ART&CRAFT forum

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造形論のために『方法的限界と絶対運動①』 橋本真之

2017-02-27 10:07:02 | 橋本真之
◆ 橋本真之 「木樹の間」筑波国際環境造形シンポジュウム‘85(1985年8月~9月開催)
 
◆橋本真之  作品 113 「運動膜」 埼玉・美術の祭典出品  (1978年4月)

◆橋本真之 作品115 「重層運動膜(内的な水辺)」 お茶の水画廊個展出品  (1984年4月)

◆橋本真之  作品129 「連鎖運動膜(内的な水辺)」 上尾市美術家協会展出品(1983年)

◆橋本真之  作品129  「連鎖運動膜(内的な水辺)」 お茶の水画廊個展出品(1984年4月)


2003年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 27号に掲載した記事を改めて下記します。

 造形論のために『方法的限界と絶対運動①』 橋本真之

 自我の充足の問題を別にすれば、作品は自然の有機的な成り立ちよりも劣った存在であると自覚した。自然に向かって多少なりとも近付きたいと思うとすれば、その「自然」とはいかなる自然か?あるいは何をもって自然としているのか?が明確でなければなるまい。それが「一個の林檎の隣りにある造形作品とは何ものであるか?」の問いを発展させて、「一本の林檎の木の隣りで、造形作品とは何ものであるのか?」という問いを立てた根本の理由だった。一本の林檎の木が繰り返えす季節ごとの生の営みの充足。そこに一本の林檎の木があることの厳かな生成。その前で、私の作品は一枚の朽ち葉よりも脆弱な構造世界である。私は林檎の木を作ろうとしていた訳ではない。そんな事は私の望むべきことではなくて、人間にとって造形とはいかなるものであり得るか?を問う時、私に一本の林檎の木の姿が明瞭に見えていたというまでのことだ。私は明らかな、そのことを「自然」と呼んだのである。そうした認識のもとで、諸々の自然の中の異物である作品に舞台裏が出来ることを許せなくなるのは自明であろう。かって林檎ばかりを造っていた中で、「運動膜」の構造を見出した。その時に、私は作品の成り立ちが従来の彫刻作品のように表現の問題になることを嫌って、あえて捨てて来たはずである。この常識的な彫刻表現との決別の後に、明らかな自覚として「作品」を作るとすれば、その構造体の生成の途上ですら、ささやかではあっても、自我の充足する存在世界として成立していなければならないだろう。それは掛け値なしに、いかなる部分もまた、私の途上にある思考と生理を体現しているのでなければならない。そうでなければ、単に精巧な模型世界か図式程度のものにしかなるまいと思えたのである。その様な私の仕事は、仮に彫刻とは異なる筋道によるものであることが気付けないならば、当然ながら造形的に破綻と見えるに違いない。私は、美術作品が表面上の詐術の問題か、観念上のゲームに過ぎぬことに苛立っていたのだったが、そうした問題は、次第に私自身の関心から遠去かって行き、他人事になって行った。この時、私は素材が物理的に変質変容して行くことによって成立する、ある種の工芸の「物」の成り立ちの可能性に共有感覚を覚えていたのであったが、貝の生理作用と違って、私が「造形作品」を作っているという、その事自体が、おそらく人間の限界なのであると自覚した。人間の造形行為のギクシャクとした工作性を、貝の生理作用よりも劣っているとして自嘲しつつも、存在として彼等自然の中に侵入して運動体を形成したかったのである。まぎれもなく自然界における異物である私の作品、すなわち人間固有の仕事が絶対運動となることを、私は願望していた。それは生きた私自身の惑星のごとき存在であるはずだった。その為には、素材もそれを扱う方法も、私と結び付く運動の筋道を徹底してたどる必要があったのである。それが私という存在を物質に浸入させる、または介入させる、あるいは反映させる方途と思えた。その先に何が見えて来るのか?とにかく、自我の充足よりも、むしろ矛盾を満載したままであったとしても、この徹底の先に見えて来るものを待って示すより他にあるまい。さもなければ、私は単に口舌の従に過ぎないという非難を甘んじて受けねばならないだろう。
 このことから、私は仕事において、ほんのちょっとした出発や、途中であったとしても、絶対運動とまで言わずとも、一歩ゆずって作品世界として成立する構造であることを望んだ。それが範疇として何であるかなどには、強い関心はあっても、かまっていられなかったのである。私の仕事を受け入れる場処がないのであれば、それは自ら定義して「運動膜」で良いのではないか?それが私にとって、そして人間にとって有効な方法であるならば、いずれ人間の行為として何ものかに成るに違いないのである。
 数ヶ月かけて、垂直に立ち上がる中心軸を持つ「運動膜」を作った。その作品を現代美術の作家達と共に一度発表した後(注1)、私は何かげんなりした気持で持ち帰って、仕事場の外に横倒しにしてあった。日がな金槌を振りおろすことに疲れ切っていた。私は朦朧とした頭で仕事場の外に出て、真夏の陽差しの下の作品をぼんやりと見ていた。傍らに植えてあった藤の風に揺れている様子と一緒に、自分の成した不充分な仕事がそこにあった。風に揺られながら、蔓を延ばした先に、取り付く何かを捜している藤の様子や、隣りの空地から垣根を越えて侵入して来るクズの蔓が地を這い、そして空中に向かって触手を揺らしている様子が私を掴まえていた。おそらく、私の思考の傍らで、蔓性植物の動きが固定した観念や固着したフォルムの替りに繁茂していたのである。
 横倒しにしてあった「運動膜」を折りに触れて眺めていたが、ある時、不意に作品の一部分から形態が伸長する展開が見え始めたのである。それは、かっての「凝着」の運動の中心への切迫した方向とは逆だったけれども、近くにあった別の作品と結び付いて、空中で結接する形を求めていた。私は横たえてあった「運動膜」を再び仕事場の中に持ち込んで、そこに管状に延長する形態を展開し始めた。その動きはもうひとつの「運動膜」からも延びた管状の形態と空間を包んで結び付くために、ねじれた方向軸を取っていたが、私は途中で展覧会に出品して発表している(注2)。いずれ互いに結び付くことを想定して仕事を進めてはいたが、どこで終わったとしても、作品世界の構造として成立しているのであれば、それがいかなる部分や断片であっても、運動の途上として世界を形成していて、常に充足した状態で中断することが出来るはずであった。しかし、これは明らかではあったが、ささやかな造形的出発に過ぎなかったのである。
 長いことかかって、ふたつの「運動膜」を展開した後、最後に結び付くための仕事にかかった時、一方の作品の凹曲面から凸曲面に移向する部分に無理がかかって、わずかに歪むのを見た時、私の持久力は難波して、この結接を断念しなければならなかった。やむを得ず一方の歪みかけた「運動膜」(注3)をもとに戻して独立させねばならず、もう一方は大きく方向転換をして、安定した球体状の形態を足がかりにして、地を這う展開を取ることにした。作品115「重層運動膜(内的な水辺)」と作品129「連鎖運動膜(内的な水辺)」の成立の事情は、こんな風だったのである。
 1985年に開催された筑波万博にからんで、彫刻家の友人達から会場の一遇で開かれる自主企画展への参加を誘われた(注4)。企画はすでに動き出していて、私は最後の最後で誘われたために、会期までに二ヶ月半くらいの時間きりなかった。展示空間を実際に見るまで、私はこれまでに作った作品を樹木の間に置くことで出品参加するつもりでいたのである。会場の下見に行った時、遠くにドーム状のパビリオンが見える池の端に、十数本の野生えの松が刈り残されていた。万博会場を造成するために野生が飼い慣らされて囲い込まれたような、この空間の質に強度を持たせるほどの変質をせまるには、私には何が可能か、と考えるようになっていた。午後の陽差しの中、それぞれ不動の根もとの上方で、よじれるように風に揺れる十数本の松の木の下に立ったこの時、私にとって初めて野外空間の質にぶつかるための準備が整い出していたと言って良い。それまで、私は作品を屋外に持ち出してはいたが、それは単に彫刻のようなものが屋外にあるだけに過ぎなかったことに気付かされた。松の根もとの間をぬうようにして「連鎖運動膜(内的な水辺)」そして、後に「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」の大展開と成る作品部分を置くことと共に、四本の松の樹幹にからめて新たに作品を作ることにした時、初めて環境空間と作品の内部空間とが、呼応し浸透し合う意味を明確にしたのである。この新たに加わる形態は、樹幹を計測して半周分だけ銅板で覆い、その半円筒状態の側面から延び出るように造形展開している。設置は始まりの半円筒部分を樹幹に番線と荒縄で巻きつけて固定する方法を取った。姑息な方法ではあったが、樹木と作品との結接について、残念ながらこの時私には、これより他に考えが及ばなかったのである。けれども「歩道」以来の展開が、樹木を頼りに凝着するかたちを取って、ようやく自然の充満する拡がりの中に向かい始めたのである。この二ヶ月半の制作の密度は思い出すのも苦しい。
 それにしても、この企図が公的な場にゆるされたのは、設置が展覧会期間中のみの仮設であったが故であって、恒久設置はゆるされなかったに違いない。美術雑誌には酷評を受けたが、この作品空間「木樹の間」の既存の空間を変質させる力は人目を引いたらしい。この展示を見た人々の、私に関心を持ち始める重要なきっかけになったのである。夏の会期中、毎日作品を見に通って、作品内部をのぞき込んでいた小学生がいた。そして後に学芸員になる大学生もいた。賛否はともかく、様々なジャーナリズムがとり上げた展覧会だった。
 搬出は秋雨の中だった。松の樹幹から作品を取りはずしている私に向かって、散歩の途中らしい中年の男が、不服そうに「これも持って帰ってしまうのか?」とつめ寄って来た。科学万博の宴の後の、出店の撤収作業はすでに終わっていて、残っているのは恒久建築のドーム状のパビリオンと、私達の展覧会の出品作品のいくつかだけだったのである。作品を取り去ってトラックに積んだ後、展覧会場だった公園は、増々強くなって来た雨の中で寒々とした風景に戻っていた。                   (つづく)

