ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「手法」について/西雅秋《地溝》 藤井 匡

2016-10-29 09:52:27 | 藤井 匡
◆西雅秋「地溝」耐候性綱 300×620×620cm

2001年4月1日発行のART&CRAFT FORUM 20号に掲載した記事を改めて下記します。

「手法」について/ 西雅秋《地溝》 藤井 匡


 「つくること」について考える。(註 1)
 ある作品(発表されたもの)を見ている僕が「つくること」について考えるとき、必ず「つくられたもの」から遡って考えることになる。現在から過去を見ているのだから、そこには揺らぐことのない確定されたパースペクティヴ――始まりと終わりとをつないだ直線的な時間――が現われる。時間を動いているものと見ないのだから、どの時点であっても素材からの距離あるいは完成からの距離で計算することができる。
 この終わりから見るパースペクティヴは、それ以前の全ての時間を目的に対する手段として位置づける。この認識方法は分類する(理解する)際には便利だけれども、「つくること」は相対化されて現実に発生した特異性を消してしまう。現実の様々なものの関与の中で生きられたことが消去されていく。
 目的に対する手段ではない「つくること」、終わりから逆算されたものではない「つくること」、相対化できない特異性をもっている「つくること」を探している。その可能性を、ここでは『手法』と呼ぶことにする。

 西雅秋《地溝》(1993年)は、緩やかに湾曲した鉄板(耐候性鋼)16枚を内側からボルト・ナットで繋ぎ合わせて円筒形を構成した作品である。
 この単純な幾何学形態の外観からは確かに、ミニマルアート的な強さが感じられる。また、人工的な要素が屋外空間(自然)との対比を強く打ち出し、周囲を新鮮に見えるようにする。けれどもそうしたことは、ここでは派生的な問題に過ぎないと思われる。そのように見るとき、僕は終わりからのパースペクティヴに立つことになる。ここからは、この作品単独の問題は見えてこない。
 円筒形は作者が何度も使用している形態ではあるが、そこに特別な意味を見つけることはできない。むしろ、形態がもたらす意味を最小限(理想的にはゼロ)にするためのものと思える。そしてスケールについても、この作品の必然性から導かれたものではなく、他律的な要因で単にそのようになったものと考えられる。
 形態やスケールに対する関心の希薄さは、彫刻における通常の意味での「つくること」への関心の希薄さと結びつく。そしてその関心の希薄さによって対比的に、《地溝》の特別な在り方が強調されて見えてくる。それは、この作品の鉄が地中に埋設されていたものだということである。
 《地溝》は第15回現代日本彫刻展に出品された作品である。この展覧会(1993年10月1日~11月14日)の前に、1992年11月に作者のアトリエのある埼玉県飯能市から会場(山口県宇部市)搬入されている。ここで一度泥土の中に埋められた鉄は、約10ヶ月後に掘り起こされて会場に並べられた。
 地中で時間を過ごした鉄は表面に泥を付着させる。それも単なる付着ではなく、酸化によって泥を噛んだ(泥と一体化した)状態を生み出している。鉄はその性質から、埋める前後では質的な違いをもつことになる。同時に、酸化によって鉄は表面を削りながら痩せていく。ここには、埋める前と同じ表面でありながらも、それが失われた後に出現する新しい表面でもあるという、分裂した二つの表面への願望を読み取ることができる。
 こうした相反する二つの感情を引き起こすものがここには含まれる。この作品に使用されている鉄は、他の鉄と交換できない象徴的な意味合いをもっているのだから。

