ART&CRAFT forum

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「風景の記憶と陶の存在」 佐々木礼美

2016-05-31 15:07:29 | 佐々木礼美
◆波光 佐々木礼美 (撮影)末正真礼

◆水辺の記憶

1999年6月1日発行のART&CRAFT FORUM 14号に掲載した記事を改めて下記します。

 風景の記憶と陶の存在          佐々木 礼美

 私は土を使って仕事をしてきた。
しかし大学で前衛陶芸を不自由なく学べる環境にいながら私は一方でそれが、陶芸に対する冒涜である気がしてならないでいた。なぜ土で、なぜ陶で。その問いは常に私の頭にもたげていた。

 私は大抵の子供がそうであるように粘土遊びが好きであった。そして中学に上がると陶芸をやるようになる。しかし私の出身は土の産地ではなかったので、いつでも自然にできる、というわけにはいかなかった。そのことが逆に陶に対する思いを強めたのかもしれない。しかしその頃は自分の将来と土は結び付くことはなかった。まして前衛陶芸という形で土にかかわっていくことになろうとは夢にも思っていなかった。私は油絵科で美大に進んだ。私が前衛陶芸に出会ったのは大学2年の時だった。当時油絵科に属していたそのクラスに私も入ることができたのだ。私は前衛的な陶芸を全面的に支持してはいなかったものの、窯が使えるならばと、半具象画のクラスから移動することにした。その頃の私は平面の中で行き詰まってもいた。作品と自分の距離が詰まっていって、身動きが取れなくなっていた。その点いったん自分の手からはなれ、窯に任せてそこから改めて作品と向かい合える、陶の制作過程は、作品を客観視するのに非常に役立つと思った。そして、私は再び土に魅了されていった。

 陶の魅力は限りなかった。釉薬を調合していく中で改めてそれがガラス質に変わることを神秘的に思ったりした。灰が、ガラスになるのだ。それを発見した時、人はどれ程驚いたであろう。まさに神の仕業と思ったに違いない。また作品を窯から取り出す時、微かな音を聞いた。溶けた釉薬に貫入のはいる音だ。陶と接するのは、生き物と接しているような、発見があった。私はこれを大事にしたいと思った。

 しかし私は危惧することがあった。陶という認められやすい素材を使うことに甘え、素材の力に頼り安心してしまうことである。私は度々立ち止まってしまった。上滑な作品は作りたくなかった。そんな4年になる前の春、私は旅にでた。

 青臭いと笑われるかもしれないが、私は自分が生きていることを感じ、そしてそのわけを知りたかったからだ。その中で、自分にとっての必然を見つけなくてはならないと思ったからだ。25日間で5か国の東南アジア諸国を船で回り、数々の出会いもあった。でも私が帰ってきて思い出したのは、船の上から見た海の色だった。目の前に広がっていた強く重くゆっくりとうねっていた青だった。しばらくして私は作り出した。そこに置いてきてしまった何かを。波に浮いた光の模様を。それが「水辺の記憶」だった。

 まず網状のものを板に作り、床から浮かせられるように足を作った。さらに表面に泥粧に浸した紙を幾層にも重ね、パラパラとはがれるようにした。泥粧はすべて剥がれてしまったり、全く溶けてしまわないように、調合し、素焼きしたものに、ひたすら紙を浸しては張り付けていった。その作業は果てしがなかった。しかし、人の心の治療にも使われているという土に、私もどこか癒されている気がした。一日中どろどろになっていると、素材と自分とが情報交換をしているようだった。私は土との会話を楽しんだ。泥粧には色も、つやも、ほとんど使わなかった。雨ざらしの骨のように、白く、はかなく感じられるようにしたかった。日常から瞬間的に取り出して固められてしまった、ボンベイの遺跡のように、持ち帰った光の記憶は、心の中で、白く乾いてパサパサになって、でも消える事はできない、そんな虚無感を感じていたからだ。そしてこの時私は、薄く、壊れやすい形態を作りながら、それがどんなに脆くて、もしも壊れて砕けてもそのかけらの一つ一つも陶であることに気が付いた。そしてそのように、一度焼いてしまうと元の土には半永久的に戻れない陶の存在が、「人の記憶の風景」に似ていると思った。光のような移ろい行く現象も、人の目に焼き付き心に残った時、それは記憶として消えることがなくなる。私はこうして、自分が表現したいものと、それが脆いが不変であるという矛盾をかかえた陶でなくてはならないことをほぼ同時に自覚したのである。なぜこの素材であるか、という問いの答えの一つを見つけたのだ。見る人がまたその脆さと堅固さに感傷と違和感を覚え、それを感じてくれたらと思った。さらに掴めば壊れてしまいそうに見える、乾いた光の網を、堅く冷たいコンクリートの床に、インスタレーションしたら面白いと思った。私は床の広い面積を使って、それをその場で展示した。そうすることで、緊張感のある展示にしたいと思った。99年2月の青山のスパイラルガーデンにおいて行われた、陶クラス16人によるグループ展「SITE」にはこれをもう一度自分の中で消化した、「波光」という作品を発表した。

