、平面の織を続ける限りは、絵画の複製(織物)という後ろめたさを、引きずっていかねばならない。

 1971年最初の個展が終わったあと、私の興味は画面よりも織構造そのものに向けられていった。直接的には綴織の織り目をもっと大きく拡大してみたいという欲求だった。通常、西陣の爪掻き綴は寸間30~40羽(30~40/3cm)であるが、私が最初に注文した筬目は寸間20羽(20/3cm)であった。それでも細かすぎて、結局寸間15羽(15/3cm)の筬を注文し直した。それで10枚織った。11枚目の『五百羅漢文』は3枚分の大きさだったので、一本跳ばしの寸間7.5羽(7.5/3cm)の筬目にした。当然緯糸も太くした。するとどうだろう、綴れ目は4倍の大きさに、文様のぎざぎざも4倍にぎざぎざしてきたのだった。つまり織物らしさ、織物の美しさが4倍になったというわけだ。

 それではもっと粗くしてみよう、織り目の粒々をもっと拡大してみようと思って近辺を見渡してみると、草鞋や筵の藁細工、ざる・篭などの編組技術が身近にあることに気づいた。このことが平面から立体へ向かう転機となった。

立体織り
 民具、民芸をたずね歩く旅をはじめた。その当時、東京の戸越公園にあった文部省資料館のコレクションは、もともと澁澤敬三のアチックミュゼアム(註1)の厖大な民具のコレクションで、寄贈を受けたまま公開されずに倉庫に眠っていたものだった。巨大なねこ(背当て)を見せてもらった。長さ2メートルもある裂き布を菰編みにした背当てで、一瞬息をのむほどの迫力と華麗さに驚いたものだった。このコレクションはのちに大阪の民族学博物館に収まり、そのとき応対してくれた技官も博物館教授となった民具の研究者だった。鶴岡市致道博物館のばんどり(背当て)のコレクションも立派なもので、市内の古美術店で二点購入して持ち帰った。それをばらしてばんどりの作り方を学んだ。郡上八幡では、筵機(むしろばた)と菰編みの桁と菰槌を購入して、筵や菰を編んだ。テキストは『藁細工』(註2)、『図解わら工技術』(註3)を参照した。こうして一年ばかりの間、わらと格闘して技法を習得した。

 わらじのたて縄は四本であるが、たてを16本にして大きなわらじを編んでみた。それを壁に掛けたとき、真ん中が楯状に舟底状に、あるいは半球状に膨らむのを見て円筒形に整経することを思いついた。ごく当然の成りゆきだった。わら細工では、平面と立体は連続していたのだった。

 一般の織機では、立体は織れない。いったん四角の平面を織ってから、それを裁断するなり縫製するなどして、はじめて衣服のような立体を作ることが可能となる。わらの場合は、ばんどりやねこのようにたての太さは、太くなったり細くなったり必要に応じて自在に変化する。また織物のように筬によって規制されないので、たてとたては互いに平行であることや、等間隔であることからも自由である。

 こうした藁の編組技術に裂織りの素材を応用して、なにか出来ないものだろうか。そんなあるとき東京へ行く車中で、昨夜テレビでみた南の島の女学校の授業風景を思い出した。タヒチかフィージーかどこか南洋の島の女子高生が、下は制服のスカートを着けているのだが、上半身は裸でその立派な乳房が、教室中見わたす限りにぶらぶらとぶらさがていて、それはもう見事な光景だった。東京へ着くまでに『裸の花嫁』(写真3)のエスキースが出来上がった。帰りの車内では、どうやって織るかを考えた。まず最大直径80センチの高さ3メートルの大きな紡錘形を織って、その周りに30センチ径の乳房を36個取り付けていくことにした。8月のはじめに準備にとりかかった。直径80センチの織道具を作って、染色して、二ヶ月ほどで一気に織りあげた。1972年の秋だった。

 その後は円筒形に整経して織るのが面白くて面白くて、有頂天になってバナナ、胡瓜、とうもろこし、ペニスなどの袋状の作品、胃袋、盲腸、心臓などの管状の内蔵器官をつぎつぎと織った。1976年には全長4mの「赤い手袋」(写真4)を織った。翌年は3mの男女4本の足の絡み合い、題して「Do.H社独身寮のためのファニチャ-」を織った。

自立の試み
 織物を吊り下げると、垂直に垂れ下がる。天井から織物を吊っても形ができるということは、この重力に逆らうことである。織るという行為は、緯糸に圧縮を加えることによって経糸と緯糸の摩擦、緯糸同志の圧着を強めることである。「かたちを織る」ことは、織物の内部に蓄積された力が、形態を維持することである。次の課題は、垂直方向に働く重力に対して、織りの構造がどこまで反撥し抵抗できるかということであった。