 《地溝》の鉄板は、かつて《土 水 空気》(1987年)という別の作品を構成していた。これは鉄板の表面にグラインダーを使って多数の線を刻んだ作品で、スパイラルガーデン(東京)での個展の時に壁に並べられていた。(註 2) この時にフラットだった鉄板をサイズの変更をせずに湾曲させ、円筒形として自立できるように改変したものが《地溝》である。こうした経緯から、《地溝》は《土 水 空気》の否定を契機とする作品と考えることができる。
 《土 水 空気》は、鉄に線を刻むことで「自然」を表現しようとしている。しかし、そうした表現はやがて反転してしまう。現実の動いている時間中で鉄が酸化を進行させていった結果、志向されていたものが失われてしまったからである。
 展覧会終了後、放置された鉄板は緩やかな速度で表面の変化を繰り返したはずである。そこに表現された「自然」とは無関係に自然に変化していく鉄。そこでは意味をもたずに変化していく鉄と、意味をもった作品とが時間の経過に比例して乖離していく。このとき作者にとって、《土 水 空気》の意味が決して風化できないものならば、この乖離はどうしても耐え難いものとなる。
 この《土 水 空気》とは抽象的なものではなく、「ヒロシマの」という形容詞と結びつく。これよりも以前に、ガラスに無作為な線を刻むという《土 水 空気》と同じ方法で制作された作品がある。《熱線》という作品は原爆のイメージを投影したもので、それは後に《Ground-0》(爆心地)と改題されている。そこから《土 水 空気》の線刻の意識が発生してくる。(註 3)
 鉄の表面の変化によって、目的となっていた《土 水 空気》の物語は既に機能しなくなっている。このとき《土 水 空気》を単純に否定するだけなら、廃棄して終らせることもできたはずである。けれども実際には、否定された現実を受け継ぐようにして鉄板は埋設されたのであり、廃棄されることはなかった。このことは重要な意味をもつように思われる。作者にとっての「ヒロシマ」は、廃棄したりしなかったりの選択の可能性を残すものではないからである。

 1946年、原爆投下の翌年に広島に生まれた作者にとって、「ヒロシマ」とは自身が生きていく条件として与えられたものである。しかもそれは直接的な体験としてではなく、原爆によって形成された関係の体験としてもたらされている。(註 4) 「ヒロシマ」は原爆投下という事実に回収されるものではなく、言上げする対象が確定できないような周囲に広がっている関係である。目に見えないもの、実体にならないものだからこそ結論を出すことは困難であり、継続的に問いかけられることになる。
 この関係は、作者と《地溝》との関係に重ね合わせることができる。《土 水 空気》は「ヒロシマ」を目に見えるようにしたものだが、それは関係を固定化したものとなる。ここでは目的から「つくること」が見られているのだから当然、作者の生とは時間の経過の中でズレを発生していく。
 鉄を埋めるのは固定化されたものを再び関係の中に戻す行為である。このとき《地溝》に重ねられた問題意識は、鉄が地中という見えない場所にあることによって作者に内面化される。そのため埋められた鉄は継続的に意識され、鉄は〈私の身体の一部〉(註 5)として作者と生きる時間を共有することになる。
 地中の鉄は酸化を繰り返し、やがては表面に刻まれた「ヒロシマ」を消去し、最終的には存在自体が失われるはずである。けれども、埋設はそうした目的に奉仕するものとは思われない。「ヒロシマ」が関係としてあるならば、そこから自身を引き離す方法はないのだから。この目的へと向かうことのない「つくること」が『手法』と呼ぶものである。
 人間の手が入らない地中の鉄は、線刻を消し去ることを目的に減退するのではなく、あくまで意味を持たない化学変化として減退していく。長い時間を過ごした結果として鉄が消失するとしても、それは単純に存在が消失するだけで、そこから新しい物語が出現することはない。埋めるという『手法』が前景化されるとき、目的から逆算するパースペクティヴは成立しない。
 また、埋設中の鉄には劇的な展開の可能性はない。鉄は自然の摂理に従うより他はないのだから。つまり、鉄が変化するとしても《地溝》は埋められる前から完成している。あるいはどの時点で掘り出そうとも常に完成している。そして同時に、常に完成してないとも言える。この場所では「完成」という言葉そのものが意味を成さないのだから。埋めるという『手法』は、作品の完成へと向かう起点(目的から見られた手段)とはならない。
 作者と鉄とが共有する時間は、過去と未来との間に引かれた直線上に位置する任意の一点ではない。この現在は他の時間と交換できる等質なものではないのだから。『手法』を前景化するときに棄却されるのは、そうした生きられることのない時間(理念的な時間)である。鉄を埋めることが『手法』となるとき、生きられる絶対的な現在(現実的な時間)だけが立ち上がる。


註 1)下記のものを参考にした。
   柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』講談社 1995年(初出『思潮』 8号 1990年3月)
  2)州濱元子「西雅秋――彫刻をつくるための」『西雅秋展』カタログ 広島市現代美術館 1998年
  3)前掲 2)
  4)「Artist Interview 西雅秋」『BT美術手帖』 1994年9月号
  5)作家コメント『第15回現代日本彫刻展』 1993年


「かごの素材」 高宮紀子

2016-10-27 11:33:48 | 高宮紀子
◆高宮紀子(ケント紙)

