ART&CRAFT forum

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『インドネシアの絣(イカット)』② -イカットの魅力- 富田和子

2017-06-30 11:09:15 | 富田和子
◆ 島ごとの特色

◆東ヌサ・トゥンガラ州 ロテ島

2005年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 37号に掲載した記事を改めて下記します。

『インドネシアの絣(イカット)』② -イカットの魅力- 富田和子

 ◆絣とイカット
最初に習い覚えた絣の技法は緯絣であった。織幅に合わせて緯糸用の糸束を作り、何カ所かをきつく縛って染まらない部分を作ったり、色を染め分けたりして絣糸を作る。絣糸はそのまま入れても良いが、緯絣の場合は左右にずらし、経絣の場合は上下にずらして別の模様を作り出すことも可能である。日本で一般的に使用されている織機は高機なので、経糸に絣糸を使う経絣には緯絣よりも高度な技術が要求される。数メートルの経糸に絣括りをして染め、その模様を崩さぬように織機に掛けるのは至難の業で、織り出す前にゆがんでしまった模様に泣かされることもある。それでも、糸を打ち込むたびに浮かび上がり、形作られる絣模様を織るのは魅力的な作業であった。日本の絣では、絣括りをして染め分けた糸束をいかに組み合わせるか、あるいは、いかにずらすかということが絣模様を作り出すポイントになる。そのことばかりに頭を巡らせていた頃、インドネシアの絣であるイカットを見て非常に驚いた。布一面に緻密で不思議な絣模様が織り出されていて、その存在感に圧倒される思いであった。いったいどのようにしてその絣は織られたのだろうか…。そして、インドネシアの島々へイカットを訪ねる旅が始まった。

 ◆絣の宝庫
インドネシアは予想以上に大きい。 赤道を挟んで南北に約2,000km、東西に約5,000kmという広大な海域に浮かぶ18,000の島々から成る東南アジア最大の国である。その領域を地図で比較してみると、北欧を除くヨーロッパ大陸がすっぽりと収まってしまう以上の広さである。人口は現在2億人を越え、中国、インド、アメリカ合衆国に次いで世界第4位を占めている。その中で300以上の民族に分かれ、250以上の言語が話されているという多民族国家である。インドネシア語はこの海域で広く交易に使われていた公用語としてのマレー語を基盤としたもので、1945年に国語とされた。以来、ほとんどの国民が各自の民族語とインドネシア語を併用するバイリンガルである。このように広大なインドネシアの各地において、特色ある染織品が製作されてきたことが、インドネシアが染織品の宝庫であり、絣の宝庫であると言われる所以である。インドネシアの染織品の中でも代表的なものは、染物の「バティック」、織物の「イカット」と「ソンケット」である。バティックはジャワ島を中心に行われている蝋纈染めで、日本ではジャワ更紗として知られている。イカットはインドネシアの絣織である。「イカット」という言葉は現在インドネシアの絣の総称として、また「絣」を表す世界共通の染織用語として使われているが、もともとは、インドネシア語の括る・結ぶという意味の動詞「ikat」が転用されたものある。ソンケットは浮織で、地を織る経糸と緯糸のほかに別糸を使用し、糸を浮かせて模様を織り出す技法であり、イカットとの併用も多く見られる。その他の技法としては絞染、縫取織、綴織などもある。インドネシアの広範な地域に渡ってイカットは織られ、経絣、緯絣、経緯絣のすべてがある。中でもバリ島の東に位置するヌサ・トゥンガラ地方の東部の島々では、今でも木綿の経絣がシンプルな腰機で盛んに織られている。

 ◆自由で多種多様なデザイン
 イカットの魅力のひとつは布いっぱいに広がる自由なデザインである。大きな布に人や動物や植物が自由に生き生きと表現されているもの、布全体が大小の幾何学模様で埋め尽くされたダイナミックなものや緻密なもの、シンプルではあるけれど味わい深いもの等々、インドネシアの島々では各民族、地域ごとに特色のあるイカットが織られている。


『空気潤む』  榛葉莟子

2017-06-29 09:47:22 | 榛葉莟子
2005年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 37号に掲載した記事を改めて下記します。

