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「でんぐり返りの記 」 榛葉莟子

2014-03-01 09:02:57 | 榛葉莟子
1994年12月25日発行のTEXTILE FORUM NO.27に掲載した記事を改めて下記します。

手が動きたいように

 
電話をしながら、手近にあるメモ用紙に手の動くままにでたらめのえんぴつの線が動き回っている事がよくあります。それじゃまたとか、さようならとか言って受話器をおいた後、そのメモ用紙には曲線やジグザグのひとふでがきの線が複雑に入り交じり、なにかを想いおこさせ、それでいてかろやかな偶然の面白さの現われにはっとしたりしてまじまじと見詰めてしまうことがあります。
 手の動くままにまかせて流れでてくるひとふでがき的落書き線の行方を、もし受話器をおかないまま続けていたならば……それからどうしたのなどと、いいながら手の動きのままにまかされているえんぴつの線は、ふれあい重なった錯綜する線でまっ黒に詰まってしまったきゅうくつな空間のメモ用紙をはみでて、周りの物に接触し、交じりあい巻き込みながら、ジグザグとあるいは曲線を描きながら、途切れることなく拡がり動き続けていくのです。すでに、えんぴつの芯はあとかたもなくなり、指先にバトンタッチされ、空間に線を描いていきます。その様子はまるでオーケストラの指揮者のように、指先につながる身体全体が動くままにまかされ踊っています。踊る身体はひとふでがきの線になり、拡がるごとに身体は減って行きます。減れば減るほど空間は拡がっていきます。動くままにまかされて描き続けるひとふでがきの身体はとうとう、あとかたもなく減りつくし空間のなかに溶け入り、空間の一部になってしまいました。溶けてしまった私。空間そのものの私。透明人間。

もしもし、もしもし、電話□で友達がよんでいます。

ふと、我にかえる? いえ、もしも溶けてしまったままかえらなかったならばどうなるのでしょう。

何事が起きたかと友達がかけつけてくれたとしても、もぬけの殼の部屋を首をかしげながら出ていく友達を見送るしかありません。いやだなあと思ったとたん、私は息苦しさを感じはじめました。空間に重圧を感じます。何故だろうか、この重圧感。大きな流れの内に呑み込まれている自分に恐怖を感じはじめます。友達に私の存在を証明できない。不思議の国のアリスだって、ルイス・キャロルに呼び出されたっけ。もしもし、もしもし、私を呼ぶ友達。そうだ、私は電話中でした。

はいはい、戻りました。私です。どこにいってたのよ友達は聞きます。それがね……おしゃべりは続きます。そしてまたふと想う。生まれてくるって事はこういう事に近いのではないのかなあと。

 呼ばれて生まれ出て、呼ばれて死に入っていく。出たり入ったり、行ったり来たりあちらとこちらを行き来する。

癖 の手前に意志がある
 性癖というのは、大体が変なものです。すばらしい癖だ等というのもあるのかもしれませんが。ついそうしてしまうということは作為のない手の動くままにゆだねている開放的な心地よさが、その人その人に独特な癖を生みだしているように思われます。本能だと一口でかたづけてしまえない、不思議な事が詰まっているようにも思えてなりません。おかしな癖ほど、以外といまの自分自身のベースであるような深いつながりがあるのではないかと。クセはクセモノかもしれません。

 私の場合、ついはがしたくなる変な癖があります。特にかさぶたはがしに熱中する現場をみている家人には、異常だと結論づけられてしまいましたが、かさぶたに限らずついなにかをはがしてしまいます。めくってはがす、削ってはがす、ひっかいてはがす、裂いてはがす、こすってはがす、等々の行為を含めて、はがす言葉の背景には秘密のベールを開いて広がっていくイメージが見えてきます。見えないモノの内側に向かおうとする反応でもあり意志の現われを想像できます。癖の手前に意志がある。と思うのは、その変なはがす癖の出現が、生まれてまもないヒトであるかないかも定かではない赤ん坊の時だったという事が、面白いなあと気にかかったのです。もちろんまったく覚えはありませんが、後々聞いた話によりますと夏に生まれた赤ん坊はひどい汗疹になり、かなり親はその対処に苦戦したようです。薬草の行水を繰返すうち汗疹はひいていったのですが、一ヵ所だけがひいて行かない。赤ん坊の手は何故かそこに執拗にこだわったようでかさぶためくりのはじまりです。その執拗さは、まるで人間になる事を拒否するかのようです。親は手をガーゼに包んだり手袋をはめたりとしたらしいのですが、いつのまにかはずれていてかさぶためくりに熱中していたそうです。親の目を盗んで自分の皮膚をチェックしながら一枚また一枚とはがしている赤ん坊というものも我ながら気味のわるい光景です。外の皮膚の変化といいましょうか汗疹に反応し手での点検行動がはじまる。いけませんと制止されても執拗にかさぶたはがしをやめないという事は、そこには赤ん坊をつき動かす意志がすでに働いていたのではないかと思うのです。もしも、このままはがし、堀りすすんでいったならば、自分が自分を呑み込んでいく図が現われる。つき動かす力は内側の皮膚をつきぬけていく。と、でんぐりがえしが起こる。

 生まれたその瞬間、空気に触れたその瞬間に反応し意志は活動しはじめる。触覚的反応。と想像すれば執拗にはがし続けた生まれたての赤ん坊の行為もうなずけるのです。あれからなん十倍も生きてきたいまも、結局は同じ事を続けている。つまりは皮膚をはがし続けている訳で、私をつき動かす意志のままにという事になりますでしょうか。

 ふと窓の外をみると、うちの犬がさかんに地面をはがしておりました。

飴玉
 風邪をひいてのどが痛い。南天のどあめを買いました。南天色の赤いカンの裏には、一回三粒かまずにゆっくりと口のなかで溶かして下さいと教えがありました。ゆっくり溶かし少しずつ甘い液体がのどにしみこみ、痛みはやわらいでいくのでしょう。あくまでも薬なのだから。ところがカチンとかんでしまった。薬だからと自分に言い聞かせたのに辛抱がなさすぎます。

 大体が、飴玉はなめるものでかむものではないらしいのですが、私は飴玉をなめきったという経験がほとんどありません。あのかたさが飴玉の存在価値でもあると思いますし、そのかたい塊をじっくりと溶かす楽しみというのがあるのでしょうが、私はかみくだいでしまうのです。
 固まっているモノに敵意すら感じるというほど大げさなものではないけれども、どこかでつながっているのかもしれません。なめる楽しみよりかむ楽しみを好むようです。歯ごたえのあるかたい食べ物がどちらかといえば好きなのですから。かたまって、閉じこめ、押し込めていくようなきゅうくつなイメージに反撥を覚えるという事が、かみくだいてはがしたくなる性癖のあらわれかもしれません。嫌いと好きは裏腹。やっぱりでんぐり返る。