1998年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 12号に掲載した記事を改めて下記します。
「造形技術としての『鍛金』の周辺」 その4 学制改革以降
関井一夫・田中千絵
学制改革直後の1960年代後半、さらなる変革の時期を迎えていた。この時期の学生も、高度成長期の中、作家になって活躍しようというよりも、デザイナーとして素材を知り応用しようという気質であった[*1]。この時代に同級生として鍛金に在籍していた、現在の東京芸術大学工芸科鍛金教授である宮田亮平氏と、鍛金作家である橋本真之氏に当時の証言を頂くことにした。
学制改革により工芸科の鍛金研究室を中心とした一部の研究室は、その指導体制を新たな時代の方向に修正する形で進んでいた。作品の大型化を促進させる事となるアルゴン溶接機・電気溶接機の導入は、宮田・橋本両氏の学生時代に行われている。アルゴン溶接機導入以前は、鉄材を溶接する為の酸素溶接機は既存していたが、非鉄金属は銀鑞を用いた接合方法が主流であり、銅の溶接は行われておらず、大型の作品は銅線を絡げて、材料が高温になっても歪まない工夫をし、鑞付けをしていた [*2]。アルゴン溶接機導入当初も銅板の平付け[*3]は、機械や技術の問題からか、容易に行われることが出来ず、三井氏の1965年以降の作品に見られる様に、接合箇所のお互いを櫨折りし[*4]溶接する事から始められたらしい。この三井式とも呼ばれる接合方法[*5]も、以前の、銀鑞接合した蹟を酸素溶接で表面をなめて接合箇所に銀鑞の色が出ないようにしていた方法から応用されたそうである[*6]。
アルゴン溶接の平付けが可能になると、いよいよ作品の大型化が進み、それに伴い当て金の大型化、さらに当て盤の導入へと進む事になる。従来の大きさの作品(いわゆる当時の日展作品、言い換えれば床の間サイズ)を制作する作業は、畳の上で低い木台に中型程度までの大きさの当て金を据えて、座り姿勢で行うものであったが、これ以降は、鉄材鍛造作業の様に立ち姿勢の、土間で大型の木台と当て金を使用する作業へと、制作環境の中心が移行する事となった。当て盤も、当初は溶接箇所を目立たなくするために均―に慣らす作業を主たる用途とされていたが、橋本氏のように当て金の拘束[*7]から解き放たれ、当て盤で絞るという制作法に進展することになる[*8]。
当て盤という道具は、元来板金工作道具として板金加工の世界で広く用いられていたものだが、東京芸術大学での導入の経路は定かではない。伊藤廣利氏によると、「山下恒雄氏 [*9]が学外で自動車のデザイン関係の仕事に従事していた経験から持ち込まれた」らしい。橋本氏の記憶では「鍛金教室の廊下に当て盤を使って制作している写真パネルが掲示されていた」そうである。しかしその使用について実際指導を受けた経験は宮田・橋本両氏ともなく、宮田氏によると「板金工の使う中でもオーソドックスなものが1・2種研究室にある程度であった」。板金工の世界で板金を加工する範囲は、折る・曲げる・張らせる・突き出すといった技法が主で、御輿や銅屋根の一部に見られる飾を扱う飾職を除いて、鍛金のような一枚絞りによる絞り技法は範疇外のものであった。東京芸術大学の鍛金は、元々工業用に開発されたアルゴン溶接機と、在野の板金工が主に用いた当て盤を、従来の伝統的鍛金制作法に加える形で導入し、今日見られる鍛金の技術が展開される事となったのである。
現在の鍛金にたどりつくまでには、これら技術の導入と別にもう一つの重要な要素が存在していた。それは、学制改革が大学側からの制度改革の提唱であったのと反対に、学生側からの従来のカリキュラムに対する反発である。
デザイナーを目指す多くの学生にとって、旧来の技法重視のカリキュラムは古臭いものとしか写らず、彫刻的造形を目指す学生にとっても、工芸の範疇に治まる鍛金は技法を重視し過ぎ、敬遠されるものがあった。時は70年安保の時代、東京芸術大学でも他大学の如く学園封鎖が起きたが、その論点の中心は「カリキュラムの自由化という問題であった(橋本氏談)」そうである。当時学生部長を兼任していた三井氏は、大学側の窓口に立つ事となり大いに頭を悩ませたようである[*10]。大学封鎖があったからとは言えないが、結局学制改革における三井氏の方針により鍛金の絞り技法習得において重要とされ残されていた三足香炉の課題も、昭和40年度生を最後に無くされる事となった。反して同氏の提案により、工業的技術に触れる事を目的として導入された機械類の造形制作への利用が盛んになった。アルゴン溶接機などの溶接技術はその最たるものであった。
