ART&CRAFT forum

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「韓国の藁細工」 高宮紀子

2017-04-29 19:59:07 | 高宮紀子
◆韓国のトワイニングのかご

2004年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 31号に掲載した記事を改めて下記します。


「韓国の藁細工」 高宮紀子


 昔は当たり前のように使っていたものが、気がついたら無くなっていた、藁で作られた民具もそんな物の一つです。私自身、藁の民具を使っていたわけではないのですが、かごや袋、履物や蓑、被り物など様々な生活必需品が作られ、使われてきた時代がかつてありました。今は新しい素材にとって代わられ、気がついてみると作る人も少なくなってしまっている、そんな現状があります。若い時に編んだという人も少なくなり、なんとなく子供の頃、そばで見ていた人たちが記憶や古い物を頼りに民具を復元しようとしている。そんな時代になっています。藁細工についての書籍も出ていますが、いざ作ってみると、どうしても分からない所がでてきます。ずいぶん前から気になっていたのですがようやく2年前から柳田利中さんという人に藁細工を習い始めた、ということはこのシリーズの9号にも書きました。

 柳田さんから初めて藁細工を習ったのは亀の形をした飾り物でしたが、それから、藁打ち、縄ないなどの基本的な技術、そしてゾウリ、サンダワラ、カザグルマ、カゴ、タワラ、エビ、サケ、雪グツ、サンダル式の履物、ホウキ、ミノ、ワラジなど、最初は簡単な物から徐々に複雑な物へと挑戦し、今も続いています。最初から終わりまで下手でも自分でやってみたいと思っているので、しばしば予定していた形とは違うものになってしまうこともありますが、少しは藁の扱いに慣れてきたように思います。でも量産するわけではないので、まだまだです。

 いろいろな物を藁で作っていると、日本以外のアジア近隣の国との技術的なつながりというものに関心を持つようになりました。柳行李も韓国や中国の柳行李とつながりがあったのですが、藁についてもつながりがありそうで興味がありました。藁を使った編み組みというのは世界中のあちこちにあり、技法は同じものが多いのですがそれぞれの特色があります。お隣りの国、韓国の藁の民具は日本の物とも似ていますが、とても特徴があり気になる存在でした。

 ちょうど今年の10月、韓国で行われた『韓・日 バスケタリー交流展』に参加する機会があり、ソウルに行ってきました。日本からは16人の作家が、韓国からは弘 大学の繊維美術専攻のOBらが中心になり15人が参加しました。会場は、日本広報文化院のシルクギャラリーで近くにはギャラリーや工芸品を売る店が多いインサドンという文化的な街にありました。

 今回の展覧会は、日本と韓国のバスケタリー作品の展覧会ということなのですが、実際、韓国ではバスケタリーという繊維造形分野で作品を作る作家はいないらしく、染織作家のソンさんという人が自分の出身大学の後輩を集めて実現した企画でした。だから、日頃は繊維を使った平面的な、あるいは絵画のような作品を作る作家が、この展覧会に合った立体造形作品を作った人もいたようで、バスケタリー作品のように構造を意識した作品ではなかったのですが、その代わり、韓国の作家らしいテキスチャーや色彩の作品や現代アート的な作品が新鮮でした。展覧会の運営に関しては韓国の作家が中心になってくれて、作品の展示や、車での送迎、通訳など、ずいぶんとお世話になりました。交流ということで、いろいろな人と話したかったのですが、日本語ができるソンさん以外は数人のみ英語しか通じず、同じアジア人でありながら、言葉が違うというのはもどかしいことと思いました。

 現地に到着した日の夕方、藁と草の生活史博物館(ジップル ミュージアム)に連れて行ってもらいました。ここは藁や草類による編み組み品だけの、ほんとうに夢のような博物館です。建物は小さいのですが、展示ケースの中に珍しい物がたくさんありました。日本の事情と同じように、韓国でも藁細工などの技術保持者は少なくなっています。展示している蒐集品は個人のものだそうで、初心者や子供達向けの藁細工による講習も行っていて、本も出版しています。個人の蒐集品を元にした博物館ですが、文化事業ということで政府から経済援助を受けられるのはうらやましいかぎりでした。

 日本と韓国の藁による民具は形こそ違いますが、素材が同じなのでたいていの技術は同じです。草類はチョマやカヤツリグサ科の茎などを使うのですが、茎が細いので編み目の細かい物になります。中でもワングルというカヤツリグサ科の草でできた蓋付きのかごは、模様が編み出された二重のかごですが、素晴らしい物があります。写真は一緒に韓国に行ったSさんが南大門で買ったかごです。太めのワングルですが、蓋も本体も二重になっていてきれいな模様があります。(写真:韓国のトワイニングのかご) ワングルに比べて藁はさすがに太いので、かごもずんぐりしていますが、やはり二重に編んだかごが多い。底から編んで縁まで編み、また底に向かって編んで二重のかごの中には、縁で折り返しをした後、しばらく編んで縁を厚くしているかごがあり、外側には簡単ですが、模様が編まれています。前号にも書きましたが、夏にアメリカ北西部のネイティブのかごをたくさん見る機会があり、ずいぶんとトワイニングの編み方のバリエーションを見たのですが、韓国でもトワイニングが多いことに驚きました。しかも簡単な模様、文字などが、編み出されています。日本の民具では編み方の違いや素材の違いなどで模様を出すことありますが、パターンになっていることは少ない。この点では、アメリカの北西部のかごに近いわけです。

 交流展の参加者の一人、ジョンさんという人に藁の頭上運搬具を作る講習をやってもらいました。他の素材も使うのですが、土台と縄を藁でないます。用意してくれた韓国の藁に初めて触れました。実際に触ってみると、韓国の藁というのは、日本のいつも触っているものと比べてしっかりしています。稈も太めです。その時に使った藁が叩いていないものだったせいもあるとは思いますが、日本の藁とは違うように思えました。稲の種類が違うでしょうから考えてみれば当然なことかもしれません。

