2008年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 50号に掲載した記事を改めて下記します。
「蟻の行列」 榛葉莟子
雨音に眼がさめる。あたりはまだ薄明のなか。三日目も雨で夜が明けた。雨雨雨、、、雨音を聞きながらうとうとした二度ねの朝の重たさ。それは、全身にまとわりつくようなぎゅっと詰まった湿り気の皮膜を剥がしたい感覚だ。カンカン照りが続いて今度は雨ふりが続いて極端なお天気模様に、けれども作付にはちょうど良かったよの声が聞こえてくる。乾ききっていた畑の土を雨は深く濡らし湿らせた。冬野菜の苗を植えつける時期がきたのだ。農業はオテントウサマ次第と顔見知りのベテランの老農婦はある日、予想外の空模様を見上げしわがれた声でさらりと言っていた。オテントウサマ次第、なぐさみにもにたそのせりふの落ちつきをふと思い出す。人間優先のあげくのはてのしっぺ返しを喰らっているいま、天然自然への畏敬の念なくしてそのせりふは出てこない。
それから雨がやみ、この曇天のもやっとした乳白色に覆われた空から、漏れ出る太古の匂いを思わせるひかりの気配に、いつものことながら魅かれる。さんさんと照り輝くひかりの奥のずっとずっと奥底のしんとした静けさの気配は、たとえばあのなぐさみにもにた落ちついた老農婦のしわがれた声に重なると感じる。しわがれた音もそうだ。しわがれた風の音。とぎれとぎれの口笛のそこにも。破れた紙のギザギザのリズムにも、なにかの縁どりのすり減った角の輝きにもそれは在る。ある日、道路を横切る黒く細い線に出くわしたことがある。何だろうと眼を近ずけると蟻の行列だった。チリチリと繋がる黒い蟻の線は、まるで黒糸で縫っているたどたどしい縫目のようで、そこにもあの詩的ななぐさみにもにたおちつきの気配が漂っている。
森の入り口の二メートルもない道巾を、いや蟻にとっては大変な距離だ。その両側の草薮から草薮に、何かの線をたどってでもいるかのように途切れることなく続く蟻の行列。なにかを運んでいる様子もなくただひたすら進んでいる。どこか探検に出かけるのだろうか。先頭の蟻はどんな蟻だろう。蟻はほとんど盲目に近く目の代わりは触覚だという。触覚はことばの代わりもしているんだよと、メーテルリンクの著書「蟻の生活」で教わったことがある。庭先の足下で動く蟻を見ていると、行き合った蟻どうしがなにかゴジョゴジョとはなしをしているのはよく目にする。あいさつだったり、かくにんだったり、じょうほうこうかんだったり、どう見ても無理でしょと声をかけたくなる大きな獲物を引き摺っている蟻が、助太刀を呼びに行き三びきで戻ってきたのをガリバー気分で眺め、微笑ましく感じるのは人間の高所からの視線だろうか。なにしろ蟻は人類以前から都市国家を開始したといわれている。大先輩といったらいいのか。だとしたらこれ以上古くない古さの時代のそこに、すでに蟻はいた話になる。時代という言葉すらなかったかもしれない。いま庭先でミミズの一片を運ぶのに大騒ぎしている蟻を眺めてはごくろうさんと言ってみようか。
朝の空を見上げると西よりの方角にいる白い月と眼があった。昨夜は十三夜だったのですねとうっすらと欠けた月にあいさつする。というよりも、昨夜は十三夜だったんだと自分に言っている。すると、そういえばこの頃夜空を見上げていないなと連なる思いが沸いてくる。そしてなぜだっけ?とくる。花火の夜空を見上げる気にならなかったこの夏。相も変わらずすごすぎる爆発音の連続と、あの爆撃音の連続とトラウマのように重なるのは私だけだろうか。それにしても小さなひそやかな音を受信する内なる耳(心)の繊細な感性のひだの行方は情緒は健在だろうか。
たとえば、驚きと脅し、古さと古くささ、再生と再現、コダワリとトラワレ…等々、似て非なる言葉を開いてみれば、どちらがどう創造的なのか閉鎖的なのかが見えてくる。漢字や平仮名の日本語の意味の気配を、受信する内なる繊細な感性のひだは使わなければ知らず知らずのうちに、鈍感になり退化につながっていくかもしれない。ずっとオヨビがなければ身体の中身の其処比処で、もういらないのですねと、私という意識が頼んだわけでもないのに自分の身体のなかの看守に判断されて、ONからOFFに切り替えられる。その逆もある。身体の中にいるのですよね。共生というのか共に自分を育てている厳しく目をひからせている看守が。
そこだけぽーっと赤みがさして、手の先でチリチリと火花を咲かせる線香花火。それから火の雫は小さい球になってぽとっと落ちる。ああ、落ちちゃったと誰かが言う。そして次の一本に火をつける。そうしているうちに、もう土手のへりにはエノコロ草がゆらめきはじめている。
● 個展のお知らせ
榛葉莟子展
2008年10月16日(木)~25日(土)
AM 11:00~PM 7:00 (日曜休廊)
ARTSPACE・繭
東京都中央区京橋3-7-10
TEL 03-3561-8225