◆絞り模様のコンクリートプレキャスト(試作品)
◆「金茶オーガンジー-羽織コート-」 ◆「柄サテンボレロ」 ◆「キナリ麻ブラウス」 ◆「白ハイネックコート」 ◆「横改良(太細)嵐絞りきもの」 ◆「杢目嵐絞りきもの」 ◆「絞り模様のコンクリートプレキャスト(試作品・部分)」 ◆「絞り模様のコンクリートプレキャスト(試作品)」 ◆「絞り模様の三洲瓦(試作品)」
1999年6月1日発行のART&CRAFT FORUM 14号に掲載した記事を改めて下記します。
早川嘉英―絞りの可能性を求めて 舟迫 正(セイコきもの文化財団)
本年3月東京・上野広小路の「きもの美術館」において早川嘉英の個展「嘉英―絞りの世界から―」が開催された。この展覧会には絞り染による洋服、きもの、染布などこれまで手掛けてきた布の仕事の数々が出品されただけでなく、最近意欲的に取り組んでいる絞りのテクスチュアを生かした作品、つまり金属、瓦、コンクリートなどの試作品もいろいろと展示された。始めてこのような作品に接して驚きを隠せなかった人も少なくなかったが、染だけにこだわらず絞るという行為を通して創造の新たな可能性を切り開こうとする早川の積極的な取り組みは、表現者としての素直な姿勢であると同時に藝術に対する根源的な問いかけを含んでいるようにも思われる。本稿ではこの展覧会に至る早川の活動を概観しながら、彼が目指している道とその要因が奈辺にあるかを探ってみたい。なお、早川嘉英の活動については既に「産地の力」と題して本誌9号でも触れている。一部重複する部分もあるがお許し願いたい。
まず本稿を進めるにあたっては、その前に早川の今日的な活動の基盤となっているバックグラウンドについて説明しておかねばなるまい。
早川嘉英は1946年名古屋の有松に生まれた。有松・鳴海といえばわが国絞り産業の一大産地であり、ここで生産される絞り染は品質に優れ、さまざまな技法のものが提供できるのが特長で、時代的にはかなり隆盛を誇っていた。人気も高かった。当然彼もそうした世界を目の当たりにして育つ。そして名古屋学院大学を卒業後は、たった一人でのスタートではあったが、ごく自然に絞り染と関わることで生活の糧を得、絞り染の創作活動に身を挺してきたのであった。
ところがかつて隆盛を誇ったこの地域の絞り染めも、近年すっかり力をなくしてしまった。高度成長のあおりを受け、大量生産大量消費といった経済構造の渦に巻き込まれてしまった結果、その後全くといっていいほど動きのとれない状態になっているのだ。今思うと自ら衰退の道を歩んでしまったようにも思えるのだが、安価なものを大量に生産するため労働力を外国に委ね、手作りで生き延びてきた生産システムを破壊してしまったばかりか、品質第一主義にも目をつぶるような道を選んでしまったのである。伝統技術を守り後継者を育成することになど目が向かなくなってしまったのである。結果、一時的に数字が膨らんだことは確かだが、ひとたび歯車がずれてしまうと止まらないのがこの経済システムというもの。絞りは言うに及ばずわが国の手仕事を中心とした伝統産業が全国各地で同じような運命をたどったのだった。
早川はこのように絞り染が衰退して行く状況を見るにつけ、何か新しい道があるのではないかという思いを強くした一人である。何百年も続いてきた絞り染がそう簡単につぶれるはずはないのだ。考えてみれば、絞り染は染色技法の中で最も原初的なスタイルであるからこそ今日まで絶えることなく続いてきた技法ではなかったのか。近世模様染めの始まりといわれるまぼろしの辻が花染にしても、明治期に入って開発され人気を博したさまざまな技法にしても、長い歴史を有する世界から見ればほんの一時期のことにすぎない。まだまだ考えられることはあるはずなのだ。
彼が作家として注目されるようになるのは、絞りの振興策としてやれデザイン開発だ、やれ流通機構の整備だというような行政的指導しか発想できない地平から脱して、あくまでも作り手としての立場を問題とし、絞るという原点に真正面から取り組んだからに他ならない。自分の生まれ育った「絞り染」という環境をしっかり受け止め、染めるための過程の一つであった「絞り」の意味を追求したこと、それが逆に自由な絞り染の可能性を開くことに繋がったのである。絞るというプロセスから得られる新しい発見を通して自分自身の成長も促すよう努力してきたこと、それが造形への展開だったのである。