 私が制作する上で、陶の伝統を破ろうとか概念を壊そうといったところにコンセプトはない。私の目の前にはもう土が自由な形であって、私がスタートした時にはその制約やプロセスもコンセプトとなり得るものだったからである。私はむしろ、陶と共に制作していると言えるであろう。

 私は陶ほど多く語る素材を知らない。陶はその質だけで、古代を語り、現代に存在し、未来を記す。地と火と水を含み持つそれは、人に「何か」を思い出させる。私はそれを探し、その象徴を作り、提示したいと思っている。そして、陶の話しに耳を傾け、土の中で迷い翻弄されても、自分の腕でそれを掴みだしていきたいと思う。

「筆力という難問」橋本真之

2016-05-31 15:02:01 | 橋本真之
1999年6月1日発行のART&CRAFT FORUM 14号に掲載した記事を改めて下記します。

筆力という難問           橋本真之


 突然に憂鬱はやって来る。少年時ならば、一人で中庭の泉水をのぞき込んで、憂鬱な一日をやり過せた。あるいは校庭の隅のバックネット裏の砂利の中に、金色や銀色に輝く小石や、手触りの心地良い変った小石を捜していれば良かった。あるいは、うろつきまわって、草木の葉を口にして、その青臭い味を較べて一日過ごすこともできた。名も知らぬ植物の枝を口にして、一日中、苦味が去らぬこともあったが、およそ私の憂鬱は葉緑素に色どられていた。下水溝のコンクリート製の蓋の上を、下駄で歩いた夏の日の空ろな音が、今でも聞こえるようだ。五十路にかかってしまうと、少年のようにうろついていては、危険人物視される。これからは、少しは身ぎれいにして歩かなければ、うさんくさい目があちらこちらに光っている。バルザックもプルーストも、池大雅も、五十そこそこで死んだ。死者の年齢というものが、妙に現実感を持ち出したのは、自分の身体に変調を覚えるためだろうか?この正月に七十九才で死んだ父の突然の出来事にあわてたためだろうか?憂鬱の始まりも、この父の死が発端であることは確かだったが、この発端は次々と不愉快な事共を引き連れてやって来た。

 「生活なぞ後まわし」と、うそぶいて没頭して来た仕事に、ようやくめどがつきそうになって来たと思ったら、後まわしにした生活に待ち伏せを喰ったという訳だ。その事はしばらくは置く。いずれけりはつくだろうから。

 父は書家で銀行員だった。つまり金銭生活を先にした人だった。そのお蔭で私がこうしていられる訳だ。その二重生活がいかなる苦汁と鈍気を必要としていたかは、想像するにかたくない。父・梅屋の書が面目躍如として来たのは、その死の数年前からではなかろうか?母の死を送って、孤独とひきかえに、父は真に書家の生活を始めたのであろう。実際、待ちに待った書家の生活を始めたなと、私は思った。彼は誰にも邪魔されたくなかったのである。宋時代の画家・顧駿之が高楼を建て、階上に画室を設け、絵を画く時には梯子を引き上げて、家族との接触を断ったという故事が思い出された。書き始めると、父は一人暮しの玄関を閉じ、応対に出なかった。持って行った料理を持ち帰る訳にも行かず、合い鍵で中に入ると、父は大きな紙の上に四つんばいになって書いていた。私の少年時代に、二階の書斎をおそるおそるのぞいて、筆を持ったままの父がとがめるように私を見た目と同じものだった。父は三味の時を迎えて死んだ。父は酔って、夜中に風呂の中で死んだが、そのおだやかな顔は、まだ自分が死んだということを知らないのに違いないと思わせた。書家の死というものがいかなるものか?多くを審かにしないが、いまだ自らの書を更新し続けていた書家の死の間際というものの意味は重い。

 筆跡に顕れる隠し難い力量というものがある。書が書道と呼ばれたのも、その事なのだろう。手習いの内ならば、人の行った後をついばんで行けば良いのだが、現実に自らの書を自立させるとなると、これはいかなる方途があるのか?と呆然とさせられるものがある。筆跡と結構が超越に至るという、書の持つ意味は、ヨーロッパの絵画におけるドローイングの線の問題と似ていなくもないのだが、それとは別の、人格としての線の力が明確に見える場がそこにある。

 そうして見ると、書簡のやりとりが日常になされていた一時代前の文人たちの間には、手紙文の内容以上に語ってしまう筆跡の力が人の姿として見えていたのである。書が自らの姿・形として現前していることを自覚しているのであれば、それは人として鍛錬が必要という訳だ。しかも自分だけ悦に入っている見せかけの筆力なぞは、見破られてしまうものだから、ひたすら鍛錬というのも困難なものがある。

