ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

編む植物図鑑⑧ 『イラクサ科、ヤナギ科』 高宮紀子

2017-10-28 13:21:16 | 高宮紀子
◆写真 2 チョマでの作品 1995

◆写真 1カラムシ

◆写真 3

◆写真 4

◆写真 5

◆写真 6

◆写真 7

◆写真 8

2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。

編む植物図鑑⑧ 『イラクサ科、ヤナギ科』 高宮紀子

 ◆カラムシ:
 イラクサ科の仲間には、伝統的に繊維を採ってきた種類があります。栽培されるカラムシ、その他、野山に自生するイラクサ、アカソ、クサコアカソ、などがあります。イラクサは防御のための刺毛(しもう)があり、手が痒くなりますが、カラムシにはありません。ですから繊維をとるのも容易です。チョマという呼び名があり、その違いをよく聞かれますが、栽培されるカラムシの仲間のことだそうです。このカラムシには二種類、葉の裏が白いもの(毛が生えている)とそうでないものがあります。それぞれ温帯と熱帯に住み分けています

 1995年ごろチョマの繊維で作品を作っていました。(写真)この繊維は輸入されたものを買ったもの。フィリッピン産と聞きました。日本のカラムシと違って長く、繊維がしっかりしています。熱帯産のカラムシの繊維かもしれません。

 数年前に、二人の友人から根つきのからむしをもらい畑に植えています。(写真3)以前から庭に自然に生えたものがあったのですが、日照不足のためひょろひょろで繊維をとるにはあまりにもかわいそう。繊維は柔らかいかもしれませんが、使えませんでした。

カラムシは、友人の住むそれぞれの地元、伊豆産と千葉産でした。隣に植えたら、その後に一緒になり今はどちらのものか分からなくなっています。二人の自慢のカラムシとあって、ものすごく早く成長し、茎も太くなります。

 冬の終わりごろから今年も芽が出始め、5月現在で1.5mの背丈です。先日の台風で何本かが倒れてしまいましたが、全体を紐で縛って育てています。

 カラムシは枝を切って皮を剥ぎます。一年に三回切って繊維を得る方法もあるようですが、私は糸にするわけではないので、夏の終わりごろまで切りません。写真4はカラムシの外皮を剥いている所。水をあげている時期なら簡単に皮を剥くことができます。皮は簡単に剥げるのですが、糸にするには甘皮を引く(取る)作業が必要です。甘皮を削り取るようにナイフのようなもので引きます。甘皮を引くのは大変ですが、さらに晒して美しい繊維にすることができます。私は甘皮つきで使ったり他の方法を試しています。またいつかご報告できたらと思っています。

 今の時期、カラムシにはわき芽がたくさん出てきます。これを放っておくと、分岐が始まり、先がどんどん分かれて細くなります。それでわき芽を切っています。畑でこんなことしているのは自分だけだろうなと思いながら少しでも皮が厚くなるよう知恵を絞っています。

◆ヤナギ科:
 「編む植物図鑑」の一番目がヤナギでした。シリーズでは編む植物の面白さをかごの話や体験を通して伝えられればと思って書いています。今回、ヤナギの続きを加えます。

 一回目で夏期講習用にオランダヤナギを送ってもらいかごを作った話をしましたが、先日、この時にお世話になったTさんからシダレヤナギを切るが樹皮をとるかい?、との連絡がありました。さっそく研究所のかごクラスの生徒さんと一緒にうかがいました。

 Tさんの畑には何十種類のシダレヤナギが植わっています。日本各地から集めた枝を挿し木で植えて、種類と数を増やしていかれたそうで、シダレヤナギの図鑑みたいな畑になっています。

 Tさんによると一つ一つ、葉の長さ、色、枝のしだれ方が違うとのことですが、素人の私には言われてみて納得する程度です。ともかくその中の何本かを電動のこぎりでばんばん切ってくださるのを、追いつけない!と思いながら皆で一緒に少しずつ皮を剥きました。

 ヤナギは枝と樹皮を編む素材に使います。シダレヤナギの枝はかごの伝統的な素材ではありませんが、柔らかい種類であれば編むことができます。生のうちなら結ぶこともできる柔らかさです。

 ヤナギの皮を剥ぐのはとても簡単です。木部と樹皮が離れて剥きやすい。気持ちよいほどよく剥けます。これまでも幾度も剥いたことがありましたが、太くても直径5cmぐらいの直径の枝の皮ばかりでした。

 今回のシダレヤナギの幹は太いところで直径20cmを超えていましたから、太い所は剥きにくいだろうな、と考えていました。樹木の皮は根元にいくほど厚いですからほとんど一人の力だと剥けないことが多い。

 それでも試しに根元の方を剥いでみると、力は必要ですが簡単にどんどん剥げるということがわかりました。(写真5)外側はコルク質のようにかさかさしていて、ぼろぼろ落ちますが、白っぽい内皮は層になって厚い靭皮を作っていました。しかもしなやかでした。

 太い根元ほど靭皮が厚いのですが、外側の皮(写真6)と靭皮層が一緒に剥がれるので、後から外側の皮だけを取ってみました。なかなか取れないところもありましたが、カッターなどで削ると靭皮層が現れます。(写真7)この繊維は長く強く編めそうでした。

 あれから一ヶ月が過ぎようとしています。今ではすっかり乾燥し硬くしっかりした厚い皮になりました。細めの枝からとった樹皮もきれいな色をしています。ヤナギの皮としては珍しいグレーがかかったきれいな色です。ただし、自然の色は変色するので、この色をたのみには作品はできませんが。

 ここに皆さんに紹介したいヤナギのかごの本があります。きっかけは数ヶ月前スイスから送られてきたメールです。2006年にデンマークで会った人からだったのですが、馬のクツを探しているとのことでした。そこで知り合いに頼んで藁製の馬のクツ(当然今も使われています。)を取り寄せて写真を送ったら、博物館に展示したいと言われ送りました。この時、馬のクツの代金の代わりに同額のかごに関係するものをと伝えたら、一冊の本“Willow Basketry”(写真8)が送られてきました。