(注1)1978年4月「埼玉・美術の祭典」(埼玉会館)
(注2)1983年「上尾市美術家協会展」(上尾市コミュニティーセンター)
(注3)図版3 作品115「重層運動膜(内的な水辺)」
 (注4)1985年「筑波国際環境造形シンポジウム‘85」

『手法』について/秋山陽《Oscillation Ⅵ》 藤井 匡

2017-02-22 13:06:58 | 藤井 匡
◆秋山陽《Oscillation Ⅵ》145×820×150cm/陶/2001年

2003年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 27号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/秋山陽《Oscillation Ⅵ》 藤井 匡


 作品の制作意図について――よく耳にする言葉であるが、秋山陽のそうした言葉は、分かりにくい。もちろん、それは作者の韜晦していたり、不誠実であったりする態度に由来するものではない。そうした分かりにくいことが作品の成立根拠と密接に結びついているのである。そのため、正確に答えようとするからこそ、明確になっていかない逆説が生じるのである。(註 1)
 例えば、人工(制作したもの)と自然(生成したもの)の対比で作品を語るならば、それは分かりやすい。しかし、作者はそのどちらかだけでは嫌だ、と言明する。この「嫌だ」は趣味的・嗜好的な判断ではない。ここでは、実際の制作はこの二分法で説明されるようなものではない、という認識が示されている。秋山陽の作品では、この二分法で語るときに失われるものが問題の中心として扱われているのである。
 自らの手を起点にして制作を行うのであれば、100%の人工(作者の領域)も100%の自然(素材の領域)も本当はあり得ない。それを言葉にするならば、どうしてもフィクションになってしまう。言葉による思考と行為の間にはどうしてもズレが生じてしまう。
 このズレを押し流していかないこと――それは、素材を他者と位置づけて自らに内面化することなく、緊張した関係をもち続けることを意味する。素材に向かうことは人工/自然といったフィクションを拒絶するために必要であり、同時に拒絶を持続するために素材に向かうことが要求される。