◆大国魂神社(府中)の晦日市の様子

2001年4月1日発行のART&CRAFT FORUM 20号に掲載した記事を改めて下記します。

民具のかご・作品としてのかご(6)
 『かごの素材』 高宮紀子

 日本のかごの伝統的な素材というと、まず思いつくのは竹です。1枚目の写真は、府中の大国魂神社で行われていた晦日市のかご屋さんの風景です。撮ったのは、10年ぐらい前になりますが、臼や杵など、いろいろな生活道具や神棚、みき口などを売っていました。写真のかご屋さんもその一つで、ムツメ組みやザル編みなど、いろいろなかごがありましたが、ほとんどが竹製のかごです。使われている材をよく見ますと、緑色の竹の外皮がついていたり、中の白っぽい材だったり、その巾や薄さもさまざまです。同じ素材からこんなにかごができるというのは、それだけ竹がいろいろな材に加工できるということが関係しています。かごを作る竹にはいろいろな種類がありますが、そのまま使う笹類以外はたいてい割って使います。竹は縦方向に割れやすい性質を持っていますので、切れ目を入れてさくと、細いものなら手で割ることができます。その後、外側の皮つきの材と中側の材の間を何枚かに割っていきます。こうして、弾力のある、まっすぐな薄い材を得ることができるのです。ただし、均一な材にするためには熟練が必要ですが。 竹はご存知の通り、かごを作るばかりではありません。縄や紙にしたり、建築にも使われます。竹と人間の結びつきは深く広いわけですが、それを支える竹を扱う加工9の方法も多様です。

 伝統的に使われてきた素材を、今では当たり前のように使っていますが、最初の時点ではどの種類が編めるのか、またどんな加工ができるのか、わからなかったわけですから、いろいろと試された時間があったと思います。そしてこれは、造形の作品作りにおいても同じです。

 竹のように割って、あるいはさいて細い材にするという加工作業は他の素材にも適用することができます。いろいろなツルを半分に割って、かごの口の補強材にしたり、巻く材に使ったりします。ツルだけでなく、ビニール管や発泡スチロール製の紐もさくことができます。平面的な素材の樹皮も薄く剥れるものがあります。厚く使いにくい樹皮も薄くなって柔らかくなり、曲げやすいものになります。元の素材の色や質感はほぼ同じで、その柔軟性が変わってきます。

 2枚目の写真の作品は今年制作したもので、ケント紙でできています。紙は厚口のもので、もともとの厚みが1ミリあります。そのまま組むと、組む途中で表面にしわが出てしまいます。そこで、他の薄い紙で作ってみたのですが、あまり思ったようにはいきませんでした。適当な厚みも必要だったのです。そこで、最初に使った厚口のケント紙を半分にさいて薄くしました。さくと紙の層がぴったり切れないで、いつもどちらかに、少しずつ付いて残るのですが、それがかえって面白く感じ、表にして使いました。薄くなったおかげで、思ったカーブになったわけですが、素材も自分なりのものになった、という気がしました。

 話は戻りますが、かごの伝統的な素材としてもう一つあげたいのはワラです。ワラはリサイクルという面で、すぐれた循環システムを確立していました。お米を採った後、刈り取ったワラを余すところなく使って、いろいろな生活用具を作り、使命が終われば、畑の肥やしとして土に戻されるというわけです。ワラとその使い方の流れを図にかいたならば、一つの素材をめぐる昔の生活がそのまま読み取れることと思います。

 私は近くの農園でかご作りに使えそうな植物を少しずつ育てています。昔の生活におけるワラほど、自分との関係は深くはありませんが、自分で育ててみると、ワラと同じように、余すところなく使いたくなる気持ちになってきます。たとえ、朽ちても畑の肥やしになればという気持ちも同じです。今のところ、作品まではいきませんが、いろいろな植物を試したい、という興味の方が強いようです。しかし、その畑で最強の主役は雑草です。

 以前、クラスの生徒さんに雑草を集めてきて下さい、と頼んだことがあります。思いのほか、いろいろな雑草が集まり、持ちよった草やそれを採った時の話で盛りあがりました。それぞれの草で縄をなうことで、繊維の強い種類があることもわかり、その後、お互いの草を交換して、それぞれの草の特徴を活かすコイリングのかごへとつながったのですが、その時の生徒さんのいきいきとした様子が忘れられません。かごの素材が何か特別な植物であるという考えから解放され、雑草と呼んでいた身近な植物を観察するようになったということ、そして素材を集めるという作業も「作る」ということであると体験してもらえたのではないかと思います。残念ながら完成したかごを見ることはできませんでしたが、それぞれ違うかごができたと思います。

