ART&CRAFT forum

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「出会いと織り」 篠宮和美

2017-07-29 10:06:45 | 篠宮和美
◆篠宮和美 “海から空へ”2000年 サイズ:W 440cm×H 205cm×D 10cm 素材:綿糸、ウール 技法:二重織、綴織


◆“FIREWORK” 1997年 サイズ:W 340×H 148×15cm  素材:綿、ウール 技法:二重織、綴織

◆“水の流れ” 1996年 サイズ:W 500×H 280×D 15cm 素材:綿、ウール 技法:二重織、綴織
 
◆“WORK2” 2002年 サイズ:W 20 ×H 20×D 20cm 
素材:綿、麻、ウール 技法:二重織、綴織 

◆“UNDERGROUND” 1996年 サイズ:W 140 ×H 98×D 15cm 素材:綿、麻、ウール 技法:二重織、綴織 

◆“FLOW” 2000年 サイズ:W 123 ×H 158×D 4cm 素材:綿、麻、ウール 技法:綴織

◆“SPECTRUM” 2004年 サイズ:W 98×H 140cm 素材:綿、麻、ウール
技法:綴織、コイリング


2006年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 40号に掲載した記事を改めて下記します。

 「出会いと織り」 篠宮和美

 2005年9月、私は15年ぶりにスウェーデンのストックホルムを訪れました。9月22日から始まったハンドクラフトの祭典『VAVMASSA KONFERENS』(第10回記念大会)の見学がてら、自分が歩いてきた道をちょっと振り返ってみたいと思ったからです。
 1987年だったと思いますが、群馬県立近代美術館で開催された『スウェーデンのテキスタイルアート展』へ行きました。その時の衝撃は今も鮮明に覚えています。タぺストリーの大きさはもとより、絵画のようでいて絵画では表現できない色の深さ、明るく透明で自由な色彩の表現に圧倒されました。同時に織った人のパワー、緊張感、楽しい感情が伝わってくる不思議さに驚き魅了されました。          
 展覧会そのものは、ハンドアルベーテッツ・ヴェンネル(テキスタイルアート友好協会・HV)の活動を紹介するものでした。HVは伝統的なスウェーデンの染織技術を土台に、より高い芸術性を求めて、画家、彫刻家、版画家、デザイナーたちが、染織作家との共同作業により、大きな作品を制作し、それらが国会議事堂、病院、学校、銀行など公共施設へ次々と飾られていきました。
 この展覧会で初めてタペストリーの迫力に出会い、やってみたい、勉強してみたいという気持ちが高まりました。私は早速HVへ手紙を書いて自分の思いを伝えました。外国人留学生枠2名でしたので、順番を待ち、HVのサマースクールに入学が許可されたのは1990年のことでした。
 「授業はスウェーデン語を使用します。スウェーデン語が解らなければ1ヶ月前に来て、語学学校へ入り、基本的な事は学んでください」。私のもとに送られてきた語学学校のパンフレットは移民のためのものであり、私は授業の始まる1ヶ月前にストックホルムに着きました。
 今考えてみると、この語学学校から、現在に至る、人と人との偶然であり必然である「出会い」が始まったようです。
 語学学校ではアルゼンチン出身のカルメンと友達になり、彼女の仕事先のテキスタイルデザイナー・シャルロッテに紹介されました。
シャルロッテはカーテンや壁紙、布地のデザイナーで、カルメンはデザインされた下絵に色を塗っていく仕事をしていました。私にも仕事を分けてくれて、授業が終わるとシャルロッテの仕事場へ行き、ふたりで下絵にポスターカラーで彩色していました。「お金は出せないけれどそのかわりに夕食は出します」という約束でした。私はなにしろ好奇心いっぱいのまま、シャルロッテのお手伝いをすることにしました。