 秋山陽《Oscillation Ⅵ》は、地面に横たわる長さ8mを超える陶(やきもの)の作品である。粘土は野外展示に耐えるように1,250度の高温で焼成されることから、表面は強さを獲得し、作品全体は強い一体感をもつ。併せて、表面の亀裂は内側の量が外側に押し出されるように走るため、彫刻としての量塊の強さも与えられる。また、窯の大きさの制約から主に縦方向に10個に分割されているものの、上側の稜線に明確な連続性が示され、全体的な統一感が保持される。こうして、作品は物体としての完結性を強くもつ。
 全体を見ると、右半分と左半分は点対称の関係にあり、回転運動のダイナミズムが意識される。一方で、近接して部分を見ると、そこではロクロの回転運動から導かれる円形が基調を成す。作品のサイズが大きいため、部分と全体とを見る視点は切り離されているが、二つの造形性は即応しており、相互にイメージを補完し合う。物体としての完結性は、ここでも補強されるのである。
 また、自然の傾斜と呼応する柔らかい起伏からは、地面=土と陶=土との類縁関係が強調される。そのため、地面に置かれた(作者の意志)以上に、地面から生えている(作品そのものの意志)を感じさせることになる。さらに、塩水と鉄粉との混合液が表面に塗布され、それが酸化によって黒褐色をもたらすことが、自然物との距離を近づける。そして、表面的には手の痕跡が一切消去されることが、作品を自然へと決定的に引き寄せる。
 こうした作品の完結性と自然なるものの喚起からは、作者に従属するのではない、自律した作品像が導かれる。しかし、その創出が第一義とされるならば、作品は作者という主体性に帰属する存在でしかない。それは相手を完全に制御できるという認識に基づくものであり、「表現に見えない」表現に過ぎないものである。
 最終的には作品の表面から手の痕跡が消されるとしても、作品は作者の手を通して以降のものである。そうであれば、巨大であるとしても両者の関係は掌の大きさとして成立する。仮に、掌の大きさに留まるのならば、作品は作者に従属することを逃れられない。《Oscillation Ⅵ》の物体としての完結性や作品サイズは、作者-作品のヒエラルキーを解体するためにこそ必要とされるのである。
 部分と全体、あるいは人工と自然といった概念は完成形態において矛盾しながら両立する。それは、制作過程で作者が両極を往還した軌跡なのである。作品を成立させる主体は作者と素材との関係であり、自律的な物体や自律的な表現の志向とは全く趣を異にする。

 《Oscillation Ⅵ》を詳細に見ていくと、①帯状の土を集積させて円筒形とした部分、②ロクロで成形した円筒形を反転させた部分、③未乾燥の土をバーナーで焙って収縮を生じさせた部分、と主に三つの技法が使用されている。
 ①の場合、作者はロクロを回転させながら、内側へ内側へと順次粘土を追加していく。そうすると、遠心力によって前の土は後の土に次々と押し出されていく。これを外側から見ると、土が帯状に集積されたような形態と粘土の柔らかい表情が出現する。ここでの形態や質感は土の性質に応じたものでしかないのだが、単なる素材への従属ではない。外形(最終形態の表面)的には手こそ介入しないが、作者はそうした土の表情が現れることを予測し、内側から手を加える作業を行っている。
 もちろん、この方法では最終的な形態や質感までは統制できず、どうしても「なるようにしかならない」ものとなる。だが、その上で作者は、粘土を精製する際に粘性を計算し、成形の際に加える量や力の入れ具合、ロクロの回転速度に気を配る。こうした表現は「なるようにしなならない」現実に流されるのではなく、その場で踏み留まり、自らの存在を土に対峙させることによって可能となる。
 ②は、ロクロで成形した円筒形を縦方向に引き裂き、元々の内と外とを反転させたものである。ここでは、直接的に腕力に頼るため、作者と土との関係は①よりも作者側へと引き寄せられる。また、元々の内側(最終形態の表面)に手跡が残るため、その消去が櫛歯を使って行われる。その水平方向の平行線は見る者の視線を左右に引っ張り、切断面となった元々の土の内部――統制不可能な領域――を明瞭に提示する。手を消す行為から、素材と同一化しようとする自己が一層強く突き放されるのである。
 ③は、形態ではなく表面の質感のみに関与する作業であり、現象としての土の表情が直接的であるため、作者の手はより後退して見える。しかし、このときに手はバーナーをもち、素材から一定距離を保ちながら関わる。複数の手順が必要な①や②に較べれば、物質と作者の距離は最も近い。そして、この両義性を深化させていくことが、作者の土との関係の起点にある。実際、作者の個人史の中では③→②→①の順に獲得された方法である。この順に、土と関わりながら、同時に自身を土から切り離す距離が大きくなっているのである。
 こうした作者の方法は、どれも独自に見いだされたものである。しかし、独自的であれば内容に関わらず何でも用いる、という恣意的な意識はない。効果としての面白さではなく、作者の手と土との関係を前景化できる方法だけが使用される。現象としての土の表情に対し、〈それを自分がどう解釈し、どう関わっていくかが問題となる〉(註 2)のである。ここでの〈自分〉は単なる主体――作品=客体はその延長として存在する――ではなく、土と関わる行為からのみ見いだされる。作者は、土に対峙することによってのみ作者となるのである。