 昨年サントリー美術館で開催された『日中書法名品展』(注)を見たが、その事の重さが手慣れのリズムと結構の向こうに厳然として見えるのがおそろしかった。そうした意味で私には、書聖とも神格化されて来た王羲之の存在というものが興味深いのである。実のところ、六朝時代東晋の人、王羲之の真跡は全く残っていない。現在、私達の見ている王書というものは拓本と模本のみである。王羲之の書は権力者にあまりに愛され過ぎたがために、権力者の死と共にに副葬され、また中国全土の王書が漁られ尽し、戦乱の中で失われた。展示されていたのは『蘭亭序』の拓本が別の石刻からとった二種類と、『妹至帖』という王羲之の手紙の断片を双鉤填墨によって作った模本である。双鉤填墨とは、字の輪郭を写し取った後、墨をさして作る精巧な模本である。こうした模本技術によって現在まで伝えられている王羲之の書の実体は、おぼろで遠い姿をしている。おそらく王羲之その人の手は版画の原画ように隠されているのだが、それにもかかわらず、王羲之の香りは馥郁と伝わって来るのが不思議である。ここには筆力と様式との秘密があるように思える。書においては、筆力が様式に即転化するところがあって、現在、王書として伝わっているのは、様式に転化し得た面のみである。模本・拓本が伝えることが出来るのは様式のみであり、筆力の生々しさは隠れることになる。そこに王羲之神話が成立する唯縁があるのだろう。伝説と共に御廉越しに王羲之を見ていて、その手跡の消えた書家の存在が、聖なるものにならないはずはない。同時に展示されていた、日本の空海の書が、その生々しさが故に「聖」とも思えぬ面を垣間見せるのは道理なのである。

 これ見よがしの書の下品さには目をおおいたくなるが、書作品に魅せられる時、私にはその筆力なるものへの信頼が確信としてある。上品・下品の明確な差異を見る目を養なったのは、私にとって書だったようだ。それが生活の抜け落ちた書だったところに、私の美意識の限界と急進性があるのかも知れない。

 『日中書法名品展』には、書法の大転換をなした顔真卿の書がなかったのが不思議だったが、様々な事情があったのだろう。それはともかく、私が顔真卿という人物の豪毅な性格の筆力を意識してからは、生半可なドローイングやデッサンの底を割る試金石になっているのは確かである。父の蔵書の中から、密かに顔書を見ていた私を、父は知らなかったはずだ。顔真卿には『祭姪文稿』の真跡と拓本が共に残っていて、草稿にもかかわらず、その拓本が精巧さと共に様式性を持つということを見て取れたのが、私にとってはこれらの認識のきっかけだった。

 父は少年の私に、おまえの名前は顔真卿の真であると言い置いて、その人物の人となりについて一切語らなかった。

 顔真卿。中国唐時代の政治家また書家。安史の乱の平定に尽した。性豪直。時の権勢家と合わず、政治的地位は安定しなかった。李希烈の叛に会い殺された。

 年経て顔真卿が大人物たることを知るに及び、大それた名前を付けられたものだなあと畏れたものであり、誇りに思ったものである。お蔭で重要な人物について関心を持ったのは、父の徳というべきか?そのことで、父は語らずに、「筆力」という考えれば考えるほど、異様に度し難い課題を、私に残したまま居なくなったが、現代では、こんなに取りつく島のない問題に拘泥している人物は、そうは居ない様だ。

 けれども、王羲之も顔真卿も、それに続く蘇東坡も、あるいは現代の書家達も、この筆力という目盛りのない物差しで計られる時、その位置もおのずと定められるのである。ワープロとパソコンの蔓延する時代には、すでに言わずもがなの事柄になって行こうとしているこの問題は、やがて、筆力の身体性を駆逐してしまった後に、思考の空転をもたらすことになるに違いない。それは自らの言語の文字の成り立ちが、象形文字を土台に、表音文字と表意文字との結束であることの自覚を次第に薄れさせて、具体的な手ざわりを失なった抽象記号と化して行くことが必定だからである。私達はすでにそのような時代に居るのである。すでに後戻りがゆるされていないのであれば、我々は身体的に思考する道を新たにさぐらねばならないのである。

 うつ向いて道路端を歩いている少年の後姿を見かける度、その少年が手にしている充足の場が何かを想像する。いつの時代にも、人は何か他愛のないものと接触しながら自意識の充足する場を育てて行く。少年に性の惑乱の時がやって来る前に充足し得た寄り処が、その生を方向付ける内的な指針となることを忘れてはなるまい。

(注)「日中書法名品展」平成10年10月21日~11月24日(サントリー美術館)

「早川嘉英-絞りの可能性を求めて-」 舟迫 正

2016-05-31 10:55:39 | 舟迫 正
◆絞り模様のコンクリートプレキャスト(試作品)
◆「金茶オーガンジー-羽織コート-」
◆「柄サテンボレロ」
◆「キナリ麻ブラウス」
◆「白ハイネックコート」
◆「横改良(太細)嵐絞りきもの」
◆「杢目嵐絞りきもの」
◆「絞り模様のコンクリートプレキャスト(試作品・部分)」
◆「絞り模様のコンクリートプレキャスト(試作品)」
◆「絞り模様の三洲瓦(試作品)」