 彼女の仕事場は、5名の女性たちと共同で借りているビルの1室でした。他の4名は画家2名、舞台の衣装制作者、プリントデザイナーで、夜になると、みんなで食事に行ったり、それぞれの自宅へ呼ばれたりしました。彼女らの旺盛な食欲(ダイエットに時々励んでいましたが)、おしゃべり、バイタリテイー、北欧女性の大地に根を張り、おおらかで陽気に人生を楽しんでいる姿に驚きました。
 こういう生き方もあるのだ。人生は楽しいし、輝きに満ちていて、悔しいこともいっぱいあるけれど、それを乗り越えて笑って笑って生きていきましょう。彼女たちは、全身を使ってそのことを表現していました。日本で毎日、ウジウジした生き方をしていた私は、心の奥底から何かが変わっていくような、むしろ変わらねばならないと思いました。技術を身に付け、自信を持つことが出来たら、彼女たちのように、笑って何事も乗り越えて生きていくことが出来るような気がして、ようし!ガンバルぞ?と思いました。
 1ヶ月の語学学校修了後HVへ入りました。同じクラスには20代から30代の女性15名がいました。学校の先生が多く、夏休みを利用して織りを学びに来ていました。デザインを考え出す方法、描いたデザインを下絵にして織る絵織り技法、糸の種類及び組み合わせ、作品の仕上げ方などを学びました。こうした授業の合間には仲間たちと、美術館や博物館へ行き、たくさんのタペストリーやテキスタイルを見ることができました。
 日本のわび・さびの繊細な色合いとは明らかに異なり、色の透明さ、鮮やかさ、力強さがとても印象的でした。湿度や緯度による太陽光線の波長の違いによって、人の眼に映える色調が異なり、それが生活全般に直接作用しているのかと思いましたが、それだけでは無いような気がしました。ひとときの明るい夏、長く暗い厳しい冬、この対照的な、北欧独特の自然条件の中で、一体となった幸福感と寂寥感。常に自由と平等を求め続ける人々の生活に根ざした、凛として真っ直ぐな目線。それらがタペストリーの力強さの根源にあると思いました。そんなことを考えながらHVのサマースクールを修了し、帰国しました。
 そしてさらに本格的に勉強しようと思い、京都の川島テキスタイルスクール(KTS)へ入学しました。そこでは次の出会いが待っていました。KTSには作家では、礒邉晴美先生、石崎朝子先生、小林尚美先生がいらっしゃいました。木下猛理事長がお元気な頃で、精力的に学校運営をされていました。綴織りの高向郁男先生、組織織りの小西誠二先生、染めの小野益三先生など最強のスタッフの中で学ぶことができて幸せな時代であったと思います。技術面でもそうでしたが精神面では木下理事長の、ものづくりを大切に思う気持ちに感動しました。「アテンションプリーズ」で始まる毎朝のスピーチがおもしろくて、考えさせられる時間を持つことが出来ました。人前で話すということは、ネタ探しに始まり、ユーモア、話題の展開、表情などあらゆる脳細胞をフル回転させていることを痛感しました。
 木下理事長の業績は『インカーネーション』という一冊の本になっています。手を使って織ることの重要性(もちろん織ることだけではありませんが)や精神性が理論化されていて、とてもすばらしい本です。
 「手創りにとりくむ事は、ただ作品を創造することにとどまらず、各自、人間を、人生を、創造することに外ならない」
 「緩歩とは静かな持続のことである。静かであるが、停止しないことでもある。-中略-手織りの心のよろこびと、作品のたのしさは、とりくみの積み重ね、言わば静かな持続の長さに比例する。器用や奇抜では、輝きを持つに至らない」
 「静かな持続」は私たちのあいだでは合い言葉になりました。手織りはデザイニングに始まり、素材の選定、機がけ、制織などどれをとっても物理的に時間がかかりますが、「ゆっくり」「おちついて」「いつまでも」の精神を持ち続けること、そしていちばん重要なのがデザイニングであることを木下理事長は示唆してくださいました。私の心の財産はどんどん増えていきました。