1980年代の半ばから早川は「絞り染」から「絞ったもの」をテーマに作品作りをスタートさせる。簡単に言ってしまえば染色しない布や紙を作品として発表するのである。絞ることによって生じる皺や襞の造形的な面白さをそのまま作品としたのである。本来は防染のための過程であった行為そのものに光を当てクローズアップしたのだ。
前述したように、早川は有松で生まれ育ったから絞り技法のほとんどについて知悉している。だからやろうと思えばどのような技法もこなすことは出来る。しかし実際に彼が行うのは嵐絞りという技法がほとんどだ。この技法は明治になってこの地区で考案されたもので、嵐棒と呼ばれる丸太(現在は塩化ビニールの管)に布を巻きつけてしっかりと糸を掛け、布を押し縮めて染色する方法なのだが、布の巻き方、糸の掛け方、押し縮め方、他の技法との併用などさまざまな工夫が施され、盛期には百種類を超える模様があったとされている。戦後この技法はほとんど途絶えてしまっていたが、早川はこのダイナミックな絞り技法に挑戦し、試行錯誤を繰り返しながら己のものとしていったのであった。そしてこの技法による染色作品を制作していたことが、「形」に注目することへと繋がっていくのである。
もともと絞り染の大きな特長は、染足が伸びることと三浦絞りに代表されるように立体的な皺(しぼ)をつくって染める技法などが挙げられるのだが、嵐絞りもまた布を押し縮めるから立体的で美しい襞が生じる技法であった。早川に言わせれば括ったり縫ったりするような仕事は手間がかかりまだるっこしくて彼の性格にあわなかったという。
筆者は1990年2月に新橋のギャラリースペース21で行われた早川の個展ではじめてこうした作品に接した。会場一杯に吊り下げられた作品「浮遊する」は圧巻であった。厚さの異なる綿布1500枚を嵐で絞り、それを繋ぎ合わせてインスタレーションしたものだが、それぞれの生地の表情が多様で、同じ白でも厚さの異なりだけでこうも雰囲気が変わるものかと驚いた記憶がある。絞った布が造形的な魅力に繋がることを実証した展覧会でもあった。もちろんこうした仕事で生計は立てられないが、絞るという行為を前面に押し出すメッセージを乗せていたことは言うまでもない。
1992年秋に名古屋で開催された「国際絞り会議」で早川は八面六臂の活躍をする。事務局として全体を統括した他、嵐絞りのワークショップを行ない、絞りコンテンポラリー展には「絞られた土」を出品した。この作品は磁土を含んだ紙を絞り、それを焼成したもので展示作品の中でひときわ異彩を放っていたのだが、絞った形状を固定出来るものであれば、もはや布である必要はなくなっていたのだ。絞りのテクスチュアを表現手段に用いたオブジェの登場である。絞るという接点とそれをコントロールできる可能性のある素材なら何にでも挑戦してみたいと思っていた時期である。
この「国際絞り会議は」早川にとって刺激的でもあった。その最たるものは数多くの外国人作家が現代美術の手法として(自己表現の手段として)絞りを採り入れている姿を見ることが出来たことだった。ある者は染めるのとは全く反対のディスチャージ(抜染)のために絞りを応用していたし、ある者は早川と同じように絞るという造形的な美しさを彫刻として(ソフトスカルプチュア)発表していた。フレキシブルナ視点から絞りを捉える人たちとの交流は、自分がやってきたことが未来に繋がるであろうことを確信させたのであった。この会議終了後「ワールド絞りネットワーク」を組織し自らその事務局長を引き受けているのも、絞りの可能性をどこまでも追求していきたいというロマンを持っているからに他ならない。先にも述べたように絞りは極めて原初的な染色技法だから、時代と国境を越えてネットワークを可能にする共通文化の一つでもあるのだ。「SHIBORI」は世界に共通する言葉でもある。