 以前、新潟の藁を藁細工用に手刈りしてもらい、取りに行ったのですが、その時もち米とコシヒカリの藁をもらってきました。もち米の藁はひじょうに柔らかく柔軟性がありますが短い。コシヒカリの藁は長いのですが、固くてあまり編みには不向きなようでした。お米の味が違うように、毎年藁の品質も違います。乾燥の方法やその時の天候によっても違ってくると思います。その時にもらった藁は雨に一回あたってしまったとかで、前回もらった時のほどのきれいな藁ではありませんでしたが、そのかわりミゴ(稈の中心の部分)の色が美しく、それだけを使うと、見事な金色になります。イネというのは、品種改良を重ねていますから、昔の藁細工の素材とは少し違ってきているだろうし、毎年同じ品質の素材を確保する、ということはむつかしいと思いました。

 韓国の民具といえば、ずいぶん昔、はきもの博物館にあった履物を見たのが最初でした。確か素材はヘンプだったと思うのですが、足の甲に当たる部分が何本かの繊細な縄でできていてサンダルのようなものでした。中国にも似た履物があるのですが日本ではみかけない形です。ソウルに行った時にこの履物と構造がそっくりな藁製の物をみつけ購入しました。帰ってから履いて歩いてみると、案外歩きやすかったです。

 韓国から帰ってきて、柳田さんの所でわらじを習いました。韓国のものと同じように、タテ縄を張り、編み材を入れて底を作る形になっています。韓国には、別の方法で作る底もあるようですが、日本のわらじやぞうりのようにタテ縄を張って底を編む方法は共通しています。韓国の博物館では同じ履物を作るための型も展示されていましたが、同じ長さの細い縄をたくさん出して、それらの縄の頭に別の縄を後で通してまとめます。日本のように足の指の間に挟んで歩くのではなく、足の甲をくるむような形です。二つともそのままでは安定は悪いのですが、紐で閉めるようになっています。私が買った韓国の藁製の履物は1本で、日本のわらじは2本の縄で結んで固定するのです。ただし、日本のわらじは足の指が完全に履物から前に出て、土につきそうなのですが、韓国のはつくことはなさそうです。
 
柳田さんに藁細工を習い始めてからずっとお約束してきたことがあります。それは、記録です。今までも柳田さんの作業をしている場面をテレビや雑誌などが撮影してきたのですが、撮る角度が違ったり、一部だけだったりして作る人が参考にするような物はなかった、ということで、藁細工を教えるのに当たっては、是非記録をつけてほしいと柳田さんから頼まれました。そんなわけで家庭用のデジタルビデオで収録してきました。このビデオの編集にはとても長い時間と手間がかかるのですが、どうしてもこの場面が足らないとか、ビデオだけだと作り方がわからない箇所が出てきます。そのためビデオから絵を起こしトレースをしたり、図を新たに書いてテキストによるガイドを作っていきました。文章や図と違い、結果にいたるプロセスを見ることができるから映像には多くの情報があります。しかし、実際には同じやり方で編んでもずいぶんと技量の幅が出てしまうようです。藁を束で使うことが多いのと、技術とはいえない、手の力の入れ具合を調節することが美しい物ができるかどうかの重要なポイントになっているからだと思います。例えば、わらじやぞうりを作ってみるとよくわかります。片方を作ってみると、もう片方が作る時に必ず違うサイズになってします。ということはビデオやテキストの資料で参考文献を作っておいても、実際に作ることを繰り返して熟練する、というのはまた別のことだということです。ましてや子供の時から藁細工の物を使ったり、身に付けたことが無い私にとっては、作り続けることで確かめるしか手はありません。

 民具は使われることによって、その技術が洗練され、改良されてきました。使うことで技術の改良なり、個人的な工夫が加わっていったと思うのですが、使うということは現代では難しいのも事実です。昔の人の生活を体験しようということで、わらじを履いて道を実際に歩いてみよう、といった催しが行われているようです。それを実際自分で作ったわらじで試すという人は少ないでしょうが。雪国で、深クツを履き、雨ミノを着けてニゾを被って(雪除けの被り物)吹雪にさからって歩く、なんてことができればいいのですが、現実的には自分で作ったわらじを履いて、どこかの道を歩いてみようと思っています。韓国の藁の履物も試すのが楽しみです。

造形論のために『方法的限界と絶対運動⑤』 橋本真之 

2017-04-28 14:16:44 | 橋本真之
◆橋本真之 「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(’78-’88制作) 渋谷西武工芸画廊(撮影:高橋孝一)

◆橋本真之 「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(内部)
(撮影:高橋孝一)

◆「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」搬入スナップ

◆橋本真之「発生期の頃」(88年) お茶の水画廊

2004年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 31号に掲載した記事を改めて下記します。

 造形論のために『方法的限界と絶対運動⑤』 橋本真之
                           

 渋谷西武工芸画廊は7階にあって、美術画廊や骨董家具売り場と隣り合わせにあった。私の個展が企画にのぼって、あらためて会場を見ると、矩形の床ではなくて五角形だった。私は「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」のその後の制作展開を展示するつもりでいたのだが、すでに出来ている新しい部分は、仕事場の中で限界いっぱいに大きなものになっていて、長さが4m60cmだった。ギャラリーのある7階にまで上げるには、大き過ぎて搬入用のエレベーターを利用することが出来ないので、正面入口から紳士もの売り場を通り抜け、階段を人力で運び上げねばならない。五角形をした床の形と壁の角度が「果樹園-」のその後の展開に強く影響して、螺旋状に延長する方向を取るようになったのである。私は二十代の虚弱体質から脱してはいたが、40歳を過ぎてすでに体力の限界は見えていた。‘85年の筑波での展示以後の三年間を振り返って、十年分もの仕事をし、発表をしたかのように錯覚する程だった。その当時、まだ三年きり過ぎていないのか?と私はそのはるかな感覚をいぶかしく思ったものである。計量的に発明された「時間」という概念の均質な性質が、人間の心理的な「時」の感覚とはあまりにかけ離れていることを、私は知った。計量的な「時間」には生の密度の問題が抜け落ちているからなのだ。それならば、生の密度の徹底した充填によって、限られた人間の生を計量可能な物質の中で恒常的なエネルギーと化することが出来る方法はないだろうか?と飛躍して考えもした。
 