1999年6月1日発行のART&CRAFT FORUM 14号に掲載した記事を改めて下記します。

 早川嘉英―絞りの可能性を求めて     舟迫 正(セイコきもの文化財団)

本年3月東京・上野広小路の「きもの美術館」において早川嘉英の個展「嘉英―絞りの世界から―」が開催された。この展覧会には絞り染による洋服、きもの、染布などこれまで手掛けてきた布の仕事の数々が出品されただけでなく、最近意欲的に取り組んでいる絞りのテクスチュアを生かした作品、つまり金属、瓦、コンクリートなどの試作品もいろいろと展示された。始めてこのような作品に接して驚きを隠せなかった人も少なくなかったが、染だけにこだわらず絞るという行為を通して創造の新たな可能性を切り開こうとする早川の積極的な取り組みは、表現者としての素直な姿勢であると同時に藝術に対する根源的な問いかけを含んでいるようにも思われる。本稿ではこの展覧会に至る早川の活動を概観しながら、彼が目指している道とその要因が奈辺にあるかを探ってみたい。なお、早川嘉英の活動については既に「産地の力」と題して本誌9号でも触れている。一部重複する部分もあるがお許し願いたい。

まず本稿を進めるにあたっては、その前に早川の今日的な活動の基盤となっているバックグラウンドについて説明しておかねばなるまい。
早川嘉英は1946年名古屋の有松に生まれた。有松・鳴海といえばわが国絞り産業の一大産地であり、ここで生産される絞り染は品質に優れ、さまざまな技法のものが提供できるのが特長で、時代的にはかなり隆盛を誇っていた。人気も高かった。当然彼もそうした世界を目の当たりにして育つ。そして名古屋学院大学を卒業後は、たった一人でのスタートではあったが、ごく自然に絞り染と関わることで生活の糧を得、絞り染の創作活動に身を挺してきたのであった。

ところがかつて隆盛を誇ったこの地域の絞り染めも、近年すっかり力をなくしてしまった。高度成長のあおりを受け、大量生産大量消費といった経済構造の渦に巻き込まれてしまった結果、その後全くといっていいほど動きのとれない状態になっているのだ。今思うと自ら衰退の道を歩んでしまったようにも思えるのだが、安価なものを大量に生産するため労働力を外国に委ね、手作りで生き延びてきた生産システムを破壊してしまったばかりか、品質第一主義にも目をつぶるような道を選んでしまったのである。伝統技術を守り後継者を育成することになど目が向かなくなってしまったのである。結果、一時的に数字が膨らんだことは確かだが、ひとたび歯車がずれてしまうと止まらないのがこの経済システムというもの。絞りは言うに及ばずわが国の手仕事を中心とした伝統産業が全国各地で同じような運命をたどったのだった。

早川はこのように絞り染が衰退して行く状況を見るにつけ、何か新しい道があるのではないかという思いを強くした一人である。何百年も続いてきた絞り染がそう簡単につぶれるはずはないのだ。考えてみれば、絞り染は染色技法の中で最も原初的なスタイルであるからこそ今日まで絶えることなく続いてきた技法ではなかったのか。近世模様染めの始まりといわれるまぼろしの辻が花染にしても、明治期に入って開発され人気を博したさまざまな技法にしても、長い歴史を有する世界から見ればほんの一時期のことにすぎない。まだまだ考えられることはあるはずなのだ。

彼が作家として注目されるようになるのは、絞りの振興策としてやれデザイン開発だ、やれ流通機構の整備だというような行政的指導しか発想できない地平から脱して、あくまでも作り手としての立場を問題とし、絞るという原点に真正面から取り組んだからに他ならない。自分の生まれ育った「絞り染」という環境をしっかり受け止め、染めるための過程の一つであった「絞り」の意味を追求したこと、それが逆に自由な絞り染の可能性を開くことに繋がったのである。絞るというプロセスから得られる新しい発見を通して自分自身の成長も促すよう努力してきたこと、それが造形への展開だったのである。

1980年代の半ばから早川は「絞り染」から「絞ったもの」をテーマに作品作りをスタートさせる。簡単に言ってしまえば染色しない布や紙を作品として発表するのである。絞ることによって生じる皺や襞の造形的な面白さをそのまま作品としたのである。本来は防染のための過程であった行為そのものに光を当てクローズアップしたのだ。