翌1993年早川は―絞りその表現―と題して石塚広とやはりギャラリースペース21で二人展を開催する。このとき彼が出品したのは30cm角、厚さ1センチほどのアルミ板に絞りから生まれる自然のシェイプを写し取った作品であった。絞れるものなら何でも絞ってみようという発想から、絞りから生まれるテクスチュアを応用できるものへとまた一段飛躍したのである。この作品はまず布を絞り、生まれた形から砂型を起こしてアルミニウムの溶液を流し込み固めたものだが、絞ったものから生まれる形への情熱は止まるところを知らない勢いであった。
前回の陶紙や今回のアルミニウムの作品は基本的な原型は早川が制作するが、それ以外のところについてはそれぞれ専門の人たちに委ねている。絞ることによって生まれる自然の造形の素晴らしさ、面白さを異業種の人たちにも理解させ、彼らがすすんで技術開発をするよう促しているのだ。発想とプロセスに意味があるのは結果が伴うからである。ギャラリー空間で発表を繰り返すことも大事だが、狭い世界で動き回っていても自ずと限りがある。早川はこれまで絞りとは縁のないと思われた人たちを巻き込んで日常空間の中に取り込めないかを模索し始めたのだった。いささか大袈裟な言い方かも知れないが、これまで積み重ねてきた経験を洗い直しながら、早川ならではの嗅覚と行動力で商品化を遠望したのだ。
本年3月の展覧会はそうした一連の仕事をまとめて展示したものだったのだが、金属キャストにはアルミの他にステンレス・ブロンズが加わり、さらにそれを応用したコンクリートプレキャストや三州瓦の参入も興味深いものだった。いずれもまだ試作品の域を出てはいないものの、それに関わる人たちの熱意が真剣で、彼らなりに行動を始めているのも印象的だった。そしてそれこそが早川の期待していたことであり、いわゆる商品化が実現する日もそう遠いことではないかも知れない。
ここまで早川の造形的な仕事にばかり注目してきたが、本業である布作品の存在も忘れてはなるまい。絞るという行為ももともとは防染のための技法の一つであった。造形への注目は当然染作品にも反映されることになる。新しい模様の復元にも意欲的に取り組むようになった。今回展示した洋服への関心も(半分コーディネーター的な仕事も含めて)こうした経験が生み出したものだ。絞りから生まれる形を早川は美しいと思う。それは人間が意図しながら、同時に意図しなかったものも含む形だからだ。そしてそれを染の手段とする。染もまた然りで、染料の動きを留めることは容易ではない。さらに染は素材としての布の違いや絞った形の影響をまともに受けて生まれる性質のものでもある。ただ染めるだけなら染料と布とがあれば容易なことだ。大事なのは何を考えどのように染めるかを工夫することであり、絞ったり染めたりすることを通して自分が何を学ぶかなのである。この時代に生きる自分を見つめることなのである。
彼が京都、広島、東京などで展開しているシボリコミュニティーの活動は絞り技法のノウハウを教える教室ではない。絞りと関わってそれぞれがどのような突破口を発見するか、その楽しさと苦しさを自らのものとしてほしいからである。彼はそのヒントを与えたいと思っているのである。早川は美術とか藝術と言う言葉をほとんど口にしたことがない。アートについて考えることはあってもアーティストを育てたいとは思っていないからだ。自分の生きる道、考える道を貫ぬきながらもの作りが出来ればそれでいいと思っているのである。
こうして早川の仕事を概観してみると、絞りも含めたいわゆるわが国の手仕事がものを作る重要なシステムだったことが浮かび上がってくる。手を働かしながら考える、それも素材の声を聞き技術と対話しながら。ゆるやかに流れてきたこのシステムは、わが国固有の文化風土や精神形成の深いところで繋がりを保ちながら発展してきたのではなかったろうか。早川の造形に対する傾斜も絞り染という仕事のなかで発見されたものだ。高度に発達した文明をわれわれは捨てることをできないが、テクノロジーの時代だからこそ、日本人が育んできた自然観とともにこれからも見直すべきものを数多く含んでいるのではないかと思っている。