ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「造形技術としての『鍛金』の周辺」その4   関井一夫・田中千絵

2016-05-27 11:20:48 | 関井一夫・田中千絵
1998年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 12号に掲載した記事を改めて下記します。

「造形技術としての『鍛金』の周辺」 その4 学制改革以降
関井一夫・田中千絵


 学制改革直後の1960年代後半、さらなる変革の時期を迎えていた。この時期の学生も、高度成長期の中、作家になって活躍しようというよりも、デザイナーとして素材を知り応用しようという気質であった[*1]。この時代に同級生として鍛金に在籍していた、現在の東京芸術大学工芸科鍛金教授である宮田亮平氏と、鍛金作家である橋本真之氏に当時の証言を頂くことにした。

 学制改革により工芸科の鍛金研究室を中心とした一部の研究室は、その指導体制を新たな時代の方向に修正する形で進んでいた。作品の大型化を促進させる事となるアルゴン溶接機・電気溶接機の導入は、宮田・橋本両氏の学生時代に行われている。アルゴン溶接機導入以前は、鉄材を溶接する為の酸素溶接機は既存していたが、非鉄金属は銀鑞を用いた接合方法が主流であり、銅の溶接は行われておらず、大型の作品は銅線を絡げて、材料が高温になっても歪まない工夫をし、鑞付けをしていた [*2]。アルゴン溶接機導入当初も銅板の平付け[*3]は、機械や技術の問題からか、容易に行われることが出来ず、三井氏の1965年以降の作品に見られる様に、接合箇所のお互いを櫨折りし[*4]溶接する事から始められたらしい。この三井式とも呼ばれる接合方法[*5]も、以前の、銀鑞接合した蹟を酸素溶接で表面をなめて接合箇所に銀鑞の色が出ないようにしていた方法から応用されたそうである[*6]。

 アルゴン溶接の平付けが可能になると、いよいよ作品の大型化が進み、それに伴い当て金の大型化、さらに当て盤の導入へと進む事になる。従来の大きさの作品(いわゆる当時の日展作品、言い換えれば床の間サイズ)を制作する作業は、畳の上で低い木台に中型程度までの大きさの当て金を据えて、座り姿勢で行うものであったが、これ以降は、鉄材鍛造作業の様に立ち姿勢の、土間で大型の木台と当て金を使用する作業へと、制作環境の中心が移行する事となった。当て盤も、当初は溶接箇所を目立たなくするために均―に慣らす作業を主たる用途とされていたが、橋本氏のように当て金の拘束[*7]から解き放たれ、当て盤で絞るという制作法に進展することになる[*8]。

 当て盤という道具は、元来板金工作道具として板金加工の世界で広く用いられていたものだが、東京芸術大学での導入の経路は定かではない。伊藤廣利氏によると、「山下恒雄氏 [*9]が学外で自動車のデザイン関係の仕事に従事していた経験から持ち込まれた」らしい。橋本氏の記憶では「鍛金教室の廊下に当て盤を使って制作している写真パネルが掲示されていた」そうである。しかしその使用について実際指導を受けた経験は宮田・橋本両氏ともなく、宮田氏によると「板金工の使う中でもオーソドックスなものが1・2種研究室にある程度であった」。板金工の世界で板金を加工する範囲は、折る・曲げる・張らせる・突き出すといった技法が主で、御輿や銅屋根の一部に見られる飾を扱う飾職を除いて、鍛金のような一枚絞りによる絞り技法は範疇外のものであった。東京芸術大学の鍛金は、元々工業用に開発されたアルゴン溶接機と、在野の板金工が主に用いた当て盤を、従来の伝統的鍛金制作法に加える形で導入し、今日見られる鍛金の技術が展開される事となったのである。

 現在の鍛金にたどりつくまでには、これら技術の導入と別にもう一つの重要な要素が存在していた。それは、学制改革が大学側からの制度改革の提唱であったのと反対に、学生側からの従来のカリキュラムに対する反発である。

 デザイナーを目指す多くの学生にとって、旧来の技法重視のカリキュラムは古臭いものとしか写らず、彫刻的造形を目指す学生にとっても、工芸の範疇に治まる鍛金は技法を重視し過ぎ、敬遠されるものがあった。時は70年安保の時代、東京芸術大学でも他大学の如く学園封鎖が起きたが、その論点の中心は「カリキュラムの自由化という問題であった(橋本氏談)」そうである。当時学生部長を兼任していた三井氏は、大学側の窓口に立つ事となり大いに頭を悩ませたようである[*10]。大学封鎖があったからとは言えないが、結局学制改革における三井氏の方針により鍛金の絞り技法習得において重要とされ残されていた三足香炉の課題も、昭和40年度生を最後に無くされる事となった。反して同氏の提案により、工業的技術に触れる事を目的として導入された機械類の造形制作への利用が盛んになった。アルゴン溶接機などの溶接技術はその最たるものであった。

 三井氏はカリキュラムに反発する学生の声も聞き入れる形で、更にカリキュラムを改編し鍛金研究室の改革を行っていった。そういった姿勢が、「鍛金は自由だ、やりたい事が出来る」という学生の空気を生み出したが、三井氏にとっては学制改革時から試行錯誤の連続であり、あたかも鍛金という巨漢力士と芸大という土俵で相撲をとるようなものだったのであろう。しかし、そういった長い年月の葛藤の中から、グラフィックデザインや[*11]金属をベースにした空間デザインという道に進んだ学生が育ち、更に望月菊磨氏[*12]をはじめとする現代彫刻・現代美術に進出する卒業生や、安藤泉氏[*13]のような巨大な具象野外彫刻を制作する卒業生を輩出するところに至り、三井氏の「作家を養成したい」という想いが実りはじめたのである[*14]。

 三井氏が東京芸術大学を退官し20年あまりが過ぎ、氏も今年88歳を迎えた。かっての東京芸術大学鍛金研究室における技術革新は、鍛金造形の可能性を飛躍的に拡大し、そこから更なる造形の展開を引き出す者を生み出した。また以前に述べたように当時の卒業生を中心としてその鍛金の技術は、各地の大学をはじめとする教育機関にも受け継がれ、鍛金を造形の中心に据える新たな若き作家が育っている。

 広大な造形世界の中で三井安蘇夫氏の蒔いた一握りの種は、それぞれが独自に、または融合分裂し、純正種や変種を生み出しながらも増殖して行くことであろう。またその継承者であるか否かという事は、「鍛金からものを考える自覚を持ち得るか否かという事」から考察できよう。我々の三井安蘇夫氏の東京芸術大学での活動を中心とした今回のシリーズの文章は、橋本氏の以下の言葉で締め括りたい。