 この本は, Bernard and Regula Verdet-Fierzという夫妻が書いたもので、ヤナギのかごについての本です。

 まず開いてみてイラストが新鮮に思えました。この本で使われているイラストは全て表紙にあるような白黒の版画でした。奥さんによるものとのことですが、日ごろから細部まで映し出すカラー写真に慣れている私にとって、この絵は新鮮でした。同じ本を以前見たことがあるのですが、英語版が出版され再会することができました。

 本の中身は、イラストと同様、しゃれています。かごの作業場所はこういうふうにしたらいいよ、というアドヴァイスやヤナギの育て方、ヤナギの種類やそれ以外の籠の素材についても書いています。道具の紹介もあるのですが、一番の道具はあなたの手です、とあります。作り方がメインでなく、読んでいて落ち着くというか、せかせかして技術ばかりに興味がいく、そんな気持ちを忘れさせてくれます。

 この本によると、素材の特定はないのですが、ヨーロッパではおよそ7000B.C.の旧石器時代にはいろいろな編み方がすでにあったようです。ヤナギを使いだしたのはずっと後のようでチューリッヒの後期青銅時代、約850年B.C.の遺跡でコリヤナギで編んだ組織が残っていると紹介しています。青銅時代の放射状に編まれたかごの底が出土しているようですが、この素材はヤナギより柔らかい素材だったようです。ただ編み方は現在ヤナギで使われる方法と同じだとか。

 別の資料によればイギリスでは、最初にヤナギが栽培された記述が残っているのがA.D.になってから。それから何世紀をかけて、数百種のヤナギが栽培されるようになったようです。その後、市場などで果物や野菜の運搬容器やメジャーとして利用されるようになり、かごの需要が増して、後世にはかごを作る職業が現れました。

 産業革命後、次々と機械化される製品の中で、かごは唯一、手で作り出す工芸の一つとなってしまいました。イギリスでもいまやアジア、ポーランドなどからの輸入物が多いと聞いています。

「古代アンデスの染織と文化」-伝承されている技法(標高4千㍍の村で③) 上野 八重子

2017-10-28 08:54:24 | 上野八重子
◆一辺を階段状に織り、その後絞り染めして組み合わせたもの

◆写真1.タキーリ島、男性の民族衣装 帽子の先が白色は独身男性の印

◆写真2.ウロス島、葦で作られた浮島と家

◆写真3.織り合せ織り (小原豊雲記念館蔵)

◆写真4.薄地布 経緯同色なのが良くわかる(小原豊雲記念館蔵)

◆写真5.無地と絞り 変形平織に絞り布を配置 (小原豊雲記念館蔵)

2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。

「古代アンデスの染織と文化」-伝承されている技法(標高4千㍍の村で③) 上野 八重子
◆チチカカ湖内の島
「染料は何だったの?」と、ふと入手経路を考えてしまいました。前号でタキーリ島の編と織物の事を記しましたが、伝統的なタキーリ島のエンジ色と紺色は昔は何で染めていたのだろう…と。
赤やエンジ色はコチニール。紺色は藍…と勝手に決めつけてしまいがちですが実際にはまるで違う染料…と言う事もあるかもしれません。広い湖内に孤立した島での交通手段はモーターボートが就航する以前は手漕ぎの葦舟だったはず… 何日もかけて湖岸の町、プーノやラパスに出向いて毛や染料を仕入れていたのでしょうか。それとも島内の植物だったのでしょうか?島で羊(標高4千㍍に住む羊はとても小さい)は見かけましたがアルパカはいたのでしょうか? 残念ながら、私がこの地に行った時点では染色も織物もしていなかったので気にも止めていなかったのです。

 我々は、とかく現在残っているものから憶測であれこれ考える場合が多いのですが、違う視点で考えてみると、案外今のようなタキーリカラーになったのは化学染料を使うようになってから…だったりするのかもしれません。染料のルーツを調べたら古代の行動範囲や生活圏がわかってきて意外な方向に展開するかも…などと考えていると「もっと知りたい!」と言う意欲が湧いてきてワクワクしてきます。等々、今になって疑問ばかり出てきて調べてこなかった事が悔やまれますが又の機会に…。
いずれにしても人間は現在から古代に遡ってみてもファッション性と言うか美意識と言うか、色に関してはナチュラルカラーだけに留まらず、色で模様を作り出す事にかなりの意欲を持っていたと言う事でしょう。実用性だけなら無地で充分だったはずなのですから…

 ここでタキーリ島の衣装を見てみましょう。男性は白いシャツにベストを着て三角帽子(独身男性は先端が白の無地)をかぶり腹帯をしています。帯も帽子もこの島の貴重な収入源、土産品として作られています。女性は赤いセーターを着てチュコオという日よけの黒い布をかぶり、膝までのスカートは10枚程の重ね着(汚れたら上を脱いで中に新しいのをはく)隣のアマンタニ島の女性は上着は白、と言うように、ここでは地域ごとの民族衣装が保たれています。リマやクスコなどの都市部では私達と同じ格好をしている人が殆どなのです。が、遅かれ速かれいずれこの島にも文明の波は押し寄せてくる事でしょう。「そうなる前にもう一度行きたい」と言う思いを胸に残し、そろそろタキーリ島を後にしましょう。


-伝承されてない技法-
織り合わせ織り

 ◆何故、面倒な事を?
 「織り合わせ織り」「はめ込み織り」「経緯掛け続き平織り」と博物館によって呼び方が違っていますが、大きく分けて2種類の製織法があります。  

1)染め糸を模様に応じて経緯同色で織り上げたもの。実物を見ても「あ~、綴れ織りね」と軽く見過ごされてしまう程です。しかし、整経や製織工程でとても手が込んだ仕事をしているのです。
は地味な市松模様ですが縦166㎝横150㎝に3㎝平方角が千三百以上にもなるという…
ウーン…と、うなってしまいませんか! 3㎝ごとにインターロックをしながら整経、その為、通しの綜絖は使えない…毎段手拾いなのか?