 礒邉晴美先生との出会いも大切な思い出です。KTSから離れても、 親しくさせていただき、亡くなられる直前まで、いろいろとお世話になりました。作家がどういう日常を送り、どういう方法で次々に作品を生み出していくのかを間近で見ることができました。作品と向き合うときの厳しさ、完璧性。下絵を何枚も描き、その中から一点を選び抜き、作品創りを始める清々しさ、潔さ、純粋な気持ち。しかし人に対しては寛容で、だれにでも心を開き、絶えず気を配り、明るく、ユーモアに溢れ、批判精神も旺盛でした。わたしはそんな先生が大好きでした。一歩でも近づきたいと思いました。今でも眼を閉じると、礒邉先生の語り口が耳に残っていて、身近に存在を感じることができます。生涯忘れられない女性です。
 KTSでは多くの出会いがあり、すばらしい時間を過ごすことが出来ました。それは私ばかりでなく、当時の学生だれもが感じたことでもあります。あの黄金の時間を共有できたことで、これから先は迷わず織りをやっていこうという気持ちがどんどん強くなりました。
 ところで私は、何故、織物が好きなのかと、ときおり考えます。没頭できること、夢中になれること、全てを忘れることが出来るという陶酔感の中に、ワクワクするものがあり、その気持ちをもう一度味わいたいために機に向かうことになるようです。たとえば私は竪機で二重織りをすることが多いのですが、完全に身体を動かして頭はただ一つのイメージを追い求めていく行為を続けていると、心の奥底から喜びがフツフツとマグマのように湧いてきます。何だろう?この感覚。もっと感じたいと思う心の動きはとても不思議です。
 子供の頃を振り返ってみようと思います。私が生まれた群馬県藤岡市は江戸時代より絹の産地で、当時は月12回の市が立ち、江戸や大坂の豪商たちが絹糸を買い付けに来たようです。私は神社で生まれましたが、境内には、江戸時代の越後屋(三井)から寄贈された御神輿、灯籠、水舎などが現在も残っています。明治になって「高山社」という養蚕学校が設立され、『清温育』という蚕の育成法を学びに、全国から学生が集まったそうです。境内には、創立者である高山長五郎翁功徳碑と初代校長の町田菊次郎翁頌徳碑が、仲良く二つ並んで立っています。宮司である父が近隣に、古い家を取り壊す御祓いに行くと、おみやげに、古い機織りの道具である糸巻きや杼など貰ってきていた記憶があります。子供の頃には、桑畑や養蚕農家もわずかとなりましたが、機織りの痕跡が確かに身近にありました。
 幼いの頃の神社は、精霊が宿っているような鎮守の森でした。境内には、松、樫、檜、榊、杉、樅、楠、椿、翌檜などの常緑樹が被い繁り、銀杏、栓、梅、桜、楓,楢などの落葉樹が季節に彩りをもたらしました。昆虫、カエル,ヘビ、モグラ、アヒル、捨て猫、捨て犬、色々な動物たちが共存し、その中を走り回り、叱られて、泣き場所を求めて木に登りました。巨木には何とも言えない安心感があり、心を癒してくれたことをよく覚えています。そして仰ぎ見て雲の流れをずーっと追い続けました。赤城山、谷川岳、榛名山、妙義山、浅間山をはるかに眺めると時間がたつのを忘れました。
 まわりに存在する自然達といっしょに生活できたことは、現在の制作の源泉になり、原風景となっています。心の中でいちばん好きな場所であり、満たされる場所なのでしょう。織りをしていて感じる安心感は、原風景の中に自然と溶け込めるからかもしれません。
 これから先どんな作品を織りだしていくか自分自身でもわかりませんが、日々のなかで感じたことを同時進行で作品にしていこうと思います。そして、スウェーデンで感じた自分の生活に根ざした凛として真っ直ぐな目線を研ぎ澄まし、「静かな持続」で織りを続けていけたらと思います。
 個人個人が点であり、そして出会いによってその点が結ばれ線になり、さらに平面から立体へ移行していくのは織物とよく似ています。
 出会うことでたくさんのことを学びました。現在、京都造形芸術大学の非常勤講師をしていますが、学生たちには、私が今まで出会った人々によって育まれた心の財産も、何かしらいっしょに伝えることができれば、少しは恩返しになるかなあと思っています。