「技術は発明や発見が重要なのではなく、実はその人にとってどういう思想的な絡みをもった造形技術であるかということが問題なのである」


*1 宮田氏は「資生堂・伊勢丹の建装部(ファニチャー)・・・、建築関係・デザイン関係・メイカー・ディスプレイなどのカタカナ関係の仕事に鍛金の同級生の9人中6人は進んで行きました。私も例に漏れずデザイナーとしての道を在学中から既に進み初めていましたが、ひょんな事から大学院へ進学し、修了後でもデザインの道へは進めるしと思いながら過ごした時期があります。」と語った。

*2 1963年の伊藤廣利氏卒業制作<地の魔よけ:東京芸術大学資料館蔵>に見る事ができる。

*3 板材の切り口(小口)同志を接合する事。

*4 板材の小口の近くで直角に折り返したもの同志を合わせ、小口部分を上から溶かし込み溶接していた。(三井氏の作品を参照のこと)

*5 三井氏は接合により作品を大型化する際に、安易な溶接によリー枚絞りの技術が損なわれないように、接合される形態に特別の注意をはらい、一つの戒めとして、意匠的な考慮のもと接合していた。「もし将来私の作品が遺物として発掘された時、溶接箇所が朽ちて部分としてしか残らなかったとしても、それ自体でも美しさを表す事を考えて個々の部分の形を作っています(三井氏談)」

*6 三井氏を中心とした当時の研究室スタッフの、この作業を実際に見ていた橋本氏は、それらの経験や数少ない文献の一部から、酸素溶接による銅板の溶接技法を独学で考案する。

*7 作品がさらに大型化すると制作中の作品自体を容易に動かす事が困難になり、制作者自らが作品に合わせて叩く位置や姿勢を変化させなくてはならず、大型の当て金でさえも融通がきかなくなる。結果としてよリフレキシブルに造形部分に適応するための当て盤が必要になってくる。

*8 当て盤による金属板加工の歴史は古く、ヨーロッパでは自動車のボディーの制作として行われており、その時点で当て盤で絞るという技法もあったのではなかろうか。しかし、その事柄と橋本氏の当て盤で絞るという事には大きな隔りがある。それは、デザインされたフォルムを金属板に置き換えるという生産行為の上で扱われた技術と、氏のように造形運動から必然的に導き出された技術の違いという点ではなかろうか。橋本氏自身「私は実際に見聞きしていないが、同一の道具を扱う方法がおそらく、ヨーロッパと私とでは異なる質の方法として成立しているはずである」と述べている。また、橋本氏が『当て盤絞り』という言葉で語る場合、重要な点は、当て盤で絞るという事が自らの体(当て盤を持つ左腕を物理的作業に耐え得るべく鍛える事)と造形理論(氏にとっての運動膜という造形概念における、造形フォルムとしての軸線をさらに展開する事)の中で技術として熟成し、従来の当て金という道具を基準とした制作技法から跳躍した事を意味する。

*9 山下恒雄  元東京芸術大学工芸科鍛金教授、1998年没

*10 橋本氏は当時の学生集会に参加していたため、封鎖をした学生当事者と話す事が出来る立場にあり、三井氏と学生の間のやり取りをする立場に置かれたとのことである。「私は、絵描きになる為の親に対する方便として、工芸科に進みグラフックデザインをやりながら絵描きになろうといった考えで高校生時代を終り、そのまま現役で入ってしまったので、入学後とても自分はデザインには向かないと知り、絵描きを目指すため学校帰りに太平洋美術学校へ通っていたのですが、内臓を壊して、油絵の具や解き油の臭を受け付けられない体になってしまいました。そんな時専攻に別れる前の実習で陶器と鍛金を選んだのですが、ろくろの前で屈んで長時間作業する事も体のせいで難しく、たまたま三井先生のいらした鍛金の雰囲気が、拘束される感じが少なく居心地が良さそうに感じました。その時の課題も自由なものだったので、自分はすぐにリンゴを作りました。夏休み前にもう一度三井先生にお願いして、リンゴの仕事の手直しを一夏鍛金で制作させてもらったのです。三井先生からも絵描きになるのでもいいから来なさいと勧められましたが、その夏の仕事の結果、ここでならやれそうな気がしたので自分で鍛金を選ぶことにしました。たまたま鍛金を選んだ同級生が10名もいて、研究室から机が足りないので自分達で人数をなんとかしろと言われたんですが、だったら机なんかいらないから、その代わり何処で仕事をしてもいいように自由にフラフラさせてくれと提案したところ、自ら辞退した1名以外は全員受け入れてもらえたいきさつがあります。そんな訳で人体塑像が勉強したいと三井先生に持ち掛けると何処何処の先生のところで今出来るぞとか、版画なら何処何処という具合に勉強する場を探してきてくれたのです。大学封鎖の時も先生は、心労から胃潰瘍になっていたと思います。私自身は制作する事に没頭して、鍛金の充足感を感じ始めていましたし、単位なんて欲しくもないと思っていましたから、封鎖をしてどうなるものでもないという立場でした。ところが封鎖をしている学生達と交流があったためでしょうか、夕方になると教官室に呼ばれて、先生から、封鎖をしている学生達にこういう事ならどうだろうか?ともちかけられ、いやこうじゃないですかというと、先生は、そんなのダメだという具合で、そういう内容を、大学側はこう言っていると当事者達に伝える。そんな事をするはめになってました。」

*11 市川多喜次氏 (昭和40年入学) などデザイン関係の卒業生は多岐に及ぶ。
*12 望月菊磨 (1945年~ ) 昭和40年入学 宮田・橋本両氏の1学年上にあたる
*13 安藤泉 (1950年~ )  昭和45年入学

*14 三井氏にとって「作家を養成したい」という事は必ずしも大学教授としての思いの全てではなかったであろう。鍛金という彼の学んできた造形技術を後世に伝えるべく、そして更なる発展を願い模索した努力は、デザインの世界に進む学生に対しても等しく与えられ、また、鍛金関係の研究執筆活動の中にも現れている。様々な形で鍛金の次世代での生き残りを賭けた彼の活動が一握りの鍛金作家輩出の為だけに向けられたとは考えにくい。ただ結果として、三井氏が退官後も作品制作を継続し、定年の無い職業としての作家という立場から感じられた、同じ作家としての後輩達という思いが、そこに表れているようである。