三井氏はカリキュラムに反発する学生の声も聞き入れる形で、更にカリキュラムを改編し鍛金研究室の改革を行っていった。そういった姿勢が、「鍛金は自由だ、やりたい事が出来る」という学生の空気を生み出したが、三井氏にとっては学制改革時から試行錯誤の連続であり、あたかも鍛金という巨漢力士と芸大という土俵で相撲をとるようなものだったのであろう。しかし、そういった長い年月の葛藤の中から、グラフィックデザインや[*11]金属をベースにした空間デザインという道に進んだ学生が育ち、更に望月菊磨氏[*12]をはじめとする現代彫刻・現代美術に進出する卒業生や、安藤泉氏[*13]のような巨大な具象野外彫刻を制作する卒業生を輩出するところに至り、三井氏の「作家を養成したい」という想いが実りはじめたのである[*14]。
三井氏が東京芸術大学を退官し20年あまりが過ぎ、氏も今年88歳を迎えた。かっての東京芸術大学鍛金研究室における技術革新は、鍛金造形の可能性を飛躍的に拡大し、そこから更なる造形の展開を引き出す者を生み出した。また以前に述べたように当時の卒業生を中心としてその鍛金の技術は、各地の大学をはじめとする教育機関にも受け継がれ、鍛金を造形の中心に据える新たな若き作家が育っている。
広大な造形世界の中で三井安蘇夫氏の蒔いた一握りの種は、それぞれが独自に、または融合分裂し、純正種や変種を生み出しながらも増殖して行くことであろう。またその継承者であるか否かという事は、「鍛金からものを考える自覚を持ち得るか否かという事」から考察できよう。我々の三井安蘇夫氏の東京芸術大学での活動を中心とした今回のシリーズの文章は、橋本氏の以下の言葉で締め括りたい。
「技術は発明や発見が重要なのではなく、実はその人にとってどういう思想的な絡みをもった造形技術であるかということが問題なのである」
*1 宮田氏は「資生堂・伊勢丹の建装部(ファニチャー)・・・、建築関係・デザイン関係・メイカー・ディスプレイなどのカタカナ関係の仕事に鍛金の同級生の9人中6人は進んで行きました。私も例に漏れずデザイナーとしての道を在学中から既に進み初めていましたが、ひょんな事から大学院へ進学し、修了後でもデザインの道へは進めるしと思いながら過ごした時期があります。」と語った。
*2 1963年の伊藤廣利氏卒業制作<地の魔よけ:東京芸術大学資料館蔵>に見る事ができる。
*3 板材の切り口(小口)同志を接合する事。
*4 板材の小口の近くで直角に折り返したもの同志を合わせ、小口部分を上から溶かし込み溶接していた。(三井氏の作品を参照のこと)
*5 三井氏は接合により作品を大型化する際に、安易な溶接によリー枚絞りの技術が損なわれないように、接合される形態に特別の注意をはらい、一つの戒めとして、意匠的な考慮のもと接合していた。「もし将来私の作品が遺物として発掘された時、溶接箇所が朽ちて部分としてしか残らなかったとしても、それ自体でも美しさを表す事を考えて個々の部分の形を作っています(三井氏談)」
*6 三井氏を中心とした当時の研究室スタッフの、この作業を実際に見ていた橋本氏は、それらの経験や数少ない文献の一部から、酸素溶接による銅板の溶接技法を独学で考案する。
*7 作品がさらに大型化すると制作中の作品自体を容易に動かす事が困難になり、制作者自らが作品に合わせて叩く位置や姿勢を変化させなくてはならず、大型の当て金でさえも融通がきかなくなる。結果としてよリフレキシブルに造形部分に適応するための当て盤が必要になってくる。