 仕事場の外の空地を計測し、ギャラリー空間に見立てて闇雲に制作した。作品は‘86年にアートスペース虹とお茶の水画廊で発表した作品量の、およそ2倍の量になった。
 
 ‘88年師走の搬入の日、閉店を待って渋谷西武の玄関前に4tトラック2台を横付けにして搬入を始めようとした時の、夜の道行く人々のトラックの荷台を見上げる驚きの顔が今でも忘れられない。15人の人手で階段を運び上げた。制作中、不安になって幾度も搬入経路を確認に行ったのだが、あと5cmも作品が長かったなら、階段を廻りきれず、作品を会場まで運び入れることが出来なかっただろう。人手で運ぶには、あまりに長い搬入経路だったが、祭りの御輿を担ぐような、人々の一致した協力が有難かった。限度いっぱいの制作の後の搬入で、私の体力は限界に来ていて、小便が血だった。激しい痛みだった。
 
 幸いに展覧会は評判になって、様々な美術関係者の目に止まった。その後、学芸員の金子賢治氏はじめ私を強く推し続けてくれた人々は、殆どこの前後の展覧会によって知己を得た人々ではなかろうか?「果樹園-」がその後の大展開に向かい得たのも、この展示空間での踏み出しによって勢いを得たのである。
 
 渋谷西武工芸画廊と同時期に開催したお茶の水画廊での個展を、副題に「発生期の頃1988-」と題して発表したのは、「果樹園-」の画廊空間を圧する様相とは対称的に、「運動膜」の初期段階における展開の再検討の様々な仕事であったからである。今になって見れば、これらの試行が後に「凝集力」という縮小の方向を取る作品群を産む前段階でもあったのである。またこの展示の中には「無限大と無限小を往還する構造」として「果樹園-」の展開を大きく動かしたものが出て来たのだった。このお茶の水画廊での展示は、渋谷西武工芸画廊での展示の評価の蔭で、殆ど人々に記憶されていないのかも知れない。けれども、実はこの小さな展示物こそ、一見拡大化に向けるばかりの様相の私の作品世界の中で、制作の始まりにおける分岐の可能性を捜し、そして深さに向けて垂鉛を降ろしていた自己証明となるのではないだろうか?一方の垂鉛を降ろす行為によって見い出されたものが、作品世界の拡大そのものによって、同時に深度をもたらすことを証明しもするのである。こうした造形的な自己批評力を持てなかったならば、私の仕事は当時のバブル世代の作家達の仕事と同様に一時的なものとして扱われたに違いない。私は危険な時代の真唯中に居たのでもある。
 
 一片の銅が、貝殻のカルシウムと等価な存在であることは、天然の物質として理解できる。けれども、自らカルシウムを分泌して形成する貝の生命運動の結果であることと、自らの外に素材を捜して制作する「作品」という工作物とのへだたりは、ひどく遠いように思える。その事が、いつまでも私を憂鬱に引き込むのだったが、私はこの工作上の限界から解放されるためには、貝の成長における理と等価な展開の筋道が必要であるとは自覚し続けて来た。それは明らかに私自身の生に密着したものでなければならない。しかし、「自然と人工」などという硬直した二項対立の図式から私自身の跳躍がなければ、自我と世界との宥和、そして倫理的次元の穫得を望む私の自我の充足はないのだろう。貝のように物質を泌み出して作品を制作することは出来なくとも、私はその唯一無二の理路を自らと銅とのひとからげの内から泌み出すことが出来るとすれば、それを「絶対運動」と呼び、そのような私自身の作品世界の構造を「絶対運動膜」と呼ぼうとしたのである。奇妙な論理だろうか?あるいは、この論理の飛躍が人々に奇怪に響くとすれば、それは私と銅とのひとくくりの在り方の理路への違和感ではなかろうか?私の全存在とは、私の肉体をともなった自我をめぐる全環境との様々な関係を含まずには在り得まい。にもかかわらず、あえてその上に銅とひとからげにした存在概念を引き出そうとする私の意志こそ、二項対立のこの人間世界の図式を蹴散らしてまで踏み行くべき認識行為なのである。これを認識行為などとは呼ばないとすれば、私の造形行為であると一歩引き下がるだけである。相変らずの硬直した観念の問題に振り回されるのは真平だ。空事の感情に振り回されるのも真平だ。この運動の中で、この手触りの中で、私の肉体をともなった自我が、この異物をとりまく世界と宥和することに充足感を覚えるのでなければ、この一回限りの生の確実な感触はつかめまい。造形認識とはそういうことだ。
 
 乱雑な仕事場で作品の中をのぞき込んだ。自分はこのようなものを造ったのか、と一人納得した。これは私なのか?銅なのか?そう問い返して見れば、逆にひとくくりの概念が立ち上がろうとするように思える。「作品とは何か?」そうした問いを改めて発すると、工作物が別様の相貌をして立ち現われたような気がした。
 
 自分自身が排除され黙殺されて来た年月の長さなぞ高が知れたものだ。百年の沈黙の中でだって耐え続けなければならぬと覚悟して来たのに、時代は動き始めたらしい。
 
 水戸芸術館の開館記念展の企画「作法の遊戯」-’90年春・美術の現在-という展覧会に出品依頼が来た。若い世代の学芸員二人の推薦によって企画に載ったものだと後に聞かされた。一人は先の渋谷西武工芸画廊における個展を見た渡部誠一氏であり、もう一人は筑波での野外展を筑波大学の学生時代に見たという寺門寿明氏である。この二人の若い学芸員の目が私をとらえたということが、現代美術の新世代の中に私を押し出すことになったのである。出品者の内、戸谷成雄氏・西村陽平氏と共に42歳の私が最高齢だった。
 
お知らせ:2004年1月25日まで埼玉県立近代美術館(常設展示室)にて「アーティスト・プロジェクト①」として「果実の中の木もれ陽」-橋本真之の成長する造形が開催されています。

「紐むすびの靴で」 榛葉莟子

2017-04-24 13:58:51 | 榛葉莟子

2004年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 31号に掲載した記事を改めて下記します。


「紐むすびの靴で」 榛葉莟子

 夏に履いていた靴などを洗ったり、ブラシをかけたりして靴箱にしまう。ついでに下駄箱の掃除となる。下駄箱と今でも言うのだろうか、シューボックスと洒落て言うのかも知れないが、我が家のそこは下駄箱の言い回しが合う風情だ。靴道楽ではないけれども物持ちがいいのか捨てられない性分なのか、何年も履かない靴が幾足も眠ったままでいる。結局は履きなれた気に入りの二足くらいの出番で済んでしまっている。思い切って捨てようと、一つ一つ箱の中の靴を取り出しては足を入れる。捨てるにはもったいないなあと迷ってまた箱に戻す。そんな事を繰り返して結局はモトノモクアミとなる。