★前回のサブタイトル「その3東京芸術大学」は「その3 学制改革」でした訂正してお詫び致します。

「造形技術としての『鍛金』の周辺」その3 関井一夫・田中千絵

2016-05-14 10:50:55 | 関井一夫・田中千絵
1998年8月1日発行のART&CRAFT FORUM 11号に掲載した記事を改めて下記します。

「造形技術としての『鍛金』の周辺」その3東京芸術大学
関井一夫・田中千絵


 学制改革は、工芸科の中で各々独立していた、図案部・彫金部・鍛金部・鋳金部・漆芸部を統合し、デザイン系をVD・IDの2講座、工芸系を新たに陶芸を加えた5講座とし、1~3年次までを合同の基礎教育期間とし、4年次を専門教育期間とする、それまでの技術の保存・伝承という意味合いの濃い教育スタイルを一新するものであり、時代の流れに伴う社会に対応する新たな教育システムの実験であった。しかし、その現場では高い理想を持つ教官と学生の間で様々な葛藤があったようである。
 ここでは、学制改革時の第1期生(昭和35年度生)であり、現在東京芸術大学工芸科彫金教授である堀口光彦氏に当時の学生側からのお話等を氏の記憶も辿りながら伺い、学制改革の姿をより明らかにしようと思う。

 当時は、「学制改革については改革以前を知らないので比較することも出来ず、またその教育システムについての善し悪しも判らず、そういったものであるとして受け入れる他無かった。また60年安保の時代でもあり、多くの学生はとりあえず一時期そのような流れに流されて、授業には(休講ではないが)あまり出席せずにあちこちにデモなどに出掛けていた」というのが一般的だったようである。

 入学すると、受け持ち(担任的役割)の内藤四郎氏 [*1]を中心として、デザイン・工芸の教官達持ち回り(主にデザイン関係の教官)の基礎の授業を受けた。2年次、木工を含めた6種類(彫金・鍛金・鋳金・陶芸・漆芸・木工)の工房を1・2週間づつ回り、3年次になると、デザインと工芸の区別無く、自分の専攻したいと思う講座(例えば彫金とヴジュアルデザイン)へ長期間行き、その工房での指導を受けた。デザイン関係には、ヴジュアルデザイン(VD)とインダストリアルデザイン(ID)。工芸関係は、彫金・鍛金・鋳金・陶芸・漆芸の5講座(陶芸は35年度生の4年次に初めて開講されたもので当時はその前身としてクラブ活動から発展した準備室の状態)であった。堀口氏は、卒業後就職し、グラフィックデザイナーを目指していたので、「ここでは別の事を学ぼう」と、木工と彫金を選択した。周囲の学生については、「基本的にデザインの世界が学生たちにとって華々しく魅力的に見えた時代でもあったが、決して誰でもがデザインに向かっていたわけではなかったと思う。しかし、逆に『作家になる』という事に意識を持っている者もごく少数であったのではないか」と振り返る[*2]。

 また彼は、学制改革で各講座の垣根を取り除いた事は評価しつつも、「学制改革時の教育について考えると、カリキュラムの組立においてみれば、大系的なポリシーがあって行われていたとは思えない。現在もそのように感じる事があるが、『工芸の基礎とは何か、デザインの基礎とは何か?』この大学がどう考えているのか。その概念が大変曖味であったのではないか。各々の教官が“こうであろう”と考えてやっていたとは思うのだが、それがどのくらい普遍的であるのか、例えばバウハウスの様に理論立ってはいないし、また組織立っていたわけでもなかったと思う」と当時の教育を受けた側として問題点を指摘する。学制改革において大筋の了解事項はあったまでも、工芸の未来[*3]に対する考えは、それぞれの指導者の思惑に委ねられていたのではないだろうか。結果として、断片的なカリキュラムのコラージュ、新工芸科としては姿の見えない教育理念という事になったのであろう。なおも、現在同大学の教授として、また学制改革時の1期生として「現在も過去も、芸大では残さなくてはならない純粋な技術と、素材に対してどのように感じるかという工芸的感性の教育を行わなくてはならないと思っている。“何で自分がそれ(素材・技術)を選択したか、自分の造形表現の上での必要性をしっかり把握してから選んで欲しい”というのが学制改革時の大きなテーマの一つであったと思うのだが、同時にデザインと工芸を統合した後の新しいジャンル(目標)を確立せずに、ただ“何もかも出来なくてはいけない”という非常に漠然とした持って行き方だったので、我々学生としては有難迷惑だという考えを持つ人もいただろう。改革後何を学校側が支度したか……その部分が欠けていたのではないか。むしろ学制改革をやるとしたら、別の学校を新たに創るべきであったのではないだろうか」と言及する。

 その後、制度的には後退してきたことについて堀口氏は、「当時の詳しい経緯は何も知らないが、この学校の伝統は、まず技術と素材が在り、しかもモチーフが具象的なものが多い。そこでの教育が身に染み付いている教官達がずっと教えているわけで、学制改革をしたからといって教官が変わるわけではないし、教官達自身の中で(新しいカリキュラムの中で)やり辛く感じた所もあったのではないだろうか。そして教官の持つ高い理想主義に、学生たちはついて行けなかったのだと思う」と語った。新たな教育システムを組みながら、指導に携わるのは旧体制を受け継いだ教官であり、新体制における教育方針を明確に打ち出し切れなかった教官団の自己矛盾は、学生達にとって少なからず不満のあった事であろう[*4]。

 鍛金教官室では大学外の金属制作技術・工具を導入し作品の大型化を目指す中、彫金教官室においては、学制改革という新しい教育過程の中で、それまでの『工芸』と少し意味合いの異なる『クラフト』という目標を持ち、学制改革時の新たな工芸の方向性を考慮し、平松保城氏[*5]を教官として招聘した。平松氏は、『クラフト』という考え方を彫金に定着させていった。

「明治以降『廃刀令』が施行され、刀の鍔や目抜きと言った『彫り物』の中心的な仕事が 無くなってしまった。そこで加納夏雄[*6]等は、頂点まで来た技術を花瓶の彫り(加飾)や額装・喫煙具の装飾といった、日用品(現在でいう美術工芸品)の分野に応用する事を考えていった。そのような流れから続いて来ている芸大の彫金では、『クラフト』という西洋の概念(使って楽しむという要素・機能を含んだ)であっても何の抵抗も無く取込む事が出来た。後藤先生[*7]は積極的に『クラフト』の導入に取り組み、それを引き継いで来たのが平松先生であった。彫金では、『工芸』と『クラフト』という難しい概念的な議論はなくても、旨くはまってしまったようである。以来30年余り、『クラフト』の中でもジュエリーとテーブルウエアーという、非常に目的をはっきりさせた指導のもと、芸大の中でも唯一クラフトをカリキュラムの中に取り入れ前面に押し出して教育し、学生もまた指導者(飯野一朗氏[*8]等)も育ってきている。」