『空気潤む』  榛葉莟子


 四角く区切られた土の面から生え出て立ち上がりハコ状に伸びていく蒸気の密集を見た。それは掘り起こされ耕された畑からいっせいに水蒸気が湧き出たように立ち昇る霧の発生現場の光景だった。寒かった朝方から日中の気温が急に高くなったせいで冷たく強ばっていた畑の土の蒸発のはじまりに出くわしたに過ぎないけれども、その光景がなにか世界のはじまりはこんなふうではなかったのかと空想させる束の間の神秘だった。じきに水蒸気は空中に散らばりあたりは霞がかった半透明の膜に覆われていった。この季節は寒暖の差が大きいせいもあり霧がたち込める日が多い。夜、ふと硝子窓の外に眼をやると庭の木立ちは薄い鉛筆画のように遠くにかすんでいて、いつのまにかあたりは霧に包まれている。まるでたった今舞台の幕が上がり半透明の膜の内に何かうごめき物語のはじまりを予感させる気配満点の舞台だ。けれども神秘だ幻想だと甘さを含んだそんなものはたちどころに剥がされる濃霧のまっ只中の経験がある。不安とも恐怖とも言いえない、いてもたってもいられないせっぱつまったような、あの宙ぶらりんの感覚をどう表現できるだろう。たとえば深海に潜った人が天と地が分からなくなる一瞬の経験を聞いたことがあるけれど、全身が定かでない危うく不安定な先の尖ったスリルの緊張の感覚とでも言えようか。

 カッコウ、カッコウと庭先の木立ちのどこかからかっこうの声、いよいよ梅雨の入りかなあと洗濯物を干しながら声の方に耳を聞く。カッコウ、カッコウ、カッケッ、カッケッ、あっ、声がひっくり返った。あれっというふうにかっこうはひと呼吸間をおくと、再びカッコウ、カッコウ、カッケッ…初めて鳴いたかっこうなのだろうしきりに練習している様子が微笑ましくも可笑しい。春先のうぐいすもそうだった。ホーケキョと繰り返ししていたけれど、ひとつホが抜けてなかなかうまくいかないのだ。初めて鳴く若い鳥たちの声は季節季節の巡りを先取りし教えてくれる。そういえば春先、ケーン、ケーンと鳴くきじの声を初めて近くに聞いた時、住まいの周辺にきじがいるという感動とともに、かん高い叫びにも似た響きが何やら切ないように感じられた。ケーン、ケーンと短く叫ぶきじの声はやっばり今年も切ないように響いた。

 響きのリズムや抑揚に言葉を当てはめるのだろうなと思っておもしろかったのは以前タンタタンというようなリズムの鳥の声の響きを聞いた時、連れの人がほらチョットコイ、チョットコイって呼んでるよと言った。知る人ぞ知るの鳴き声だったらしく、たしかに実際口に出してみればピタリ納まるのも可笑しい。それ以来その鳥の声を聞けばチョットコイ、チョットコイと口に出すと鳥と通じあえた気になってくる。その鳥の名前はコジュケイ。夜の神社の木立ちの中で低い声で鳴く鳥がいる。ブッポウソウ、ブッポウソウと鳴いているのさと聞いたが少し無理があるけれど、コノハズクの鳴き声としてこれも知る人ぞ知るらしい。カッコウもホーホケキョもそんなふうに聞こえてくる響きを言葉に当てはめた最初の人がいるわけだ。響きを言葉にするときはこの国ではこの国のあの国ではその国の言葉に当てはめられていく。身近な猫や犬にわとりの鳴き声ですら違う。どうしてあんなふうに聞こえるのだろうと聞こえてくる耳の微妙な陰影や濃淡の違いはおもしろい。草むらで鳴く虫の声をうるさいと聞く人もいれば、私たちのように情緒的に響きを楽しむ人もいる。先日、新聞のコラムに人類共通の生理現象のくしゃみの響きが国によって違う言い方というのが載っていた。私たちはハクションと言うけれども、いちいちの国の名は省くがアチュー、エッチュイ、アチュウム、アブチヒー、アータスなどと言うそうだ。どこか、こらえたくしゃみの響きがする。日本のハクションは角の本屋のおじさんのハクションが聞こえてくるくらいのハクションで、おもいっきりがいい響きがする。