*8 当て盤による金属板加工の歴史は古く、ヨーロッパでは自動車のボディーの制作として行われており、その時点で当て盤で絞るという技法もあったのではなかろうか。しかし、その事柄と橋本氏の当て盤で絞るという事には大きな隔りがある。それは、デザインされたフォルムを金属板に置き換えるという生産行為の上で扱われた技術と、氏のように造形運動から必然的に導き出された技術の違いという点ではなかろうか。橋本氏自身「私は実際に見聞きしていないが、同一の道具を扱う方法がおそらく、ヨーロッパと私とでは異なる質の方法として成立しているはずである」と述べている。また、橋本氏が『当て盤絞り』という言葉で語る場合、重要な点は、当て盤で絞るという事が自らの体(当て盤を持つ左腕を物理的作業に耐え得るべく鍛える事)と造形理論(氏にとっての運動膜という造形概念における、造形フォルムとしての軸線をさらに展開する事)の中で技術として熟成し、従来の当て金という道具を基準とした制作技法から跳躍した事を意味する。
*9 山下恒雄 元東京芸術大学工芸科鍛金教授、1998年没
*10 橋本氏は当時の学生集会に参加していたため、封鎖をした学生当事者と話す事が出来る立場にあり、三井氏と学生の間のやり取りをする立場に置かれたとのことである。「私は、絵描きになる為の親に対する方便として、工芸科に進みグラフックデザインをやりながら絵描きになろうといった考えで高校生時代を終り、そのまま現役で入ってしまったので、入学後とても自分はデザインには向かないと知り、絵描きを目指すため学校帰りに太平洋美術学校へ通っていたのですが、内臓を壊して、油絵の具や解き油の臭を受け付けられない体になってしまいました。そんな時専攻に別れる前の実習で陶器と鍛金を選んだのですが、ろくろの前で屈んで長時間作業する事も体のせいで難しく、たまたま三井先生のいらした鍛金の雰囲気が、拘束される感じが少なく居心地が良さそうに感じました。その時の課題も自由なものだったので、自分はすぐにリンゴを作りました。夏休み前にもう一度三井先生にお願いして、リンゴの仕事の手直しを一夏鍛金で制作させてもらったのです。三井先生からも絵描きになるのでもいいから来なさいと勧められましたが、その夏の仕事の結果、ここでならやれそうな気がしたので自分で鍛金を選ぶことにしました。たまたま鍛金を選んだ同級生が10名もいて、研究室から机が足りないので自分達で人数をなんとかしろと言われたんですが、だったら机なんかいらないから、その代わり何処で仕事をしてもいいように自由にフラフラさせてくれと提案したところ、自ら辞退した1名以外は全員受け入れてもらえたいきさつがあります。そんな訳で人体塑像が勉強したいと三井先生に持ち掛けると何処何処の先生のところで今出来るぞとか、版画なら何処何処という具合に勉強する場を探してきてくれたのです。大学封鎖の時も先生は、心労から胃潰瘍になっていたと思います。私自身は制作する事に没頭して、鍛金の充足感を感じ始めていましたし、単位なんて欲しくもないと思っていましたから、封鎖をしてどうなるものでもないという立場でした。ところが封鎖をしている学生達と交流があったためでしょうか、夕方になると教官室に呼ばれて、先生から、封鎖をしている学生達にこういう事ならどうだろうか?ともちかけられ、いやこうじゃないですかというと、先生は、そんなのダメだという具合で、そういう内容を、大学側はこう言っていると当事者達に伝える。そんな事をするはめになってました。」
*11 市川多喜次氏 (昭和40年入学) などデザイン関係の卒業生は多岐に及ぶ。
*12 望月菊磨 (1945年~ ) 昭和40年入学 宮田・橋本両氏の1学年上にあたる
*13 安藤泉 (1950年~ ) 昭和45年入学
*14 三井氏にとって「作家を養成したい」という事は必ずしも大学教授としての思いの全てではなかったであろう。鍛金という彼の学んできた造形技術を後世に伝えるべく、そして更なる発展を願い模索した努力は、デザインの世界に進む学生に対しても等しく与えられ、また、鍛金関係の研究執筆活動の中にも現れている。様々な形で鍛金の次世代での生き残りを賭けた彼の活動が一握りの鍛金作家輩出の為だけに向けられたとは考えにくい。ただ結果として、三井氏が退官後も作品制作を継続し、定年の無い職業としての作家という立場から感じられた、同じ作家としての後輩達という思いが、そこに表れているようである。