 しかし、堀口氏自身の作品は『クラフト』とは遠い所に位置している。「自分の研究室に於いてはクラフトという分野が一方で確立しているが、自分自身としてはクラフトに手を出すというか……やってみたいとは思わない」。これは氏自身が学生時代から「私の場合は感性(やりたいこと)が先にあり、それが彫金の技術であれば彫金をやるし、鋳金であれば鋳金をやる、陶芸なら陶芸、染色なら染色でいい」という考えを持っていた事と、「学制改革においては指導領域と目的が、非常に漠然としていて、学生たちの立場に在っては、デザインと工芸を一緒にした場合に出てくるべき新しい分野をしっかりと提示してあげなくてはならないし、又その中で幅が在り『選択肢が沢山ある』ようにしてあげなければ、学生は何をしてよいのか解らなくなってしまう」という経験、及び現在の教育者としての思いが、「(現在の)学生に対して、彫金の教育としての確固とした核は持ちながらも、学ぶモノは学生本意に彼等自身が自由に選択し、それに対して教官側も出来る限り対応して行くが、もし教官側がついて行けない場合は学生に勝手にやらせるしかない。それがもっとフランクにできる空間が学校にあれば、学制改革の当時と同じ理念で出来ると思う」という言葉に込められている。『クラフト』という学制改革以降、彫金で進められた中心的な指導に対する、他の選択肢として氏の制作は在り、氏自身『アトリエで制作する作家の姿で学生を指導する』という東京美術学校以来の伝統的な指導スタイルを今も持ち続けているのである。

 また堀口氏は、自身と当時の先生方への思いを「明治以降そうもいかなくなったが、江戸時代まではどの時代をとっても工芸というのは時代の最先端の技術を使っている。私は、この二千年もの歴史を持つ技術を大学でこつこつと学び取りながら、その素材と技術から生まれる感性の素晴らしさが、自分の制作活動における精神的な支えでもあり原点となっている。制作に様々な不安を覚えた時に、振り返り自分を確かめる為のバックボーンとしてあれば、安心してそこに戻りまたそこから再出発することが出来る。そういった事は、おそらく三井先生がおっしゃる鍛金であり、山脇先生[*9]にとっての彫金であると言えよう。三井先生は彼の鍛金に対する汲めども尽きぬ思いを、時代の変容の波に流され去らぬようにと、学制改革に込めたのではないか。」と締め括られた。

 戦後の高度経済成長の中、産業新興の為のデザイナーの養成は社会からの強い要請でもあった。また学生自身、華々しいデザインの世界に身を置く事で、社会的な成功を夢見る者も多い時代であった。学制改革は三井氏の思い描いた『造形作家の養成』というよりも、より多くの『デザイナーの排出』という形で社会に人材を送り出す事になった。しかし、一方で堀口氏のように、学制改革時の経験を現在の造形教育に活かす教官も生まれたのも事実である。三井氏等が次世代の育成を試みた学制改革は全てを満足させるものではなかったとしても、旧態然とした大学のある部分に一石を投じたものではなかっただろうか。いずれにせよ、高い理想のもと、教官内部・学生達との摩擦を起こしながら、60年安保の時代から始まった学制改革は終焉を迎える事になったが、更に鍛金研究室では様々なカリキュラム問題と新時代の技術研究を巡り、改革が行われて行く。そして三井氏の思い描く作家の養成は、奇しくも70年安保の時代を前後し、徐々に結果を出す事になるのである。


*1 内藤四郎 (1907年~1988年)
*2 これは、現在も多くの学生が明確な卒業後の展望を持つこと無く美大に進学する現状や、美大進学に難色を示す保護者に対する方便として、社会に就職という受入れ口のありそうな、デザイン・工芸系を目指す事という現状と酷似しているのではないだろうか。「就職するか作家になるかは入学してから考える」というのが学生の本音のように思える。
*3 デザインは産業界からデザイナーの早急な育成を望まれていたとしても、工芸に対して社会からの強い要望があったとは考えにくい。工芸については、時代の波の中で作り手側(主に芸大の教官)からの強い欲求によって、また工芸の技術を習得した者のデザイン界での活動の場として、その未来が試行されたのではないだろうか。
*4 堀口氏は答えた覚えはないが、「昭和39(1964)年、4年次の専攻に分かれる前、この改革におけるモルモット的存在であった学生達にアンケートが配られ、クラスのうち半数程度の学生が回答を提出している。最近その写しを見る機会があり、それを読んでみると、大学院まで通して3年間、専攻別に学べる期間があると考えていた学生も中にはいたようだが、私はそういった考えは全く無く、1年間では到底専門分野は学び切れるものではないと感じていた。一方で、4年次で卒業し社会へ出ていった者も同級の中で半数余りいた。時代が時代であったので、社会に対して充分対応できたし、作家としてより、デザイナーとして社会に出ていった者が殆どで、時代の要求もそちらに向いていた。」堀口氏の同級生は留年者も含め70名程度が在籍していたが、昭和40年3月に初めて修了者を出した東京芸術大学大学院は、それらの学生を全て入学させるキャパシティは無く、当然学部で卒業し、社会に出ざるを得ない者もいた。
 また堀口氏より見せて頂いた当時のアンケートは、学制改革を知るうえでの貴重な資料である。『工芸科三年生アンケート報告』と題された資料は謄写版印刷で、昭和38年1月付けとなっている。鉛筆書きで、「読んでいただきたく思います.三年責任者.1月16日」として、漆芸教官室に宛てられている。「先日学生間で取りましたアンケートの報告を致します。我々が出した、これらの問題をこれからどの様に発展又は、具体化させて行くかは難しい仕事であり、我々のみならず今後非常な努力が必要でしょう。お互いの問題を知り、一期生として三年間学んだ学生が、今どういう事を感じているかを先生方にも理解していただく必要があると思います。このささやかな刷り物がこれらの色々な問題解決の第一歩とならん事を望みます。そしてこれからの発展は皆様一人々の自覚と行動に待つことになると思います。……」と記され、学生の名前は伏され、各人の主要部分を抜き書き式にして、「係りの至らなかった点は、クラス会等の時に、正しく大いなる発言を望みます。」と締め括り、続いて学生のアンケー卜が記されている。番号で28まで記されているので、28名の学生のアンケートを取り上げたこの19頁に及ぶ報告は、殆どが現状の指導への不満ではあるが、当時の学生の肉声として以下一部紹介する事とする。

「先生方はおっしゃいます、“君達は工芸科の学生だ。モルモットかもしれないが、パイオニアだ。図案計画の学生でもなければ、漆芸金工の学生でもないのだ”おおせのとうりです。私は工芸科の学生であることに誇りを持っています。だが先生方の方はどうでしょうか?。自由な話し合いが先生方の間で行われていたら、1・2年では“こういった勉強が実に大切な事だ”と言われ、3年になれば“あんな教育は意味がないよ”と言われながら、なお同じ教育が後輩に行われつつあるというような珍なる現象は起こらないはずです。」教官側の拭い得ぬ旧教官室の垣根と、教官間での討議不足を、皮肉を込めて憂う学生は多かった。