 湿った薄い膜がかかった空気を感じるこの頃、曇り日のこの潤んだような空気を透かして見る景色には清々しい落ち着きを感じる。その膜がかった潤みの景色には、いつもながらどこか記憶の底の懐かしいようなものが沸いてきて飽きるということがない。梅雨近しもあるけれども、空を映してひろがる水田の透明な蒸発や微風にゆらぐ水面のしぼ…奥行きを感じるのは眼には見えない透明な空間に溶け込むようなあいまいもことした膨らみのせいだろうか。内部の底にしゃがんでいる潤んだ眼のまばたきに、懐かしさの感情はゆっくりと身体中を巡りやってくる。ほぐれてくる。そういえば、情感とか情緒とか感情がすっかり邪魔ものにされ、どこかの忘れ物置場に傘やカバンといっしょに山積みになって放置されてはいないか。ふとそんな映像が浮かぶのは今に始まったことではないけれど。

『傷ついた者たちへ』 高橋稔枝

2017-06-27 11:16:14 | 高橋稔枝
◆高橋稔枝(写真1)“ラブ号の出発 05-03” 2005年 巷房個展
綿糸、麻布、新聞、植物染料
 撮影:桜井ただひさ


◆高橋稔枝( 写真2)“生命” 1990年 ギャラリーギャラリー個展
サイザル麻、ラミー麻

◆高橋稔枝( 写真3)“時の継続” 1995年 千疋屋ギャラリー個展      綿ロープ、ラミー麻

◆高橋稔枝( 写真4)“時を視つめて” 1997年 千疋屋ギャラリー個展
綿糸、麻布、植物/化学染料  撮影:末正真礼生

◆高橋稔枝( 写真5)“土の中から出しもの” 1998年 巷房個展  綿糸、麻布、植物染料 第17回朝日現代クラフト展

◆高橋稔枝( 写真6)“蘇生” 1999年 千疋屋ギャラリー個展   綿糸、麻布、植物染料、金網  撮影:末正真礼生

◆高橋稔枝( 写真7)“どうぞ忘れないで” 2000年 巷房個展
綿糸、麻布、新聞、金網  H:125.W:76.D:33cm 
撮影:桜井ただひさ


◆高橋稔枝( 写真9)“傷ついた者たちへ そっとおやすみ” 2004年 あらかわ画廊(東京)個展
綿糸、麻布、新聞、  撮影:桜井ただひさ

◆高橋稔枝( 写真8)“どうぞ忘れないで m-8” 
2002年 Mini Textile Art Exhibition ウクライナ Kherson
綿糸、麻布、新聞、  H:22.W:18.D:13cm 


2005年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 37号に掲載した記事を改めて下記します。

 『傷ついた者たちへ』 高橋稔枝

 今年は第2次世界大戦の終結後60年になるというのに我々が住む世界は非常に不穏な空気に包まれています。
 過去、現在そして未来へとつながっている「時」とは何なのでしょうか。この地球上に生存している人類がすべて滅亡してしまっても、「時」という概念はあるのでしょうか。はるかな宇宙のかなた、いまだ知られざるどこかの惑星に我々と同じような「時」という概念を持った生物がいるのでしょうか。
 「時」の永遠性の不思議さに頭が混乱して近くを眺めれば、いろいろと花を咲かせ始めた草花が目に入ります。小さな草でも綺麗な花でも、一時的にはたとえ枯れても又翌年こぼれた種やあるいは根から再び芽生えてきます。一本の樹の生命も一人の人間のそれよりはるかに永く、人がいま寿命を終えても、目の前の梅ノ木は来年また香り豊かな白い花を咲かせるだろうし、広場のプラタナスの大木はますますその幹を太くして深い緑陰を作ってくれるでしょう。
 植物の生命力に考えが至ると、この地球上には命あるものがたくさんあることを改めて感じます。野山の昆虫、海の生物、無数の動物そして人類。このような命あるものはすべて永遠性を願って生きています。お互いに連環しあいながら、共生しあいながら調和を保って生きています。しかしながら、悲しいことに人間だけが自ら自然との共生を壊そうとしているように見えます。
 これらの事は特別なことでもなく、ごく当たり前のことで大多数の誰もが感じたり、思いながら日々生活していることでしょう。今更改めてこの紙面に記述するようなことではないと考えておりますが、作品を作り進むうちにいつしか自分の作品の内部にはこれらのことが無意識のうちに根底にあるということに気付きました。最近では、より意識して人としての自然なこれらの思いを作品に託しております。
 既に壊れている舟がどうして出発出来るのか。ましてやラブ号?ひとりの人間の中には善も悪も両方あると言われます。私も全くその通りと思いますし、自分は、しかりです。破舟は、現在の地球をも巻き込んだ人間社会を表した隠喩の方舟です。舟の内側には、人間が過去に惹き起した悲しい戦争などの出来事に関係する新聞記事を切り抜き意図を持ってコラージュしています。天井から吊るした物体はこれから方舟に乗ろうとする種や、命のエッセンスを表しています。様々な考え方があると思いますが、私は人類を悲観的には思っておらず、愛すべき、愛しいものと考える立場から希望を覗かせる作品にしたいと思い、タイトルはここから付けました。6~7年前から新聞記事を作品の中にコラージュする方法を採っております。人は悲喜こもごもの様々なものを背負いながら生きているものですが、過去に起こってしまった人間の人間によるつらく悲しい出来事はいまだに尾をひいて現在に至っています。