古くから織りに精通していた民族が古代染織末期とも言えるインカ時代、簡略化が進む中にあってどうしてこんな模様を考えたのでしょう。いくらアンデスびいきの私でも「ここまでしなくても~、こんな技法には手を出したくないな!」と言うのが本音です。
(写6)はガーゼ位のスケスケ布、経緯糸が同色というのが良くわかりますね。この様な柄を織るには、通常の綴れ織りでも可能ですが、色の違う経糸を見せない為には緯糸密度を上げる、故にスケスケにはならず重さも出てしまいます。この布は同色の経緯糸で織られるので、この様にざっくりと織ってもより鮮やかな色彩の布になり、軽く仕上げる事が出来ます。これだったら経緯糸同色にする意味もわかるし、多色できれい、軽い。納得です。

 この他にも一見、単純な縦縞に見える布にこの技法が使われていて、又しても「ここまでするか~」と言ってしまいます。腰帯機での平織りは通常、経密なので経糸の色しか見えません。故に縦縞は簡単に織る事が出来ます。しかし、(写6)のような緯糸が見える程の軽くて薄地な布はやはり一工夫必要だったのでしょう。単なる縞なので整経は多色で好みの縞に掛け、製織時に経糸色に合わせて同色の緯糸をインターロックしながら入れていきます。…と言ってしまえば単純な発想です。だが、合理性を優先させる傾向にある我等現代人には彼らの意図するところが理解できない一面もあるのですが、「アンデスらしい発想だね~」と簡単に片付けるのではなく、先のタキーリ島の染料ルーツと同じで、あれこれ理由を考えてみると新しい発想への出発点に繋がるのかもしれません。ふと、東テキ、三宅所長が言われている「まず原点に戻ってやってみろ」の一言が頭を過ぎります。
 これらの技法は、出土品を見ると3世紀頃にはすでに行われていたようですので、一部地域では連綿と続いていたのでしょう。

2)何色もの絞り染め小片を寄せ集めて織り込んだ布。 こちらは前もって綿密な計画、染めと織りの両方共に極めて緻密な技術があって初めて可能な仕事なのです。大胆な模様構成と高水準な技術を持ち、能率や手間を厭わない手仕事から生まれた裂と言えるでしょう。アンデス染織文化の独創性を示すものであり、アンデスのみの特殊技法の一つと言えるものです。
「絞り染め小片の織り合わせ織り」と称していますがこの技法を知った時、本当に面白いと感じました。
一見パッチワークの様に見えますが、縫っているのではなく、織りなのです。織り、絞り、染め、接ぎ、を思いのままに組み合わせて1枚の布が出来上がっていきます。

 この絞りを組み合わせた織り合わせ織りはワリ文化系海岸文化(約10世紀)と言われていますが、この時代はアンデスどの地域でも緻密な技法(綴れ織り、疑似ビロード)が多く作られていたようですので、ワリ人達の意識の中には緻密な技法は当たり前で大変、面倒などというものはなかったのかもしれません。それに腰帯機の複雑な多重織りを思ったら、こちらの方が楽だし染め上がりの出来映えを
見るのもワクワクするし…と本当に楽しんでいたのかもしれませんね。
「絞り染め小片の織り合わせ織り」には何パターンかあり、それぞれ最初の織り方が違っています。

(写7)は同じ大きさの小片を染め分けて接ぎ合わせています。
(写8)は無地染めと絞り染めの組み合わせ。
(写9)は一辺を階段状に織り、その後絞り染めして組み合わせたもの。

この3枚、いずれも1枚ずつ織ったのではなく、織り上がった時は全部が繋がっている状態なのです。 私、個人的には特に(写9)が好きで直線に限らず斜線、円形にも応用し着て楽しんでいます(写10)
 緻密な技術だ、手間を厭わない手仕事だ、と大変さばかりを誇張して言ってきましたが、ちょっとした工夫と使う糸を加減すれば初めてでも充分に織り合わせ織りを楽しむ事が出来ます。今期の夏期講座にはこの技法を取り入れてみましたので織り、絞り、草木染めでアンデスを楽しんでみませんか。
(つづく)



『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの染料(Ⅱ)特別な赤-前編 富田和子

2017-10-24 14:58:16 | 富田和子
◆カリウダ村のイカットと持参して染めた糸

◆ムンクドゥの木(ヤエヤマアオキ)

◆乾燥中のムンクドゥの根(バリ島トゥガナン村)


◆ムンクドゥの根を石臼と杵で細かく潰し、水を加えて絞る。色が出なくなるまで何度も繰り返す。太い根は芯を除き皮のみ、細い根はそのまま使用する。(スンバ島カリウダ村)

◆実習で染めた糸サンプル(インド茜100%×2回染明礬媒染)

[バリ島トゥガナン村の染色]
◆油は村内で作られている。殻を取ったクミリの実をモーター付きの木製の機械で粉砕し、小型の圧搾機で油を搾り出す

◆クミリの実
[クミリ]東南アジア原産の高木で、和名はトウダイグサ科のククイノキ。油桐の近縁種。実(核果)から油を絞って灯火に用いられ、キャンドル・ナッツとも言われる。インドネシアでは料理にもよく使われる。

◆かまどの灰を利用した灰汁

◆クミリで下染めされた糸(バリ島トゥガナン村)