 作る人と素材との関係はその結びつきが個別なほど、面白い作品ができるように思います。素材をみつける手段や時間にも新しい作品が誕生するチャンスが潜んでいるような気がします。

「結ばれていくこと」 榛葉莟子

2016-10-25 10:13:34 | 榛葉莟子
2001年4月1日発行のART&CRAFT FORUM 20号に掲載した記事を改めて下記します。


 台所の戸をガラットと開けたすぐそこの空き地に火の見櫓が在る。その名前から想像する木材を組み合わせた櫓ではなく、鉄骨製銀色がすっくと背骨を伸ばし立っている。四方が尖った小さな屋根は四角い布のまんなかを天がつまみ上げているようだ。天に延びたその先端には一本の矢が北に向かって静止している。銀色の塔とも呼びたくなる。今でも火の見櫓というのかしら、知らない間にカタカナ語にでも‥‥ふと、怪しみ辞書を開いてみるとあった。姿形を変えようとも火の見櫓は火の見櫓のままだった。けれども矢倉とも言うとある。と、いうことは先端に象徴の矢を射したここのヤグラは武器などを納める矢倉の方をとったのかもしれないし、単にデザインなのかもしれない。それにしても櫓の漢字の木と魚と日との組み合わせは面白い。結びつきの意味が気にかかり、じっと見ているとかすかな波音や潮の匂い、人々のざわめきが聞こえてくるようで櫓の漢字がくっと揺れたような気がした。あっと思い辞書を引く。やっぱり船のろの、ろは櫓だった。漢字や読み仮名を案外忘れている。忘れているものを思い出すのに辞書は便利ではあるけれど、便利を超えて、字そのものになにか独特な匂いを嗅ぎとると、背後に隠れている物語というか息吹が気にかかる。たとえば闇という字の音はなぜかと、気にかかる。虹という字の虫と工の関係の背後も気にかかる。

 或る時、歯医者の待合室で手にした雑誌をぱらぱらめくっていて、闇の字の原点をひも解いている箇所に引き寄せられた。闇という字には音が入っている。なぜ明暗の中に音が入るのか。闇というのは単に暗いと言うことだけではなく、暗い中にほんとうの実存があるので、それをどのように聞き出すかということなのです。闇は神が現れる世界であり、神の啓示を聞くことのできる世界である。だからここに音が入る。神の現れるときにはかすかな音があるのだという考え方があったのです。と、はじまる闇の字を解剖する話は、ふと、日頃空想する、童話的神話的な気配が含まれていると感じられる。文字が生まれる以前、ましてや観念などではない直感の世界を生きていた古代の人の心の在処が闇の字の発生源という話しは、興味深く妙に納得のスイッチと接続したような気になっていく。はてな?の体験を通して、そうではないだろうかの考えの尻尾と触れたように思えた。

 さまざまな、不思議と感覚する体験は、奥底の記憶のあちこちに散らばり、ちかりちかりとその生命は結び合いながら静かに点滅しているのではないかしらと、夜の空、遠く近くに瞬く星ぼしとを重ね合わせたりする。ここに暮らし始めた頃、草の匂いの充満する空間に立つ銀色鉄骨製の火の見櫓のそぐわなさに異和感を抱いていた。ところが、その陳腐な感想をケシゴムで消した或る冬の夜があった。あんまり月があかるくて、そのあかるさは青白く庭を染め、周りの裸木らはくっきりと切り絵のような黒い影をつくっていた。ついふらふらと寒い庭に出た。磨いた鏡のようにいま、ここを写し照らしていると感じるほど、こうこうと光る満月は頭上にあった。青白く透き通っているあたりをぐるりと感じながら立っていると、芯だけになってしまったような感覚があり、底の方からは、ひたひたと冷たいものがはい上がって来て、ここは水の中かと思わず足下を見た。門をくぐり道に出た。しゃわしゃわと川の流れの水音がしている。それから青白い月光のなか冷たく硬い土の上に立つ火の見櫓の変身を見た。青白い透明な硝子を幾層も重ねたようにいっそう青いその一角にすっと立つ火の見櫓は、鉄骨製銀色でもなく、火の見櫓でもなく、在るべき場所に在るひとつの美しい三角柱だった。

