ART&CRAFT forum

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「高宮紀子のバスケタリーの方法について」笹山央

2014-06-01 07:56:37 | 笹山 央
1994年12月25日発行のTEXTILE FORUM NO.27に掲載した記事を改めて下記します。

 この原稿を書く前に高宮さんと二時間ばかり話をした。これを通常“取材”というのであるが、僕の場合、作品評を書くにあたって前もって作者に取材するということは、事実関係や客観的な知識を確認する以外にはあまりやらない。取材とはいっても雑談することの方が多いし、どちらかというと雑談のなかに作者の考え方が飾らずに表明されていたり、文章を書くヒントが散りばめられていたりする。基本的には、作品がものを言っているのだから作品を見れば十分だという気持がある。ところが作家の中には、取材をしないで文章を書くのはけしからんと思っている人がいる。そういう人は、作者の話を聞かなければ作者の考えているところが伝わらないではないかと考えているようだ。

では、その作家にとって作品とは何だろうか。言葉を補わなければ伝わりにくい作品というのは、結局は中途半端なできそこないということになるのではないだろうか。作品を見て感じたり考えたりするだけでは不十分というならば、最初から作品なんか作らない方がいい。作者が故人となってしまったら、観賞者はどうすればいいのか。ただし取材なしに書くのは、作品評の場合であって、作家論とか作品論といった、ひとつの論を展開しようとするときには取材は不可欠である。これなしには書くことはできない。
 
とはいうものの、正直に言って時々わからない(見えにくい)こともある。わからないことはわからないままにうっちゃっておく、あるいは、わからないことを「わからない」と指摘するという書き方もある。
 
「わからない」ということの中には、作者自身がわかっていないということもあるのだが、そういう場合こそ、できれば取材をして雑談をかわしてみるのは、お互いにとってメリットのあるものとなる。
 
高宮さんの創作で僕が見えにくかったのは、その全体がどういう方向を目指しているのかということである。それは創作のバックボーンをなすものであり、また作り手の思想として表現されるものでもある。しかしこのことはあまり大袈裟に受け取らないでいただきたい。具体的に言えば、たとえば高宮さんの作品群が示している外形的特徴である幾何的形態、すなわち立方体とか三角錐とか正六面体とかのかたち、そしてそれら立体の各面を貫通している円筒形の穴のモチーフが高宮さんの中のどこから出てきているのか、ということである。このことはやがては作り手の自己認識や構想力にかかわる問題になってくるのだが、当面はそれが高宮さんの個人的な資質とどのように関係しているのか、というあたりからこの問題に入って行くことができる。しかしそこのところが見えにくく思えた。それで高宮さんと話して見る気になったわけである。

 高宮さんは「かたちはどのようにして成り立っていくか、ということに興味がある」というようなことを言った。もののかたちには偶然の結果としてそうなったものもあるが、高宮さんの興味は、そういった偶然性と、作り手の意思あるいは制御していこうとする計画性のようなものとの相関関係の結果として得られてくる「かたち」に興味があるようである。制作の方法は、幾何的な立体形態をとるように「型」が利用されるのであるが、その「型」というのが、針金で形態の外形をとり、内部の中心に当たるあたりにも同じような形の針金の枠を作って、この両者の間を繊維の束でグルグルと巻いていく、というやり方をしている。だから「型」といっても、それによって形が一義的に決定されるようなフィックスされた型ではなくて、建物を建てるときの足場のようなものだと、高宮さんは説明する。「なるほどね」と、僕はここでひとつの了解を得た。僕の理解では、かたちを求めるに当たって最初の設定はかなりラフなものであって(針金で外形を組むというはなはだ頼りなげな「型」)、それに繊維素材を絡ませていくことによってひとつのかたちを成立させていこうとしているわけである。型である針金は最後には取り除かれるから、結局作者が求めているのは、繊維素材だけで立体のかたちを成り立たせようとすることである。見かけの幾何的な立体の形は、その目的を具体化していくための手掛かりにすぎないのかもしれないし、あるいは、幾何的な形態が持つ数学的な合理性と、繊維素材をからませるというある種の偶然性との緊張関係をかたちにして表そうとしてとられた手段であるのかもしれない。