◆クミリの油と灰汁を3対5の割合で混ぜた液に糸を浸し、42日間浸けておき、日に干す。絣括りを終えると別の村へ糸を運び、まず藍で染めた後、トゥガナン村で赤色を染める。赤く染める部分の絣括りを解き、バリ島ではスンティと呼ばれているヤエヤマアオキにクプンドゥンという媒染剤の役割を果たすと思われる樹皮を加え、気に入った色に染まるまで何回も染め重ねていく。

2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの染料(Ⅱ)特別な赤-前編 富田和子

 ◆赤を染める染料
 イカットの天然染料で最も代表的な材料は藍と茜の組み合わせであるが、日本で一般的に知られている多年草の茜(日本茜、インド茜、西洋茜など)とは違い、インドネシアの茜というのはアカネ科のヤエヤマアオキのことである。ヤエヤマアオキは沖縄以南に分布する小高木で、インドネシアではムンクドゥと呼ばれる。藍と同様に重要で代表的な染料であり、樹皮や根皮を染料として用い、オレンジ色~赤~赤茶色を染める。藍染めは葉を使用するため入手も容易であり、木綿にも良く染まるので、天然染料の中でも最も一般的であり、身近でかつ重要な染料となっている。一方、ムンクドゥ(茜)は木の生長を待ち、その根を大量に使用するため入手も困難である。その希少性から、かつては藍で染める青~黒は平民階級の色として、茜で染める赤(オレンジ色~赤茶色含める)は支配階級や特権階級の色として扱われていた。「ムンクドゥ」はインドネシア語の植物名で、バリ島では「スンティ」、スンバ島では「コンブ」、フローレス島では「ブル」というように地域ごとに呼び名は異なり、染め方も色合いもそれぞれではあるが、一般的には抽出は煮出すことをせず、ムンクドゥの根を細かく潰し、水を加えて絞り染液を作る。染める時にも加熱はせず、染液に数日間糸を浸した後干す。媒染剤として他の植物の樹皮や葉の乾燥したものを加えて染めるという点が共通する染め方であった。

スンバ島のカリウダ村のイカットは赤い色が最も鮮やかだと言われている。最初にそのイカットを見た時には天然染料とは思えない真っ赤な色に驚き、化学染料も使われているのではないかと疑った。2回目にその村を訪れた時に染めの工程を見せてもらえるように頼み、日本から持参した糸を染めてみた。1回の染色では、下染めもしていない糸は写真のように赤くは染まらず、イカットの色とはかけ離れたものであった。染め重ねたとしても真っ赤になるとは思えないが、町から遠く離れたこの村で化学染料が使われている気配は見えなかった。いったいどうしたらこのような赤を染めることができるのか…、説明を受けても納得がいかなかった。

 ◆木綿染め研究グループの試み
イカットを訪ねて、インドネシアに行き来するようになった頃、当研究所では草木糸染めクラスの卒業生有志による「木綿染め研究グループ」が発足していた。絹や羊毛に比べ、染まりにくい木綿を堅牢にいきいきと染めるための方法を模索する活動であった。1年目は今も草木で糸を染めている木綿の縞織物、館山唐桟の染め方を実習しながら150色を染め、加熱することなく水温でも充分に染まることを知った。2年目は唐桟の常温染法と従来の煮染法との比較をしながら、藍とのふたがけを加え、染色時の温度、時間、回数、濃度などが検討された。その結果、木綿は染め重ねることが重要であること、藍が多くの色を提供してくれることを再確認した。

2年間の活動の中で浮上した問題は「赤」の染め方であった。前述の染色条件に加え、抽出方法、下染めによる有機媒染方法、糸の精練方法にも検討は及んだが、いきいきとした赤色を堅牢に染めることは難しかった。そこで3年目は今でも天然染料で木綿糸を染めているインドネシアのイカットに注目した。インドネシアの茜の染め方では特に印象に残った事がいくつかあった。

※染める前に糸を精練している様子がないこと
※赤の色素成分は直接木綿には染着しにくいため、クミリという木の実で下染めをしていること
※媒染剤には化学薬品を使わずに、身の回りの樹皮や葉などから調達すること
※数ヶ月、あるいは数年間という長い時間を掛け、濃い染液で繰り返し染め重ねているらしいこと

 研究グループでは、限られた時間の中でできることと、今後に活かせることという点で、糸の精練と赤色を染めるための下染めについて実習を試みた。

糸の精練に関しては、末精練と精練済の糸で比較すると未精練の方が濃く染まることがわかり、8人のメンバー全員が同じ結果を得た。現地でも精練をしているのが見られないこと、「染織α」に掲載された『精練漂白による木綿の草木染め比較』*1)で、未精練の糸が最も濃く染まっていたことなどを考え合わせ、それ以降、精練はしないことにした。

 バリ島で入手したクミリで下染めされた糸を見ると、たっぷりと油を含みベトついた手触りで糸の色は黄変している。実に含まれている油やタンパク質が重要なのではないかという見解が出て、次の4種類の下染めを実習することにした。

※タンニン酸…一般的な有機媒染の常法として。
※クミリ…現地から持ち帰り、どんな感じかをつかむために。
※種実類…今後の参考のために、クミリの代用になりそうな[油+タンパク質]を豊富に含んでいるものとしてクルミ、椿の実、松の実、落花生、大豆、ゴマ、ひまわりの種の7種類を選んだ。

※油類…さらに液体の植物性油4種類、椿油、ごま油、菜種油、オリーブオイルも加えた。
タンニン酸とクミリは8人全員で、種実類と油は1人が1~2種類を分担して実習した。