前述したように、早川は有松で生まれ育ったから絞り技法のほとんどについて知悉している。だからやろうと思えばどのような技法もこなすことは出来る。しかし実際に彼が行うのは嵐絞りという技法がほとんどだ。この技法は明治になってこの地区で考案されたもので、嵐棒と呼ばれる丸太(現在は塩化ビニールの管)に布を巻きつけてしっかりと糸を掛け、布を押し縮めて染色する方法なのだが、布の巻き方、糸の掛け方、押し縮め方、他の技法との併用などさまざまな工夫が施され、盛期には百種類を超える模様があったとされている。戦後この技法はほとんど途絶えてしまっていたが、早川はこのダイナミックな絞り技法に挑戦し、試行錯誤を繰り返しながら己のものとしていったのであった。そしてこの技法による染色作品を制作していたことが、「形」に注目することへと繋がっていくのである。

もともと絞り染の大きな特長は、染足が伸びることと三浦絞りに代表されるように立体的な皺(しぼ)をつくって染める技法などが挙げられるのだが、嵐絞りもまた布を押し縮めるから立体的で美しい襞が生じる技法であった。早川に言わせれば括ったり縫ったりするような仕事は手間がかかりまだるっこしくて彼の性格にあわなかったという。
筆者は1990年2月に新橋のギャラリースペース21で行われた早川の個展ではじめてこうした作品に接した。会場一杯に吊り下げられた作品「浮遊する」は圧巻であった。厚さの異なる綿布1500枚を嵐で絞り、それを繋ぎ合わせてインスタレーションしたものだが、それぞれの生地の表情が多様で、同じ白でも厚さの異なりだけでこうも雰囲気が変わるものかと驚いた記憶がある。絞った布が造形的な魅力に繋がることを実証した展覧会でもあった。もちろんこうした仕事で生計は立てられないが、絞るという行為を前面に押し出すメッセージを乗せていたことは言うまでもない。

1992年秋に名古屋で開催された「国際絞り会議」で早川は八面六臂の活躍をする。事務局として全体を統括した他、嵐絞りのワークショップを行ない、絞りコンテンポラリー展には「絞られた土」を出品した。この作品は磁土を含んだ紙を絞り、それを焼成したもので展示作品の中でひときわ異彩を放っていたのだが、絞った形状を固定出来るものであれば、もはや布である必要はなくなっていたのだ。絞りのテクスチュアを表現手段に用いたオブジェの登場である。絞るという接点とそれをコントロールできる可能性のある素材なら何にでも挑戦してみたいと思っていた時期である。

この「国際絞り会議は」早川にとって刺激的でもあった。その最たるものは数多くの外国人作家が現代美術の手法として(自己表現の手段として)絞りを採り入れている姿を見ることが出来たことだった。ある者は染めるのとは全く反対のディスチャージ(抜染)のために絞りを応用していたし、ある者は早川と同じように絞るという造形的な美しさを彫刻として(ソフトスカルプチュア)発表していた。フレキシブルナ視点から絞りを捉える人たちとの交流は、自分がやってきたことが未来に繋がるであろうことを確信させたのであった。この会議終了後「ワールド絞りネットワーク」を組織し自らその事務局長を引き受けているのも、絞りの可能性をどこまでも追求していきたいというロマンを持っているからに他ならない。先にも述べたように絞りは極めて原初的な染色技法だから、時代と国境を越えてネットワークを可能にする共通文化の一つでもあるのだ。「SHIBORI」は世界に共通する言葉でもある。

翌1993年早川は―絞りその表現―と題して石塚広とやはりギャラリースペース21で二人展を開催する。このとき彼が出品したのは30cm角、厚さ1センチほどのアルミ板に絞りから生まれる自然のシェイプを写し取った作品であった。絞れるものなら何でも絞ってみようという発想から、絞りから生まれるテクスチュアを応用できるものへとまた一段飛躍したのである。この作品はまず布を絞り、生まれた形から砂型を起こしてアルミニウムの溶液を流し込み固めたものだが、絞ったものから生まれる形への情熱は止まるところを知らない勢いであった。

前回の陶紙や今回のアルミニウムの作品は基本的な原型は早川が制作するが、それ以外のところについてはそれぞれ専門の人たちに委ねている。絞ることによって生まれる自然の造形の素晴らしさ、面白さを異業種の人たちにも理解させ、彼らがすすんで技術開発をするよう促しているのだ。発想とプロセスに意味があるのは結果が伴うからである。ギャラリー空間で発表を繰り返すことも大事だが、狭い世界で動き回っていても自ずと限りがある。早川はこれまで絞りとは縁のないと思われた人たちを巻き込んで日常空間の中に取り込めないかを模索し始めたのだった。いささか大袈裟な言い方かも知れないが、これまで積み重ねてきた経験を洗い直しながら、早川ならではの嗅覚と行動力で商品化を遠望したのだ。

本年3月の展覧会はそうした一連の仕事をまとめて展示したものだったのだが、金属キャストにはアルミの他にステンレス・ブロンズが加わり、さらにそれを応用したコンクリートプレキャストや三州瓦の参入も興味深いものだった。いずれもまだ試作品の域を出てはいないものの、それに関わる人たちの熱意が真剣で、彼らなりに行動を始めているのも印象的だった。そしてそれこそが早川の期待していたことであり、いわゆる商品化が実現する日もそう遠いことではないかも知れない。