★前回のサブタイトル「その3東京芸術大学」は「その3 学制改革」でした訂正してお詫び致します。
「造形技術としての『鍛金』の周辺」 その4 学制改革以降
関井一夫・田中千絵
学制改革直後の1960年代後半、さらなる変革の時期を迎えていた。この時期の学生も、高度成長期の中、作家になって活躍しようというよりも、デザイナーとして素材を知り応用しようという気質であった[*1]。この時代に同級生として鍛金に在籍していた、現在の東京芸術大学工芸科鍛金教授である宮田亮平氏と、鍛金作家である橋本真之氏に当時の証言を頂くことにした。
学制改革により工芸科の鍛金研究室を中心とした一部の研究室は、その指導体制を新たな時代の方向に修正する形で進んでいた。作品の大型化を促進させる事となるアルゴン溶接機・電気溶接機の導入は、宮田・橋本両氏の学生時代に行われている。アルゴン溶接機導入以前は、鉄材を溶接する為の酸素溶接機は既存していたが、非鉄金属は銀鑞を用いた接合方法が主流であり、銅の溶接は行われておらず、大型の作品は銅線を絡げて、材料が高温になっても歪まない工夫をし、鑞付けをしていた [*2]。アルゴン溶接機導入当初も銅板の平付け[*3]は、機械や技術の問題からか、容易に行われることが出来ず、三井氏の1965年以降の作品に見られる様に、接合箇所のお互いを櫨折りし[*4]溶接する事から始められたらしい。この三井式とも呼ばれる接合方法[*5]も、以前の、銀鑞接合した蹟を酸素溶接で表面をなめて接合箇所に銀鑞の色が出ないようにしていた方法から応用されたそうである[*6]。
アルゴン溶接の平付けが可能になると、いよいよ作品の大型化が進み、それに伴い当て金の大型化、さらに当て盤の導入へと進む事になる。従来の大きさの作品(いわゆる当時の日展作品、言い換えれば床の間サイズ)を制作する作業は、畳の上で低い木台に中型程度までの大きさの当て金を据えて、座り姿勢で行うものであったが、これ以降は、鉄材鍛造作業の様に立ち姿勢の、土間で大型の木台と当て金を使用する作業へと、制作環境の中心が移行する事となった。当て盤も、当初は溶接箇所を目立たなくするために均―に慣らす作業を主たる用途とされていたが、橋本氏のように当て金の拘束[*7]から解き放たれ、当て盤で絞るという制作法に進展することになる[*8]。
当て盤という道具は、元来板金工作道具として板金加工の世界で広く用いられていたものだが、東京芸術大学での導入の経路は定かではない。伊藤廣利氏によると、「山下恒雄氏 [*9]が学外で自動車のデザイン関係の仕事に従事していた経験から持ち込まれた」らしい。橋本氏の記憶では「鍛金教室の廊下に当て盤を使って制作している写真パネルが掲示されていた」そうである。しかしその使用について実際指導を受けた経験は宮田・橋本両氏ともなく、宮田氏によると「板金工の使う中でもオーソドックスなものが1・2種研究室にある程度であった」。板金工の世界で板金を加工する範囲は、折る・曲げる・張らせる・突き出すといった技法が主で、御輿や銅屋根の一部に見られる飾を扱う飾職を除いて、鍛金のような一枚絞りによる絞り技法は範疇外のものであった。東京芸術大学の鍛金は、元々工業用に開発されたアルゴン溶接機と、在野の板金工が主に用いた当て盤を、従来の伝統的鍛金制作法に加える形で導入し、今日見られる鍛金の技術が展開される事となったのである。
現在の鍛金にたどりつくまでには、これら技術の導入と別にもう一つの重要な要素が存在していた。それは、学制改革が大学側からの制度改革の提唱であったのと反対に、学生側からの従来のカリキュラムに対する反発である。
デザイナーを目指す多くの学生にとって、旧来の技法重視のカリキュラムは古臭いものとしか写らず、彫刻的造形を目指す学生にとっても、工芸の範疇に治まる鍛金は技法を重視し過ぎ、敬遠されるものがあった。時は70年安保の時代、東京芸術大学でも他大学の如く学園封鎖が起きたが、その論点の中心は「カリキュラムの自由化という問題であった(橋本氏談)」そうである。当時学生部長を兼任していた三井氏は、大学側の窓口に立つ事となり大いに頭を悩ませたようである[*10]。大学封鎖があったからとは言えないが、結局学制改革における三井氏の方針により鍛金の絞り技法習得において重要とされ残されていた三足香炉の課題も、昭和40年度生を最後に無くされる事となった。反して同氏の提案により、工業的技術に触れる事を目的として導入された機械類の造形制作への利用が盛んになった。アルゴン溶接機などの溶接技術はその最たるものであった。