 私は1980年頃は原毛を染めて糸に紡ぎ平面のタピストリーや、スクリーン、マットなど生活に密着したものを主に織っていました。自然素材ばかりでしたが、さまざまな素材を色々試みました。
 初めての個展、1987年のギャラリー・マロニエでは、<素材へのメッセージ>と題して原毛をフェルティングの技法による、厚く或いは透き通るくらい薄く、又他の素材と組み合わせた作品などで構成しました。
1990年、ギャラリーギャラリーではサイザル麻と2重織りの展開技法により素材の持つ力を引き出すべく<生命>と題しました。
 1995年の千疋屋ギャラリーでは“永遠の時の中で育まれる命”のようなものを作りたいと、うっそうとした森にたたずむ樹をイメージしました。<時の継続>と題して素材はロープ、技法は先と同じです。しかし織った面の部分にロープをほぐしたグニャグニャの端糸をほつれない様に糸で止め付けている部分があります。この部分だけを抽出表現する試作を幾度か重ね、2年後の1997年の作品となりました。
風雪にさらされ、時に堪え、厳然と今に存在するいにしえの洞窟の中の壁画をイメージしたものです。未だ私は行ったことがありませんが、古くは世界的にも知れ渡っているアルタミラ、ラスコー、最近は日本国内にも新しい発見をもたらした高松塚古墳の壁画など、先人達が残した素晴らしい表現に我々現代人は畏敬の念を抱き、次代に継ごうべく努力をしている最中です。
織らないで表現したらどのようになるのか?ドキドキするような好奇心から失敗を重ねながら現在に至っている訳ですが、織らないで表現することが自分の中で自然に出来るようになったのはこの頃からです。私の作品は“土の中から出でしもの”と題した半立体のものへと移行してゆきました。
 そして更に1999年、千疋屋ギャラリー の個展で、二つのものがお互いに支え合うことによって自立している作品を発表しました。1995年の<時の継続>と同じテーマで“再生”をより強く意識した作品にしたいと考え、<蘇生>と題しました。樹木の肌そのものを繊維で表し、糸は植物染料で染めました。

こうして我々を取り巻く自然に目をやり、自然の恩恵を受けて生きている人間に目を移します。
作品の中に新聞記事をコラージュする方法を採りました。人はそれぞれの喜怒哀楽を背負いながら生きているものですが、自然現象はいかんともしがたく人は只運の悪さを嘆き、又長い年月には忘れることによってあきらめの境地にいたることもあるでしょう。しかし、過去に起こった人間の人間によるつらく悲しい出来事はいまだに尾をひいています。勿論人は不幸なことは忘れることが出来るから、生きていけるのであり次の一歩を踏み出すことができるのだと思います。
 新聞記事を作品の中にコラージュする方法を採っている一番最初の作品は 2000年の巷房での作品です。ロシアの原子力潜水艦クルスクが、バレンツ海で沈没し乗組員全員百十数人が一度も救助される事もなく亡くなった、という記事、ベトナム戦争の時に使用された枯葉剤の影響を強く受けてこの世に生まれてきたべトちゃん、ドクちゃん兄弟のその後のこと、などを作品の中にコラージュしました。
 1999年に、人々は来る21世紀こそ争いのない平和な社会が地球に訪れるように願い信じて2000年を迎えたはずだったのに、悲しいことに見事に裏切られました。そしてその尾はずーっと引いたままです。人類は、はるか先に自然消滅する前に人間同志の争いによって滅んでしまうのではないかと時々思えてしまいます。私は宗教的にも政治的にも全く何の関わりもなく、社会の片隅でささやかに生きている者ですが、その普通人の目線から冒頭に記した事をテーマに作品で表現していきたいと思っています。
苦しいこと辛く悲しいことは、忘れるからこそ前に進むことが出来るのだけれど、でも身体のどこかに覚えていて欲しい。2度と繰り返さない為にも。口に出して言うのにはあまりにも当然で面映いことなのですが現実がそうでないからこその願望と祈りを作品に映していきたいと思っています。