 しかしながら壁から突き出た手の形を維持するためには、支点を増やすことや内部に骨材を装填することが必要となった。さらに四本の足を床の上に展示したときには、形態を維持するために内部に詰め物も必要になった。このことは当然ながらも、織り構造に対する自尊を損なわせる事柄であった。

 織物は織物だけで形にすべきであって、他の素材の補助を援用することは私には許されない。純粋に形を追求するならば、鉄や木や石膏を使うべきで、わざわざ繊維による織物で形をつくる必要ないはずである。そこに繊維による造形の不純さ曖昧さがある。この不純とは繊維の柔軟さや織構造がもつテクスチュアーに対する愛着と執着である。しかしそれは、造形一般に共通するものであって、繊維だけの問題ではない。木や石の場合も顕著である。しかしながら形を維持するためにのみ使われている補助素材には、まったく関心が払われていないどころか、繊維素材で包み隠そうとする。隠蔽は許せない。

 筵機で三方耳の織物を織った。下端の経糸を基板に穿たれた穴に通して、強く引っ張って結ぶ。四角い織物は、30センチくらいの高さならば、らくに立たせることができる。はたしてどの高さまで可能だろうか。かくして繊維素材への荒唐無稽な「自立の試み」がはじまった。

 まず上方の両角をそぎ落として、下部の負担を軽減する。あるいは基板に穿たれた穴の列をS状、C状、V状、O状などに湾曲させて、前後左右のバランスをとる。さらにポリプロピレンなど軽量の合成素材を使用する。赤からオレンジ、黄色、白へと色彩を軽くする。ただしこれは視覚的な軽量化で物理的な実効性は伴わない。

 当時、名古屋の栄にボックス・ギャラリーというのがあって、そこでこの自立のシリーズの最初の展示を行った。展示を終えて帰ってきて、2、3日したとき画廊から電話で「一点倒れました。もう一点も倒れかかっています」と。翌日新幹線で立たしに行って帰ってきたら、また電話がかかってきて、「三つ目が倒れました」と。

 1981年のスイスのビエンナーレに出した『倒立の試み』は、初日からしばらく滞在中は無事だったが、その後は天井から吊ってあったそうだ。その年の9月オーストリアのリンツでも、子供が触って倒れてしまったらしい。11月のウッジのトリエンナーレ(写真5)は指示だけ出して会場には行かなかった。その後は海外への出品はお断りした。

 もともとこの仕事は、実験であり表題の通りの「試み」であった筈だから、作品として恒久的に展示できるはずはなかった。『飛翔の試み』(写真6)は軽量の素材を使用して、床から30センチほど浮上さすことができて4年間の悪戦苦闘は終わった。

遭遇
 私の美術史はアンフォルメルで止まったままだった。絵を描くことを止めてからは、ただひたすら黙々と織り続けていた。1981年49才のときに京都の芸術短大に招かれたことで、これまでの環境が一変した。急に視界が開けて1950年代以後の美術が体内へ流れ込んできた。現代美術との遭遇だった。また同輩の彫刻家、陶芸家との交友によって、金属や石、焼物などの硬質のテクスチャーを知った。織物の有機性とは対照的な工業素材の均質性と無機性と堅固な物質性に魅了された。でももともと織物は人類が発明した最初のメカニズムであり、最初の機械製品として均質性、無機性を志向してきたはずだった。しかし今われわれが使用している織の機構は、当初のものと変わらず依然として不完全である。また使われている糸も完全な均質性をもちえない。したがって織られたものもその意に反して不完全である。この工業素材の均質性と手仕事との出会い、無機性と有機性、彫刻と織物の遭遇がテーマとなった。

 『黄色のルート』(写真7)は壁面から突き出たステンレスの稜角から、一気に落下する黄色の布。『オレンジ色のパイ』は曲面のスロープを緩るやかに流れ落ちる。さらに織物は壁面をはなれて床の上にひろがっていく。

 高度差を色で表すことは、すでに地図で行われているが、『床を流れて』(写真8)は30cmの高さの鉛の台座から黄色の織物が床の上へ流れていくものだった。台の上のレモンイエローから、床の上へ下るにしたがって、ディープイエローからオレンジをへて、スカーレット、レッド、濃赤へと色彩も連続して流れていくものだった。綴織の段ぼかしという技法は、濃度の異なる色糸を織りまぜる方法で、視覚を欺瞞するグラデーションである。連続したグラデーションをうるために、いろいろと染色法を実験してみた。その結果、連続繰り入れ法なる染色法を採用した。