 これらの方法は作者の思考の結果であり、思考を生みだす原因として方法があるのではない。原因は、一般に流通している陶芸のイメージを還元的に問い、それを解体していく態度にある。〈やきものという文脈の中で何かを表現しようとしていた〉(註 3)思考をリセットしたことが出発点なのである。秋山陽が自身の仕事を「陶芸」と呼ばず、土を焼いて強度をもたせた物体の意味で「やきもの」と呼ぶのは、この態度の反映だと考えられる。
 やきものでは、土の精製-成形-乾燥-焼成という省略も交換も利かない複雑な手順を経る。仮に、成形までが十全に作者の志向に沿うものであったとしても、乾燥の際の収縮や焼成の際の変化によって、十全な作品像はほどんどの場合で打ち消されてしまう。それゆえ、やきものは通常、自然として人間を超越した存在と見なされることが多い。
 しかし、そうした変成は偶然の産物ではなく、物理的変化と化学的変化によって説明可能な問題である。ただ、粘土の構成物質や水分、気温や湿度、焼成の温度や時間と、考えるべき問題が限りなく存在するために、制作の場でその全てを制御することが不可能であるに過ぎない。この認識を徹底し、土そのものをできる限り明らかにしようとする態度によって、土ははじめて自身に対抗し得る対象として現れる。
 秋山陽のスタンスは、人工/自然のどちらか一方に思考を預けるものではない。同時に、両者の中間という、折衷点に立つのでもない。こうした矛盾を自らのものとして引き受け、両者の間を飛躍し続けることが作者にとっての制作なのである。ここでは、行為を離れた思考はあり得ない。これを根拠に可能となる思考こそが『手法』と呼ばれる。


註  1 この考察には下記がヒントとなっている。
    柄谷行人「中野重治と転向」『ヒューモアとしての唯物論』講談社学術文庫 
    1999年(初出 1988年)
   2 インタビュー「呼吸する地の襞-秋山陽」『陶芸を学ぶ』角川書店 2000年
   3 前掲 2


『ラウハラ バスケット』 高宮紀子

2017-02-21 12:55:59 | 高宮紀子
◆ラウハラの帽子(金子氏作)
 
◆ラウハラで作ってみたもの


2003年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 27号に掲載した記事を改めて下記します。

民具かご、作品としてのかご 13
 『ラウハラ バスケット』 高宮紀子

 2002年10月の半ばから約1ヶ月、ハワイにワークショップに行ってきました。ハワイ島のアートファンデーションが招待してくれて、バスケタリーのワークショップを行ってきました。滞在の中心になったのはハワイ島のコナという所です。お昼は太陽が照り付けて暑いのですが、朝夕は涼しくすごし易い所です。

 コナはコーヒー豆の生産で有名です。もともとのコーヒーの樹は南米から鑑賞用として輸入されたのですが、ハワイの気候と溶岩を含む水はけの良い土に適応して早く大きく成長することがわかり、コーヒー農園が作られました。コナのコーヒー産業の歩みはこの地の日本人移民の歴史でもあります。多くの日本人労働者が移り住みました。彼らは粘り強く、また斬新な工夫を考え出して、それまで沈みかけていたコーヒー産業を盛り返し、質の良い豆を生産していきました。現在もたくさんの日系人が住んでいます。

 ハワイにはローカルピーポーの他、種々の人種が住んでいます。主にアメリカ本土から来た白人や日系人を含むアジア人、南米や東南アジアなど世界中からといってもいいぐらい人種が多い所で、複雑だけど面白い所でもあります。いろいろな所から来たのは人間だけではありません。植物は特に顕著です。最初にポリネシア人が持ってきた繊維植物や食物など、その後にも経済植物がどんどん輸入されました。いまやアジアや南米、オーストラリア、メキシコ原産の植物がハワイの特徴的な植物として知られる程になっています。ハワイの自然も混在という特徴を持っています。

 ハワイでは見ておきたいと思うことが一つありました。数年前、オアフの友人にラウハラと呼ばれる、かごを編む素材を送ってもらいました。ラウハラはハラと呼ばれる樹の葉(ラウ)、という意味です。ハウは、パンダナス、スクリューパインとも呼ばれ、ラテン名をPandanus tectoriusといいます。葉の生え方が違うもの、葉の大きさや色が違うもの、樹木の背丈が違うもの、海側に生えるもの、山に生えるもの、いろいろな種類があるようです。この葉を細く裂いて、マットやかご類、帽子を作ります。今回の訪問でラウハラウイーバーに是非会ってみたいと思っていたのです。

 ハラ以外にも昔からココヤシの葉、軸、繊維、マカロアという草の茎、ハウという植物の繊維、さとうきびの茎など、いろいろな植物を使って編組品を作っていたのですが、材料の植物が少なくなってしまって物もあり、今や博物館に行って見た方がいいぐらい無くなってしまいました。唯一、ラウハラを利用した帽子やかご、マット類が今も多く作られています。たいがいシンプルな組みで作られているのですが、中でも複雑な組みで作られているのが帽子で、頭の上からブリムにいたるまで、様ざまなアジロ組みが使われています。歴史的に見ると帽子は新しく、どうもアメリカ人の注文で作るようになったようです。当時はいろいろな素材で帽子が作られたのですが、ハラを使った組みの帽子をローカルピーポーに習って日系人が作るようになり、持ち前の器用さも手伝って、それまでには無かった形のかごや小物類を作り、土産物を開発していったようです。

 お世話になったアートファンデーションのメンバーの中にも、日系人のラウハラウイーバーがいて、会うことがきました。一枚目の写真の帽子は、その時お会いした金子エドさんという人が作った帽子で、今や少なくなってしまった赤っぽいラウハラで編んだ物です。彼の技術は高く、おそらくラウハラウイーバーの中でトップ5に入るのではと思います。二枚目の写真、右側の亀はその金子さんに教わって作った物です。少し膨らんでいるのでは、中にテッシュペーパーを詰めたからです。

 教えてもらった時に、同じ組み組織でも、私の普段している作業とは少し違うということがわかりました。同じ結果になるのですが、組みの材を動かす方法が違うのです。以前ハワイへ行った時に見たマットの作り方で経験しているはずでしたが、そのことがもっと顕著にわかったのが、かごの作り方を見た時でした。組みの組織を作る時、上になる材を折り返し、新しい材を入れていくという方法なのですが、どちらかというと織り編みに近い作業になります。この操作のおかげでテープ状の素材で密に組むことができるのです。  
 
 また、かごを作る手順も少し違っています。底から編み始めるのではなく、縁から組み始めます。まず平面に組み、ワイヤーの輪をはめて折り、底まで二重に組んでいくのです。もちろん、底から組み始めるかごもあるのですが、縁から編む方が丈夫だということでした。同じ組むという作業ですが、こういう解釈もあったんだなと改めて思いました。