三井氏はカリキュラムに反発する学生の声も聞き入れる形で、更にカリキュラムを改編し鍛金研究室の改革を行っていった。そういった姿勢が、「鍛金は自由だ、やりたい事が出来る」という学生の空気を生み出したが、三井氏にとっては学制改革時から試行錯誤の連続であり、あたかも鍛金という巨漢力士と芸大という土俵で相撲をとるようなものだったのであろう。しかし、そういった長い年月の葛藤の中から、グラフィックデザインや[*11]金属をベースにした空間デザインという道に進んだ学生が育ち、更に望月菊磨氏[*12]をはじめとする現代彫刻・現代美術に進出する卒業生や、安藤泉氏[*13]のような巨大な具象野外彫刻を制作する卒業生を輩出するところに至り、三井氏の「作家を養成したい」という想いが実りはじめたのである[*14]。
三井氏が東京芸術大学を退官し20年あまりが過ぎ、氏も今年88歳を迎えた。かっての東京芸術大学鍛金研究室における技術革新は、鍛金造形の可能性を飛躍的に拡大し、そこから更なる造形の展開を引き出す者を生み出した。また以前に述べたように当時の卒業生を中心としてその鍛金の技術は、各地の大学をはじめとする教育機関にも受け継がれ、鍛金を造形の中心に据える新たな若き作家が育っている。
広大な造形世界の中で三井安蘇夫氏の蒔いた一握りの種は、それぞれが独自に、または融合分裂し、純正種や変種を生み出しながらも増殖して行くことであろう。またその継承者であるか否かという事は、「鍛金からものを考える自覚を持ち得るか否かという事」から考察できよう。我々の三井安蘇夫氏の東京芸術大学での活動を中心とした今回のシリーズの文章は、橋本氏の以下の言葉で締め括りたい。
「技術は発明や発見が重要なのではなく、実はその人にとってどういう思想的な絡みをもった造形技術であるかということが問題なのである」
*1 宮田氏は「資生堂・伊勢丹の建装部(ファニチャー)・・・、建築関係・デザイン関係・メイカー・ディスプレイなどのカタカナ関係の仕事に鍛金の同級生の9人中6人は進んで行きました。私も例に漏れずデザイナーとしての道を在学中から既に進み初めていましたが、ひょんな事から大学院へ進学し、修了後でもデザインの道へは進めるしと思いながら過ごした時期があります。」と語った。
*2 1963年の伊藤廣利氏卒業制作<地の魔よけ:東京芸術大学資料館蔵>に見る事ができる。
*3 板材の切り口(小口)同志を接合する事。
*4 板材の小口の近くで直角に折り返したもの同志を合わせ、小口部分を上から溶かし込み溶接していた。(三井氏の作品を参照のこと)
*5 三井氏は接合により作品を大型化する際に、安易な溶接によリー枚絞りの技術が損なわれないように、接合される形態に特別の注意をはらい、一つの戒めとして、意匠的な考慮のもと接合していた。「もし将来私の作品が遺物として発掘された時、溶接箇所が朽ちて部分としてしか残らなかったとしても、それ自体でも美しさを表す事を考えて個々の部分の形を作っています(三井氏談)」
*6 三井氏を中心とした当時の研究室スタッフの、この作業を実際に見ていた橋本氏は、それらの経験や数少ない文献の一部から、酸素溶接による銅板の溶接技法を独学で考案する。
*7 作品がさらに大型化すると制作中の作品自体を容易に動かす事が困難になり、制作者自らが作品に合わせて叩く位置や姿勢を変化させなくてはならず、大型の当て金でさえも融通がきかなくなる。結果としてよリフレキシブルに造形部分に適応するための当て盤が必要になってくる。