 いよいよ寒くなるねえと口々に言い交わす頃、夜も更けて立ち上がる湯気の湯船の中、ゴーン‥‥ゴーン‥‥と鐘の音を聞く。毎年冬の始まりから立春にかけての夜、消防団の人たちが毎晩交代で火の見櫓に上り鐘をつく。火の用心の鐘の音の声掛けなのだ。ここに住み始めた頃は、火の用心の声掛けは人だった。冬に入ると小振りの鐘を渡され集落を一周するのだ。我が家にも番が回ってきて、懐中電灯のあかりを頼りに、真暗な道を鐘をふりふり歩いた真冬があった。危険だからとの理由もあったのかそれから二、三年で火の見櫓に役は渡され、実際ほっとしたことがある。それにしても何しろ鐘の音は、打つ人の咳払いが聞こえる程すぐそこから聞こえてくるので、音と音の間合いがせっかちだったり、間延びしていたりで、時には打つ人の心持ちを想像して面白いけれども、遠くの集落から少し遅れて聞こえてくる鐘の音がいい。ゴーンともカーンとも言い表せない余韻の音と言ったらいいのか。それは音の尻尾の震えの残響のようでもあり、あるかなきかに薄くなって拡がっていくのが心のなかに結ばれ見えてくる。

「21世紀の子供達と共に」マッカーダム 堀内紀子

2016-10-01 09:38:53 | マッカーダム 堀内紀子
◆国営滝野すずらん丘陵公園・子供の谷「虹の巣ネット」-全体-
 撮影:小泉正幾
◆国営滝野すずらん丘陵公園
子供の谷「虹の巣ネット」-上層部全体-
撮影:小泉正幾

◆国営滝野すずらん丘陵公園
子供の谷「虹の巣ネット」-上層部ディテール-
撮影:小泉正幾

◆国営滝野すずらん丘陵公園
子供の谷「虹の巣ネット」-上層部とかすみ網ネット-
撮影:小泉正幾

◆国営滝野すずらん丘陵公園
子供の谷「虹の巣ネット」-クッションを積み上げ遊んでいる様子-
撮影:小泉正幾

◆国営滝野すずらん丘陵公園
子供の谷「虹の巣ネット」-現場での取り付け作業-
撮影:小泉正幾

2001年4月1日発行のART&CRAFT FORUM 20号に掲載した記事を改めて下記します。

 「21世紀の子供達と共に」       マッカーダム 堀内紀子

 最近、私の母校であるクランブルック アカデミー オブ アートから「このアカデミーでの体験は現在の制作活動にどのような影響を与えたか」という質問を受け取った。
 私は多摩美術大学を卒業するまでに日本で受けた教育と、クランブルックでの体験の違いに思いを馳せた。クランブルックでの体験は美しい表現でも技術でもなく、自分の内なる世界を見つめ、自分を探し出していく作業にあった。私は出口の無い暗い空間に入った。出口を教えてくれる人も、明かりも無い、じっと暗い中に座り、自分自身に問いかけていく内に、少しずつ目がなれてきて明るさを感じはじめた。立ち上がりそろそろと歩きはじめる、空間の中がますます明るくなってくる、明るさの向こうにドアーを見つけた。そのドアーを開けて次の部屋に入るとそこは又真っ暗な空間だった。でも二回目は初めての体験と違う、あきらめずに歩き続けると、きっと明るくなるだろうというかすかな希望があった。
 私の創造の世界はこの暗い空間が明るくなり、次の空間に入っていく連続となった。いつも自分の内なる何かに問いかけ、これが本当の私なのかと。

 クランブルック卒業後、ポフォレオを持ってニューヨークのテキスタイル工業デザイン会社を訪ねた。念願のボリス クロール社に入社、丸2年間インテリア ファブリックのプリントデザイナーとして仕事をした。その当時、米国でも指おりのこの会社での仕事は面白く実の多い体験だった。自分の中にあるイメージを開発し、布に作りあげていく作業はたのしかった。しかしこの仕事を体験してみると、さらに「布とは何なのか」という疑問がわいてきた。私自身が布というものをもっと深い次元で理解せずにプリントを施して行くということに疑問を持ちはじめた。2年間のビザが切れるのを機会にクロール社を退社した。