それまで現地でクミリでの下染めを見たことはなかったので、手元の資料を頼りに染めてみた。糸と同量のクミリを擦り潰し、灰汁と混ぜ糸を2~3日浸けたあと、1週間天日に干すという方法で、他の実も同様に、また油は糸の半量を灰汁と混ぜ使用した。染料は、ヤエヤマアオキ(ムンクドゥ)は手に入りにくいので、引き続き手に入る染料であり、メンバーも苦戦しながら染めていたインド茜で染めることにし、それに伴い、染色温度は煮染法で行うことにした。 その結果、染着濃度の高いのは、油類 >クミリ・種実類 >タンニン酸の順であった。 これはインド茜以外の染料でも同様で、8名全員の一致した結果だった。色合いについては、タンニン酸は黄味がかった色になり、クミリを含む種実類には若干濁りがみられた。クミリとタンニン酸は全員が同染料、同条件で染めたにも関わらず色の違いが現れた。8人の染め手がいれば8通りの色になるということで、種実や油の種類による比較には至らなかったが、濃度、赤の色相、透明感という点では油が最もすぐれていた。[油+タンパク質]が重要だろうと考えていたメンバーにとってこの結果は予想外だった。精製された油を使えば良いのなら実に簡便である。しかし、タンニン酸では染色後の糸の風合いは変わらないのに対して、種実類は固くなり、油脂類はいつまでも滲み出てくるような油と匂いが気になった。種実類は脂肪が主成分だがその他の成分も含まれている。それらの有用性もあるかもしれない。この時点でのメンバー間の結論としては、理論的ではないが染め比べた感触では、油だけではなく種実全体をつぶして使用するほうが良さそうだということに落ちついた。

◆ バリ島トゥガナン村の染色の下染
 この実習において、バリ島で入手した糸を一緒に染めてみたところ驚くほど濃く赤く染まった。果たしてこれはどのようにクミリで下染めされたのだろうか。翌年現地で調べてみた。そして、私たちの予想はあえなくくつがえされた。
 バリ島東部に島の先住民であるバリ・アガ族の人々が暮らす集落のうちのひとつ、トウガナン・プグリンシンガン村がある。この村では「グリンシン」と呼ばれる木綿の経緯絣が織られている。グリンシンを織るための糸は先ずクミリで下染めされるが、そこで登場したのは何と油だった。「油+何か」が必要なはずだと思い込んでいた私にとってこの事実は驚きであった。確かに実習の結果を見ても油で下染めをした糸が最も濃く染まっていた。   では、なぜ油が良いのだろうか。いったい油はどんな役割を果たすのだろぅか…。
(つづく)

「風を入れる」  榛葉莟子

2017-10-21 08:56:15 | 榛葉莟子
◆踊る人 2004

2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。

「風を入れる」  榛葉莟子

 
 きのうとはまるでちがう今朝の明るさ。曇り硝子に写る木の枝々の影。葉の一枚一枚もくっきりと照らし出している窓の向こうの朝の陽。微かに揺れるそれが朝の陽のひかりの呼吸のように私の内に滲みてくる。猫の声に起こされた早起きの徳かしらなどと気の晴れない日々からの転機の単純を笑う。

 季節の巡りはゆるやかに自然に発生し移行していく。そう自然にしぜんにシゼンに。そしていま春の尻尾と夏の頭が見え隠れする狭間の季節。この狭間の季節の曖昧模糊の独特は、其処此処の水田からの蒸発の湿り気と、今朝のような明るい陽のひかりの乾燥との調合が良い具合の雰囲気をつくり、香りを醸し出しているからだろうか。何かと何かの間、狭間に気持ちがいく。眼がいく。そこに隠れている存在が気にかかる。

 風はそよそよと水面を走り一面のしぼを絶え間なくつくる。それは田植えのこの季節、いつまでものぞき込み魅入ってしまう水面の美しさ。そして、ついいましがた魅入った発見の感動をどのように言葉にできるだろうか。その水田の透明な水面に吹く微かな風は、さわさわと走る一面のしぼをつくる。そこへ、陽のひかりの魔法が加わった。細々とした緑の幼い苗を透かした透明な水面に、輝く光の糸で編まれた投網を広げたような影が一面ゆらめいた。そのひかりの網がしぼの影とは信じがたく、水田に射し込む陽のひかりがつくるひかりの網のゆらめきにしばし呆然と魅入った。しぼの揺れとともに、ひかりの網のめは縮んだり広がったり曲線を描きながら変形しゆらめく。ひかりの糸どうしよじりあいながら面を広げている。その網のめのひかりの糸の動き、構造はスプラングそのものと気づいた時、ほーらねと見せられた気がした。生き物のようにさわさわとゆらめいている薄い薄いもの。透き通ったひかりの薄布を目の当りに見ている現実に感動する。何事かの合図は予測なくやってくる気紛れ者だけれど、発見が解釈と理解に繋がった時には、うれしくて見えない何かの道案内にありがとうを言う。

 射し込む陽のひかりが角度を変えたとたんひかりの投網は溶けるように消えた。世にも美しい束の間の時間のなかに出かけていたような思いで、しばらくは、透明な水面の奥に眼を透かしていた。幼い草色の稲の先がそよそよとかわいらしい。土、水、風、ひかり、角度。縮小と拡大、ゆがみ…自然界の調合のほどよいかげんの瞬間に隠れていたものはあらわれる。そのかげんは神のみぞしる?。経験を通さない感動はありえないけれど、そこに自身の問いの意識と接続し繋がる発見の喜びが感動を運んでくるのではないのかしら。すべては精神の磨かれように繋がりかたちを生む。もっとも密着した己の内部との駆け引きはおわることのない自由を含んでいる。

 午後のこと、歩いているとすぐ先に烏が飛んできた。くちばしが何か丸いものくわえている。何かおいしいものを見つけたのだ。歩いていくと、上からその丸いものが落ちてきた。あっ、落としたと笑ってしまったがそうではない。この胡桃の実を割ってほしいということらしい。なるほど、いいですよ。えいっと胡桃を踏む。堅い鬼胡桃は二つに割れた。これでいいんでしょと電線に止まっている烏に言った。ありがとと言ったかどうかは聞こえなかった。それから少し歩いて振り返ると烏は器用に胡桃の白い実をついばんでいた。烏に頼まれごとをされたのも引き受けた親切も初めての経験だった。何か妙な感慨が沸いてきて顔がほころんだまましばらく歩く。