 オアフのワークショップを終えた後、友人に何年ぶりかで会うことができました。ラウハラの話をしていたら、じゃあ、一緒に編むか、と言われて夜中までかごを編みました。二枚目の写真の右側がその時に作ったラウハラのかごです。小さいもので底から組んで縁で終わっています。仕上がったのですが、ラウハラのテープがずいぶんと長く残ってしまいました。友人がそれを見て、「そんな時はラウハラを切らずに、余っている分で薔薇や星などのデコレーションを作るのよ」とアドバイス。そこで私も全部使いきってしまおうと思い、できあがったかごの組織の上に残った材で組んでいきました。時々、材がぶつかったりするとお互いに折ったり、移動させたりしながら、行く道を探すわけです。ずいぶんと時間がかかり、日付が変わる時刻になってしまいましたが飽きません。作品というまでには到りませんでしたが、楽しい実験でした。

「あれや これや」 榛葉莟子

2017-02-08 13:09:24 | 榛葉莟子
2003年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 27号に掲載した記事を改めて下記します。

「あれや これや」  榛葉莟子


 冷たい風が吹きはじめた頃から、あの猛々しかった面影は薄れ犬はめっきり老いた。突然老いたと人間の眼には写る。なにしろ犬は生後一年で十五歳だそうで次からは人間の四倍速で歳をとっていくと聞く。子犬の時からの年月を指折り数え、人間の尺度の歳の数に合わせていけば、顔も体つきも足腰もめっきり老いたのはあたりまえなのだった。犬はそれ以来家の中で暮らしている。

 夜遅く一日の終りの小便に連れ出す。ねえ、早くしてね寒いからと、場所の定まらぬ犬に言いながら夜空を仰ぎ驚いた。すごい星!見上げた東の方角に騒がしいほどに星々がきらめいている。桜の木の枝々がからんで、ぽっかり空いた穴の向こうにいっせいに集合したかのように星々が接近しあっている。大きなオリオン座、三ツ星、赤い星あれはなんといったっけ。覚えても忘れてしまう星の名前。みつけるたびにみとれる星もいる。まるで蛍籠の星。ちらちらきらきら小さな星が連なり重なりあって、群生する蛍のような光の集合。プレアデスという星の集団と星座図鑑に教わった。この夜その星の集団がスバルとも呼ばれているということをはじめて知った。おなじみのスバルとはあの星のことだったのだ。清少納言が枕草子の中で「星はすばる‥‥」とその美しさをたたえているということも知る。スバルというのは首飾りの玉のことだそうだが、単に輝く宝石をたたえているのではない気がする。「すばる」は「昴」元々の日本語であった。カタカナ語と思っていた自分を笑い昴の語源を尋ねれば、なるほどと背後のイメージに合点がいく。「星はすばる‥‥」とその美しさをたたえて清少納言の眼差しの奥行きの根に触れたような気がして気にかかり始めた。奈良、平安の時代に生きた女性、清少納言や紫式部の鋭い観察の眼差しに触れてみたいとメモした覚えはあっても、「枕草子」も「源氏物語」もいつかいつかと思うばかりでいまだ手にとったことはないが、奈良平安の時代千年もの昔のある夜、星空を見上げている十二単の女姓の眼を、千年後の今夜庭先で星空を見上げる自分の眼に感じることはおもしろく親しみはいっきに近づく。

 外側からの情報の引っかかりは皮膚の表面にぶら下がっているだけだから根は育たない。身体はなにか付着しているようなむずがゆさを感じつつ放置したままである。ぶら下がり続けているか、ずり落ちるかは内のエネルギーとの結びに関わってくる。つまりは内から発する気にかかりに優先権がある。予測出来ないなにかの刺激に、身体の内側から触手がゆるゆると外に向かって伸びてきて、持ちこたえている外のぶら下がりとの結びのイメージが見えてきたら、自分の根からの発信だから自分の事としておもしろくなってくる。「どうしても」というわくわくするエネルギーが沸いてくる。つまりは自家発電。あれやこれやの気にかかりのそこには自分の内のなにかが投影されている。気にかかりは自分への挑発なのだ。

 晴れた朝の陽がゆっくり庭を照らす頃の空の色はすばらしく青い。赤や黄に照り輝いていた木立は次第にくすみを増しているけれども、遠目に見る青い空と赤い木立の対比は美しい。ふと指の窓から青と赤だけの一部を切り取り覗いてみた。ふたつの色はいっそう冴えた明るさが感じられ、その明るさは陽に照らされた明るさというよりも、なにかかげりが含まれた明るさと見える空間が気にいる。それにしてもあんまり青い空がきれいすぎて、ひときれくださいと空に言う。すると間もなくひらひらひらひら青いものが舞ってきた。手のひらにすくうとまぎれもなく青い空の一片‥‥思わず掌を覗いたりして。雲ひとつない青空に昼の白い月が遠く高くにいてくれたりするのを、いつまでもぼーっと眺めていると身体中空っぽになってくる感覚。ふと、ぴんと張った細い一本の線が頭をかすめたその時、銀色の小鳥みたいな飛行機が現れてこんなふうに?とでも言うように白い線を引きながらまっすぐに空を突き抜けていく。
 こんないい陽よりにひとりで散歩していると、長い道のりがつらくなって家の中で寝そべっている犬がちらちら浮かぶ。あたりまえだか歳は年々とるのである。歳を考えなさいと親の説教を思い出すくらいで、日頃いちいち歳を考える事もないけれど、歳をとるの「とる」はどのような漢字を使うのだろかとふと思った。漢字のひと文字にはさまざまな展開がイメージされてきて、漢字の素を尋ねるうち思いがけず遠い所につれていかれる事がある。空というひと文字にしてもそうだ。高齢の場合など齢(よわい)を重ねという表現があるが、「とる」に注目して手元の辞書をみると「とる」は取る・採る・執る・捕る・撮る・摂る・盗る・獲る‥‥と、もっとありそうだ。じっとそれらの漢字をみているとすべて当てはまり、現実そのもの生身を生きる生きざまの映しのようでもあるし、刻々と発酵する酒樽の中身のようでもあるし。