 自分の収入で靴を選び買える年頃になって、ある日、気づいたことがある。好んで選ぶ靴は紐むすびのデザインばかりなのだ。いまだにどちらかといえばその好みは変わらないが、好みだけではないなとずっと前から気づいているのは、自分の身体が選ばせる自己防衛ならぬ事故防衛だろうなということなのだ。子供の頃もそうだったけれども、大人になってからも転んだり、つまずいたり、ひねったりで、痛かったり、どきっとしたり、みっともなかったりがよくあった。ふわふわ歩いているからと親の言葉はしばしばだったし、しっかり歩かなければとの自分への言い聞かせが、きゅっと紐を結ぶ靴を選ばせていたのかもしれない。きゅっと紐を結べば、ふわふわ頼りない足下がしっかりして、支えてくれるイメージがいつのまにか描かれていたのだろう。

 ところが、この紐むすび靴が思わぬ激痛を招いてしまった二十歳の朝があった。靴の紐をむすぶのに腰を屈めた瞬間、魔の一撃に襲われた。あのギックリ腰である。そして椎間板ヘルニヤという正式な名を告げられた。自分の身体の中でなにが起きているのか、自分の身体が自分の意思ではどうにもできない激痛の異変は不安を膨らませる。偶然の巡りか、切ったり貼ったりの治療ではなく整体療法の治療により少しずつ回復に向かったとはいえ、激痛の悪夢は数年おきに突然起こり激痛からの解放を得るのにほぼ十年必要だった。というのは自分の身体がまるで実験室であるように、治療を通して実感する身体の不思議は長年の骨格の歪みを矯正するだけで済むわけではなく、興味関心は身体と心の関係に結ばれていく。激痛からの解放は閉ざされていた窓の開放と一体である事を身をもって学んだ。更にそれらに連なる糸が延々と延びて、結び目を待ち構えているかのように全てが己と結ばれている予感がふつふつと沸いてくるような、自分の内の窓が開け放たれ新鮮な風が吹きはじめた感覚を実感していた。結びあわせていくことのおもしろさは魔の一撃の授業により発見できたと言える。そして小さな磁石を与えられた必然であったと気づいたのは、微かに光る小さな磁石が着かず離れず紐むすびの靴のおぼつかない足下を照らし、こっちだあっちだと奥深い謎解きの旅に連れ出された途中でだった。自分で選んだ紐むすびの靴を履き、いまも小さな磁石の光と連れだって無器用が歩いている。
何事かの状況に直面したその時に、ふっと何を考えたかどのように意味づけしたかという心の動きを自動思考と呼ばれていると、新聞の心のもんだいのコラムにあった。直面したその時にふっと浮かびあがった考えが気持ちに大きく影響するとある。よく言われるプラス思考マイナス思考といえばわかりやすいけれど、ふっと浮かびあがった意味づけの思考が悪さをしたなら落ち込みの壺にはまっていくらしい。切り換えのスイッチを見失ったらこれはたまらなくつらいこととなる。たまらなくつらい事態におちいっている渦中の人の顔が浮かび、次を読み進むと、気づかなければ自分の自動思考が悪さをする癖となっていくという。癖。癖だと知れば修正できるではないかと知らせたい人の顔が浮かぶ。誰もが落ち込みの事態にはまることはあっても、必ずむくむくと立ち上がる時がくる。ふっと身体が立ち上がりたくなってくる。心の自由が奪われていた不自由な自分の心に気づく。不安や障害は自分への応援のメッセージがいっぱい含まれているはずなのにと叫びたくなるけれど、そのようなことを並び立てるよりも、自動思考の癖だと知ることの方がよほど妙薬で詰まった箇所に風穴が開けられるのではないか。大切な自分を守る本能は脈脈と私たちの遺伝子に引き継がれているはず。
目的地への最短距離はないのかとある時若者に尋ねられ、さあ無器用に歩いている身には答えようもない。なにが最短なのか最長なのかあるものか。ふと手にしていた万華鏡を渡した。筒をちょっと回せば次々に変化する覗いた先の摩訶不思議な美しさ。魔法のめがねを覗いた若者と何かが結びあわせられただろうか。

「光と影を巡って」 かないいちろう

2017-04-21 13:15:39 | かないいちろう
◆金井一郎 かげり絵 『銀河鉄道の夜』より「時計屋の前」部分 1992年

◆金井一郎  ・光のカタログ展  2001年 「キノコ狩り」 
 
◆金井一郎 ・光のカタログ展  2000年  「カボチャ畑」

◆金井一郎・光のカタログ展  2001年 「イガナス」 
 
◆金井一郎・光のカタログ展  2001年 「チャワンハス」

◆太陽の両脇に出現する「幻日」 1996.3.16

◆日没時の「影富士」の現象  2002.1.28

◆クスサン、アメリカフーの影による演出  2003年

◆金井一郎「りんごのあかり」 試作  2003年

2004年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 31号に掲載した記事を改めて下記します。


 「光と影を巡って」 かないいちろう

植物ランプの試行
 ホーズキ、ヒヨータン、ガガイモなどの植物の果実や種子をフードとした小さなあかりを作り始めて7年程となる。1998年から5年にわたり、東京テキスタイル・フォーラムで光のカタログというタイトルで展覧会を開催させていただいた。第1回の経緯と内容については既に本誌16号に「二つのあかり」という、フォーラム主宰者三宅哲雄氏の報告があるのでここではふれない。作者としては、豆電球を用いた小さなあかりで広い会場に対応することの困難性とスタンド等の素材の乏しさが課題として残った。翌年もとお話をいただき、オモチャカボチャを使ったあかりを作り床面にカボチャ畑を作ろうと構想した。夏から秋へと友人たちの協力もあって大量のカボチャを得た。底に穴をあけ大鍋でゆでて中を抉り出し乾燥させる作業を繰り返した。オモチャカボチャは外見から肉質を判断するのは困難なものの3種類ほどに大別できること、皮が薄くどうしても破れてしまう種類の判別が出来るようになった。しかし茹でて見ると、多分収穫のタイミング、店頭での放置による劣化などの影響によるのか完形を保つのが難しい物が多かった。乾燥も気象条件に左右され、長雨でカビを生じたり、日照による変形、ヒビ割れもした。一時は冷蔵庫をあけると穴あきカボチャが転がり出るという日が続いた。抉り出したカボチャの中味は含水量が多く、減量のためベランダで乾燥させたが、その間の異臭などに気を使うこととなった。こうした過程で作り上げたカボチャランプの成功率は多分20%程度であったと思う。