 風を入れるという言い方がある。私の場合はこの散歩はその感覚で、ちょっと風を入れてくるという具合だ。作品をねかせておくというのも風を入れるのと同じたとえで、風にさらすというたとえとも似ている。そういえば文豪のヘミングウエイは書き上げた原稿はひとまず貸金庫に納めていたのだという。貸金庫の中で原稿は海風に吹かれて寝ているのだ。あの「老人と海」も一度は寝ていたのかもしれない。時を経て見返し推敲し、よしとなれば活字にする手続きに入るのだそうで、そうでなければ貸金庫へ逆戻りだそうだ。文豪ならずとも、金庫とはいかないが距離をおくとか、間をおくとか、密着から離れるということは絶対にある。当然であり、何もしていない製作中が続行していく。何かしている製作中のものと、何もしていない製作中のものが刺激しあい絡み合い論争を巻き起こし、刻々と風に晒されていくのだ。そうして時を経てよしの合図で筆をおくということになる。眼には見えない風のたとえは多い。風は空気の流れであり気とも息吹とも言う。風を入れるとはそこにある何かが滲みていくような気がしないでもないけれど。個展を控えた知人の画家は、ぷいと家を空ける。見ているとつい手を入れすぎるからと作品と距離をおくために自分にも作品にも風を入れる。どこで筆を置き手を止めるか。そのどこ、は分かっているのに分からないという苦しみがある。時には親切な締め切り日の存在に救われたとの経験をお持ちの方もおられることでしょう。果てしないのですよね。計算できないから。

「近代化という落し穴」 三宅哲雄

2017-10-19 11:24:33 | 三宅哲雄
◆写真6 修理後のダブルフライヤー手紡機     ◆写真7 亜麻を紡ぐ女性

2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。

 「近代化という落し穴」 三宅哲雄
 
早いもので当研究所を目黒区碑文谷に設立して28年になります。開設初年度(1981年)には長野県白樺湖畔に蓼科工房を設立し自然の中だから可能な講座を夏期に開講しました。別荘として利用していた時は周辺との交流は全くと言っていいほどありませんでしたが宿泊型研修施設にしてから近隣の人々や施設との繋がりが除々に生まれる中で障害者授産施設「山の子学園」との交流も始まりました。
 学園スタップの案内で白樺湖から大門街道を下り砂利道の林道に入ると左右には個人別荘や学校寮が点在し、その道の突き当たりが山の子学園、車を降りると園生が「こんにちは!」「いらっしゃい!」とにこやかな顔で迎えてくれたにもかかわらず私は変にかまえて応対できなかったことを思い出しました。私はこの日まで多くはないものの数ヶ所の障害者施設を訪問したことがありましたが、ほとんどの施設の第一印象は全体的に暗く、園生も外部の人々への警戒心なのか挨拶をしても返事はなく怖い顔で見られたのに比べて山の子学園の園生はなんて明るいんだという思いを持ちながら施設の中を園長先生の案内で畜産や陶芸など多くの授産事業を見学することで園長先生の夢と生涯の生活の場として生きる多くの園生のつながりの温かさと深さがこの園の空気の心地よさを形成しているのだと園生からいただいた絞りたての牛乳を飲みながら感じました。ただ授産事業の中でこの環境でなくても出来る屋内の単純作業には違和感を感じ「せっかくこのような自然の中に施設はあるのに、その利点を生かしていないのでないか」といつもの苦言を呈すると園長先生が「何かアイディアはありますか?」と問われ「園の回りは全て植物ばかり、これを利用しない手はない。草木染をしたらいかがですか」と答えたことが以後5年程続く原毛の草木染です。
 いたどり、よもぎ、小梨、くるみ、くり、山桜、すすき、刈安、茜、など施設周辺で採集した植物の他にコチニールやインド藍も加わり年間数十キロの染色原毛が毎年届くようになり研究所の倉庫は染色原毛の在庫で埋もれました。このままではいけない、何とか原毛を有効に消化しなければとの思いから一つの方策として草木染手紡糸の販売と手紡糸を使った手編み・手織りのマフラー・ショールの制作でした。手紡糸の制作コストの軽減のため糸の制作は私がすることになり毎日毎日電動手紡機で一日一キロを目標に糸を紡ぎました。当り前のことながら同一姿勢で座ったままの作業は身体にはいいはずがなく五年は続けたでしょうか結果として椎間板ヘルニヤになり歩くことも出来ない状況になって原毛の染色を断ると共に手紡糸の制作も中止しました。

◆ダブルフライヤー手紡機
 草木染の原毛は以後少しづつながら現在も使用していますがほとんどは布団圧縮袋に固く圧縮された常態で倉庫の片隅に積まれています。研究所も振り返れば夢と現実の中での悪戦苦闘の日々を送ってきましたが数年前より無理をせずに静かに前に向かって歩んでいく方針に転換してから私は糸を紡ぐことを再開しました。最初は慣れ親しんでいた電動手紡機で紡いでいたが何故か違和感をおぼえ上野勝夫氏に修理していただいた300年前のイギリス製Two-Flyer Spinning wheel(ダブルフライヤー手紡機)を使うことにした。この手紡機は研究所の卒業生から譲り受けた二台の内の一台で当初はDriving wheel(輪)などが虫食いで完全に欠落していたのを上野さんが修理用道具の製作から始めて数年をかけ修繕し、使用可能な状態で現存する貴重な手紡機です。(写真4.5.6)