*8 当て盤による金属板加工の歴史は古く、ヨーロッパでは自動車のボディーの制作として行われており、その時点で当て盤で絞るという技法もあったのではなかろうか。しかし、その事柄と橋本氏の当て盤で絞るという事には大きな隔りがある。それは、デザインされたフォルムを金属板に置き換えるという生産行為の上で扱われた技術と、氏のように造形運動から必然的に導き出された技術の違いという点ではなかろうか。橋本氏自身「私は実際に見聞きしていないが、同一の道具を扱う方法がおそらく、ヨーロッパと私とでは異なる質の方法として成立しているはずである」と述べている。また、橋本氏が『当て盤絞り』という言葉で語る場合、重要な点は、当て盤で絞るという事が自らの体(当て盤を持つ左腕を物理的作業に耐え得るべく鍛える事)と造形理論(氏にとっての運動膜という造形概念における、造形フォルムとしての軸線をさらに展開する事)の中で技術として熟成し、従来の当て金という道具を基準とした制作技法から跳躍した事を意味する。
*9 山下恒雄 元東京芸術大学工芸科鍛金教授、1998年没
*10 橋本氏は当時の学生集会に参加していたため、封鎖をした学生当事者と話す事が出来る立場にあり、三井氏と学生の間のやり取りをする立場に置かれたとのことである。「私は、絵描きになる為の親に対する方便として、工芸科に進みグラフックデザインをやりながら絵描きになろうといった考えで高校生時代を終り、そのまま現役で入ってしまったので、入学後とても自分はデザインには向かないと知り、絵描きを目指すため学校帰りに太平洋美術学校へ通っていたのですが、内臓を壊して、油絵の具や解き油の臭を受け付けられない体になってしまいました。そんな時専攻に別れる前の実習で陶器と鍛金を選んだのですが、ろくろの前で屈んで長時間作業する事も体のせいで難しく、たまたま三井先生のいらした鍛金の雰囲気が、拘束される感じが少なく居心地が良さそうに感じました。その時の課題も自由なものだったので、自分はすぐにリンゴを作りました。夏休み前にもう一度三井先生にお願いして、リンゴの仕事の手直しを一夏鍛金で制作させてもらったのです。三井先生からも絵描きになるのでもいいから来なさいと勧められましたが、その夏の仕事の結果、ここでならやれそうな気がしたので自分で鍛金を選ぶことにしました。たまたま鍛金を選んだ同級生が10名もいて、研究室から机が足りないので自分達で人数をなんとかしろと言われたんですが、だったら机なんかいらないから、その代わり何処で仕事をしてもいいように自由にフラフラさせてくれと提案したところ、自ら辞退した1名以外は全員受け入れてもらえたいきさつがあります。そんな訳で人体塑像が勉強したいと三井先生に持ち掛けると何処何処の先生のところで今出来るぞとか、版画なら何処何処という具合に勉強する場を探してきてくれたのです。大学封鎖の時も先生は、心労から胃潰瘍になっていたと思います。私自身は制作する事に没頭して、鍛金の充足感を感じ始めていましたし、単位なんて欲しくもないと思っていましたから、封鎖をしてどうなるものでもないという立場でした。ところが封鎖をしている学生達と交流があったためでしょうか、夕方になると教官室に呼ばれて、先生から、封鎖をしている学生達にこういう事ならどうだろうか?ともちかけられ、いやこうじゃないですかというと、先生は、そんなのダメだという具合で、そういう内容を、大学側はこう言っていると当事者達に伝える。そんな事をするはめになってました。」
*11 市川多喜次氏 (昭和40年入学) などデザイン関係の卒業生は多岐に及ぶ。
*12 望月菊磨 (1945年~ ) 昭和40年入学 宮田・橋本両氏の1学年上にあたる
*13 安藤泉 (1950年~ ) 昭和45年入学
*14 三井氏にとって「作家を養成したい」という事は必ずしも大学教授としての思いの全てではなかったであろう。鍛金という彼の学んできた造形技術を後世に伝えるべく、そして更なる発展を願い模索した努力は、デザインの世界に進む学生に対しても等しく与えられ、また、鍛金関係の研究執筆活動の中にも現れている。様々な形で鍛金の次世代での生き残りを賭けた彼の活動が一握りの鍛金作家輩出の為だけに向けられたとは考えにくい。ただ結果として、三井氏が退官後も作品制作を継続し、定年の無い職業としての作家という立場から感じられた、同じ作家としての後輩達という思いが、そこに表れているようである。
★前回のサブタイトル「その3東京芸術大学」は「その3 学制改革」でした訂正してお詫び致します。