「6年制を前提に工芸科一本化を断行した当事者達の責任に於いて誰でもが学校に残れる制度にして欲しい。そうでもしなければ、今迄のカリキュラムによる工芸科を4年終了しても中途半端な学生にしかなりえない。又、純粋工芸を志す生徒には一流の師と勉強の場を得るか失うかの深刻な問題である。」基礎課程3年・専門課程1年という制度にもの足りなさを感じる学生や、伝統的な工芸を学ぶ事を目的としていた学生にとって、大学院の定員数は重要な問題だったのであろう。

「大学院の目的や内容、方針は出来るだけくわしく又、早く明らかにしてほしいです。」色々な問題が学生にとっては不鮮明に写り、不安感を覚える者も多かった。
「芸大生となって3年、その間の積み重なる不満や不安は工芸科としての教育方針の不徹底に帰依する。関連性なくバラバラと学ぶということは、各科教官相互の不統一は、ある程度追求されても仕方あるまい。4年次になって専攻別にわかれる際、いわゆる人数制限による希望通りにいかない人がでる可能性が大きいが、私は3年間の工芸科教育方針からして、1つの枠にとじこもる必要はないと思うしそのため教官側の強制もあってはならないと考えます。それで、たとえば、陶器とIDといった様に2課程専攻を提案します。」一貫性の見えないカリキュラム、各教官室の意見の相違、専攻の定員制による制限に対する不満や、カリキュラムやシステムに対する提案も幾つかなされていた。

「この混乱は何に起因するか。端的に言えば、それは新しい工芸科(=制度、そこから生まれる工芸家)に対する工芸科の先生方のビジョンの欠如である。そのビジョンが生まれ得ない理由は、必然的な理由で自主的に先生方の手に依ってこの制度へ改革されたのではなくて、天下り的な改革であったためだろう。ある先生いわく、“何でも出来る工芸家、これがこれからの工芸家の姿である”(例えばMaxBillの如く、Stig Lindbergの如く)果してこれが理想像であろうか?このビジョンは新しい制度を採ったが故に、無理に捻出された回答の様に感じられる。又、ある先生いわく、“何でも知っておいて損な事はない。将来何かの役に立つ”ここまで来るともうビジョンなどというものはない。」教官側に対する不信感は様々な表現であらわされている。

 これらのアンケートを突き付けられた教官、とりわけ三井氏の心中は察するにあまりあるものがある。教官側からの物言いはあるとしても、このアンケートの内容はあまりにも生々しいものである。

*5 平松保城 (1926年~ )
*6 加納夏雄 (1828年~1896年)
*7 後藤年彦 (1911年~1962年)
*8 飯野―朗 (1949年~

「造形技術としての『鍛金』の周辺」その2 関井一夫・田中千絵

2016-05-06 11:01:46 | 関井一夫・田中千絵
1998年4月1日発行のART&CRAFT FORUM 10号に掲載した記事を改めて下記します。

造形技術としての『鍛金』の周辺
その2 東京芸術大学
関井一夫・田中千絵


 戦争を挟み美術学校・東京芸術大学の金工(鍛金)の流れが変わる。その流れを、昭和中期(昭和35年~40年[*1])に行われた学制改革を中心にその核となり活動した三井安蘇夫氏の記憶を基に考察することにする。

 昭和16年太平洋戦争勃発。 20年終戦。日本国憲法制定、学校教育制度改革、戦後の復興に伴う産業・経済構造の変化、明治の開国以来とも言える物の考え方や制度の社会・個人レベルでの急激な変化は、美術学校内においても無縁のものではなかった。 24年東京芸術大学設置。戦後欧米の造形教育が流入[*2]。これまでの美術学校工芸科の目的である技術の伝承・保存を中心とする考え方が崩れ始める。

 戦前の教育を美術学校で受けてきた三井氏は素晴らしい技術を持つ先生達の蹟を追って行くことに矛盾を感じることとなる。「何故この様に手間をかけ、この様な物を叩き出して行かなくてはならないのか、果たして技術そのものが芸術なのか、芸術の生命は技術なのかモノなのか」。彼は、技術の伝承・保存を中心とする従来の工芸教育の考え方と、芸術・美術としての工芸、そして新たな産業構造のなかでの工芸、それらの狭間のなかで、新たな鍛金の未来を模索していた。

 昭和28年、助教授に就任した三井氏は、「もはや学生達に左甚五郎を押し付ける時代ではない、技術だけを指導して行けばそれで良いものだろうか?]という疑問に突き当たる。学生達もまた、もっと身近なモノを学びたがっていた。[*3]

 指導者としてまた作家として、彼は意欲的に物事を探求していた。時代は自由・民主主義と言った流れの中、「地金の大きさで創るモノを左右されたくない。何故こんなに小さいモノを、床の問の上だけで考えなくても良いではないか(それまで置物としての鍛金の作品は、床の間に飾ることの出来る大きさにほぼ限られていた[*4])。もっと自由にモノを創りたい。もっと広いサロンまで広げて行きたいし、屋外まで領域を広げて行ったって良いのではないか。その為にはそれらに即応したところの技術を研究しなくてはならない。そうでないとこれからの鍛金(鍛金の新しい歴史)は無くなってしまう。この先鍛金を残すためにはどうすべきか。一つのモノの中に閉じこもってしまったら消えてなくなってしまうだろう、この技術の持つ大きな可能性を引き出せるのは、この芸大の中でしかない[*5]]と彼は考えた。

 三井氏は溶接を鍛金制作の中に積極的に取り入れることを勧める。「奈良の大仏だって方法は違っても溶接を用いた造形だ[*6]。工芸品である高岡の銅器も部分ごとに鋳造し創られ溶接されている。ガス溶接を中心に・機械工具・電気溶接・鍛造機等、学校などの機械設備を試験的に解放してもらい、実験的制作をしてみた結果として、やはり床の間のなかに留まって居る必要はなしと再認識し、これらの技術を使って彫刻に負けないモノを創ってみようじゃないか」と。これに伴い、溶接による部分的組織変化のため従来の色上げ方法に無理が生じ、着色の研究にも発展する。学内において小口八郎氏が現在の『緑青液[*7]』の開発に成功するなど周辺の研究も盛んになってゆく。また従来の制作道具に変わる、産業工具として普及してきた工作機械を、「機械を使うこと・制作することに用いることを主としてではなく、世の中の機械とその技術的能力を学生たちに認識してもらう」ことを目的として導入を計った、しかし、「鍛金の基本的な技術を忘れてはならないしそれを知らなくては動物の足も絞り出せない」と、学生の絞りの技術課題として三足香炉[*8]を残すこととした。これら一連の研究活動と指導により『鍛金技法』の周辺は、『打ち物・鍛治物』といった従来の鍛金制作から、『溶接による作品の大型化、機械による工作、材料・技法の科学的研究』と拡大されて行くことになる。