「かたちを織る-平面から立体織りへ-」 小名木陽一

2017-02-06 12:34:30 | 小名木陽一
◆写真2  小名木陽一 獄中羅漢文 (部分)ラミー、羊毛 綴織 1970年

◆写真1 小名木陽一 「夜の来訪者」 紙、グワッシュ 1955年

◆写真3  小名木陽一 「裸の花嫁」 木綿  立体織  1972年  京都市美術館蔵

◆写真4  小名木陽一   「赤い手袋」 木綿  立体織  1976年 
撮影:畠山  崇

◆写真5 小名木陽一  「自立の試み-white R」ポリエステル 立体織  1981年

◆写真6  小名木陽一  「飛翔の試み」 ポリエステル、ポリプロピレン  平織  1981年

◆写真7  小名木陽一  「黄色のルート」 ジュート、羊毛、ステンレス  平織  1983年

◆写真8 小名木陽一  「床を流れて」 ラミー、羊毛、鉛、木   絣織   1987年

◆写真9  小名木陽一   「壁に掛けられた黄色いピラミッド」 
ジュート、羊毛  二重織  1998年

◆写真10  小名木陽一  「壁に掛けられた黄色い半球」
ジュート、羊毛、平織   1998年

2003年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 27号に掲載した記事を改めて下記します。

 「かたちを織る-平面から立体織りへ-」 小名木陽一

 染色捺染の仕事は、横の送り、縦の送りをつけて縦横に柄(パターン)を繰り返して空白を充填していく。織物の場合も同じで、釜数は横のレピート、返しは縦方向のレピートである。ひとつのパターンを繰り返すためには、パターン化が必要であり、パターン化したものの反復によって生じた総柄はもともとのパターンとは異質なものとなる。「うわあ、すごーい」と圧倒され、圧倒するもの、つまり装飾である。

 一つのものを反復を繰り返してつくりだされた集合体は、もともとの個々の集合以上の、あるいはまったく別のなにものかに変質する。集合という作業によって個々が変質するからである。いったん集團の構成単位となった個々は、もはや集合以前の個々ではないし、もとの個々に立ち戻ることはできない。こうした個と集團の関係は人間社会の場合も同じである。一個の人間が一つの組織(職業)を選択したとき、その組織の構成員として外見も内実も同一性を強制され変質し、もとの個人とは異質なものとなる。同族、同郷、同窓は横のレピート、同社、同系列は縦のレピートと集合体が膨れ上がっていく。その結果生ずる集團の威力によって他を威嚇し覇権する存在となる。すなわち団体、企業、国家、帝国である。

 この時期の最大の関心は、人の顔や仮面で空白を埋め尽くすことであった。『夜の来訪者』(写真1)は警官の反復、『衛兵入塞文』は兵士の反復、『獄中羅漢文』(写真2)は羅漢の反復である。それらの反復と繰り返しで空間を充填していくことであった。

 もう一つの動機は赤との出会いである。タブローの時代にはモノクロームな画面が殆どでなかなか色が使えなかった。1958年の秋、京都の博物館の一室で中東の織物の鮮烈な赤の色と出会ったことが、織りの世界に引き込まれるきっかけだったと以前述べたことがあった。紙やキャンバスの支持体の上に固着された表面の色ではなく、繊維の中に染着した色が組織されて織物の色となり、そのなかから発する実物の色だった。このときの「深くてしかも鮮烈な赤の色」を使うことが目標となり、その後の作品の色彩を支配していくことになった。

 ただ、これは当初から問題であったが、下絵を忠実に織り出すことは他人の下絵にせよ、自分が描いたものにせよ、絵を織物に模製することでは同じである。絵の方が遥かに早くて直接的である。なぜ織物でなければならないのか、と問われれば織物が好きだからとしか答えようがない。ただ下絵と織物では説得力がちがう。織物の面倒な手続きと時間が説得力となる。これは画面が説得するのではなくて、素材と素材に関わる手続きの問題ではないだろうか。綴織だろうが、紋織だろうが、コンピュータ・ジャカードだろうが、平面の織を続ける限りは、絵画の複製(織物)という後ろめたさを、引きずっていかねばならない。

 1971年最初の個展が終わったあと、私の興味は画面よりも織構造そのものに向けられていった。直接的には綴織の織り目をもっと大きく拡大してみたいという欲求だった。通常、西陣の爪掻き綴は寸間30~40羽(30~40/3cm)であるが、私が最初に注文した筬目は寸間20羽(20/3cm)であった。それでも細かすぎて、結局寸間15羽(15/3cm)の筬を注文し直した。それで10枚織った。11枚目の『五百羅漢文』は3枚分の大きさだったので、一本跳ばしの寸間7.5羽(7.5/3cm)の筬目にした。当然緯糸も太くした。するとどうだろう、綴れ目は4倍の大きさに、文様のぎざぎざも4倍にぎざぎざしてきたのだった。つまり織物らしさ、織物の美しさが4倍になったというわけだ。

 それではもっと粗くしてみよう、織り目の粒々をもっと拡大してみようと思って近辺を見渡してみると、草鞋や筵の藁細工、ざる・篭などの編組技術が身近にあることに気づいた。このことが平面から立体へ向かう転機となった。

立体織り
 民具、民芸をたずね歩く旅をはじめた。その当時、東京の戸越公園にあった文部省資料館のコレクションは、もともと澁澤敬三のアチックミュゼアム(註1)の厖大な民具のコレクションで、寄贈を受けたまま公開されずに倉庫に眠っていたものだった。巨大なねこ(背当て)を見せてもらった。長さ2メートルもある裂き布を菰編みにした背当てで、一瞬息をのむほどの迫力と華麗さに驚いたものだった。このコレクションはのちに大阪の民族学博物館に収まり、そのとき応対してくれた技官も博物館教授となった民具の研究者だった。鶴岡市致道博物館のばんどり(背当て)のコレクションも立派なもので、市内の古美術店で二点購入して持ち帰った。それをばらしてばんどりの作り方を学んだ。郡上八幡では、筵機(むしろばた)と菰編みの桁と菰槌を購入して、筵や菰を編んだ。テキストは『藁細工』(註2)、『図解わら工技術』(註3)を参照した。こうして一年ばかりの間、わらと格闘して技法を習得した。