ここまで早川の造形的な仕事にばかり注目してきたが、本業である布作品の存在も忘れてはなるまい。絞るという行為ももともとは防染のための技法の一つであった。造形への注目は当然染作品にも反映されることになる。新しい模様の復元にも意欲的に取り組むようになった。今回展示した洋服への関心も(半分コーディネーター的な仕事も含めて)こうした経験が生み出したものだ。絞りから生まれる形を早川は美しいと思う。それは人間が意図しながら、同時に意図しなかったものも含む形だからだ。そしてそれを染の手段とする。染もまた然りで、染料の動きを留めることは容易ではない。さらに染は素材としての布の違いや絞った形の影響をまともに受けて生まれる性質のものでもある。ただ染めるだけなら染料と布とがあれば容易なことだ。大事なのは何を考えどのように染めるかを工夫することであり、絞ったり染めたりすることを通して自分が何を学ぶかなのである。この時代に生きる自分を見つめることなのである。

彼が京都、広島、東京などで展開しているシボリコミュニティーの活動は絞り技法のノウハウを教える教室ではない。絞りと関わってそれぞれがどのような突破口を発見するか、その楽しさと苦しさを自らのものとしてほしいからである。彼はそのヒントを与えたいと思っているのである。早川は美術とか藝術と言う言葉をほとんど口にしたことがない。アートについて考えることはあってもアーティストを育てたいとは思っていないからだ。自分の生きる道、考える道を貫ぬきながらもの作りが出来ればそれでいいと思っているのである。

こうして早川の仕事を概観してみると、絞りも含めたいわゆるわが国の手仕事がものを作る重要なシステムだったことが浮かび上がってくる。手を働かしながら考える、それも素材の声を聞き技術と対話しながら。ゆるやかに流れてきたこのシステムは、わが国固有の文化風土や精神形成の深いところで繋がりを保ちながら発展してきたのではなかったろうか。早川の造形に対する傾斜も絞り染という仕事のなかで発見されたものだ。高度に発達した文明をわれわれは捨てることをできないが、テクノロジーの時代だからこそ、日本人が育んできた自然観とともにこれからも見直すべきものを数多く含んでいるのではないかと思っている。

「一粒のアメ玉」榛葉莟子

2016-05-30 10:28:12 | 榛葉莟子
◆野の中の音 1996 榛葉莟子

1999年2月10日発行のART&CRAFT FORUM 13号に掲載した記事を改めて下記します。

一粒のアメ玉            榛葉莟子

 「アメ玉もらっただけんどなもう昼だで、はよコメッツブまでせにゃならんでなあ」「ああ、アメですか」 さっきから、せわしなく、もぐもぐと動くおじいさんの口元は、アメを溶かそうとしていたのだった。家着く頃にゃ、ちょうど溶けるでと、立ち寄った家の人にもらった一粒のアメ玉を口にいれたは良いけれど、家が見えてきたというのに口の中のアメはまだ大きい。さあ、困った。90歳を超えたおじいさんの歯は噛むには無理がある。唾液も少ない。玄関の戸をがらがらと開け、はい、ただいまと言った時には口の中はきれいさっぱりにしておきたい。お嫁さんがお昼の支度をして待っていてくれるのだから。それならぷっと放り出せばいいのに、それも、もったいないし……おじいさん複雑に口元を動かしながら「まあ、ありがためいわくっちゅうこんもあるわなあ」と言って笑った。

小春日和の大空は一片の雲もなく晴れ渡り、まるでシルクスクリーンのベタ刷りのように、真っ青にきらきらと輝いている。時々、散歩の道で出会うおじいさんは、優しくて強い明治の男だ、いかにも大地と共に生きてきた農夫の堂々とした威厳をすら感じる。私がおじいさんの、ファンになったのはもう5、6年前になるだろうか、おばあちゃんが亡くなった次の年の夏だった。いつもの夏なら花好きのおじいさんの家の前の両脇には、コスモスやダリヤやひまわりなどの、夏の花特有のにぎやかな色彩であふれかえっていた。ところが、その夏はちがっていた。おじいさんの家の前の、道の両脇を延々と縁取る花は白いマーガレットだった。他の色のひとかけらも混じらず、ただただ、白、白、白の異様とも感じられる満開の白いマーガレットの花が灯明のように道を照らしていた。そこだけが日常からふわりと離れたような不思議な空間が出現していた。この夏はおばあさんの新盆……ということは、おじいさんは、春先、白いマーガレットの苗のひと株ひと株を延々と道の縁に植えていったのだなあ。ちゃんと新盆の頃花開くように……