 一方床面全体をあかりのカボチャ畑にするための光源と配線の問題は、現在に続く課題である。パイロット球と呼ばれる口径5mmのフィラメントが発光する豆電球を用いているが、一昔前は機器の作業標示に一般的に使用されていたものの、標示は現在ほとんどがLED(発光ダイオード)に移行しており、小さなソケツトと豆電球の組合せは時代遅れとなっている。秋葉原電気街の関係者によれば「明日製造中止となっても不思議ではない。」という代物である。タングステンが発光する豆電球のきらめきは、それ自体でも味わいがあり捨てがたいものの、LEDへの流れは止めようもなく、この先も植物ランプを続けるとすれば早晩移行せざるを得ないだろう。以前からLEDでの試作をしているが、平板な表情のない光は異和感がある。現状では高価なこともあって、気軽に楽しめるものでなくなるだろう。このオモチャカボチャのあかりの例に見るように、自然素材と工業製品という共に自給できない材料に頼って制作するあかりは社会的な有用性とは無縁の存在である。完成品のみご覧になった方から、「レストランで使ったら、BARでどうか」など商品化、製品化の誘いを受けるものの現状では、成立する話ではない。必要なのは、虚用のものを虚用のものとして楽しむ遊び心であり、土に還る植物の素材の時間を多少待ってもらっても罰は当たらないだろうという感覚だと思っている。2年目に電池式スタンドを内蔵型にしたことは好評であった。しかしスタンドのアームに、アケビやサンキライのつるを使用したことには賛否が別れた。

 3年目には新しい素材の組み合わせの課題として光ファイバー、金属素材を使用した。光ファイバーは以前から発光キノコという形で使用していたが、この回はキノコ狩りという趣向で床面に展開した。光ファイバーとユーカリの実、ピーナッツのからを組み合わせたキノコを作った。発光する素材と植物を透過した光のキノコは、異和感と調和感が交錯して好評であった。床面の配線は気がかりであったが、余裕があれば二重床にすることで解決すると思われた。スタンドの素材にアルミ板や、ブリキ板を使用した点については、適否があるという指摘が多くどちらかといえば不評だった。この回に見えた方から壁面の利用について示唆があり、4年目には、ケーブル状の灯具の制作を試みた。スタンドの素材として石材を使ってみたが、大きな音を出せない仕事場の事情があり軽石などの加工しやすいものにとどまった。5回目を迎えるにあたって、ほぼ当初の目的(後述)は達成した思いがあり、課題に迷ったが、年初にスカシダワラという異名をもつ、クスサンの繭を提供していただき、その網目状の影を使うことで物語性のある展覧会場を作ることにした。既にあったスケルトン状のホーズキの影と、会期直前にいただいたアメリカフーの実から作ったあかりと合わせて、反射光、透過光、投影された影が混じり合った、新しい試みが出来たように思う。

 5年間にわたって発表の機会をいただき、会場構成や、素材の開発に貴重な経験を積むことができた。又ご来場の方からは有意なご批評をいただき感謝したい。ご来場の方からのご質問で一番多かったのは、植物ランプを作りはじめたきっかけについてであった。会期中は慌しいこともあり、丁寧にお答え出来なかったこともあり、既に2003年のチラシ等と重複するが次に記してみたい。

烏瓜のあかり
 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、星祭の宵に川へ烏瓜のあかりを流しに行った少年達の一人が水死する間の物語であるけれども、烏瓜のあかりとは、一体どのようなものだろう。「草の中には、ぴかぴか青びかりをだす小さな虫もゐて、ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持って行った烏瓜のあかりのようだと思いました。」あるいは「青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く」という章句から想像すると、それは緑色の未熟果で作るのだろうか、ローソクの光ではなく青い炎の光源なのだろうか、流しビナのように台船を作って上に乗せるのだろうか、疑問が次々に湧いてくる。こんな些事が気になるのは、長い間『銀河鉄道の夜』に魅入られ、その世界を映像化したいと思い、その為に「かげりえ」という影絵から発展させた技法を案出するに至った私の事情による。瓜類に火をともして川へ流す行事があるかも知れないと民俗関係の本を探ったり、既に出版されている絵本を見たが、その正体は杳として浮かばなかった。

 10年程前、かげりえを展示した会場の暗闇の中で、幼児の集団の一人が泣き出したのを合図に全員が泣き出すという出来事があった。暗がりに単に慣れていなかったのか、あるいは『銀河鉄道の夜』の死の世界の予兆に怯えたのか定かではない。北の涯の町の武道館の特設会場の高い天井に谺する泣き声の合唱は今も耳に残っている。そんな経験があって、暗闇を阻害せず気持が和み、出来ればより深く闇を感じるあかりはないかと探し求めた。ブラックライトの類も試したがなじまず、結局既存の照明器具には適合するものがありようもなく、自作するしかないということとなった。それを契機に植物素材を使ったあかり作りが始まった。脳裡にあったのは勿論烏瓜のあかりである。最初は乾いたカラスウリに、鉄道模型等に使われる麦球という5mmほどの電球を仕込んでみた。青いそれを入れたが求めるものとは異和感があり、発熱量が大きいことや、電球が切れると作り直さなければならなかった。S球と呼ばれる2mmほどの電球も試みたが、ほどなく店頭から消えた。噂によればそのメーカーが手がけたミニ四駆が当たり、製造をやめたとのことだった。そして2年程の試行の末、電球は現在用いているパイロット球になった。カラスウリは秋口に採取して底に穴をあけ、軽く茹でて中の種子と粘着質のワタを取り除き、自然乾燥すれば堅牢で透過率の高いフードができることがわかった。こうして豆電球を組込んだ烏瓜のあかりが出来上がった。緑色の未熟果や一回り大きいキカラスウリでも試したが、すぐに黄変してしまった。カラスウリと平行して他の素材を求めて丘や河原を巡ったり、ドライフラワーを扱う店で輸入物の珍しい材料と出会ったり、生花や果実野菜にフードになりそうなものを探した。加工の過程はそれぞれ異なり、その度に多くの失敗を重ねた。貝類やウニを提供されたこともあったが、美しいものの以外性に乏しく平凡で興味が続かなかった。現在までに試みた素材は、マスクメロンやドリアンなど一回だけのものを含めると100種類を超えていよう。豆電球によって透かし出された果実や種子、花弁たちの姿形は、生花やドライフラワーとは異った世界を垣間見せてくれる。しかし、発端となった川へ流す青い烏瓜のあかりは、いまだ謎のままである。もとより青い烏瓜のあかりはフィクションである。けれどもその具体性かつ幻想的であるということが、制作へのつきることのないイメージの源泉となっている。そのことは烏瓜のあかりにとどまらず『銀河鉄道の夜』に描かれた沿線の眩いばかりの光と影、ジョバンニが彷徨する夜の街の孤独をいやますかのような光と影の描写の中に感じることでもある。今、再度植物ランプの制作動機を問われれば光と影の綾なす世界への尽きせぬ興味からと答えよう。