 わらじのたて縄は四本であるが、たてを16本にして大きなわらじを編んでみた。それを壁に掛けたとき、真ん中が楯状に舟底状に、あるいは半球状に膨らむのを見て円筒形に整経することを思いついた。ごく当然の成りゆきだった。わら細工では、平面と立体は連続していたのだった。

 一般の織機では、立体は織れない。いったん四角の平面を織ってから、それを裁断するなり縫製するなどして、はじめて衣服のような立体を作ることが可能となる。わらの場合は、ばんどりやねこのようにたての太さは、太くなったり細くなったり必要に応じて自在に変化する。また織物のように筬によって規制されないので、たてとたては互いに平行であることや、等間隔であることからも自由である。

 こうした藁の編組技術に裂織りの素材を応用して、なにか出来ないものだろうか。そんなあるとき東京へ行く車中で、昨夜テレビでみた南の島の女学校の授業風景を思い出した。タヒチかフィージーかどこか南洋の島の女子高生が、下は制服のスカートを着けているのだが、上半身は裸でその立派な乳房が、教室中見わたす限りにぶらぶらとぶらさがていて、それはもう見事な光景だった。東京へ着くまでに『裸の花嫁』(写真3)のエスキースが出来上がった。帰りの車内では、どうやって織るかを考えた。まず最大直径80センチの高さ3メートルの大きな紡錘形を織って、その周りに30センチ径の乳房を36個取り付けていくことにした。8月のはじめに準備にとりかかった。直径80センチの織道具を作って、染色して、二ヶ月ほどで一気に織りあげた。1972年の秋だった。

 その後は円筒形に整経して織るのが面白くて面白くて、有頂天になってバナナ、胡瓜、とうもろこし、ペニスなどの袋状の作品、胃袋、盲腸、心臓などの管状の内蔵器官をつぎつぎと織った。1976年には全長4mの「赤い手袋」(写真4)を織った。翌年は3mの男女4本の足の絡み合い、題して「Do.H社独身寮のためのファニチャ-」を織った。

自立の試み
 織物を吊り下げると、垂直に垂れ下がる。天井から織物を吊っても形ができるということは、この重力に逆らうことである。織るという行為は、緯糸に圧縮を加えることによって経糸と緯糸の摩擦、緯糸同志の圧着を強めることである。「かたちを織る」ことは、織物の内部に蓄積された力が、形態を維持することである。次の課題は、垂直方向に働く重力に対して、織りの構造がどこまで反撥し抵抗できるかということであった。

 しかしながら壁から突き出た手の形を維持するためには、支点を増やすことや内部に骨材を装填することが必要となった。さらに四本の足を床の上に展示したときには、形態を維持するために内部に詰め物も必要になった。このことは当然ながらも、織り構造に対する自尊を損なわせる事柄であった。

 織物は織物だけで形にすべきであって、他の素材の補助を援用することは私には許されない。純粋に形を追求するならば、鉄や木や石膏を使うべきで、わざわざ繊維による織物で形をつくる必要ないはずである。そこに繊維による造形の不純さ曖昧さがある。この不純とは繊維の柔軟さや織構造がもつテクスチュアーに対する愛着と執着である。しかしそれは、造形一般に共通するものであって、繊維だけの問題ではない。木や石の場合も顕著である。しかしながら形を維持するためにのみ使われている補助素材には、まったく関心が払われていないどころか、繊維素材で包み隠そうとする。隠蔽は許せない。

 筵機で三方耳の織物を織った。下端の経糸を基板に穿たれた穴に通して、強く引っ張って結ぶ。四角い織物は、30センチくらいの高さならば、らくに立たせることができる。はたしてどの高さまで可能だろうか。かくして繊維素材への荒唐無稽な「自立の試み」がはじまった。

 まず上方の両角をそぎ落として、下部の負担を軽減する。あるいは基板に穿たれた穴の列をS状、C状、V状、O状などに湾曲させて、前後左右のバランスをとる。さらにポリプロピレンなど軽量の合成素材を使用する。赤からオレンジ、黄色、白へと色彩を軽くする。ただしこれは視覚的な軽量化で物理的な実効性は伴わない。

 当時、名古屋の栄にボックス・ギャラリーというのがあって、そこでこの自立のシリーズの最初の展示を行った。展示を終えて帰ってきて、2、3日したとき画廊から電話で「一点倒れました。もう一点も倒れかかっています」と。翌日新幹線で立たしに行って帰ってきたら、また電話がかかってきて、「三つ目が倒れました」と。

 1981年のスイスのビエンナーレに出した『倒立の試み』は、初日からしばらく滞在中は無事だったが、その後は天井から吊ってあったそうだ。その年の9月オーストリアのリンツでも、子供が触って倒れてしまったらしい。11月のウッジのトリエンナーレ(写真5)は指示だけ出して会場には行かなかった。その後は海外への出品はお断りした。

 もともとこの仕事は、実験であり表題の通りの「試み」であった筈だから、作品として恒久的に展示できるはずはなかった。『飛翔の試み』(写真6)は軽量の素材を使用して、床から30センチほど浮上さすことができて4年間の悪戦苦闘は終わった。

遭遇
 私の美術史はアンフォルメルで止まったままだった。絵を描くことを止めてからは、ただひたすら黙々と織り続けていた。1981年49才のときに京都の芸術短大に招かれたことで、これまでの環境が一変した。急に視界が開けて1950年代以後の美術が体内へ流れ込んできた。現代美術との遭遇だった。また同輩の彫刻家、陶芸家との交友によって、金属や石、焼物などの硬質のテクスチャーを知った。織物の有機性とは対照的な工業素材の均質性と無機性と堅固な物質性に魅了された。でももともと織物は人類が発明した最初のメカニズムであり、最初の機械製品として均質性、無機性を志向してきたはずだった。しかし今われわれが使用している織の機構は、当初のものと変わらず依然として不完全である。また使われている糸も完全な均質性をもちえない。したがって織られたものもその意に反して不完全である。この工業素材の均質性と手仕事との出会い、無機性と有機性、彫刻と織物の遭遇がテーマとなった。