 2003年、巷房での個展< Song of the Birds―by Pablo Casals >では作品タイトルをそれぞれ“どうぞ忘れないで”としています。一つ一つの小さな作品の中には、ハワイ沖でアメリカの原子力潜水艦による不注意で沈んでしまった日本の高校生達が乗っていた愛媛丸、アフガニスタンでは建物の中で家族や仲間の履いていた靴などを前に呆然として座り込んでいる様子の男性などの記事があります。
 パブロ・カザルスは1942年内戦の祖国スペインを亡命してから後、演奏会の最後には必ずカタロニア地方に古くから伝わる民謡“鳥の歌”を演奏し、母国及び世界の自由と平和、命の尊さを願ったということです。個展タイトルはここから付けました。2004年のあらかわ画廊での作品になりますと、今までにも増してあまりにも残酷な記事が多く、言葉を選び写真を選びコラージュすることが出来ませんでした。
“傷ついた者たちへ そっとおやすみ”と作品タイトルを付けたのはそんな訳が有りました。

 そして冒頭の2005年に戻ります。
 個展会場では度々、新聞紙は作品の全体に入っているのですか、と質問されますが、そうではありません。一度新聞紙を全体に入れたらどうなるか試したことがありますが、仕上がりが“張子の虎”の様なポコポコ、ペコペコしたテクスチャーになりました。繊維を媒体としたテキスタイル或いはファイバー表現では、視覚は言うまでもなく五感のなかでも特に触覚とは切っても切り離せない関係にあるように思います。作品全体の雰囲気はテクスチャーが大いに関係すると考えておりますので、今のところコラージュの方法を取っております。
 長々と自分の作品について説明を加えて参りましたが、恥を承知で述べました。私には人に誇れるようなキャリアも何もありません。しかし作品と共に歩む何かが出せたらと思っています。出来ることならこれからもより多くの研鑚を積み、自分自身をみがき、作る“物体そのものが意思を持つ塊”のようなものにまで近づけるようになれれば、と希望を失わないで歩んで行きたいと切に願っております。

『古代アンデスの文化』-技法から-  上野八重子

2017-06-26 14:51:14 | 上野八重子
◆後帯機で織る女性(ペルー・チンチェーロ村)

◆ペルー・クスコピサック村の市

2005年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 36号に掲載した記事を改めて下記します。


 『古代アンデスの文化』-技法から-  上野八重子

◆ アンデス文明=インカじゃないって?
 インカ…という響きをどこかで耳にしたことありませんか。テレビや美術館のタイトによく使われて言葉なのでインカと聞くと「あー、アンデス文明ね」と頭に浮かぶかと思いますが、実は「インカ時代(AC1400~1532)」というのは長いアンデス文明を人生にたとえると一生の内のたった一年位なのです。では、何故アンデス文明=インカと思われているのでしょうか。実はとても簡単なことで、番組欄や○○展というタイトルにインカという言葉を入れるか入れないかで驚くほど視聴率や入場者が違ってくるというのです。「宣伝文句に踊らされている」と言えるのかもしれません。それほど日本人はインカという響きが好きなのだそうです。
 それではインカ文明以前は…と言うと、紀元前約8600~5700年には植物の靭皮を撚り合わせた組織があったと遺跡からの出土品で測定されていますが、その時代からインカまでの数千年の間には各地方都市に栄えた独自の文化があり、それぞれに○○文明と名付けられています。それ等すべてをひっくるめてプレ・インカ(インカ以前)と言っているのです。プレが付いてもインカという文字を付け加えた方が人々の心を捉えるからなのでしょう。もし私がプレ・インカに属する時代の人だったら「あー、私の時代にも名前があるのに…!!」って叫んでしまうかもしれません。実は、そういう私も10数年前まではアンデス=インカと思っていた一人なのです。