光のカタログ
 光のカタログという展覧会タイトルは、宮沢賢治の詩句から借りている。これは、植物ランプの種類の数々という意味だけではなく、かげり絵や、光を使ったジオラマ、天空を彩る光の写真など、光と影に関心を持って制作してきた未発表の作品の総タイトルを意図している。幼い頃、病の床で見つめた障子に写る木影で戯れる雀や尾を振る百舌の姿、かげり絵のヒントとなった、地面に写る、日蝕の太陽の欠けてゆく木洩れ日の影とゆらぎ、台風の夜、裸電球の街灯に照射される、激しく変形する樹影と雨のきらめき、梅雨時の晴れ間、水溜りに差し込んだ松の新芽から拡がる樹脂の七彩の油膜、数え上げればきりがない、光と影の懐かしい情景。いつも見慣れた物が光と影によって異なった姿を見せる不思議。それらを形にしたいと思い続けてきた。今でも仕事場の窓から、太陽の贈り物と呼ばれる光と影の現象の数々を見ている。七色の彩雲は稀でなく、太陽の両側に幻日と呼ばれる偽の太陽が光る現象は良くおきるし、「白虹、日を貫く」と古来、凶兆とされる幻日環を目にすることも度々ある。日の出、日没時に太陽からスルスルと光が延びる太陽柱を見ることもある。春先の雨上がりの冷え込んだ朝には、太陽の周りを七色の環がとりまく光環という現象もある。八月と一月、東京から見て富士山の後に日が沈む時には、富士山の影が、チリ等に写る影富士を見ることができる。これらは日常の時間の流れの中で、普通に現出している。視線さえ向ければ、極地など特別な場所でなく都会でも発見はある。太陽という点光源が作り出す現象は、自動車のヘッドライトや街灯、果ては豆電球でも作りだすことができよう。そんな工作のあれこれが私の頭の中を占めている。アマチュアである私は、手法や技法のくびきや、諸々のしがらみもなく必要に応じた表現方法を探る自由を持っている。光のカタログは、それら架空の展覧会の総タイトルであり、植物ランプはその一頁を飾ってくれることだろう。

玩物喪志
 5回目の展覧会を迎えるに当たって、物語性のある空間を創ろうと構想した事を述べた。勿論、題材は『銀河鉄道の夜』であった。物語の中の、三角標や街灯の数々、天気輪の柱や街並を形づくる仕掛けの制作を始めると共に、烏瓜のあかりと同様に重要なキーワードであるリンゴを使ったあかりを作らなければと思い、春先から制作を試みた。リンゴは品種が多いが、紅玉が最適と思われた。紅玉はシーズン初めに出る品種で店頭になかったが、アップルパイ等を作っている菓子店近くの果物店には少し並ぶことを教わった。オモチャカボチャ同様、茹でて中味をくり抜こうとしたが皮はすぐに破れてしまった。様々な試みのあげく、冷凍、解凍の過程で皮と身の離れが容易になることが解ったが、既に端境期に入っており秋まで待たなければならなかった。展覧会には試作品を並べるにとどまったが、関心を持って来場された方が多かった。日常の具体的な物と隣り合わせの驚きが、植物ランプの原点であることが再確認できた。このリンゴを抉った右手の指先の力加減や、それを支える左手の掌の感覚は、明らかに身体化された知識として私の中に蓄積されている。けれどもそれ自体は、生活にとって全く無用無益のものであろう。とはいえ、それら無駄な営為の数々が、確実に技能の底辺を形づくっているのも実感できる。それは習熟と呼ばれるに相応し、世に言うおばあちゃんの知恵と同じ、個有性と無名性の地平に属するものだろう。向目的的な習練とは異なり、聞き書き、レッスンなどで伝承可能ではなく、時間のみが母胎となる性質のものであろう。習熟の欠如は向目的デジタル社会のあらゆる失敗の根元となっているように思われる。

 「玩物喪志」という言葉がある。武田泰淳はこのように書いている。

「物を玩んで志を喪う」というこの古語は、普通は悪い意味に使用されているが、ここでは対象を手ばなさずに専心している姿勢の意味である。志をうしなうほど物が玩べれば、本望である。その物が、風景であろうと、女体であろうと、主義であろうと、そこに新しい魅惑を発見できるまで執着しつづけねば、何物も生まれはしない。玩物喪志の志、あるいは覚悟を持ちつづけ得る作家は、そう数多くはないのである。
『玩物喪志の志-川端康成小論-』

 ここには、定義の厳密さをとりあえず棚上げすれば、プロとアマの逆説が含まれている。現代では物狂いまでするプロは存立しないのは自明であり、職域分野の中でそこそこの妥協を繰り返すのがプロとされよう。その意味で『銀河鉄道の夜』を残してくれた宮沢賢治の、あくなき推敲を繰り返したという一生は示唆的である。宮沢賢治は作家を職業としたことはなかった。

 長い間、手技を弄して様々な物を作り続けてきた私に、果たして志があったかと自問すると心許無い。ともあれ玩物の涯に、存在そのものが光り輝く至福の世界を夢想してしまうのは、物作りに携わる者の業(ごう)であろうか。