私はその白い道をすたすたと犬と駆け抜けるのは気が引けて、曲がらずにまっすぐ走った。何か明るいものが沸いてきた。いいなあ、いいなあおじいさん、走りながら胸の奥がちくちく痛かった夏の日の事を思い出す。耳の遠いおじいさんと立ち話するにはちょっと気合がいる。大きな声と身振ぶり、簡素な言葉、いやそんな大げさなものでもないが、何しろ私はおじいさんのファンなので適当にやり過ごすなんて事はできない。ヘーとか、わつとかあいずちを打ちながら、しばらくは立ち話する。いつだったか、土手に坐り込んで草取りをしているおじいさんを、遠くから発見、そう、発見としか言いようがないのだ。ひとっこひとりいない日中、拡がる田園風景の草のなかに溶けこんでいるおじいさんを見つけたのだから。気配にきずいて、おおっというふうに顔をあげたおじいさんに、きれいになりますねと言うと、こんなこんしかできんのよ、足痛いしな、もう用無しじゃ、いつお迎えがきてもええしなあ。などと言うおじいさんの陽やけした顔が静かに笑った。そんな時、私になにが言えるだろう。黙るしかない。大地を耕して一生を農夫として生きるおじいさんの世界に入りこむ事はできないけれど、希望も絶望も超えた場所にこそ深く静かな平和がおとずれるという。おじいさんの静かな笑顔に、それを感じたのは生意気だろうか。

それではと言う引き際のタイミングというのもなかなか難しく、この日はお昼のサイレンが合図になつた。どうやら立ち話の間に、アメ玉はコメッツブになりやっと溶けて口の中は、お昼のご飯の準備ができたようだった。空の色に似た青い綿入れの半纏が窮屈そうなおじいさんの後ろ姿をちらっと見送った。それから私はつくずくと、青く拡がる大空を仰いだ。あまりにも今日の青空は膨らんでいるよ。と感じる。青い丸天井を見つめていると、身体が除々に縮小していく感覚になっていく。おじいさんの口の中で溶けていくアメ玉と似ているなあ。コメッツブまで溶かさにゃならん?これって比喩だ。青い丸天井の囲いのなかのちっぽけな自分が見えてくる。溶ける寸前、青空のなかに手をつっこみたい衝動に駆られ、掌のハサミを青空のなかにつっこむ。呑み込まれる訳にはいかないよ。絶望と希望の狭間で揺れ動き夢みていたいもの、だからジョキリ。小さな裂け目がぎらっと空白を生む。脱出する。囲いのなかから。

 くいっと引っ張る力に気ずくと、綱の先で犬が、さあ帰ろうよと私を見上げていた。うん、帰ろう、次の授業開始のベルが鳴っているものね。眼の先の空には、いつのまにか一片の魚のような白い雲が泳いでいた。

「凡庸の勝利」-モランデイ覚書- 橋本真之

2016-05-30 09:23:32 | 橋本真之
◆モランディ flowers 1950

◆「ボローニャ・フォンダッツア街の自宅アトリエ」

1999年2月10日発行のART&CRAFT FORUM 13号に掲載した記事を改めて下記します。

 「凡庸の勝利」モランディ覚書       橋本真之(造形作家)

 「絵画」は人間の文化圏においてのみ有効な事象である。このあたり前なことを思い起こさせる自己批評力を、絵画自体の内に持つということは重要だ。

 ジョルジョ・モランディ(注1)という、今では古風なイタリアの画家の展覧会を、庭園美術館で見た。(注2)目黒駅を出た時、すでにだいぶ陽は傾いていた。時間はいくらもない、迷っている場合ではないと踏んで、手っとり早く新聞の売店の男に美術館の方角をたずねた。見覚えのある道筋を急ぎながら、私は以前にも、あの男に同じ道をたずねたのではなかったかと思った。美術館の会場に入った後、ひどく憂鬱な気持に襲われた。観客の中に声高にしゃべっている初老の男が居て、これらの絵が三千万円もするらしいのだが、そのことに腹を立てているようなのである。この男は何を見に来たのかと、私は不思議に思った。この男のお蔭で、最初モランディが下世話な世界のあぶくのように見えて来るのに抗するだけで、精一杯というところだったのである。私もまだまだという訳だ。観客の一人の、見知らぬ物知り顔の中年の女は、照明が悪いのではないかと、大きな声で不満の声を上げていた。私はそんな観客達の内に混じっていることに不快が募り、一刻も早く彼等から離れたくて、足早に見て回った。

 けれども、彼等の気持が解らぬでもない程、アメリカ美術に慣らされてしまった眼には、モランディの絵画はくすんで見映えのしない、ひどく小さなものばかりだった。実際モランディは小さな作品ばかりを描いていたらしい。私はこうしたメリハリの乏しい奇妙に白濁した絵画世界が、忘れ去られずに残されたという事跡を思わずには居られなかった。美術史上、形而上派の一員と位置づけられる若い頃のモランディは、他の画家達の間に置くと、その存在の意味は見えるのだが、いつまでもそうした場処では居心地が悪いように見える。