 さらに制作を学び社会において活動すべき次世代の育成を学制改革という形で試みることとなる。昭和35年から40年の学制改革に関して三井氏は振り返り、「『工芸』の枠を外したかった。『造形』という言葉に大変大きな魅力を感じていて、金属で作る彫刻だという考えもこの中へ(鍛金と言う分野の中へ)入れたかった。これが学制改革の一番大きな要因となった。」と語る。5年間という期限の中で(三井氏は5年と言うが実際はその前後の変換期もあり、もう少し長期に及んだと見られる)三井氏と内藤四郎氏等金工の教官達は大学のシステムを試験的に変えてみた。その考えの根底には、「芸大の講座別と言う大きな縦割りの枠の中でモノを考えている事への疑問」が常に存在していた。「分けないでなんでもやらせてみる。やらせてみた上でその人の能力にあわせて進めて行けばよいのだ。講座に対して学生の枠は設けず一括で摂ってしまえ。そして好きなように選択させてみる。彫刻も陶芸も金工も皆やりたいように3年間やってみる。そしてそれを総括する意味で制作するのが卒業制作である。そのために最終学年を専攻別に分ける。」そう言った考え方を基盤に改革は進められた。

 実際昭和35年度入学の学生からデザインと工芸の総ての講座が一箱になった。4年次に漆・彫金・鍛金・鋳金・陶芸・VD ・ ID(染色を含む)の専攻別に分かれ卒業制作を行った。表向き、美術学部履修案内によればそのシステムは昭和40年まで続きその後最終学年だけでは専門的技術を卒業制作に持って行くことは不可能・時間不足ということで、三年次後半から専門に分かれるという事になったとなっているが、実際は4年次からの専攻別システムは昭和37年までである事が当時在籍していた卒業生のコメントから知ることが出来る。基本として下の学年ではなんでもやらせてみる。そして専攻科で自分の専門に分かれる。従来の縦割りの教育システムではなく、例えば学部はどの講座総てをも自由に学び、大学院に行ってはじめて専門に分かれると言った、学内を大きな並列のシステムに変えるくらいのものを夢見て、またそう言った環境に魅力を抱いていた中堅の教官達と、長くデザインの方で指導してきた教官、また工芸技術の伝承を指導してきた教官等との挟間で、改革は実験的に成されたのだ。

 この改革の教育と言う次元での目的は、「『技術というよりは本当の意昧での芸術を理解して行けるような学生を育て、彼らがきちんとした技術を知った上で造形美術を考えることができるようにならなくてはならない。今までのように技術の伝承・保存に賭ける学生もまた良しとする。その選択は学生の意志に任される。また、教官の側はどのような学生にも対応できるような技術と造形に対する知識を持たなくてはならない。』という所にあった。」のだと三井氏は言う。彼はこの改革の中で自ら実験研究的制作に挑み後輩達に影響を及ぼすとともに、同時代の作家達と共に職人・工人達にない『美術造形』と言う意味での鍛金技術の流れを形成するに至ったと言っても過言ではないであろう。(この改革の後は、昭和41年42年の準備段階・43年からは3年次より完全にデザインと工芸に分かれるシステムとなり、昭和50年、現在のシステムの前進となるデザイン科の分離独立へと向かう。)

 三井氏は、戦前の東京美術学校の教育を受け、明治から大正・昭和そして戦後の鍛金の受け渡しの時期に、もしくは、開国に揺れる明治の美術界に次ぐ、我が国近代における歴史的な第二波としての大きな変動の時代に、鍛金界に強く影響を及ぼし後進を導いた教育者であると同時に作家である。時代は工芸よりもデザインを必要とし、学生もまた工芸よりもデザインを志望する者が多い中、その命題は鍛金の次なる時代での生き残りを賭けた多用性であり、工芸と芸術の融合であった。東京芸術大学で昭和30年代に行われた学制改革と、三井氏を中心とした鍛金教官室における造形指導は、高度経済成長に代表される社会・経済構造の変化により、伝統的な鍛金の仕事が社会的に存在困難となり[*9]、商業的・工業的また一部の地方での伝承工芸的存在となりつつあった中、ある意昧での伝統技術を伝承し、また新しい『造形』としての鍛金の在り方および技術としての存続の流れを創った、大学と言う教育機関の中での工芸技術発達の歴史であり、これは経営・経済を伴わない環境の中であるからこそ成されたことであろう。しかしこの活動なしにして果たして鍛金という技術が単に『社会での伝承』というなかで今日まで存続し『造形技術』として存在するに至ったとは想像しがたい。

 今日、造形的鍛金を学ぶ所は東京芸術大学にのみではなく、様々な大学及び教育機関にも存在する。が、それらにおける指導者の源をたどってみると、多くは東京美術学校および東京芸術大学の卒業生にたどりつくこともまた事実なのである。しかし三井氏は述べる「学制改革の目的は、師範科のように指導者を養成するものではなく、作家を養成するものであった」と。


*1 東京芸術大学履修案内による。

*2 当時の卒業生は、通産省の産業工芸試験所で指導に携わる者も多く、その中から平野拓夫氏(現多摩美術大学立体デザイン科教授)等が学制改革の前段階の時期に工芸科(当時は漆・金工の2講座)、図案科(現デザイン科)の1、2年生の基礎教育でバウハウスの流れをくむデザイン教育に携わることになった。

*3 当時、鍛金の学生であった伊藤廣利氏(現東京芸術大学大学院芸術学科美術教育専攻教授 昭和38年卒)のインタビューをあげることにする。
 「当時、先生方の仕事はデザインと比べて華々しく見えませんでした。花瓶置物といった工芸品をある程度つくって販売業者にもっていっていたようです。我々が満州から引上げ直後に入った住宅にはそれでもまだ『床の間』がありましたが、いわゆる集合住宅になるにつれ『床の間』はなくなって行きました。これは、それまでの工芸品の需要がなくなっていったことを意味します。そして、床の間からぬけでた工芸運動として、現在のクラフト協会の前身であるクラフト運動等が出てきます。住宅の変化は、新たな住空間への新たな市場を求める動きとなったのでしょう。」そして、「私もデザイナーを志した時期もありますが、高度経済成長の中で、実際に『モノを作る』事よりも『デザイン』に重点がおかれた世相でもあり、工芸ジャンルからデザイナーとして業界に入って行く者も多く、それにたる十分な教育を受けていたのも事実です。実際鍛金家として僕の上の世代は、鈴木治平先生(現東京芸術大学名誉教授 昭和27年卒)、新山栄朗先生(現東京芸術大学名誉教授 昭和30年卒)といった方々まで間が開いています。」