 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)  『春と修羅 序』 宮沢賢治

造形論のために『方法的限界と絶対運動④』 橋本真之

2017-04-17 09:48:13 | 橋本真之
◆橋本真之 「ラ・ベールの木のために」 1988年設置

◆橋本真之「連鎖運動膜(内的な水辺)」 1994年設置 (作品129)

空間変成論(1985~)
1986
■筑波国際環境造形シンポジウム(つくば市)

1987
■上尾市民ギャラリー(埼玉・上尾)

1987
■未発表

1988
■ギャラリー21(東京)

1988
■野外の表現展(埼玉県立近代美術館)

1989
■オーランド個展(埼玉・蕨)

1991
■野外の表現展(埼玉県立近代美術館)

1993
■大分現代美術展(大分)

1994
■かたちとまなざしのゆくえ(川崎 IBM 市民ギャラリー)

1994
■上尾市民ギャラリー(埼玉・上尾)

1994
■アートスペース虹(京都)

1994
■東京テキスタイルフォーラム(東京)

1995
■今日の作家展(横浜市民ギャラリー)

1995
■第16回現代日本彫刻展(山口・宇部)

1999
■宇部ときわ公園(山口・宇部)

2003年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 30号に掲載した記事を改めて下記します。


 造形論のために『方法的限界と絶対運動④』 橋本真之

 奥野憲一さんに出会ったのは、お茶の水画廊で開いた私の個展に、鍛金の関井一夫さんが連れだっていらしたのが最初だった。'86年当時、奥野さんは渋谷西武の商品部にいた。七階にあった工芸画廊の企画をしていて、関井さんの最初の企画展を開く予定でいたのだった。夜七時過ぎに個展会場を閉めた後、集まっていた皆で聖橋付近のガードの飲み屋に行った。下地が出来ていた上にワインを相当飲んだ。奥野さんと面と向かった会話は、またたく間に口論になってしまった。話の内容は今ではおぼろ気な記憶だが、工芸論だったことは確かだ。時代を動かしそうな男だと思ったが、この人との出会いもこれで終わりか……と思いつつ別れた。ただ関井一夫さんには「口論になってしまったが、面白いよ…」と話してはいた。京都のオープニングでは、私は著名な建築家の息子だという無遠慮な観客の睥睨に耐えかねて、その狐面の男の衿首つかんで突き飛ばしてしまう失態を起こしていたばかりであったが、私にとって、この発表は自らの生を同時代に激突させるべく賭けた発表だったのである。1986年、その年すでに私は満39歳になろうとしていた。

 アートスペース虹とお茶の水画廊での連続個展は、少数だが訪れた人々を動かした。美術雑誌やデザイン雑誌、工芸雑誌の展評で扱われたり記事になったりもした。それらの署名入りの批評を読んで、鍛金の仕事が明確に理解されているとも思えなかったが、それでも私の仕事が現代の美術としてようやく正面から扱われたという実感を持つことが出来た。その年の暮だったか?関井さんの個展が渋谷西武工芸画廊で開かれて、オープニングパーティに出かけたが、その時、意外にも奥野さんから私の個展企画の話しがあった。奥野さんの企画で、関井さん始め新しい工芸作家達が次々と企画に乗って登場していた。時はバブル経済の最高潮にあった。おそらく、この威勢のよい時期の西武に奥野憲一さんが居て、工芸の現在を加速器にかけ、登場させるべき作家をこの時とばかり登場させてしまわなかったとしたら、その後の冷え枯れた経済状況の中では、工芸のその後はずいぶんと異なった地図を描いていたのに違いない。それ以前の状況を考えれば、私などは別の場処に追いやられていたに違いないのである。

 私は「果樹園-」と平行していくつかの作品を制作していた。筑波での野外展で松の木に設置した展示の後、仕事場に持ち帰ってからの制作展示はニュートラルな室内空間と野外の空間との間を行き来した。この一連の展開は、展覧会ごとの様々な展示環境の変化に向って、積極的に制作の道筋を見い出した顕著な例である。この一連の展開を私は「空間変成論」と呼んだ。またアートスペース虹で「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」の総題の下に、壁とかかわって展示した「壁に」や「果実の中の木もれ陽」は分離して樹木と関わるかたちで展開して行った。「壁に」はその年の野外の表現展に「樹木に」として発表した。そして「果実の中の木もれ陽」は翌'87年の「野外の表現」展で埼玉県立近代美術館のレストラン前の青桐にぶら下げるかたちで展示している。これらの「果樹園-」から分離した展開については、後に別項を立てて語る機会もあるだろう。こうして次第に鍛金による造形の展開とその環境との密接な関わりが、明確に私の中で形成する運動のエネルギーとなって行った。今では造形的展開が私の生の展開であると、はっきりと言い得るのも、それなしに私の生の目的意識と手応えを見い出し得ないからである。

 しかし、この事は冷静に考えれば危険な事態でもある。私の造形的展開をささえている倫理の根底が、私の生をささえている世の中の人倫と部分的に重なっているとはいえ、必ずしも私の倫理観が即世の中の人倫の道ではないからである。それでは、この世の中の人倫とは、そもそも何の謂か?すなわち政治社会のルールとしての人倫である。それは、すなわち文化圏が異なれば通用しないルールであるということだ。この絶対的ではあり得ない人倫の中で、あえてルールを守ろうとする意志は、古代ギリシャのソクラテスにとっての「悪法もまた法なり」という強い論理的な意志によってささえられているのと同根である。しかし、死をも覚悟するソクラテスの強度との差は明らかだ。ソクラテスと違って現代の愚劣な生活圏を生きる私の内の分裂した倫理観の相克を見せねばならないだろうか?それはあまりに不快だ。