 次に選んだ仕事はジョージア大学の芸術学科でテキスタイルを教える事だった。週3日教え、残りの日は布を掘り下げる作業「布とは何か」というテーマを追いながら、リサーチと制作に明け暮れた。この時から、自分の得意とする“色”というものを一切使わず表現していく手段を取り始めた。“布の構造が作り出す形”を求めて。
 1年間のジョージア大学での楽しい生活の中で、生まれて始めて自分の中の日本文化に気がついた。日本の事をもっと勉強したいという考えが自分の中で大切になり、日本に帰国する決心をした。1970年、30歳になった年である。この夏、銀座の月光荘で友人の古江尚子(桑原尚子)さんと新しい糸の可能性を探す、「糸の交差」2人展を開いた。2週間続いた「糸の交差」展は多くの若者を呼び、連日熱心な討論が繰り広げられた。盛況だった展覧会の後、気持ちが妙に落ち込んでしまった。“布の構造が作り出す形”の追求では満足しない自分を見つけた。暗澹とした気持ちのなかでひたすら本をよんですごす内に、布は人間が人間のために第二の皮膚として作りだしたものである。その「人間のために」を忘れていた事に気がついた。その翌年第2回「糸の交差展」では画廊一杯に広がる「集団ハンモック」を古江さんと発表した。その当時はなんだか良く分かっていなかったが、布の特質を分析し、新ためて布と人間との関わり合いを求めて作ったものである。画廊に母親と一緒にきた2人の子供達がこの中に滑り込み、このハンモックは子供達の歓声と共にダイナミックなうねりのような動きをした。この瞬間私の求めていた“何か”の答えが見えた。子供達が教えてくれた「集団ハンモック」の始まりである。

 自分の中に見える造形、(「樹林の内包する空気」、「浮上する立方体の内包する空気」「移動する糸による柱」等)を追いかける傍ら、日本文化、及び日本の染織の勉強、「集団ハンモック」の実験、遊び場のリサーチを続けた。
 始めて公な場所に制作した「集団ハンモック」は1979年、沖縄の国営沖縄記念公園に高野ランドスケープの高野文彰氏とのコラボレーションワークで実現した。その翌年「手で触れ体で遊べる子供達のための彫刻」として、彫刻の森美術館に「ネットのお城」を制作。共に子供達の人気は高く、これらは子供たちがこの造形に入り込むことで完成された。
 1987年に「光る柱」、これは制作前に都美術館の展示場所に立ったとき、天と地を繋ぐ柱が見え、そこに赤い光りが斜めに横切っていった。その見えたものを形にした。このとき始めて、自分の中に見える造形に色が入った。それは44歳で始めて息子を授かったという人生最大のドラマを体験したためかもしれない。そこに生命の色を見たのである。今になって思うと一連の「自分の中に見える造形」は私自身のポートレイトであり、私の中の日本文化の追求でもあったようだ。
 この事に気がつくと、日本にこだわって暮らす理由等なくなり、自由な気持ちになった。その翌年金沢市近くの野々市町の文化会館のために、金沢工業大学の水野教授から、ファイバーワークによるステージカーテンの依頼があり、光のステージカーテン「ルミナス」を制作した。この仕事では私が教えていた文化学院の生徒たちも制作に参加した。しかも人々のために作るということで私の中に見える造形にも「人」が入ってきた。
 1988年の夏私共一家は夫の故郷であるノーバスコシアに移住した。年老いた夫の両親と少しでも一緒に過ごしたいためであった。この年は夫にとっても私にとっても大切な年だった。今までやってきたことを考え直すため、一年間仕事を休んだ。
 1989年の夏、私共は当時4歳半になった息子マイカを連れてヨーロッパを3ケ月間旅行した。主にフレスコを見る事と、教会、美術館を訪ねる事だった。古いもの、新しいものと見歩くうちに気がついたことは、現代美術の中に私にとっても夫のマッカーダムにとっても、心を揺さぶるものが無いということだった。ある日イタリアのパジュアにある小さな教会を訪ねた。建物の中全体がジオットのフレスコ画で覆われていて、街の人々が膝をついてお祈りをしていた。その時「私はこんな仕事がしたい、今生きている人達のために、私の出来る事で」と思った。
 さて 私の出来る事、それは息子を含めた子供達のための空間作りだった。テキスタイルだから出来ること、20世紀の素材を用いて、21世紀の子供達に、今だかって無いものをこの手を使って作っていく、そう思った時、体中のエネルギーが満ち溢れていく思いがした。
 カナダに戻った後、日本を発つ前に決まっていた国営昭和記念公園の仕事が動き出し、カナダに会社組織を作る必要に迫られた。私と似たような思いを抱いていた夫のマッカーダムとインタープレイ デザイン アンド マニファックア社を設立し、彼が代表取締役に、私が取締役とデザイナーとなり、当時は役員しかいない2人の会社が出来上がった。
 丈夫で長持ちする最先端の繊維を使うように公園からの指示を受け、マッカーダムのリサーチの結果、カナダのデユポン社で原料着色したナイロン66を開発したことが分かった。その繊維が今手に入る素材の中で「集団ハンモック」に一番適していると判断した。繊維を購入、モントリオールにある組工場に送り組紐にしてもらい、更にノーバスコシアにある網工場で機械網に加工、そして私共の工房に運び、手仕事でユニット加工する。これに約1年かかった。出来上がったユニット約1トンを空輸し日本に飛び、金子和子さんを中心とする日本側のスタッフと取り付け作業をおこなった。これが今までで最大のユニット型ハンモックである。このタイプをスペースネットと名づけた。
 その後シンガポールの動物園、浜松フルーツパーク、豊富村に中型のスペースネット「ムーンウォーク」を、更に最小な大きさでネットの遊びを楽しめる「ビーボブ」を、国営沖縄記念公園、今治市の桜井公園、観音崎公園に設置した。
 有機的な形で手鈎編によるものをエアーポケット型と名づけ、沖縄記念公園、彫刻の森美術館、富士山こどもの国、そして今回、今までで最大のものを国営滝野すずらん丘陵公園に制作した。
 