 あらかじめレモンイエローに染色された8綛分(1綛250m)の糸をつないで2kmの一本の糸にして、その一端から順に赤の染料の中に繰り入れていく方法である。染料は温度と時間に比例して糸に吸収されていくので、染浴内の染料は徐々に稀薄となり、最後は染料がなくなり白湯となって染まらない。綛ごとに糸の両端に標識を付け、糸が絡みつかないように綛と綛の仕切に円盤状の金網を沈め込んだ。かくして2kmの長さの一本の糸が、レモンイエローから濃赤に至る連続したグラデーションに染められた。5mの黄色の織物は鉛の台の上で長々と寝そべった後、深紅に染まりながらスロープをゆるやかに滑り下りて床にひろがる。

 いままで内部に隠し通してきた構造材を顕在化すること、重力に逆らって無理矢理に直立を強制してきた織物に安息の場を与えること、すなわち本体に寄り掛かり寄り添って、表面を被覆する繊維本来のポジションを回復させることであった。

脱構造
 織物を切り刻むことには痛みが伴う。いや罪悪というべきである。織物を切ることは、経緯の糸の連続性を断ち切ることである。帆布やキャンバスなどの工業布帛は可能でも、自分が織った織物を自らの手で断ち切ることはできない。縫製は切断の償いでしかない。一旦切断された傷口は、たとえ縫合しても原状に復しえない。たんに不完全さを接合しているにすぎないからである。

 洋服の仕立てはパーツの形に生地を裁断して縫製する。当然のことながら裁断された一片一片の周囲は、織物としての連続性を突然断ち切られたままである。したがって切り口から経糸や緯糸がほつれ出すのを防ぐため、かがりや返し縫いが必要となる。またそれらが縫合されて仕立て上がっても、織り構造の一貫性は分断されたままである。着物はこの分断を最小限に抑制している。着物の形態は裁断の抑制に由来すると言えよう。インカの貫頭衣では、両脇、前後の裾はすべて織耳(四方耳)であり、首廻りは羽釣り目であり、どの開口部も織物として首尾一貫し完結している。

 以前からピラミッドの形が気になっていて、帆布やキャンバスを縫製して黄色いテントのようなピラミッドを床に置いたり、壁に掛けたりしたが思うようにいかなかった。1995年には正三角形を四枚織って接合部の経糸同志を交互に差し込んで、経糸を連続させようとしたが不完全でしかも困難な方法だった。いずれの場合にも裁断と縫製という罪悪感がつきまとった。1998年になってようやく織機の上でピラミッドを織り出すことができた。

 まず片あきの二重織(袋織)で正三角形の表裏二面を織ったあと、織り前を60度傾けて経糸を張り直し、さらに残りの正三角形表裏二面を織りあげた。機からおろすと片あきの織り耳、表裏四辺が底辺となって、底面2m四方のピラミッドが立ち上がる。壁に掛けると右上から左下に向かう対角の稜線が二重織りの袋状の織り耳で、左上から右下へ向かう稜線は、経糸の屈折線である。(写真9)

 半球もいままでに三つつくった。最初は綿布を地図のメルカトル法(紙風船方式)のように裁断して縫製した。次は織機の上で展開図の南北を横にして織ったあと、経糸を引っ張って緯糸部分を移動して半球状に接合した。小品ならともかく直径2mの大きさとなると、大陸移動することはもはや困難となった。三作目は織機の上で、頂角が15度の二等辺三角形を織ったあと、右端は固定したまま織り前を15度ずらして経糸を張り直す。さらに同じように二等辺三角形を織り足していく。これを6回繰り返すと織り前は90度方向を変え、24回で360度と一回転する。だだしこのままだと円盤にしかならないので、二等辺三角形の長辺二辺に作図した円弧状の膨らみをもたせた。織りはじめと織りじまいの経糸を相互に差し込んで接合すると、織機の左側の織り耳を底辺とする半球が出来上がった。中心の経糸は、わずか数ミリ使用しただけだが、外周の経糸は6m28cm(2m×3.14)の長さを織った。壁面に接する底辺は地球儀の赤道で、中心のおへそは北極にあたる。(写真10)

 織機の上で形を織って、非裁断、無縫製でピラミッドと半球をつくりえたことは、私の「かたちを織る」という課題の到達点であった。このシリーズは、骨組みのfabricationに、取り去るのdeを頭につけてdefabricationとした。漢字では「脱構造」となる。「織りの造形」から形態を抜き取ったのちも、織りの形は確かに存在することを確認した。

註1 アチックミュゼアム 昭和初年から戦前にかけて澁澤敬三が主宰して収集した
民具のコレクション、澁澤邸の屋根裏部屋(attic)で行われていたことに由来する
註2 『藁細工』小泉吉兵衛・掘卯三郎共著、目黒書店、大正7年
 註3 『図解わら工技術』佐藤庄五郎著、富民社、昭和34年