 そうすると、繊維素材だけで立体的な形あるものをなりたたせようとすることが本来のテーマであるということになる。このテーマは作者たる高宮さんのどこから出てくるのだろうか。彼女との二時間におよぶ話の中で得た僕の勝手な観察によれば、このテーマが高宮さんのものづくりとしてのある資質に根ざしていることは確かであるように思う。ただ彼女自身はそのような自分自身の発見にはまだ十分には至っていないように見える。そのことは、形の問題として外形が幾何的な形態をとっていることにも関係しているのではないだろうか。高宮さんにとってそれはひとつの手掛かりとして考えられていることはわかるのだが、それはまた同時に、彼女の創作がなお試行錯誤の段階にあるという印象につながってくるのである。もちろん、どんな作家にも試行錯誤の時期というものはある。今回の個展が2回目という高宮さんにしてみれば、これまでの試行錯誤を整理して見せ、次の展開を探っていこうとする意図もあったのだろう。それだからこそ言うのであるが、高宮さんの創作に秘められている魅力的なテーマが全面的に展開されていくような、更に効果的な方法を探りだしていって欲しいと思うのである。



「糸からの動き」展の感想 笹山央

2014-02-01 09:23:32 | 笹山 央
1994年10月1日発行のTEXTILE FORUM NO.26に掲載した記事を改めて下記します。

 グループ展が持たれる場合の動機や趣旨といったものは実に様々である。大きく分けると、美術館や画廊あるいは特定の個人や法人によって企画されるものと、出品者によって自主的に持たれるものとがある。ここでは後者に限定するとしても、やはりその成り立ち方は一様ではない。しかし近年の傾向として非常に大雑把に言えることは、任意のグループの定期的な発表会であるとか、(こういう言い方には語弊があるかもしれませんが)一人で展覧会をやるにはまだ自信がないといったあたりの人たちが、仲間を組んで「はずかしながら」といった風情で開かれているものが多いような気がする。かっては(主として1960年代の話ですが)グループ展といえば、現状不満の血の気の多い連中が徒党を組んで、既存のものに異議申し立てするための方法というイメージがあったが、そういったタイプのグループ展は今日ではほとんどお目にかかることがなくなった。だから昔のことを知る人々(私も含めて)は、美術や工芸のようなものづくりの世界において、グループ展がある役割を果たすような時代は過ぎ去ってしまったのだ、というふうに考えがちである。この考え方は決して誤ってはいないし、私自身、グループ展に対してはどうしても点が辛くなってしまう傾向は否めない。昔気質の発想法からすれば、何のために人と人が寄り添ってあるエネルギーを消侭しょうとしているのか、というところにひっかかってしまうのである。
 とはいえ、時代の様変わりに対していつまでも依怙地をはっているのは、単なる「わからず屋」のそしりをまぬがれられないし、決して生産的とはいえない。
今日の風潮を表現するにグルメブームにひとつの象徴を見出だすとすれば、そのように様々な美味なるものをめぐって数多くの人々が寄り集い、味覚を験し、歓談を交わすことの中から次の時代の文化が生み出されてくるとも限らないのである。グループ展というものを別な観点から見ていくことの可能性は決してないわけではないだろう。
 ここで書こうとしているのは「糸からの動き」というグループ展についてのことである。このグループ展の成り立ちというのもいささか異色なところがある。東京テキスタイル研究所の榛葉莟子教室で学んだ人たちの有志による展覧会であるが、その教室自体は他の指導者に変わっている。だから榛葉教室の定期的な創作発表会という趣旨のものでもない。かといって、榛葉さんを先生と仰いでの一種の社中展のようなものでもない。OG有志による自然発生的な自主グループ展というのが近いようだが、厳密にみればそうともいえないようなところがある。どこがそう言えないかと言えば、仲間意識があるようでなさそうであり、なさそうでやっぱりあるというような、そういうある種不思議な集り方をしている。今回が確か2回目であったと思うが、これで解散ということが起こっても自然であるし、3回目が開催されるのも自然であるというようなところがある。よく言えば、榛葉教室に集まった人たちのそれぞれに別個な気持の在り方が複雑な流れを形成しつつ、その中にひとつの渦巻が生まれてくるようにしてグループ展が成り立ってくる。渦巻が解けていき再びそれぞれの流れへと分散すると、次にいつどこで渦巻が発生してくるかは予測が難しい、といったようなところだろうか。 しかし、流れ自体は消えない。あるいは、常に生成して止まない流れを持続していくことが、このグループ展に参加している人たちの、個人に立ち返っての務めということになるかもしれない。
 今回の展覧会の内容についてもう少し具体的な感想を述べていこう。一番強く感じたことは、会場が狭い、ということである。一人一人の作品が限定された空間の中で窮屈しているように見えた。言い換えれば、作品の大きさが表現の欲求の大きさに見合っていない。もっと広い会場で不自由のない創作展開をすれば、展覧会のボルテージがもっと上がってくるのではないだろうか。それだけの力を各人が持っていると思う。しかしその一方で作品を適度の大きさにまとめ込もうとする、逆の力が働いているのも認めざるを得ない。慎み深いというのか自己制御の力というのかわからないが、妙なところで閉鎖的である。素材に向かっていく姿勢、素材との対話を通して自分がもとめているものを発見していこうとする姿勢の在り方には出品者間に共通しているものを感じる。言葉で表せば「内省的」といいたいような姿勢である。このあたりに榛葉教室の成果が認められるような気がするのだが、その力の方向にばかり偏していくと不完全燃焼に陥るように思えないでもない。内省的な力は作品の内部に相応のエネルギーを貯え込んできている。貯め込まれたエネルギーは放出されることを待ち望んでいる。外部へと向かう気勢もまた欠くことができない。求心と遠心の二つの力のバランスの中に成立するのが「造形」ということだと思うのである。