◆写真4 修理前の手紡機◆写真5 修理後の手紡機

 産業革命前の1681年にThomas Firminによって公表された写真によると女性が亜麻(リネン)を両手で紡いでいる姿が描かれています。(写真7) 産業革命と後世に呼ばれている時代(1760~1830)以前は機械ではなく道具を使った手仕事で繊維品も生産されていましたが織るスピードは糸を紡ぐスピードよりはるかに速いことから糸の供給が追いつかず糸の量産と効率を求める傾向が強まりダブルフライヤー手紡機が開発されたと推察します。この種の手紡機はイギリスにとどまる事もなくフランスでは1750年代、スウェーデンでは1760年代、ドイツとオーストリアでは1780年代に使われていたという記述があります。
 1700年代にゆっくりとそして静かに胎動しはじめた量産と効率化の動きは綿紡績機の発明により加速されいわゆる産業革命という時代を生み出しながら量産と効率に均一や収益を加えわずか300年で全世界に浸透することになりました。私たちが生きている日本も戦後63年になり平成生まれの子供も成人を迎える時代です。焦土と化した時代そして高度経済成長、バブル、このわずか63年で物は溢れるように生産されると共に半導体の発明によりアナログからデジタルの時代への転換をもたらし一層均一化の道を歩むことになりました。パソコンや携帯電話はもとより家電製品、自動車等々私たちの生活を取りまく物のほとんどにコンピュターは内蔵され最も無縁と思われている野菜などの農産物も都会のビルの一室でコンピュターに制御された人工照明と肥料により栽培される時代になりました。このスピードで近代化という道を突き進むならば地球上に人の介しない自然を見つける事が困難な時代になることも現実味を帯びてきました。
 確かに物質的豊かさや便利さを否定は出来ません、だが貧困に苦しむ途上国ではなく先進国といわれる国々で生活している人々が豊かさや楽しさを実感しているのでしょうか。政治や宗教の諸問題を根底に抱えてこなかった私たち日本人でも得てきた豊かさに比べて失ってきた豊かさの大切さを感じることが日々の生活の中で日増しに膨らんでくる思いがします。道を歩いていても、電車に乗っていても、又は車を運転していても、多くの人々が集う都会生活で私の目には疲れている、イライラしている、という表情と行動をする多くの人々と出会うことが日常になっています。均一化された物と情報そして経済第一主義の社会の中で一つとして同じ個体(人間)でない生物がどう折り合いをつけて生き続けることが出来るのかが問われています。電動手紡機に違和感を感じ300年前の手紡機で糸を紡ぐ時は落ち着いて静かな気持ちになるのは私が老いてきたからだけでは解決しない生物としての自然な反応であるように思えます。
 量産と効率そして均一と収益を追求してきた社会が成し遂げたものばかりに注目するのでなく、切り捨てたり失ってきた文化や身のまわりの生物に改めて眼差しを向ける事で見えてくるものがあるのでないでしょうか。

◆染色と油
 先日、当研究所の元スタップから大量のグリージーウール(刈り取ったままの羊毛)をいただいた。無駄に使うのではなく有効に使わせていただきますとの約束もあり授業用教材として使用する他に研究用素材として使うことにした。
 通常ウールに限らず絹や綿そして麻でも染色をする場合は精錬をして油や汚れを落としてから染めることは常識で精錬は教科書やその他専門書には当り前のこととして記されているが私は以前インドネシアの絣(イカット)の茜の染色方法で染色前に植物油(クミリ)に糸を浸してから染めるという話とメキシコの貝紫染においては染色前に牛油(セボ・デ・バカ)の石鹸でよく洗い、乾かしてから染めると聞いている。いずれも染色前に油に浸したり、油の石鹸で洗わなくても染色は出来るがきれいな色に染める伝統的な染色方法として伝承されてきたという。たしかに手染めによる綿の染色は現代の化学染料を使用しても白ずみが出やすく鮮やかに染めるのは難しいとされ日本に限らず綿織物に永年従事してきた世界の人々の創意工夫が地域ごとに伺われる。

◆写真2  グリージーウールの草木染
◆写真8 グリージーウールの草木染

◆写真9  グリージーウール.洗毛、未洗毛の比較

 綿の染色で油をわざわざ付けて染色する伝統的な知恵があるならば他の繊維の場合はどうなのか?という疑問がわき当研究所で草木染の指導をしている上野八重子さんにグリージーウールを染めていただいたが現物を見る限り精錬をして染色した場合と遜色がないように見える。(写真2.8.9) では「水と油」ではなく「染と油」は決して一緒になるものでないという常識はどこから生まれたのであろうか。同じ天然繊維でもその組成と性質が異なることから精錬の意味と方法も異なる。ただ自分達の身のまわりの素材を用いて自分達の生活に役立つ物を作っていた時代からお金のために商品を作る、そして機械化によって大量に均一の物を作る時代に移行していく流れの中でおのずと染色にとって邪魔な油や汚れを除去してから染める染色方法が確立したと推察される。企業が量産品を生産する場合に求められる品質を異なった環境や風土、生活習慣、文化の中から生み出される少量生産の品々にまで同様に求める風潮が物の画一化に留まるだけでなく多様な文化を駆逐してきた道筋であったような気がする。現在私たちが個人で作るその素材や制作手法まで量産品の手法をただ盲目的に学ぶだけでなく多様な人類の英知にいま一度目を向けることがあってもいいのでないか。