 また、当時学制改革中、漆を専攻した増田昌弘氏(昭和40年卒)のインタビューも付け加えることにする。
「36~39年頃は工芸科の学生を中心として『デザイン学生連合会』に参加する動きがありました。これは、早稲田大学・横浜国立大学・教育大学・女子美術大学・武蔵野美術大学・多摩美術大学・日本大学などの学生が集まり、パネラーも公明な学者の方達を交え、『バウハウスデザイン』や『日本建築の流れ』、また『デザインとは何か』と言った事から、『大学とは・人間とは』等と言った事まで、議論・研究・発表するものでした。私も京都で行われた時に旅費を作ってまで参加した事は、今でも思い出深く思っています。」

*4 1枚の地金を継ぎ足さずに、打ち上げて仕上げることが至高の技とされていた。ゆえに物の大きさは地金の大きさに制約されることになる。

*5 この時代、鍛金協会も職人達が商売の方向へ強く向いていったことにより、職人と大学の金工科との隔たりが大きくなり、会の活動は衰退してゆくことになる。そして、研究というある意味では社会における直接的な経済活動と一線を画するとろである大学において、次の時代を模索する試みを行うこととなる。

*6「鋳掛け」と言う、溶けた鋳を接合箇所にかけることにより溶着し、繋ぎ合わせる古典技法。

*7 塩化アンモニウム・硝酸銅・酢酸銅・硫酸アルミニウムカリウムなどの化学薬品を調合し、化学的に銅の錆である緑青をふかせる液体。

*8 鍋・壷などを制作する円形絞り(回転体を成型する技法)と置物などを制作する変形絞り(非回転体を成型する技法)の両方の技法を合わせ持つ課題。一枚の地金から三本の足を絞リだしながら回転体状の本体を打ち上げ、さらに、おとし・火屋(ほや)・げじょうといった合わせものを同時に学ぶ課題

*9 既に明治期に入り幕府が後退、封建制度が崩れ明治政府のもとで西洋の文物・制度が導入され、生活様式は変化し、工芸界も幕府という大きな後ろだてを失った時点で、その技術的発展は危うくなっていたのだが。


参考資料
東京芸術大学美術学部履修案内
東京芸術大学同窓会名簿
「東京芸術大学略年譜」(東京芸術大学創立百周年記念展図録より)昭和62年 東京  芸術大学・朝日新聞社
青木 宏「拡大する鍛金一三井安蘇夫とその後継者たち」
前澤 敏編「三井安蘇夫年譜」(拡大する鍛金/三井安蘇夫とその後継者たち展図録より)平成5年 栃木県立美術館

「造形技術としての『鍛金』の周辺」 関井一夫・田中千絵

2016-04-10 09:57:22 | 関井一夫・田中千絵
1997年10月25日発行のART&CRAFT FORUM 9号に掲載した記事を改めて下記します。

造形技術としての『鍛金』の周辺
その1 東京美術学校・明治から昭和   
関井一夫・田中千絵

はじめに

 この研究は、作り手である鍛金家として、自らの制作の根源である『鍛金』の歴史的系譜を調査しようと試みたものである。
 『鍛金』という一般的に耳慣れない工芸ジャンルは、近年少数の作家達によりマスメディアの中に活字・映像というかたちで現れ出してきた。しかしその認識はいまだマイノリティーの域を脱するものではない。我々が知る限り、我が国の「打ち物技術」は世界に誇り得る現存する技術であるにも関わらずである。
 我々は母校である東京芸術大学に於いて初めて鍛金という造形技法にふれたが、東京芸術大学の前進である東京美術学校が、我が国に於ける鍛金「打ち物」技術の伝承・保存・展開に大きく関わってきた(もしくは東京美術学校なくしては我が国の鍛金技術や現在の鍛金家の存在さえも危ぶまれた)事実を知ることになった。
 今回は、我々の共同研究調査及び、美術教育研究会第二回研究大会(平成8年11月2日)に於いての田中千絵による口述発表『大学に於ける技術と造形の教育及びその周辺-鍛金という技術をめぐって-』を基に、追加研究し文章化したものである。
平成9年9月30日

 なを以下の研究調査は東京芸術大学名誉教授である鍛金家・三井安蘇夫氏在学中(昭和27年~53年)の事項に関しては、去る1996年7月30日、三井安蘇夫氏宅にて行われたインタビューの内容に基づくものである。

 日本の誇れる技である『打ち物』は、昔奈良時代以前は銅師(あかがねし)と呼ばれる人々の仕事であった。その術に工芸技法の分類に於ける『鍛金[*1]』という名称が与えられたのはかなり最近であるらしく、明治以降とも言われている。そこで鍛金技術の歴史的検証を目的に、明治期及び戦中戦後の鍛金技法の実態とその土壌の調査を進めるにつれ、東京芸術大学という教育機関がこの技法の発展及び造形技術としての展開に多大な影響を及ぼした事が明らかになってくる。