「 創造力を育てない美術大学」   笹山 央

2013-04-14 13:59:07 | 笹山 央

-技術しか伝えられない大学の美術教育に未来はない-

1991215日発行のTEXTILE FORUM NO.15に掲載した記事を改めて下記します。

 わが子が芸術系の大学や専門学校に進もうとすることに難色を示すどころか、むしろ率先して推奨する親が増えてきているのはここ十年位の傾向である。大学で芸術を専攻することを、茶道やいけばなやピアノといった習い事を身に付けるのと同じような感覚で受け止めている。しかもここ一、二年は、企業の文化事業への関心が高まるにつれて、芸術系の大学や専門学校の卒業生の就職状況もよくなってきているようだから、今後こういった芸術コースを志望する学生は益々増えていくことだろう。

 日本の進学制度において芸術系の学校の頂点に位置しているのは、言うまでもなく東京芸術大学(以下、東京芸大と略す)である。ビジュアルアートつまり美術、デザイン、工芸等に関して言えば、芸術コースを志望する学生のまずほとんどは東京芸大を目指すが、各々の力量に応じて公立、私学、専門学校へと分散していく。してみると、単純に考えると東京芸大にはもっとも優秀な学生が集まり、優秀なアーチストや美術関係者を続々と輩出していなければならないことになるが、現実には必ずしもその通りになっているとは言いがたい。つまらない売り絵画家に甘んじていたり、世の中に埋没して自らの進むべき道を見失ってしまう。そのようなケースを耳にするたびに、芸術にとって教育とはなにかということを考えざるを得ない。

■デッサンをマニュアル通りに描く

 ここでは美術に限定して話をしよう。美術系大学の教育理念がどのようなものであるかは、予備校の現実主義の中に如実に映し出されている。予備校ではデッサンの描き方をマニュアルに従って習得させる。ここに学ぶ者は才能のあるなし、センスのあるなしにかかわらず、マニュアルに従いさえすれば誰でもがデッサンを上手に描くことができるようになる。しかし本来デッサンとは、ものがどのように在るのか、ものとものはどういう空間的関係を結んでいるのかを読み取り、それを表現する作業のことを言うのである。その読み取り方、表現の仕方は個人によって異なる。その違いは、各々の個人が各々に異なった生き方を選択していくということに基づく違いである。それを押しなべてみな一律に同じデッサンにマニュアルがあるというのは、それ自体が異常である。

 大学ではこの一律的なデッサン力を前提として、更に一律的な表現技術を身に付けさせることを教育の目的としている。個性の発露などは各個人が学校を出て自分で勝手にやっていけばいいというわけだ。このあたりは西洋の考え方などとは逆である。西洋の教授は学生のオリジナリティを重視する。上手い絵を描く技術はむしろ否定し、学生が自身の個性を発見し、伸ばしていく手助けをしようとする。このやり方はエネルギーを要するし、教授の側に余程の自信がなければならない。学生が反発してくれば、互いに理解し合うまでとことん話し合う必要がある。