 『黄色のルート』(写真7)は壁面から突き出たステンレスの稜角から、一気に落下する黄色の布。『オレンジ色のパイ』は曲面のスロープを緩るやかに流れ落ちる。さらに織物は壁面をはなれて床の上にひろがっていく。

 高度差を色で表すことは、すでに地図で行われているが、『床を流れて』(写真8)は30cmの高さの鉛の台座から黄色の織物が床の上へ流れていくものだった。台の上のレモンイエローから、床の上へ下るにしたがって、ディープイエローからオレンジをへて、スカーレット、レッド、濃赤へと色彩も連続して流れていくものだった。綴織の段ぼかしという技法は、濃度の異なる色糸を織りまぜる方法で、視覚を欺瞞するグラデーションである。連続したグラデーションをうるために、いろいろと染色法を実験してみた。その結果、連続繰り入れ法なる染色法を採用した。

 あらかじめレモンイエローに染色された8綛分(1綛250m)の糸をつないで2kmの一本の糸にして、その一端から順に赤の染料の中に繰り入れていく方法である。染料は温度と時間に比例して糸に吸収されていくので、染浴内の染料は徐々に稀薄となり、最後は染料がなくなり白湯となって染まらない。綛ごとに糸の両端に標識を付け、糸が絡みつかないように綛と綛の仕切に円盤状の金網を沈め込んだ。かくして2kmの長さの一本の糸が、レモンイエローから濃赤に至る連続したグラデーションに染められた。5mの黄色の織物は鉛の台の上で長々と寝そべった後、深紅に染まりながらスロープをゆるやかに滑り下りて床にひろがる。

 いままで内部に隠し通してきた構造材を顕在化すること、重力に逆らって無理矢理に直立を強制してきた織物に安息の場を与えること、すなわち本体に寄り掛かり寄り添って、表面を被覆する繊維本来のポジションを回復させることであった。

脱構造
 織物を切り刻むことには痛みが伴う。いや罪悪というべきである。織物を切ることは、経緯の糸の連続性を断ち切ることである。帆布やキャンバスなどの工業布帛は可能でも、自分が織った織物を自らの手で断ち切ることはできない。縫製は切断の償いでしかない。一旦切断された傷口は、たとえ縫合しても原状に復しえない。たんに不完全さを接合しているにすぎないからである。

 洋服の仕立てはパーツの形に生地を裁断して縫製する。当然のことながら裁断された一片一片の周囲は、織物としての連続性を突然断ち切られたままである。したがって切り口から経糸や緯糸がほつれ出すのを防ぐため、かがりや返し縫いが必要となる。またそれらが縫合されて仕立て上がっても、織り構造の一貫性は分断されたままである。着物はこの分断を最小限に抑制している。着物の形態は裁断の抑制に由来すると言えよう。インカの貫頭衣では、両脇、前後の裾はすべて織耳(四方耳)であり、首廻りは羽釣り目であり、どの開口部も織物として首尾一貫し完結している。

 以前からピラミッドの形が気になっていて、帆布やキャンバスを縫製して黄色いテントのようなピラミッドを床に置いたり、壁に掛けたりしたが思うようにいかなかった。1995年には正三角形を四枚織って接合部の経糸同志を交互に差し込んで、経糸を連続させようとしたが不完全でしかも困難な方法だった。いずれの場合にも裁断と縫製という罪悪感がつきまとった。1998年になってようやく織機の上でピラミッドを織り出すことができた。

 まず片あきの二重織(袋織)で正三角形の表裏二面を織ったあと、織り前を60度傾けて経糸を張り直し、さらに残りの正三角形表裏二面を織りあげた。機からおろすと片あきの織り耳、表裏四辺が底辺となって、底面2m四方のピラミッドが立ち上がる。壁に掛けると右上から左下に向かう対角の稜線が二重織りの袋状の織り耳で、左上から右下へ向かう稜線は、経糸の屈折線である。(写真9)

 半球もいままでに三つつくった。最初は綿布を地図のメルカトル法(紙風船方式)のように裁断して縫製した。次は織機の上で展開図の南北を横にして織ったあと、経糸を引っ張って緯糸部分を移動して半球状に接合した。小品ならともかく直径2mの大きさとなると、大陸移動することはもはや困難となった。三作目は織機の上で、頂角が15度の二等辺三角形を織ったあと、右端は固定したまま織り前を15度ずらして経糸を張り直す。さらに同じように二等辺三角形を織り足していく。これを6回繰り返すと織り前は90度方向を変え、24回で360度と一回転する。だだしこのままだと円盤にしかならないので、二等辺三角形の長辺二辺に作図した円弧状の膨らみをもたせた。織りはじめと織りじまいの経糸を相互に差し込んで接合すると、織機の左側の織り耳を底辺とする半球が出来上がった。中心の経糸は、わずか数ミリ使用しただけだが、外周の経糸は6m28cm(2m×3.14)の長さを織った。壁面に接する底辺は地球儀の赤道で、中心のおへそは北極にあたる。(写真10)

 織機の上で形を織って、非裁断、無縫製でピラミッドと半球をつくりえたことは、私の「かたちを織る」という課題の到達点であった。このシリーズは、骨組みのfabricationに、取り去るのdeを頭につけてdefabricationとした。漢字では「脱構造」となる。「織りの造形」から形態を抜き取ったのちも、織りの形は確かに存在することを確認した。

註1 アチックミュゼアム 昭和初年から戦前にかけて澁澤敬三が主宰して収集した
民具のコレクション、澁澤邸の屋根裏部屋(attic)で行われていたことに由来する
註2 『藁細工』小泉吉兵衛・掘卯三郎共著、目黒書店、大正7年
 註3 『図解わら工技術』佐藤庄五郎著、富民社、昭和34年