 ◆ アンデスの染織品って…
 そもそもアンデス地帯と呼ばれているのは南米アンデス山脈に接する地域(現在の国名ではペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチンとブラジルの一部)で6千メートル級の山脈を挟み、太平洋側は砂漠地帯、観光スポットのマチュピチュ、ポトシは3~4千メートルの山岳地帯、そしてアマゾン川を中心にした亜熱帯地帯と、まったく違った気候風土を持ち、その為に染織技法は独自のものが出来上がっていきました。
 世界各地にはその地ならではの染織品が多くあります。地域と染織品が頭の中ですぐに結びつくような… しかし、アナデスの場合は技法があまりにも多いためか、何が代表格なのかを一言で言えないところがあるように思われます。又、近年まで考古学会の興味は他の文明に向けられていて、アンデス文化は1920年代になるまで少数の学者が論じているのみだったのですが、盗掘品が美術市場で売買されるようになってから美術館、考古学会が競って興味を持ち始めたという。そのような歴史の浅さから、アンデスの染織品は一般的にはまだ知名度が低いように思われるのです。

 ◆ アンデス技法の魅力
 初めてペルーに行った時、天野博物館で古代の染織品を手に取って見られる機会に恵まれ、一日中染織漬けとなりました。編物はしていたものの「染め」も「織り」も出来ない私が初めて目にしたアンデス染織品は技術的なことはわからなくとも「自分が今こんなに豊かな文明の中にいるのにこの人達の足元にも及ばない」という現実を目の当たりにして、強烈なカルチャーショックを受けてその後の人生をも変える一日となったのでした。「それは何故でしょう?」一言で言ってしまえば道具を使わない技の魅力でしょうか。先進国と言われるようになった今の日本、私達のまわりには文明の利器ともいえる優れた機械、道具が氾濫しています。しかし、古代アンデス人たちは道具というにはあまりにも粗雑なもの、あるいは手だけを使って、現代の優れた機械を駆使してもかなわぬ技で幅広い染織品を作り出していたのです。
 ある展示会場で「昔は時間があったから出来たのよ」という声を聞いたことがありますが、はたしてそうでしょうか? 現代医学で「指先と頭は連動している」と言われていますが古代文化は正にそれを証明していると思います。しかし、紀元前からのアンデス独特の素晴らしい染織品は今から約500年ほど前、インカ帝国がスペインに滅ぼされた時から衰退の道を辿り始めてしまいました。

『ゾウリ』 高宮紀子

2017-06-25 11:48:32 | 高宮紀子
◆高宮紀子作 写真1

◆写真 2

◆写真3~写真6

2005年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 36号に掲載した記事を改めて下記します。

民具のかご・作品としてのかご (22)  
 『ゾウリ』 高宮紀子

 ワラ細工で私が最初に習ったのは、ゾウリでした。以前に書いた柳田利中さんから習ったのですが、柳田さんによるとワラ細工の基本は縄ないで、ゾウリは縄ないの実力が試される一番いい例だそうです。習いにくる初心者の人に対して「まずゾウリから始めましょう」とよく言います。ただし、初めから縄ないはむつかしいので、ポリ紐を代用して作ります。

 私の場合も最初に作ったゾウリは、ポリ紐を芯縄にしてワラ縄で編んでいくものでした。ゾウリでやっかいな問題は、左右を同じ幅、長さにすることです。最初からうまくいくわけはなく、やはり同じ大きさにはなりませんでした。写真1は最近作ったもの。芯縄を人工のワラ縄(ポリ紐)で、編み材はシュロ縄とジャージーの布を裂いた物。布は強く撚りをかけるとしっかりした縄ができますが、その縄を最初と最後に使っているのが私の工夫です。ご覧の通りまだまだのゾウリです。

 ゾウリは芯縄という縦に通っている縄とその間を埋める編み材でできています。芯縄を引っ張ってテンションをかけ編んでいくので、簡単な織りのようです。織りと違うのは、形を整形するプロセスが途中や最後にあるということです。
まず手順としては芯縄をないます。編み終わった後でこの芯縄を引っ張って縮めるのですが、うまくできてないと途中で切れてしまうので初心者の場合はすべりがよく、引っ張っても切れないポリ紐を代用します。
 まず、1ヒロ分(両手をいっぱい横に伸ばした時の手の先から手のまでの長さをいう)の長さの縄を用意して交差させ輪を作ります。上の輪(ピンがある所)を足の指にかけるか、編み台のでっぱりにひっかけてテンションを得ます。織りの経糸のように張れたら、次に編みます。手前の輪に編み材をかけて、間の2本の材を入れて経糸とし手前から編んでいくのですが、プロセスとしてはつま先から、つまり逆向けの方向に編んでいきます。
編む幅の調整は縄を引っ張ったり、緩めたり、編み目の間に手の指を差し込んで広げたりして、手加減で編んでいきます。つま先からしばらく編んで、足を入れる緒をかけて、またしばらく編んでかかとの所まで編みます。編み終えたら、手前にある芯縄の2本の端を引っ張ります。この2本の縄は交差しているのですが、ゾウリにとってこの交差は大事です。交差の部分がかかとの端に残って、うまく引っ張ると丸く端が合うことになります。やってみると難しい所です。