 造形的展開はその奔流にまかせれば、因習的な世の中のルールを突破する。丁寧に問題を熟視徹底すれば、ルールの根底が揺らぐ事態に至る。そして自らの生をささえる根底もまた揺らぐ事態に至る。私達は何をもって良しとするのか?生きて在ることの、そして、在ったことのヘドロの中で、息を殺して見い出す上澄み。これはプラトンにおけるイデアの対極にあるものだろう。これは天上の真理ではない。今ここに生きている存在の上澄みなのである。この倫理的方位なしに造形的展開の手綱を取ることは出来ないに違いない。この奔流する感覚の統御の道筋を見失なってしまえば、放従な造形は遊戯の破綻に了わる。あるいは因習の生業に了わる。私にとって倫理的方位が世界の根底的動揺の中にあって、自らを律する指針となる他はない。世界の全てが疑わしく成立していて、それが自らの生を守っている。それが生の既制事実だとしても、造形の理路を自らの倫理的願望に結接する道を見い出し得るならば、そこに私の充ち足りた生があるに違いない。さらにこの個人的な充足感を他者と共有することが出来るとすれば、そして生きた時を異にする他者とさえ共有することが出来るとしたら、それが幸福でなくて、他に何を幸福の成就と呼ぶのだろうか?けれども造形の理路と倫理的願望とが結びつく道を見い出せずに、互いに反展するような事態になるとしても、その互いの磁場が干渉する造形運動に私自身の存在のかたちが産み出されることになるに違いない。これを私自身の惑星的存在と呼ぶのである。ここに輝ける一片の光が人々には歓べないとしたら、私は人々の前を通りすぎるだけである。

 「樹木と共に」
 お茶の水画廊での発表の、最も早い時期から見続けてくれていた青山睦子さんが、千葉県の新柏駅近くに画廊「ラ・ベール」を作ることになった時、私に建物に付属して、作品を作る注文をしてくれた。植物と関わるかたちで恒久設置を望んでいた私は、その事を彼女に話すと、快く応じてくれた。子供の頃遊び回った武蔵野の雑木林によく見られた「えご」という木がある。その若木を株立のように5・6本寄せ植えしてもらい、根付くのに一年間待ってもらうことにした。その間、私は作品制作にかかった。翌'88年、その株立ち状のえごの間に作品をねじ込み、株の間に立った状態の設置を了えた。次第に成長して太って来る堅いえごの木に、いつの日にか押しつぶされることを想定した作品である。若木の間にはさまれた作品は、強い風に揺すられて滑らかな樹肌とこすれ合う。こすれて傷ついた樹肌は再生して発達し、作品を押さえ込むような形態になる。また小枝が作品内部に入り込んで、設置の翌年には内部で小さな白い合弁花を択山咲かせた。残念ながら、後に「ラ・ベール」は閉じたが、作品は今もそこに在ってえごの木と共に時を刻んでいる。

 この「ラ・ベールの木のために」という作品が初めて恒久設置できたお蔭で、この私的な企画による前例は、公的な企画で共同住宅が計画された際に、実例として人々を納得させ、私の計画案が受け入れられる大きな助けになったのである。この幸運な成り行きの先鞭をつけてくれた青山睦子さんに、私は深く感謝している。'88年、上尾市の企画で共同住宅「コープ愛宕」が建設され、そのエントランスに一本のケヤキを植樹し、その根元から2・3m上で三っに分れた樹幹の間に作品をはさみ込んだ。ここでも樹木の成長に押しつぶされる作品の将来が想定されている。ケヤキはえごよりも成長が速く、堅く大木に育つ樹種である。この作品は筑波で展示した作品の内のひとつが三叉に組み込まれるように展開したものである。この二点の作品の前例は私にとって重要である。その後の屋外設置の私の作品の殆どが、樹木と関わるかたちなしには、展開の寄り処がなく思われたのは、私にとって一方の事実だが、私の手を離れた作品が樹木の成長によってなおも空間を変質変容させて行くことに、私の作品空間の展開に永続性を見い出したのである。ここに至って、数百年先の未来の人々の目で現在を想像する視線が、はっきりと造形的問題として立ち上がって来た。私には作品空間の変質変容を廻って、この作品と関わった人々の時をへだてた存在が反映し合うかたちで、ここにあえかなコミュニケーションの始まりが起こり得るように思えるのである。1990年代なかば以後、これらの樹木と関わる「空間変成論」の試みは、さらに規模の大きないくつかの成果を見ることになる。宇部市野外彫刻美術館に収蔵設置になった「時の木もれ陽」は筑波以来の展開が長い紆余曲折の末に結実したものである。そして狭山市博物館収蔵設置の「連鎖運動膜(内的な水辺)」もまた筑波での展示の後に展開した作品である。いずれも現在は少し離れた場所に立っている樹木が、いつの日か作品と接触する時が来る。その時点から作品を破壊する程に植物の成長のエネルギーを顕在化すると同時に、私の作品世界の変容の意味が明らかになって形態運動を起こし始めるのである。こうして自然の懐に入って破壊される形態の変容もまた、私の作品世界にとって受容された「運動膜」の将来として見えて来たのである。こうした意味で、樹木と関わる最初の二点の作品は、樹木との接触を基点に出発した変容空間が示されたのであったが、それ以後の作品は接触までの猶余としての時と、接触の後の造形的出来事が、将来の人々に托された問題も含めて、人々を真に揺り動かすことが出来るかどうかにかかっているのである。この植物との共同の変容空間は私の作品世界にひとつの解をもたらした。そこに働いている私の意志の継続が、様々な人々の心の中にひとつひとつ結像して行くのであれば、そこから作品空間の変容を手がかりに、具体的なマテリアルを持った存在世界は互いに感応し得ると、私は確信したのである。この無言の空間のきしみが人々の心の内で時を刻むのを私は見続ける。この運動の遠方で、それはいかなる形を将来することになるのか?私と同時代の観照者はこの同じ場処で、私と肩を並べて見はるかすことになる。こんなかたちのコミュニケーションがポツリポツリと立ち上がる。そして、遠い将来からこちらを見はるかしている人々が居るとすれば、何万光年過去の光を、様々な時空の光を、今私達が同一時空で目にしているのと同様に、存在の交信は、はるかに生き続けることになるはずである。ここに立ち上がるべき倫理的決意なしに、私の愚行はゆるされまい。


《お知らせ》
2003年10月29日~2004年1月25日 埼玉県立近代美術館(常設展示室)にて「アーティスト、プロジェクト①」として「果実の中の木もれ陽」-橋本真之の生成する造形-が開催されます。アーティストトークが11月1日15:00~16:00会場で予定されています。11月1日、常設展示場は入場無料。
 (問合せTEL)048-824-0111 埼玉県立近代美術館