 日本の大学の教授あるいは講師は、自身もまた現役で活躍するアーチストである場合が多い。しかしそこには大学内の子弟関係のようなものが形成されていて、東京芸大の場合だと子弟関係のバックに公募団体が控えている。芸大の学生たちは、社会に対する関心や思考力を鍛えなくても、技術さえ身に付けておけば卒業後は公募団体に出品し、師匠の後押しもあったりしてそこそこに安定した地位を得ることができる。公募団体に所属しない場合でも、最近の学生は機を見るに敏なところがあるから、美術の商業主義に合わせてうまく処世をしていこうとする者も多い。しかしたいていは、途中でどこにいるのかわからなくなってしまう。技術だけにたよって、自分自身のオリジナリティを追求していく基礎的な力に不足しているからである。

■自ら世界を切り開く力の育成を

 二月、三月ともなると各大学では卒業制作展が開かれる。卒業していく学生たちの作品による展覧会である。その中で若者らしい熱気が伝わってくるのは武蔵野美術大学テキスタイルデザイン科の卒展である。技術的には粗さが目立つも、体全体で表現しようとする意欲に満ちて生き生きとしている。各人が四年間の学生生活の中からなにかを掴んできているという感じを抱かせるのである。

 この科の指導教授は田中秀穂というテキスタイルアーチストである。田中の考え方は、技術よりも表現の内容を重視する傾向にある。だから学生の中から表現の意欲を引き出してくることに彼の教育的情熱が注ぎ込まれる。この科に入ってくる学生は、高校、予備校と経て教えられてきた既成の美術概念を一旦白紙に戻され、表現の根拠と方法を自分自身の中から見つけ出していくように教えられていく。たとえば、色を染めるという行為について、そのテクニックを学んだり、色を視覚的に捉えるだけでなく、染料となる草花にさわったり、色についての印象を言葉で表現する訓練をしたりして五感の全体を使って感じ取ることを覚えていく。学年が上に進んでくると、なるべく技術を使わないで考えることを、田中は学生に要求する。自分が考えたり感じたりしたことを、言葉で表現するごとによって明確にすることを学生は学んでいく。美術といえどもものごとを洞察していく力がなければ、表現を深めていくことはできないのである。こうして創作者としての足腰を鍛えるのである。

 もうひとつの例を挙げると、私設の機関ではあるが東京テキスタイル研究所の教育実践もユニークである(テキスタイルの例に片寄っているのは偶然である)。この研究所の特徴は、所長の三宅哲雄の言を借りれば、「何も教えない」というところにある。もちろん反語的な表現であって、意味していることは、染織りのテクニックをノウハウとして伝えるのでなく技術の意味を自分で掴みとってくるように指導するということである。教えられる側に主体性がなければ、何も学べないということになるわけだ。そして、ものをつくるということはどういうことなのか、なぜつくるのか、ということを考えていくことがものづくりの根本的な原動力になるのだから、そういった力を養っていくことが教育の役割だ、と考えている。

 三宅の教育観は、教育することと創ることとは同じことだとする。このことは通常の教育機関において、生活の糧として教師という職についているという意識から、アーチストは自らの創造行為と教育との間に矛盾を抱えているという現状を背景におくと、その意味合いが理解できる。東京テキスタイル研究所の講師たちは、単なる雇われ講師として生徒にテクニックを教え、カリキュラムを消化していけばよい、というだけでは勤まらない。教えるという行為を自らのこととして、教育と創作の意味を問い続けていく姿勢がなければ、この研究所の講師はやっていけないような環境が作られている。

 しかしこういったことは世の中ではなかなか理解されにくいようである。三宅哲雄は自らの教育理念と経営的現実の間に立って、創設以来の十年間を孤軍奮闘してきた。しかし教育の現場が創造の現場に直結しているような環境の中を数年も通っているうちに、生徒各人の内に秘められていた個性が次第に光り輝いてくるようになる。創設当初は不可能かもわからないと思っていた教育の場が確かにありうるという手応えを感じはじめている、と三宅は今日の感慨を語っている。

 絵の描き方や糸の織り方といった技術を教えるだけが美術教育ではない。創造力を啓発することが目的として含まれる以上は、各人が自分で自分の根拠を発見し、精神の自由を獲得する力を養成していくのが教育の役割ではないだろうか。それが実現された時、個人は自らの力によって自身の世界を切り開いていくことができるはずである