 芯縄に編み材を入れて編んでいくゾウリは、他の履物の基本ともいえる構造です。同じ構造で別の履物ができます。また芯縄を交差させず、そのまま編んでかかとの所に返しと呼ばれる部分を作る方法もあります。ワラジや雪靴がそうです。雪靴などのように、甲をくるむ部分を編む履物は複雑化したプロセスですが、やはり芯縄がある構造は同じです。

 ゾウリは簡単な編み方なので、基本的には同じなのですが、地域、作る人によって少しずつ違う所があります。例えば、最初の始め方、と終わり方、鼻緒の後ろの結び方などですが、いかに美しく仕上げるかという競い合いみたいな工夫で見ていて楽しいです。作る人のこだわりが、いろいろと込められています。

 10年以上も前のことになりますが、秋川でワラ細工をやっていた人の所へ連れて行ってもらったことがあります。その方は履く人の足の大きさに合わせたゾウリをいろいろな素材で編んでいました。違う素材が面白かったので、シュロ縄、ワラ、チョマ、ミチシバ、ミョウガで編んでもらいました。少しずつ履いたのと、人にあげたこともあり、最後に残ったのはミチシバで編んだものです。この方の“こだわり”は、ゾウリの大きさでした。履く人の足の大きさよりは小さ目がいいということで、できあがってきたのがこの大きさ。右は普通の市販のサイズです。なんでも足がのっている時に、足先やかかとが出ている方がかっこよく履けるということで、なるほど履いてみると足にぴったりつく感じでした。

 伝統的なものかはわかりませんがスリッパのような履物は福島県の三島町のものです。芯縄はヒロロ(ミヤマカンスゲ)の葉を割いたもので、編みの部分はガマです。あまり太いふかふかした葉ではありませんが、薄めの軟らかそうな葉が使われています。蒲の葉は平らなテープ状の素材で幅がありますので、藁のように断面が丸いものと違ってそのままでは編みにくい。そこで少しねじりながら編んでいます。平らなテープ状の素材のため、ちょっと見ただけでは気が付きませんが、編みの部分は平らな所が芯縄に対して垂直に立っているような感じがあります。編み目を詰めながら編んでいるので、一段ずつの編み材が重なっている、そんな感じです。同じ蒲を使ったゾウリでも岡山のものは、蒲の根元の方でふかふかした部分を使っているので、三島のように重なっている感じではありません。

 この素材の違いによる編み目の現象は沖縄のクバのゾウリを見ると、より明らかになってきます。しっかりした平らなクバの葉を詰めて編んでいるので編み目が重なっています。このクバのゾウリの場合、同じ面を向けて、つまりねじらずに編んでいます。このことは編み目がうまく重なることと関係しているようです。

 去年の5月、デンマークで行われたヤナギのかごのフェスティバルに参加したのですが、その時出会ったバスケットメーカーがこれと同じような手法で編むかごを作っていると聞きました。写真で見ただけですが、確かトワイニングだと言っていたように思います。いろいろな色を変えて、カラフルなかごだったことを思い出しますが、厚みがあることに気がつかなければ、普通の編み方にしか見えませんでした。

 私がゾウリを作るのは自分のためか、ワークショップの時だけですので、そんなにたくさんは作っていません。ときたまかごを訪ねて出かけますと、やはりその地域のワラ細工が気になります。そんな気持が呼ぶのか、最近も宮崎の山の中で作られたゾウリをもらいました。とてもよくできていて、かかとの芯縄を引いた所が美しい。ぞうりの形もいろいろありますが、ここのところをみれば、上手下手がわかるので、作り手がもっとも注意する点の一つであるようです。何足も作ってこられた作り手の技術が自然に出ていて、感心するばかりでした。