 モランディの絵画は油絵具のヘドロで描いたのかと思わせる程、彩度の低い色彩が全体を覆っている。それらは一見、絵具の扱いに慣れていない素人画家の手すさびのように見えるかも知れない。おそらく、今日の団体展の、我こそは……の騒がしい色彩の中にあれば、誰も見向きもしないような性質の世界が、そこに現出しているのである。事実私でさえ、初めの内かの手合のように、もっとはっきり描いてくれ……と言いたくなる程だった。ところが、外の陽が落ちて、ざわざわした人々の波が引いた後、部屋に一人二人の静かな観照者達だけになり始めると、隣りの部屋の壁にかかっている小さな白濁していたはずの絵が、むくむくと色彩の動きを放ち始めるのだった。私は動揺して隣りの部屋に行き、その絵を真近で見るのだったが、それは小馬鹿にされたように、先程と変わらぬ白濁した絵画なのであった。そして再び離れて見ると、やはり輝かしい作品に見え始めるのだった。どの絵も同様な様子を示し始め、会場のいくつもの部屋を足早に往き来しながら、これはどうした事だろうと自問し続けた。

 おそらく、モランディの灰色の世界を見続けていると、わずかに暗示されている程度の色彩の強度を、次第に観照者が補って見始めるのである。そのように観照者によって励まされた色彩が動き始めると、観照者は自ら描いた絵画であるかのように、モランディの絵画世界に感覚の密着を覚えることになる。これは東洋の水墨画の方法でもある。形においても、光を面として掴まえるおおまかで暗示的な組み立てで、パタパタと立ち上げた様子をしている。それは心地好いシンプルな組み立てである。モランディの絵画は「見る」ことの揺れ動きを誘い、私の視覚の確たる根拠をあいまいなものにして、絵画世界のあえかに成立する歓びを共有させるのだった。しかしながら、絵画というものが揺れ動く感覚によって成立し、供受しなければならない頼りなさを、画家は何によってささえようとしているのだろうか?

◆ボローニャ・フォンダッツア街の自宅アトリエ
 ボローニャ・フォンダッツア街の、残されたモランディのアトリエの写真が、会場の二面の壁に大きく引きひきのばされていて、アトリエの中に入って見るような仕掛けになっていた。彼はこのアトリエから見える風景と、机上の静物を繰り返し描き続けた。鳥の糞のように油絵具の積ったイーゼルが手前にあり、静物画のための机には、紙を画鋲で止めてテーブルクロスのように敷いてある。その上にモランディ特有のブリキの容器たちが置かれている。その作り物達に注がれる光の具合が、モランディの絵画そのものの質を思わせて、その写真を懐かしいものにするのだろうか?傍らにある低い木製の棚には、少しばかりの本や画材が積まれている。何とも慎ましい空気が、私にその簡楚なアトリエを好ましい場処に思わせるのだった。ところで、その静物画のための机の刳り木の四本の足の内、手前右側の足が少し傾いていて、器物の並んだ机上の空間が何事かに耐えているようにそこに在るのを、危うくささえているといった様子だった。その一本の足が、先年見たジャコメッティの作った女の彫像を思い出させた。モランディの世界にはジャコメッティの鋭利さはない。けれども私は、そこに同じ空気を見たように思った。ある種の絵画的探究には特有の空気がある。けれどもモランディはジャコメッティにおける渇望にも似た探究とは、明らかに異なる方向を向いている。モランディの世界は、外界の不安の中にあって、画家の背中に当たっている光に、充足を思わせるところがある。その充足の質に、私は親密な感情を覚えるのである。

 モランディは少なくとも目の前の変化を相手にしていたのではなさそうだ。何か変わらぬ空気の質というようなものへの確信があって、それをあたかも中庭のような絵画世界にもたらそうとしているように思える。その非生命的な物のたたずまいがもたらす空間の質に感応している眼の揺れ動きが、その絵画世界に生命をもたらしているようだ。すなわち、モチーフそのものの生命感よりも、画家自らが動いていることの生命として、絵画は成熟して行くということになる。

 絵画はかくも成熟する。そう語っているように思える。さもなければ、絵画は何のためにあるのか?とつぶやいているようだ。凡庸の勝利がここにあった。

 私は美術館の薄闇の庭園を出口に向かった。古木の太い横枝のひとくねりが闇の中で生動していた。見知らぬ老女が紙袋を小脇にしっかりとかかえて、私の傍らを急いで行った。瞬間、何か不愉快な感情が私をとらえた。おそらく、外国を旅行することに慣れてしまった姿勢なのだなと気付いた。堂々たる古木のひとくねりの下では、何もかもが軽率なものに見える。かの成熟した絵画でさえも。私には今さら先を急ぐ理由もなかった。

(注1) Giorgio Morandi(1890-1964)
 (注2) 「ジョルジョ・モランディ・花と風景」展(会期1998年10月10日~11月29日)