ファイバーの「社会的性格」について    笹山央

2013-04-01 08:40:20 | 笹山 央

1989

920日発行のTEXTILE FORUM NO.11に掲載した記事を改めて下記します。

 私が編集している雑誌『かたち』は、主として現代の工芸を対象としている。工芸といっても、このごろは美術と区別がつかないような純粋造形やコンセプチュアルな作品もたくさんつくられている。それらを敢えて工芸という視点から見ようとするのは、「表現」という行為を、素材や技術や社会的な意味性とのかかわりにおいて見ていきたいと考えているからである。

 『かたち』は陶芸や漆芸に対してはことさら口やかましく論評する傾向があるが、ファイバーに対しては比較的おおらかな見方をしている。その理由を考えてみるに、陶芸や漆芸は、特殊な技能集団と特殊な趣味社会によって閉鎖的に伝承されてきた技術と感性の体系があって、ものづくりの自由や主体性の確立のためにはそういった問題との闘いを抜きにしては考えられない、それに対してファイバーの場合は、少なくとも近代以前までは染織行為がおおむねどこの家庭でも主婦の重要な家事のひとつとして、広く庶民生活の中に浸透し、その技術が家庭や村ごとに伝承されてきていたこと、そのことが今日でも繊推素材に対するほとんど無意識的な親近感を、特に女性を中心とした庶民レベルにおいて広く維持してきた、ということがある、つまり、染織の場合はその技術や感性が私たち庶民に対して比較的開かれたかたちで伝承されてきていることが、ものづくりの健全性を保証しているのだ。

 もうひとつの理由は、ファイバーは表現素材として美術の領域にもっとも近くに、あるいはかなり本質的なところで美術的表現にかかわっているということがある。ファイバーに関係のあるところで現代美術の記念碑的な仕事としては、キャンバスを切り裂いたフォンタナの「空間概念」シリーズや、クリストの一連のパッキングや「ランニング・フェンス」を思い浮かべる、キャンバスはフォンタナに切り裂かれることによって繊維や布といった物質性をラジカルに露呈し、ファイバーは強引に現代美術の文脈の中にとり込まれていった。クリストの仕事に見る布の使用は、芸術の社会的意味の追求が布の潜在的な可能性を引き出して現実の異化作用を演出した例である。この両者の作例にアバカノヴィッチを加えれば、現代美術におけるファイバー素材の位置づけをほぼ読みとることができるだろう。もちろんファイバー全体の問題としては、現代美術の側面だけでは片手落ちというもので“染め”、”織り”、“編み”などの技術の問題も含めて全体像が捉えられなければいけない。

 ただここでは、表現素材としての繊維素材の意味ということに絞って考えてみたい、唐突に聞こえるかもしれないが、繊維素材の特性は「社会的性格」ということにあると思う。このことについて簡単に触れておこう。

 「社会的性格」という言葉はとりあえず便宜的に持ち出してきたものだが、人間と繊維素材の歴史的なかかわり、繊維素材が表現素材として発見されてくる過程、それから、どういう場面で繊維素材が生き生きとその存在感を主張しはじめてくるか、といったことを考えてみると、そこに人間の生活空間やあるいは社会的な空間が共通項として浮かびあがってくる。先述のフォンタナやクリストの例を出すと一層わかりやすいだろう。キャンバスがキャンバスであることを超えて、布としての物質的存在感を主張しはじめるのは、フォンタナの「絵画や彫刻を超えた“空間概念”」という新しい芸術表現の提唱のさ中からであったし、クリストが布の存在感と美しさを最大限に引き出してみせたのは社会的な空間とかかわることによってであった。 布、あるいはその基本単位としての糸は、あたかも水のように空間の内部に浸透していき、空間を自由に変様させたり、空間と空間の新しい関係を創り出したりする。いわばファイバーは、空間を活性化したり、また挑発したりすることによって、自分自身の存在を主張するのである。

 ファイバーが美術表現の素材として認知されるようになって既に数十年を経ている。しかしそのことが、認知されたファイバー素材への安易な寄りかかりや、自己満足的な表現に閉じ込もる傾向も生み出している。ファイバーは空間を組み変えたり活性化したりするように、人間に対しても挑発的である。ファイバーの特性をそのような関係性の中で捉え、人間と空間の可能性を追求していって欲しい。その時にファイバーという物質もまた生き生きと存在しはじめると思うのである。