 先ず明治維新後の金工全体の流れを見てみたい。銅器・青銅器とも海外輸出品の一つとなり、京都・大阪・東京・富山・新潟・石川などで盛んに産出されていた。特に打ち物に関しては、大阪に前代より住友の製錬所があり銅板・銅製品が産出されていたが、維新後は一層生産が盛んになる。しかし美術品の産地となると京都・東京・金沢が中心で、京都では装刀工(刀の装飾に携わる工人)を集め銅製篭式のような物が生産・海外に輸出されていた。また東京に於いては様々な金工家が腕を競っており、彫金の象嵌の技にたけた加納夏雄や海野勝民などは後にその腕を買われ東京美術学校の彫金科の指導者となる。銅器としては埼玉県松山の岡野東龍斎の弟子の鈴木長吉(パリ万博に孔雀雌雄を出品)が名を成していた。しかし、どちらにせよ東京の金工が発展したのは、起立商工会の力と東京金工会・鎚工研究会なるものの起こりに頼るところが大きい。金沢は加賀象嵌と称する装剣具や鎧などを創る職人が元来多く、維新後も名工と呼ばれた人たちに、水野源六・山川孝次などがいる。彼等を中心に金沢銅器会社が起こり仏国・米国などに輸出し隆盛をきわめたが、明治16年輸出を担当していた人物が事業を中止(理由不明)。これを機に衰退。金沢市内で日用品を創るほどになってしまう。また大聖寺と言う所には、山田長三郎という面頬師(兜の顎・頬を覆う部分を鉄を素材として打ち・絞り出す)の家柄末期の職人がおり、鉄で頬当などを創る流れの仕事をする者で、花瓶や香炉などを創る以外に動物や鳥を鉄またそれ以外の金属を用いて創ることを得意としていたが若干46歳にて他界。後継者については存在するようだが特に取り上げて技術を伝承・発展させたという事実は見当たらない。その他、高岡では輸出品の生産が盛んで長く続き、また国内向けには開義平・民野照親などが精巧な品を産出。以来高岡は銅器鋳物に於ける一大産地となっている。また、新潟燕町(市)では文政12、3年頃から玉川覚治郎(玉川堂と呼ぶ)が京都で修業した後、厨房用の割烹具打ち物の製造販売を始め、二代目に至っては銅器・銀器で茶具やその他の装飾具・文房具類を生産。同業者もこれに習い地場産業として流行り、維新の波に一時期衰退はしたものの盛運をきわめる。しかし明治18・9年に衰賓に傾き21年頃には少々回復したが、玉川堂(玉川覚治郎)は昭和の初め横浜に移住したと金子清次の著書『日本金工史沿革[*2]』に記している。現在も燕市にはその流れの玉川堂があり日本各地に銅・銀等の打ち物(やかん・茶托など)を送りだしている。
 さて、そのような時代に(明治20年)東京美術学校・美術工芸科(金工・漆)が創設されるのだが、フェノロサや岡倉天心は当時「日本では古来、美術と工芸とは一体のものとして発展してきたのであるから、西洋のように美術と工芸に優劣を付けて区別することはせず、自国の良き伝統を生かして将来も両者を総合的に発展させるべきである。[*3]」と考えていた。
 明治28年に鍛金科を開設するにあたって、天心は鉄の仕事も銅の仕事も取り入れ日本の誇る刀剣技術と打ち物(あかがね)師の技術の伝承を目的とし指導する方向であった。どちらかというと(かなりの比重で)刀剣類を美術学校内で打たせることを目的としていた。これは先の日清戦争後の刀剣類に対する再評価の機運に乗じたものとする見方があった事が当時の新聞(明治28年6月3日報知新聞)から考察される。しかし、明治4年に既に廃刀令が出ていることもあり、時代錯誤であるという周囲の意見などにより実現せず。鍛金科の指導者としては準備段階から刀鍛冶の桜井征次(天皇銀婚式献上太刀の制作などに関わった人物)を嘱託としていたが、指導者として28年に平田宗幸、30年には藤本万作が呼ばれ(両者とも平田派の打ち物師)、以来美術学校またそれに続く東京芸術大学の鍛金科は、平田派[*4]の流れを汲むこととなる。
「美術学校の工芸部からはじめて卒業生を出したのは明治27年3月からで(当時はまだ鍛金科は無かったが)それらが頭角を現して工芸界から認められかけたのは明治末期から大正にはいってからで、美術の隆盛につれて知られかけたのであるが、何れも15年20年の研究を積んだ後のことで、絵画や彫刻と違った技巧のこそを築かなくてはならぬ用意を要したのである。」と香取秀香は著書である『金工史談[*5]』のなかで述べている。また工芸各科の概略として鍛金について「槌起工は専ら彫金科の下地の花瓶を鎚鍛して足りとしていた様で、その替わりに朧銀[*6]の如き困難なものも鎚起しうる有様であった、鈴木翁斎・同長二斎などがいた。其の間また切嵌を以て有名な黒川勝榮(大正6年卒)があり、専ら鐵を用いて動物の全形を鎚出して空前の奇工の加賀の山田長二郎宗美(大正5年卒)があり、平田重光・平田宗行(大正9年卒)は銀銅の鎚起で名を成し、門人が今に多い。鎚起は大いに発展すべくして遂にせづに終わった状態である。」と考察している。つまり技術の伝承と保存においては素晴らしいものもあったが、発展・進歩という意味においては彼の期待ほどではなかったらしい。
 この様に技術の伝承・保存中心の指導で、しかも世の中の工芸界に頭角を出すまでに、短期間では成せる技ではないものを専門とする(鍛金を含む)この工芸部に関して、美術として認めたがらぬ人間も現在と同様存在した。明治32年黒田清輝は『美術教育に関する意見書[*7]』で『美術と工芸とに厳正なる分離をなすべし』という一項を掲げている。美術学校創設の際のフェノロサや天心の述べた意見に真っ向から反し、彼らの考え方を誤診であると断定し、本校は『純正美術』の開発のみに全力を注ぎ、工芸部門は排除すべきであると主張した。(この黒田の行動は彼が明治17年よりパリヘ留学していたという経緯から見て、西洋的概念に感化されてのことと言えよう)そして文部省専門学務局長の上田万作と工芸分離の準備を始めていたが、中途で断念している。(関係事項については大村西崖が時事日報明治32年8月7日に執筆している)もし工芸科自身が技術の伝承のみに執着し続けていたとしたら、彼らの様な工芸分離主義者的思想を持つ人々により、美術学校から工芸科は排除されていたと考えられる。
 純正美術と工芸の関係がそのようであった時代に、職人(工人)と美術学校の金工科との関係はどうであったか。技術的に隔たりは当初存在せず、また指導者も工人(世の中で言う美術家ではなく、打ちもの師や刀鍛冶)であった為、当たり前のように両者間には交流が存在していた。因みに金工協会が明治33年に発足。大正初めに三分し、その中の一つであった鍛金懇話会が鍛金における交流であり、大正13年に鍛金協会となったのである。後に職人達と工芸家達との考え方の隔たりが生まれ広がり衰退へと向かうまで続く事となる。
 昭和前期(此の調査研究に於いて多くの証言を下さった三井安蘇夫氏が美術学校に入学した頃)鍛金科はここまでに述べた明治期の延長であり、下地師のイメージから抜け出ぬ、また平田松堂・石田英一・津田信夫などの技術の伝承に優れた指導者達が教授・助教授であった時代である。
 ここまでが明治末期から戦前の流れとなる。

*1 現在『鍛金』技法は大きく二つに大別される。一つは塊材を叩き成型する「鍛造」 (鍛治物)、一つは、圧延した板材を叩き成型する「絞り」(打ち物)である。
*2 金子清治『日本工芸史沿革』昭和11年3月共立社
*3 東京芸術大学百年史第一巻
*4 平田家は初代禅之丞のもと江戸中期に興り(甲冑師であったようである)、徳川後期に金銀神器を作り幕府御用打ち物師となる。明珍派・長寿斎派と共に古来の鍛金技術伝承の重要な役割を果たす。宗幸は五代金之助の養嗣子である。
*5 香取秀真『日本金工史談』昭和16年桜書房
*6 ロウギン別名『四分一』 Cu3:Ag1の硬い銅合金
*7 明治23年4月9日付

参考資料
金子清治『日本工芸史沿革』共立社
香取秀真『日本金工史談』桜書房
香取秀真『日本金工史』雄山閣
藤本長邦『鎚起の沿革』日本鍛金工芸会
村田哲朗編『東京芸術大学関連年表』
『東京芸術大学百年史 第一巻』ぎょうせい