◆フェルト化しない羊毛、接着する絹
 セーターは洗濯機では洗ってはいけないと教えられている。羊毛は熱と湿度と力を加え縮み絡めることで固まるという性質を持っているので、この特性を利用して人は過去から現在に至るまで服地や敷物を作り、今日では多様なフェルト製品や作品が身のまわりに見られるようになったが羊は日本で飼育されるようになって日の浅い動物なので生き物としての存在より冬期衣類素材として馴染みがある。たとえ自然素材であっても加工され製品になった状態で知っていることが元来その素材が持っている特性を知っているとは限らない。ムートンは毛皮、糸やフェルトは羊毛、これらは別物として人の役に立っているが素を糺せば羊に帰結するにもかかわらずムートンは他の動物と一様に毛皮の範疇を越えることはなく使用され、毛糸もアルパカやモヘアーそして絹などの動物繊維だけでなく植物繊維の綿や麻などと同じ糸という括りで何の疑いも無く日常生活の中に浸透している。天然繊維を越えることを目標にして生産されている均一な人造繊維は別として動物にしろ植物であっても生物である限り同一のものはなく、その種や個体個体に他とは異なる性質や表情そしてかたちを持っている。
 先日、北海道の牧場に無理をいってムートンに加工する前の生毛皮を送っていただいた。羊、ムートン、羊毛、毛糸などは知っているが頭、耳、足だと誰でも窺える生々しい毛皮に触れ毛皮を表面から見るだけでなく内側から観察することで知っていると思っていた毛皮や羊毛の特性は表面的であったと思った。当り前のことながら羊毛は羊皮から生えている。この状態でフェルト化の作業をすると羊毛はフェルトになるのであろうか?という疑問が生じ、早速実験をしていただいたが少し毛が絡む程度で固くはならなかった。「羊毛は全てフェルト化する」という常識は覆され条件次第ではフェルト化しないこともあるのだ。(写真10)

◆写真10  フェルト化した毛(黒)、しない毛(白)

 日本人にとって馴染みの薄い羊と異なり寒冷地を除く日本の中山間地では養蚕が盛んで蚕が桑の葉を食むシャカシャカという音が屋根裏から聞こえた体験や絹糸を座繰りで上げる姿を垣間見ることは日常であったという話を聞くように最近迄養蚕業は国によって管理され均一な絹糸を製糸するために改良を重ねた幼蚕を農家に委託して繭を生産するという制度が永年にわたり続けられてきた。絹は毛とは異なり蚕が600mから1500mに及ぶ一本の糸で繭を作る動物の習性を利用して生まれたものだが、その用途が着物に偏重した歴史の中で細くて、艶があり、柔らかい糸を安定して大量に生産する工夫だけが営々と続けられてきたことが衣服の多様化と輸出入の自由化の波で姿を消そうとしている。
 昨秋、桑だけで飼った生繭を入手することが出来たので早速座繰りで糸に上げると乾繭とは異なり滑らかに糸が解除された。同じ繭でも蛹が生きているのと死んでいる場合や生皮苧(きびそ)と生糸の差など市販の生糸や絹紡糸だけを使用していては知りえなかったことが見えてくる。生皮苧は生糸を取る場合、繭から最初に除去される部分で生糸に比べて安価である。繭の25%はセリシンと言われているが内部と中層部では含有量は少なく外部は多い、一般的な絹糸では生皮苧は除去され尚精錬された糸なので、このことに気づくことはない。(写真3)セリシンの含有量や特性も座繰りで糸を上げ邪魔物として扱われてきた生皮苧と中層部の美しい生糸、蛹が透けて見える内部の糸を分けて観察し、共にアイロンで熱を加えることで接着する生皮苧と接着しない中層と内部の生糸の違いや太さ、表情等により絹糸とは、生皮苧とは、セリシンとはを理屈ぬきで知ることになる。(写真1)

◆写真3  繭を先染して座繰りした糸  (右、外側  左、内側)

◆写真1  接着する生糸

 ウールは全てフェルト化する。絹は艶があり、柔らかいという生物の表面的で優れた性質にだけ捉われることなく、あるときには欠点と伝えられていることに注目することで新たな発見に結びつくこともある。

◆こんなコンニャク見たことない!
 昨年の夏、群馬県沼田市に在住で当誌vol.44の特集でもご承知の小林清美さんが両親と共に蒟蒻の栽培をしながら作品を作っている場に子供造形教室夏期合宿で小学生、保護者、スタップなど計15名で伺った。
 蒟蒻は東南アジアから中国・韓国を経て伝わったが、この姿を見る限り亜熱帯系の植物に似ていて日本の風土・環境では簡単には育ちにくいように思えるにもかかわらず日本の食卓に欠かせない食材として定着している。一般にコンニャクと問われると「おでんやすき焼きの具材」「でんがく」等しかイメージしないが過去には紙幣や風船爆弾そして現在では強制紙として紙を補強する助剤としても少なからず使われている。
 紙は水に溶けるはかない素材として認知されているが二枚の和紙に蒟蒻を塗布して張り合わせ乾燥させ、石灰で煮ることで洗濯可能な強い紙になる。この糊としての役割と性質に着目し、製法は食するコンニャクと同様に作り、乾燥させるとどのような表情を見せてくれるのかという思いつきから実験を試みた。その結果、蒟蒻芋を擂りおろして作ると灰汁が強く乾燥させると黒っぽい木根のようなコンニャクや製粉工場で製造されたパウダーから作ると樹脂のようなコンニャクなど様々なコンニャクができることに気づき全国有数の蒟蒻産地群馬県の専業農家と近隣の人々、そして見渡す限り蒟蒻畑が広がる環境の中での合宿に結びついた。(写真11)
◆写真 11  コンニャク畑に設定したコンニャクオブジェ  (子供造形教室夏期合宿)

 合宿では予期せぬさまざまなことに遭遇することになったが子供達は食事からオブジェの制作までコンニャク尽くしの三日間で食材と造形素材との区別はないことを体感する良い機会になり、蒟蒻栽培農家の方々からは「こんなコンニャク見たことない!」という話を伺って何かが生まれる気配を感じつつ群馬を後にすることが出来ました。

 私は今日も300年前のダブルフライヤー手紡機で糸を紡いでいる。二個のフライヤーの内使っているのは一個で残りの一個は糸が紡がれることもなく、ただ空回りしているだけだ。効率を求めて製作された手紡機はその製作意図に反する使われかたをしているのにもかかわらず静かにカラカラと心地よい音をたてながら動いている。