札幌近くの国営滝野すずらん丘陵公園の中の子供の谷に制作した「虹の巣ネット」は国営沖縄記念公園、国営昭和記念公園、富士山こどもの国に続ぐ、第4作目の高野文彰氏及高野ランドスケープ プランニングとのコラボレーションワークである。いままでの経験を生かし、よりすぐれたものをめざし設計に約一年、制作に一年、丸二年の月日をかけて2000年7月、丁度私が還暦を迎えた時に完成した。巨大な洞窟空間(卵を縦に半分に割った形のドーム)の中に不思議な生き物が巣を張ったイメージ(くもの巣のようでもあり、蜂の巣のようでもある)のネット遊具大小の二点と床面には巨大ないも虫が丸くなったり、むくむくと動いているようなイメージのクッションがばらまかれている。この洞窟空間は半分地面の中に埋まりこみ、ドームの上には芝生が植えてある建物なので冬の雪の中でも利用することが出来る。
 大型のネットは何層にも重なった袋状の空間を、子供達は最下層にある入り口から滑りこみ、全身を使って登り、最上層部では伸び縮みするネットの上で、でんぐり返しをしたり、飛び跳ねたりして遊ぶ。上層部から天井にかけてかすみ網のような薄いネットで周りを囲ってあるのでネットの上層部から外に落ちることがなく安全であり、しかも繊維に染め分けたネットは空間的美しさを生みだす。
 子供たちは宙に浮いている気分を味わったり、それぞれの年齢や運動能力に応じて楽しく遊ぶ事が出来る。ネットの揺れはバイブレーションとなりネットを構成している紐を伝わってお互いに影響しあい、遊びは相乗効果を生みだし大きな共鳴となる。知らない子供同士でもいつの間にか一緒に遊びはじめ、障害を持った子供と健康な子供とが一緒に遊ぶ場を作り出す。伸び縮みするネットで揺れる体験は、リズムとなり、脳に入った時に、人間の五感の大本である「体性知覚」を刺激する所から、健康な子供でも、障害を持った子供でもあきのこない遊びを展開させる。
 小型のネットは特別に乳幼児や障害を持つ子供達のために開発したもので、入り口の穴が大きく、しかも低い位置にあるので、安全で乗りやすい形態をしている。5つの袋状のネットの各袋に縁ロープを通す事で常にネットを一定の高さに保つ事が出来、それが乗り安さにつながる。又ネットを吊り下げているポールはヨットの帆を取り付ける技法を取り込み、子供が乗ると左右に揺れるように作った。
 ショックを吸収するために、ゴムチップ舗装した床面の上に置いたいもむし状のクッションに子供達は乗ったり、座ったり、重ねてよじ登りネットに乗る足掛かりにしたりする。
 今回の仕事で始めて空間とネットが一体化することに成功した。
 
