この原稿を書く前に高宮さんと二時間ばかり話をした。これを通常“取材”というのであるが、僕の場合、作品評を書くにあたって前もって作者に取材するということは、事実関係や客観的な知識を確認する以外にはあまりやらない。取材とはいっても雑談することの方が多いし、どちらかというと雑談のなかに作者の考え方が飾らずに表明されていたり、文章を書くヒントが散りばめられていたりする。基本的には、作品がものを言っているのだから作品を見れば十分だという気持がある。ところが作家の中には、取材をしないで文章を書くのはけしからんと思っている人がいる。そういう人は、作者の話を聞かなければ作者の考えているところが伝わらないではないかと考えているようだ。
では、その作家にとって作品とは何だろうか。言葉を補わなければ伝わりにくい作品というのは、結局は中途半端なできそこないということになるのではないだろうか。作品を見て感じたり考えたりするだけでは不十分というならば、最初から作品なんか作らない方がいい。作者が故人となってしまったら、観賞者はどうすればいいのか。ただし取材なしに書くのは、作品評の場合であって、作家論とか作品論といった、ひとつの論を展開しようとするときには取材は不可欠である。これなしには書くことはできない。
とはいうものの、正直に言って時々わからない(見えにくい)こともある。わからないことはわからないままにうっちゃっておく、あるいは、わからないことを「わからない」と指摘するという書き方もある。
「わからない」ということの中には、作者自身がわかっていないということもあるのだが、そういう場合こそ、できれば取材をして雑談をかわしてみるのは、お互いにとってメリットのあるものとなる。
高宮さんの創作で僕が見えにくかったのは、その全体がどういう方向を目指しているのかということである。それは創作のバックボーンをなすものであり、また作り手の思想として表現されるものでもある。しかしこのことはあまり大袈裟に受け取らないでいただきたい。具体的に言えば、たとえば高宮さんの作品群が示している外形的特徴である幾何的形態、すなわち立方体とか三角錐とか正六面体とかのかたち、そしてそれら立体の各面を貫通している円筒形の穴のモチーフが高宮さんの中のどこから出てきているのか、ということである。このことはやがては作り手の自己認識や構想力にかかわる問題になってくるのだが、当面はそれが高宮さんの個人的な資質とどのように関係しているのか、というあたりからこの問題に入って行くことができる。しかしそこのところが見えにくく思えた。それで高宮さんと話して見る気になったわけである。
高宮さんは「かたちはどのようにして成り立っていくか、ということに興味がある」というようなことを言った。もののかたちには偶然の結果としてそうなったものもあるが、高宮さんの興味は、そういった偶然性と、作り手の意思あるいは制御していこうとする計画性のようなものとの相関関係の結果として得られてくる「かたち」に興味があるようである。制作の方法は、幾何的な立体形態をとるように「型」が利用されるのであるが、その「型」というのが、針金で形態の外形をとり、内部の中心に当たるあたりにも同じような形の針金の枠を作って、この両者の間を繊維の束でグルグルと巻いていく、というやり方をしている。だから「型」といっても、それによって形が一義的に決定されるようなフィックスされた型ではなくて、建物を建てるときの足場のようなものだと、高宮さんは説明する。「なるほどね」と、僕はここでひとつの了解を得た。僕の理解では、かたちを求めるに当たって最初の設定はかなりラフなものであって(針金で外形を組むというはなはだ頼りなげな「型」)、それに繊維素材を絡ませていくことによってひとつのかたちを成立させていこうとしているわけである。型である針金は最後には取り除かれるから、結局作者が求めているのは、繊維素材だけで立体のかたちを成り立たせようとすることである。見かけの幾何的な立体の形は、その目的を具体化していくための手掛かりにすぎないのかもしれないし、あるいは、幾何的な形態が持つ数学的な合理性と、繊維素材をからませるというある種の偶然性との緊張関係をかたちにして表そうとしてとられた手段であるのかもしれない。
そうすると、繊維素材だけで立体的な形あるものをなりたたせようとすることが本来のテーマであるということになる。このテーマは作者たる高宮さんのどこから出てくるのだろうか。彼女との二時間におよぶ話の中で得た僕の勝手な観察によれば、このテーマが高宮さんのものづくりとしてのある資質に根ざしていることは確かであるように思う。ただ彼女自身はそのような自分自身の発見にはまだ十分には至っていないように見える。そのことは、形の問題として外形が幾何的な形態をとっていることにも関係しているのではないだろうか。高宮さんにとってそれはひとつの手掛かりとして考えられていることはわかるのだが、それはまた同時に、彼女の創作がなお試行錯誤の段階にあるという印象につながってくるのである。もちろん、どんな作家にも試行錯誤の時期というものはある。今回の個展が2回目という高宮さんにしてみれば、これまでの試行錯誤を整理して見せ、次の展開を探っていこうとする意図もあったのだろう。それだからこそ言うのであるが、高宮さんの創作に秘められている魅力的なテーマが全面的に展開されていくような、更に効果的な方法を探りだしていって欲しいと思うのである。