このような仕事は一人の作家の作品というよりも、映画を作るように多くの専門家のチームワークによって成し遂げられる。コンセプト、空間デザインを高野ランドスケープ プランニングと高野文彰氏、建築図面は北海道開発コンサルタント、ネットのデザインは私、ネットの制作は私とインタープレイ デザイン アンド マニファクチュア、ネットの構造解析と取り付けフックのデザインはTISアンド パートナーズと今川憲英氏、カナダと日本を繋ぐ繁雑な仕事をこなしたのはインタープレイ ジャパンの町田廸子氏。取り付け作業は私共(マッカーダム、町田、私)の他、インテリア ワイズと横山淳氏、更に協力をして下さった、加藤美子氏、小泉悠子氏、佐々木栄子氏による。そしてゼネラルコントラクターは横山造園。美しい写真を撮り続けたて下さったのは写真家の小泉正幾氏等である。東京、北海道、カナダを繋ぐコミニケーションの手段は電話、ファックス、イーメール(図面の輸送)、フェデックス(模型や書類)を用い、必要に応じて日本に打ち合わせにでかけた。
カナダの私共の工房では、デザイン、日本語の書類を私、図面と模型作りはマッカーダムと私、染色と一目一目手で編上げていったのは私とリズ フォックス、糸巻、組紐の制作、素材の手配、会計、借金の手配はチャールス マッカーダム、という具合である。

1999年3月から制作に入り、毎日朝8時に工房に入り、リズは3時半まで、私は夕方の5時まで制作、夕食後は日本向けの書類の準備、という生活が11月まで続いた、12月に入ってから急に翌年に制作を予定していたいも虫状のクッションの発注が決まり、虹の巣ネットと同時に納品ということになった。それからは夕食後も工房に通い制作、一月の中頃から二月の発送迄は一日18時間の制作、発送前夜は貫徹、学生時代以来こんなに体を酷使した事は無かった。一目一目編みあげていく度に指や肩の軟骨が擦り減っていく思いがした。ふと「つるの恩返し」が思い浮かんだ、かつて私の歩んでいく道を気づかせてくれた子供達への恩返しである。子供達の楽しく遊ぶ様子を思いうかべて、遊んでいく動きを考えながら、形をつくっていった。約1.3トンの染色、組み紐、手鈎編をこなした。夥しい書類の準備も同時に行なった。公園側、ゼネコンとカナダ側との間に入った、町田氏のストレスも尋常ではない大変さだった。
オープンを迎えた7月15日列をなして入った子供達の歓声、そして彼等の遊びは私の想像を超えた。床に置いたいもむし状のクッションはどんどんつみあげられ、よじ登ったり、それらを足場にして、ネットに乗る足掛りにしたり、巨大なクッションは一人で動かす事が出来ないと分かると、5・6人の男の子たちがチームを組んで移動させた。などなど感心することが多く、又子供達に教わった気がした。

繊維で作られた遊具はメンテナンスをしていかなくてはならない。屋外なら5~7年間でネットを取り替えていく。今回の滝野の仕事ではメンテナンスは必要不可欠であることがはじめて無理なく受け入れられた。このような考え方を国営公園のような公な場所に理解して頂き、受け入れてもらうのに20年の月日がかかっている。そして今でも公園によっては取り替え工事の度に初めから説明のやり直しである。しかし一方で日本の行政機関の中にこのような考えを理解下さる方々がいて、沖縄、昭和、滝野の仕事が実現したのだと思う。

繊維で作られた遊具は鉄、コンクリート、プラスチック、木とは異なる柔らかさがある。子供達がさわると反応する魅力が、彼等の想像性を刺激し、あきのこない遊びを展開させる。どのように工夫しても、繊維の性質を生かして作ったものは、使用すればするほど、人気があればあるほど磨耗しボロボロになっていく。しかし子供達の楽しく遊んだ体験は鮮明に彼等の中に残るのである。
ささやかながら私が世の中に対して出来ることは子供にこびた遊具でなく、美しい、造形を作りだし、21世紀を作る子供達に楽しく遊んでもらうことだと思う。
私は今、カナダのノーバスコシアの田舎に住み、夫と16歳になる息子と共に制作と畑仕事に充実した日々を送っている。
自分の内なる声に耳を傾け、自分に正直だった結果、自分が歩く道を見つけたのだと思う。そして自分が自分が、と生きてきた道はじつは私だけでなく、私の中に生きている父や母、祖父や祖母であることに気がついた。

2001年2月末日          (マツカーダム ほりうち としこ)